初夏──⑥
「悪いけどさ、シスターが三日月って狐人と取引した品物の野菜ごとの詳細な価格を教えてもらっていい? 詳しくチェックする必要がありそうだわ」
「は、はい。えっとですね、まずキャベツが」
「いやいや口頭での説明じゃなくて、帳簿はないのかな。取引した日付と品物を明記してあるメモのこと。それを見れば一目瞭然なんだけど」
「いえ、そういうものは……すべて三日月さんにお任せしているものですから」
「あちゃあ」
リィラが天井を向いてひたいに手のひらを当てた。なにかまずいことをいったのだろうかとエコは不安になった。
「前言撤回。覚えてる範囲でいいから、品物の内訳を教えてもらっていいかな」
「構いませんが、なにをお調べなのですか」
「きみの野菜につけられた値段の内訳さ。なにがいくらで販売されているのかは大方把握しているから、それとの差額を……ああ、とにかく教えてもらえれば、あとはあたしが計算するから」
「はあ、わかりました……えっと、春季に三日月さんにお渡ししたのはキャベツ百株くらいとトウモロコシ五百本ほどとミドリンゴ五百個前後とヒメイチゴ二千個ばかりとドテカボチャ五十個程度、それからハチミツ百瓶あまりと……覚えているのはそのくらいです」
「ふむ。肝心の値段は?」
「そこまでは……まとめてお渡しして、その総額を一括でいただいていますので、個々の野菜や果物の価格まではわかりません」
「うわぁ。きっついなー、それ」
リィラ・カルマールが両手を掲げて〝お手上げ〟のポーズをとった。
「ダメだ。帳簿がないとまるっきり品物の取引価格が把握できない。仕方ないか……ねえシスター・エコ。これからは、その狐人の三日月って相手とは、ちゃんと帳簿をつけて保管しておいたほうがいい」
「どうしてですか?」
「どうしてもだ。きみ、マリアヴェルで生きていくならもう少しスレたほうがいいよ」
そういってリィラ・カルマールは額に手を当ててため息をついた。
「ともかくだ。ここから先はあたしがとやかくいえることじゃないから、あとの処理はきみに任せよう……そろそろ三時間が経つよ。外の樹がシイロの遺体を食べ終えたころじゃない?」
「そうですね。死者をあまり長いこと待たせることはできません。ここから先は外でお話しましょう」
「ううん、あたしはそろそろお暇しようかな。これ以上長居してもきみの葬儀の差し支えになるでしょ。最後に報酬に関してだけど、さっきもいったとおり二千ドルほど支払えればと考えているんだ。きみとしてはそれで不足ないかな」
「不足どころか、いただきすぎのように思います。報酬でしたらささやかでけっこうですよ」
「そういうわけにはいかないって。あたしが渡した報酬で次期の種や株を育てるための肥料や水を買うことになるだろうから、これはきみへの投資だと考えてよ。きみにだって生活はあるだろうし、ほしいものくらいあるでしょ」
「ほしいもの……ですか」
ふとエコの脳裏に浮かんだのはメーチェの姿だった。テーブルに向かって必死に絵本を読み解こうとしている彼女の背中を見て、エコはなにか助力ができないものかと考えていたのだ。
もしリィラ・カルマールからいただける報酬を選べるのであれば、それは……。
「そんなにたくさんのお金はけっこうですので、代わりに本をいただけませんか」
「また本? いいけど、どんな本よ」
「教科書です。できれば、小さな子供が読むような簡単なものを。国語と算数と、社会と理科。できれば芸術関連の書籍もいただけませんか」
サキュバス特有のルビー色の瞳が興味深げに細められた。
「あるにはあるけどさぁ。女の子の身体に関する本の次は、子供の教科書ねぇ……シスター・エコ。本当に子供を産んだんじゃないの?」
「わたしは神に仕える修業中の身ですので、まだ子供を作るつもりはありません。それに勉学は人生を豊かにするものですもの。知識はたくさん身につけておくに越したことはないはずですよ」
「あたしも当分は子供は欲しくないかなぁ。自分のことで手一杯だし、読みたい本が図書館には山のように貯蔵されてるしね。それにもっともっとたくさん読みたい本があってね。あたしはそれを揃えるために、人間の通貨が必要なんだよ。書物は人間にしか作れないからね」
そう告げるリィラの瞳は人間を思わせる知的な光を湛えていた。これが本当に淫欲で男性を惑わすサキュバスの眼差しなのかと思う。この女性は、いったいなにを考えているのだろうか。
礼拝堂から外へ出ると、すでに夕日が山の稜線にかかっていた。ケダモノたちの世界はオレンジ色の輝きに支配されつつあり、しっとりとした夏の湿気が教会の庭に漂っている。
リィラ・カルマールが長いブロンドを書き上げると、ドレスの背中に走るスリットからコウモリの翼が大空に広がった。有翼のサキュバスの体重は極めて軽く、ドライアドのエコの半分以下である。
フジの香りに包まれた教会を高みから見下ろして、リィラは去り際に言い放った。
「シスター・エコ、またあたしの根城においでよ。どの本を読んで勉強したいのか自分で選んだほうがいいだろうから」
「はい、では明日にでもおうかがいします。そのときに、お話の続きをしましょう」
漆黒の翼を翻して飛び去るサキュバスの背中へ向けて、エコは深々と頭を下げた。そして、小さく嘆息する。
嵐のようなひとだった。いいたいことを述べきったとたんに去っていってしまった。
彼女にどのような真意があるのか不明であるが、農作物売買の件は少なくともエコにとって悪い話ではなさそうである。野菜を売ることでいままでよりもたくさんのお代金をもらい、さらに本までプレゼントしてもらえるのだから。
考えてみれば、収入が増えるということは労働時間を短縮しても差し支えないということにほかならず、結果としてエコの本職である修道士として過ごせる時間も増えるということだ。掃除に割ける時間も増えるし祈りに費やせる時間も増える。これは、喜ばしいことではないか。
メーチェはどんな本を望むだろうか。いまは絵本を読解するのが精一杯の学力であるが、日々、数字とアルファベットを徐々に身につけている彼女のことだから、近いうちに小説さえ読みこなせるようになるかもしれない。ひょっとしたら、エコにも読めない聖書さえ理解してしまうかも……。
エコはかつて人間の小学校へ通っていた時期を懐かしく思った。子供時代はケダモノも人間も差別なく一定までの教育を受けられたものだ。あのころは人間の友達もいたし、マリアヴェルはもっと治安がよく、活気にあふれた街だった。人間の教師のもとで言語を習い、社会を学んだ。ドライアドである彼女は算数と理科が極端に苦手で、どうしても掛け算が覚えられずに苦労をした記憶がある。
エコが十二歳を迎えたときにケダモノの義務教育が終了し、いまの神職につく運びとなった。
牧師であった父のもとで神に仕える喜びを知り、礼節や作法や学んだ。葬儀や婚礼の取り仕切り、礼拝の流れなどを一渡り覚えたころ、師であり父であり人間であったジョー・ランチェスター牧師は病により天へ召されたのである。
どんな生物も、いずれは必ず死ぬ。
腐れ穴を覗き込むと、シイロの遺体はすでに巨木に喰い尽くされて白骨化していた。寂寞の闇をたたえる彼の眼窩から、ヘビにも似た白い蟲が這い出てきた。
少年の遺骨を腐れ穴から取り出して骨壷に収めるまで葬儀は終わらない。
エコは死者へ両の手のひらを合わせてから大樹の根にしがみつき、今日までに千を超える亡骸──彼女の父親を含む──を腐らせてきた縦穴へと降りていった。
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