無名氏の見解

7

●テクストと翻訳

Respondeo dicendum quod homo amare potest individuum. Quia intellectus humanus potest intelligere individuum, hoc probo.


答えよう。以下のように言われねばならない。人間は個別者を愛することができる。というのも、人間知性は個別者を認識することができるからである。以下ではこのことを証明しよう a)。


●註釈

a) ここから無名氏による解答が始まる。ここまでで、この「第二問題」において、何が問題となっており、何が解決されるべきであるか、ということに関して、議論の大筋は理解していただけたことであろう。これからはその解決部にあたる部分を見ていくことになる。しかし、すでに幾度も述べられているとおり、「第二問題」は決して解決されることのない探求であった。以降、哲学的な内容に関する補足を補いつつも、無名氏の生に寄り添って第二問題を見てゆくことにしよう。


 日が昇るか昇らぬかのうちに無名氏は醒めた。彼は、夜の静けさ同様、朝の穏やかな光の散乱を好んだ。ふだんパリの街に漂っている嘔吐を催すような汚らわしい匂いが、太陽が優しい光を降らすこのときばかりは、それが洗い流されてしまったかのように思われた。彼は彼自身が問題としていること以外に悩まされることを嫌っていた。それゆえ、人が最も活発に活動する昼間は、極力街の中心部を避けるようにしていたのであった。

 無名氏は、彼自身が時計であるかのように、彼の生活は常に一定のリズムを有していた。彼の時間はほとんど狂うことがなかった。彼の歩みが秒を刻み、分を数える。周囲の人々から「時間の男」(« homo temporis ») とさえあだ名されるような精確さを、彼は持っていたのである。「流れる今」の中に生きる彼は、そうした評価を、時間的な存在者の代表者であるかのように捉え、好ましく思っていた。というのも、そのようなありかたをしている限り、時間は彼とはまったく無関係に流れ去ってゆくのではなく、むしろ彼に寄り添い、あるいはその流れを彼が生み出しているかのようにからであった。

 そのような生真面目で、なおかつ夢見がちであった無名氏は、「第二問題」の執筆もつねに決まった時間に開始した。太陽がもっとも高く昇るころ、鋭さを増してゆく日差しと群衆の不快な煩わしさから逃れるようにして、彼は自分の部屋に戻る。彼は扉をしっかりと閉めきることを欠かさなかった。ガチリと重い音を立てて扉が閉まると、彼の思考に広がる世界は、よりいっそう俗世から遠ざけられ、そしてよりいっそう素敵になるように彼には思われたのである。この「第二問題」はもとより、哲学全体の普遍的な目標への寄与というよりも、むしろ、夢や虚妄とさえ言ってしまってもよいような領域における、彼の私的な試みであり、彼の知的な愛撫、戯れであった。それゆえ、小さな窓から差し込む光と、彼の手元にあるランプとが照らす薄明るい部屋は、執筆時の彼の精神ともぴったりと一致した、探求にうってつけの場所だったのである。

 執筆の開始はいつも同じ時刻であった。しかし、その終わりは同じであるわけではない。第二段落執筆時のように、集中力が一切途切れることなく夜を迎えることもあったし、あるいは探求が行き詰まってしまったときは、綺麗に咲いている花を、心をくすぐるような水の音を、あるいは愛する人の芳しい香りを求めて部屋を出るのであった。

 もっとも、そのような不規則な過ごし方は、彼の生活のなかのほんのごく僅かな一部でしかなかった。実際、彼の就寝時刻は、執筆の終了時刻がいつごろであれ、一定であり続けた。彼はいつも、夜に特有の、蜜のようにとろりとした静かな空気を惜しみつつ、雲に濾されて降りてくる月の明るさを少し眺めて、眠りに就くのであった。

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