第九話 ニートの苦悩
温泉旅行から帰ってくると、私は「やる気元気弁当」の社員ではなくなっていた。少しの間だけれど、働いた分の給与はきっちりと振り込まれたし、サービス残業した分の給与までしっかりと支払われていた。先輩からの電話もぴたりとなくなり、私はまた三宮氏の家に居候するニートに戻った。
ただ、少しだけ変わったことがある。ブラック企業で働いたことで、私は少しだけ早起きになって、社会人のように朝、起きることができるようになった。おかげで、三宮氏と顔を合わせる時間が増えた。
「麦子さん、今日は少し遅くなります」
家政婦さんが作り置きをしてくれた朝食を食べていると、三宮氏がそう言った。ちなみに彼の朝食はいつもコーヒーだけで、朝食をしっかりと食べるのは私だけだ。
「そうなんですか」
「夕食は先に済ませておいてください」
「はーい」
全く普通の会話だが、私にとってはただ緊張せずに家族以外の人と話ができるようになったというのは驚くべきことだ。
高校を卒業して東京に出た時点では私も普通に人と会話をすることができていたように思うのだが、東京に出て一人暮らしをするうち、いつの間にか他人と話をするときに緊張するようになり、今では何を話せばいいのかわからなくなって黙り込んでしまったり、どもってしまったりすることが多くなった。家族とは普通に話せるので、ただの人見知りなのだろうが、三宮氏と普通に話せるようになってきたのはいい傾向だと思う。
それから、旅行の途中で気が付いたけれど、三宮氏は私のことをいつの間にか「麦子さん」と呼んでいる。
他人、しかも妙齢の男性ににそんな呼ばれ方をするのは久しぶりだ。名前なんてただの記号だとわかっているけれど、遠藤さんでも先生でもなく、麦子さんと呼ばれるから、私は三宮氏と普通に話せるようになったのかもしれないと思っている。
三宮氏はこの何気ない短い会話が少し変わったことに気が付いているだろうか。彼は今までと同じようにビジネスバッグをもって私のわきを通り過ぎようとする。そして不意に立ち止まると、私の唇の端に親指の腹で触れた。
「えっ」
驚いた私が少し身を引くと、彼は困ったような顔で笑った。
「黄身が付いていますよ」
彼はごく自然な動作で自身の親指についた黄身をちゅっと音を立てて吸った。彼の袖口から清潔なシトラスの香りが漂い、私は思わず息を止めた。
彼はそのまま何事もなかったような顔をしてリビングを出て行った。
「え、え、え、え、」
いい年をしてきれいに目玉焼きを食べられない自分が恥ずかしい。そして、ちょっとした彼の気遣いを変に意識してしまう自分が別の意味でも恥ずかしい。
なにあれ、なにあれ、ああいうのってドラマではたまに見るけど、普通は嫁が旦那にやるものじゃないの?三宮氏は私の嫁なの?
よ、よめ……。
私は再び、あの時のキスを思い出して奇声を上げた。
三宮氏も私もあのキスのことにはあれ以降、決して触れない。触れないというか多分これは触れてはいけない案件だ。しかし、私はことあるごとにあのキスを思い出してしまう。わざと思い出しているのでは決してないが、しかし折に触れて思い出すのだ。三宮氏含め、世界中の男性にとってはこんなことは全くもってどうでもいい情報だろうから、あえて誰にも言わないがしかし、あれは私のファーストキスだったから!
どうしてもじっとしていることができず、私はあわてて脱衣所に走っていった。そして、熱でも出たのかと言いたくなるほど熱くなった顔を洗った。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前っ!臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前っ!臨・兵・闘・者……平常心平常心っ!
架空の男性ならばともかく、身近な男性であらぬことを妄想するブスなどまさに男性にとってはブステロリストというべき存在ではないだろうか。私はたしかにブスで、それは動かしがたい事実だ。しかし、私はこれまで常に上質なブスであろうと心掛けてきたのだ。今更この年でエッチなブスになどなりたくない。ブスならブスなりに心だけは清く美しくありたいのである。
このまま邪淫に流されてエッチなブスにまで身を落とすなど最悪だ。もし三宮氏に私の邪淫を看破されて軽蔑などされようものならもう生きてはいけない……ような気がする。
鏡に映る私の顔はびっしょりと濡れて、いくら洗っても赤く熱を持ったまま容易に元に戻りそうにない。
なぜ私の顔はことあるごとに赤くなるのか。
そしてなぜ彼に邪淫を看破されたくらいで私は生きていけなくなると思うのか。
私はもうその意味を自分で理解していた。
私は、日に日に三宮氏を好きになっている。
三宮氏のことを変な人だとは今でも思うが、その一方で、彼の変なところも含め、私は少しずつ、引き寄せられるように彼を好きになっている。
友達くらいで十分だったのに。
私はもう一度鏡に映る自分の顔を眺めた。右から、左から、上から、下から。
ゆっくりと顔を動かしてあらゆる角度から見つめてみたけれど、やはりどう贔屓目に見ても私の顔は平均以下だ。
漫画家になり損ねたとはいえ、私は絵を描く人間だ。自分の顔のどこが美しくないのか、それを私は残酷なほどよく知っていた。
私の顔にはいいところがない。どこか一か所でも優れたところがあるなら、メイクでその長所を伸ばし、他をごまかすこともできる。でも、私の顔は手の入れようがなかった。
人は顔に恋をするわけではない。ブスだって恋愛をする権利はある。そう言ってくれる人はたくさんいる。けれど、ブスに恋をする権利はあっても、男の人はブスを「女の子」だとは思っていない。
はるか昔に忘れたはずの初恋の思い出が私を追いかけてきた。
あの頃、私は中学生だった。
初めて男の子を好きになって、初めて告白をした。バレンタインデーだったと思う。お小遣いで買えるギリギリの値段のチョコレートを鞄に隠して、隣のクラスの男の子を呼び出した。そのころの私は、まだ自分がブスだなんて知らなかった。自分が可愛いなんて夢にも思わなかったけれど、それでも、まだ自分を「女の子」の範疇に入るぎりぎりの存在だということを、疑ったこともなかった。
彼は、他の男の子よりも少しだけ私に優しかった。だから好きになった。今から思えばすごく単純で幼稚な恋だ。でも、私は真剣だった。
チョコレートを渡したした瞬間も、私は何一つかわいいことは言えなかった。「あの、これ」それだけだ。彼は困ったような顔をしてチョコレートを受け取り、小さな声で何かひとこと、言った。でもそれは私の耳には届かなかった。その時ちょうど、近くを通りかかった野球部員が、こちらを見て笑ったからだ。
「うげぇ、あれ二組の遠藤麦子じゃね?」
「うっわ、罰ゲームじゃん。どーすんだよ、田中ぁ」
彼の顔が見る間に赤くなり、彼は野球部の子たちに「うっせー!」と怒鳴った。
私は突然、自分が「告白をしていい女の子」ではないことに気がついた。
適当に結んだセーラー服のリボン、うなじのあたりで軽く縛っただけの髪、プリーツスカートから突き出したふくらはぎには、産毛という名の「すね毛」がうっすらと生えていた。
男の子にバレンタインチョコレートを渡してもいい女の子というのは、セーラー服のリボンはいつもきっちりとリボン結びにしていて、髪はきれいなストレートのセミロング。スカートは校則よりも少し短くしていて、足は細くてすね毛なんか生えていないものだ。
私は自分を知らなかった。絵を描くことばかりに夢中になっていた私は、かわいい女の子を絵に描くことは得意でも、そういう女の子本人ではない。
少女漫画のようにはいかないのだ。
野球部の男子がひどいとは思わない。自分でもどうしてそんな変なことをしたのだと後悔しているからだ。
私はその後、卒業まで二度と好きだった男子に話しかけることはなかったし、関わることもなかった。噂はしばらく私たちに付きまとったけれど、私はずっとその噂に対して聞こえないふりをした。彼のほうも同じだったろうと思う。
中学を卒業して何年かは、いつか彼にいらぬ恥をかかせてしまった事を謝りたいと思っていたけれど、やがてその謝りたいという気持ちも忘れ、私はそのまま大人になった。
その後も私は何度か恋をしたけれど、相手は必ずアニメや漫画の中のキャラクターで、そんな私は他人から気持ちの悪い女だったかもしれないけれど、少なくとも恋をした相手に恥をかかせるようなことにはならなかった。
でも、今の私は三宮氏が好きだ。中学生の時のように、恋をした私をはやし立てるような誰かはもう私の周りにはいないけれど、私はこの気持ちが余計なものであることを知っている。
「イケメンだもんなぁ。しゃーない……」
鏡の中の自分に向かってそう呟いた私は、あの頃より少しは大人になっていた。黙るということも知っている。思うことを何でも口にするものではないということを知っているのだ。
だって私はちょっと告白しただけで「うげぇ」と言われてしまう女だから!!
その時、突然脱衣所の扉が開き、私の尻にぶつかってとまった。
「あれ、ワリ」
半開きのドアから脱衣所を覗き込んでいる男と鏡越しに目が合った。
彼はすらりと背の高い若い男で、学生だろうか。ずいぶんと若い。
「何、あんた」
彼は私を見るなりそう言った。
あんたこそ誰だ。私は居候だが、家主である三宮氏がここに私を住まわせている以上、そう問う権利があるのはむしろ私のほうだ!……などと気の小さい私が言えるはずもない。
「わ、私はえ、遠藤麦子28歳無職です」
相手に根掘り葉掘り尋ねられる前に最低限の情報は垂れ流す。それが私の会話を避けるテクニックである。お前こそ誰だなどと聞いてはいけない。会話が発生してしまうからだ。
「ふうん」
彼は納得したように扉を閉めた。
私はほっとしてジャージのポケットから携帯を取り出し、即、警察に電話をかけた。不審者を通報するのは善良な市民の義務である。
「も、もももしもし警察ですかっ、不審な男が突然家に入ってきました。レイプされるかもしれない、こわい!え?ここ?この部屋……の住所は知りません、他人様の家なんで。
えっ、違います!私は怪しい人間じゃなくて不審者が怪しいんです、……いや、私は無職ですけど、え?いやだからここの住人は今はいなくて、仕事だと思いますけど、会社じゃないですか?平日昼間ですよ、今。私は無職だから家にいますけど。だーかーらー、私は怪しいものじゃありませんって。何だったらここの家主に、」
「おい、誰が不審者だ。俺はここの家主の弟だ」
男はいきなり私の前髪をつかみ、もう片方の手で私の携帯を取り上げた。
自称三宮氏の弟、三宮陵と名乗る男は、不審者として通報されかけたことで、ずいぶんと機嫌を損ねたらしかった。
彼はまるで自分の家でそうするようにソファに腰かけ、長い脚を組んでいる。そこは私の定位置なのだが、とても言い出せる雰囲気ではない。
「あ、あの」
「何」
彼はじろりと私をにらんだ。三宮氏も整った顔立ちだがこの陵氏は美貌の上にさらに華やかな顔立ちの持ち主だ。鼻筋や頭の形など、よく見れば三宮氏と陵氏は骨格が似ているような気がしないでもない。
「えーと、陵さん、はどういったご用件でこちらに……?」
「……」
返事がない。彼はまるで私などいないもののようにそっぽを向いたままだ。
私だってこんなわけのわからん男の相手なんぞしたくない。しかし早々に用事を済ませて出て行ってもらいたい。私は毎朝リビングの大画面テレビでアニメを見ることを習慣としている。私のノートパソコンは安物なのでスピーカーの機能が低い。ミドD(声優、緑川大輔の愛称。)の尊いお声が割れたらアニメの楽しみも半減である。
「え、えっとあの。ハ、ハウドゥユードゥ?」
取りつく島がないので、私はとりあえずご機嫌伺いをしてみた。……英語で。別に英語が得意なわけではないが、「日本語わかんないの?(皮肉)」という意図を込めてちょっとシニックなユーモアで場を和ませようとしたつもりだ。
しかし彼は大きな瞳をすうっと細めてこう答えた。
「What’s the point of knowing that? 」
「わ、わっつざぽいんと……?ポイントカードは持ってません」
「それを聞いてどうするんだって言ってんだよ。頭も悪いのかお前」
「も」ってなんだよ、顔も悪いって言いたいのか!!そうだよ、頭はよくないよ、あんたこういう顔で頭のいい人、見たことある!?頭が悪いのも顔がジャガイモなのも全部遺伝だ、ただ親に似ただけの私は悪くない!
……と言いたいが、たいていの人は私よりも頭も口も回るので一つ言い返したら100言い返されるのは経験からわかりきっている。だから無力な私はただじっとりとした恨みがましい目で私を責める人々をにらむことしかできない。
「……あのさあ、あんた、自分が噂になってるの、知らないの?」
「う、うわさ?」
「圭に女ができたって」
「誰が噂してるんですか」
「俺の親族及び会社関係者」
お前の親族と会社関係者間の噂なんか私が知るわけないだろう。SNSで話題沸騰!とかならともかく。どうして三宮家とは何の関係もない私が三宮家内のホットな話題を知ることがあるんだよ。
なんだこの男は。世界が自分たちを中心に回っているとでも思っているのか。同じ兄弟でも時給800円でバイトをしようと思い立ったりする三宮氏とは大違いである。
「圭の女がどんなのか見てやろうと思ったんだけど、あいつには失望した」
彼はそう言ってふん、と私を鼻で笑った。
実に悔しいことだが、そう言って私を笑う彼はとても感じの悪いことを言っているにもかかわらず、非常に美しかった。
「あの」
「何」
「私、三宮さんの女じゃありません」
キ、キスはしたけど、別に付き合ってるわけじゃないし、温泉旅館に泊まった時も別々の部屋だったし!!そりゃあね?私もちょっとはドキドキしたよ?キスの後で温泉イベントだったからね。普通は意識するでしょう、とうとう女の花弁を散らされる時が来たのか、と……!でも、私が期待して、違った恐れていたようなことは何も起こらなかった。
旅館で温泉に入って、ちょっと雑談をしてご飯を食べて。そのあとは「じゃあ各自部屋に戻って就寝!」だった。翌日は普通に早起きして旅館の売店で温泉饅頭を買って東京に戻った。いまどき中学生の修学旅行でももうちょっと何かあるだろうと言いたくなるような健全そのものの一泊旅行であった。
つまり、キスは事故。旅行は慰安旅行的な位置づけだったのだろう。私はそう理解している。
「……嘘だろ。どうして圭の女でも何でもないやつがあいつのカードで買い物しまくってるんだよ」
「か、買い物しまくってるわけじゃないし。必要なものを経費で買ってるだけだし」
「必要なもの?」
「だから……で、デッサン人形とか、カラーペンとかDVDとか。
わ、私は仕事でここにいるんです。三宮さんと同棲しているわけではありません」
「仕事って?」
「……漫画を……描くことですかね」
それを聞いた陵氏は大きな瞳をさらに大きく見開き、何も言わなかった。いや何も言えなかったのかもしれない。その気持ちはわかる。私も三宮氏から「漫画を描け、金は出す」と言われた時、三宮氏が何を考えているのか理解できなかった。
「お前、漫画家なの?俺、たまに読むよ?ニャンプとか。どんな奴描いてるの」
「いや、無職です」
「……」
「つまり、お前は漫画家じゃないんだな?」
「そうです」
「昔漫画家だったとか?」
「あ、漫画家を目指してただけで、今はニートです」
「ニート……。初めて見たわ。ホントにそんなのいるんだな」
「で?漫画家じゃないニートが漫画を描くのが仕事って矛盾してねえ?俺をからかってんのか」
「い、いやあの。からかってないです。
最初から説明します。
つまり、私はニートで、でも趣味で漫画を描いてたんですけど、親が昼逃げしちゃって。それでええと、私の母が三宮氏から100万円をプチ詐欺しちゃって、でもたぶんそれは何か誤解があったんだと思うんですよ。で、契約で三宮さんが一緒に住むことになって、それでカードを預かって必要経費に充てているだけです」
陵氏は黙って私の説明を聞いていたが、やがて大きなため息をついて、少し長めの髪をぐちゃぐちゃとかきむしった。
「さっっっ……ぱりわかんねえ!」
顔が整っているのでつい頭の中もすっきりと整っているのかと思いきや、陵氏は案外物分かりの悪い男である。まさにイケメンあるあるだ。イケメン本人には気の毒なことだが、イケメンというものは大抵頭がよく見えて、機転が利いて性格がいいように見える。だが、実際には顔の造作と頭の中はあまり関係がないようで、彼らの中身はごく普通だ。しかし周囲はイケメンが口を開くと、中身が普通の人でがっかりする。もちろんイケメンは何も悪くない。イケメンを優秀だと思い込む周りが無意識にイケメンを差別しているのだ。そして、私も今までそれと自覚がなかったが、そのイケメン差別主義者の一人らしい。
イケメンだからと言って頭もいいと思い込むのはイケメンに失礼である。今後は改めなければいけないな。
一人で納得して頷いていると、陵氏が私をにらんだ。
「なんだその顔。ムカつくな」
「えー……」
「お前、今俺の頭が悪いと思っただろう。いいか、今のはお前の説明が悪い!」
「ひ、人のせいにするのはよくないと、お、思います」
「今、契約と言っていたな。契約書はあるのか」
「あ、あー。たぶん……。あると思いますけど、私の分は母がブラジルに持って行っちゃったので、三宮氏の分は本人が保管してるんじゃないですかね……」
「よし、探すぞその契約書」
彼はすぐに立ち上がってリビングを出た。
「いやまずいですって、兄弟とはいえ、人の部屋に無断で入るなんて」
「うるせえ」
陵氏は三宮氏の部屋の前まで来ると、ためらうことなくドアノブに手をかけた。が、開かない。私も今の今まで知らなかったが、三宮氏は自室に鍵をかけているらしい。
なぜ鍵などかけているのか。
いや、気持ちはわかる。突然よそのニート、つまり私と暮らすことになったのだから、プライバシーは確保したいだろうし、貴重品の類もお互い気持ちよく過ごすために鍵のある部屋で管理する。理解できるよ?
最初はそれでいい。私だって自分が三宮氏と同じ立場ならきっとそうするだろう。でも、私たちは一緒に暮らし始めてもうすぐ二か月になるのだ。その間、私たちはいろんなことがあったし、お互いのことも話題にした。少しづつ心を許して、キ、キスだって事故とはいえ、い、一応はあ、あったわけだし……なんていうか、私が三宮氏の貴重品をあさったりするような人間ではないということをもう彼はすっかり分かってくれていると思ったのだが、彼はいまだに自室を施錠している。
いいんだけど……いいんだけど、ちょっとショックである。
私が一人で傷ついていることなどお構いなしに、陵氏はドアノブを荒っぽく動かした。
「ちょっと、こわれますってば!!」
一応留守を預かる身として、この陵氏の
しかし相手は屈強な……とまではいかないが、成人男性である。一方私は運動不足のアラサー女。力でかなうはずもない。
私は仕方なく三宮氏に緊急通報するべく携帯電話を取り出した。
その時である。
ぼきっというかばきっというか、とにかく何か嫌な音がして、三宮氏の自室の扉が開いた。
「ああああ、こ、壊した!」
普通、契約書見たさにドアまで壊すかね?三宮氏もわりと変人だが、その弟である陵氏もなかなかの変人のようだ。
「ちょ、ちょっと……、なにやってるんですか……。三宮さんに怒られますよ……」
陵氏は私の言葉など無視して三宮氏の自室ドアを大きく開けはなった。「だめですってば」そう言いながらも、私も三宮氏の自室には興味がないこともなかったので、目をそらすふりをしつつも部屋の中をちらりと見た。
部屋の中はリビングと同様にすっきりと片付いていた。本棚、デスク、ベッド。すべて黒と白で統一されたインテリアはまるでモデルハウスのようだ。
今まで男の人の部屋に入ったことがなかった私は、陵氏を止める事も忘れて三宮氏の自室を眺めまわした。
なんというか、……初めて入った男の人の部屋は、いい感じである。デスクも本棚も片付いていて、よけいなものなど何一つない部屋に、私は好感を持った。
「契約書契約書……。どのあたりにあるか、お前知ってる?」
「し、知りませんし知ってても教えませんよ、もう出てくださいってば。三宮さんに言いつけますよ。あ、ベッドの下とかベッドのマットレスの間とかは絶対に
個室にありがちなことだし三宮氏も男性だ。エッチなご本の一つや二つ、所持していても不思議ではない。いやむしろそれが自然だ。わかってはいるがもしそういうご本が出てきたら同居人の私は気まずいことこの上ない。
「言いつけたきゃ好きにしろ。……あ、この辺かな」
そう言いながらデスクに近づいた陵氏は、突然はっと息をつめて動きを止めた。
「陵さん、もういいでしょう?出ましょう……」
そう言いかけた私も彼の視線の先をたどり、やがて絶句した。
三宮氏のデスクの上には写真立てがぽつんと置いてあった。それはごく普通の木製のフレームの、何の変哲もない写真立てだった。
「これ、お前……だよな?」
陵氏の指摘に、私はうんうんと小さくうなずいた。
三宮氏の写真立てには、私の写真が収められていた。写真の中の私は撮影者のほうを見ておらず、目線はどこか遠くを見ている。写真の背景にはスーパーの商品棚がうつり込んでいる。このスーパーはたぶん、私の実家付近にあるスーパーハピネスだ。
「え、え、え、何?」
突然のことに事態が飲み込めず、私はただそう口にするしかなかった。
いつこの写真を撮ったのだろう。私が最後にこのスーパーハピネスに立ち寄ったのはここに来る前、つまり二か月以上前のことで、そのころ、私はまだ三宮氏と知り合っていない。だとすると、この写真は三宮氏以外の人が撮影したのだろうか。お母さんが……?いや、でも母がこの写真を撮影したのなら、わざわざこんな隠し撮りのようなことをしなくても、私は写真撮影に応じたはずだ。
「なんだよこれ……」
陵氏は眉根を寄せてそう呟くと、デスクの引き出しを開けた。
デスクの引き出しの中もやはりきれいに整頓されていた。中にはA3サイズの封筒がいくつか入っている。陵氏は荒々しくそれらをつかんで取り出すと、中身をデスクの上に広げた。
嫌な予感がする。いや、嫌な予感しかしない。
「契約書、ではないみたいだけど」
陵氏が封筒の中に入っていたいくつかのファイルを開くと、そこにはおびただしい数の私の写真と、そして私に関する資料がきれいに整理されていた。
「『遠藤麦子 K県A市K町2-3-18 1992年8月16日生まれ 身長158cm 体重55kg 市立K町小学校、同K町中学校を卒業したのち県立A高校を卒業。おとなしい人柄で友人は少ない。18歳の時に「月刊ドリーム!」にて「ドリーム!新人漫画賞佳作」を受賞。その後上京し、○町三丁目のコーポレジデンスにて一人暮らしを始める。当時の勤務先はコンビニ、○○急便の配送センターなどで朝八時から夕方ごろまで勤務。その後、担当編集の淵田博信の紹介で漫画家、A氏のもとでアシスタントとして勤務。当時の友人は漫画家灰田ミツなど……』
おいおい、なんだよこれ……」
私はこんな細かいことを三宮氏に話したことはない。それに、こんなにたくさんの写真を撮った覚えもない。写真の中の私は、どうも私が実家に戻ったころあたりから撮ったもののようで、どの写真にも実家の周辺の風景がうつり込んでいる。
「これ、お前の漫画?」
陵氏はファイルの中から古い漫画原稿を取り出した。それは、たくさんの人の手に渡ったもののようで、用紙の角が擦り切れて丸くなっていた。
私は受け取った漫画原稿を一枚ずつ
「これ、私の」
私の絵だ。私が描いた漫画だ。
東京に出たばかりのころ、私は何度も漫画を描いて、出来上がった原稿を編集部に持ち込んでいた。何本漫画を描いたのか、もう覚えてはいないが、とにかくそのころは自分の描いた漫画を雑誌に載せてもらいたくて、何度編集さんに断られてもしつこく漫画を描き、編集さんに見せていた。
私が持ち込んだ漫画が雑誌に載ることはほとんどなかった。私のしつこさに根負けした田淵さんが何度か原稿を預かってくれたことはあったけれど、その原稿が雑誌に載ったのは、その月雑誌に載る予定だった漫画家さんが入院し、雑誌に穴が開きそうだった時の一回きり。それでも私は舞い上がるほど嬉しくて、自分の原稿が初めて掲載された雑誌を何冊も買って実家に送った。他にもいくつかの雑誌に原稿を持ち込んだことがあるけれど、やはり私はどこの雑誌社でも評価されなかった。そのころ各社に持ち込んだ私の原稿は返却されたものもあるが、大半は返ってこなかった。てっきり処分されたものだと思っていたのだが……今になってこんなところであの頃の原稿に再会するとは思わなかった。
「何……?どうしてこんなものが、これ……六年前に描いたやつで、どこから……」
私の声は震えていた。
それまでどこか他人事としてこの事態を面白がっている風だった陵氏も、私が次第に青ざめていくのを見て、さすがに顔色を変えた。
「どこからって、お前が渡したのでなければ、あいつが集めたとしか考えられないだろ。これも、お前の?」
陵氏はそう言って私の手元に薄いメモ用紙を置いた。
私は何かに操られるように機械的にそのメモ用紙に視線を落とし、そして絶句した。
坊主頭の男の子と、古びた田舎の雑貨屋。
それは、私は先日旅館で描いた落書きだ。あの時私は思いつくままに幼少期の三宮氏を想像で描いた。そして書いただけで満足して、誰にもその落書きを見せることなく旅館の
「これ、捨てたはずで、しかも旅先の、旅館で」
陵氏はそれを聞いた肩をすくめた。
「それが本当ならあいつは自分でごみを漁ったってことだよな。……何考えてるんだ、あいつ。
あ、これがお前との契約書じゃねえの。こっちはちゃんと弁護士をはさんで作った契約書みたいだな」
彼は契約書らしきファイルを見つけると、ざっと中身を確認した。
陵氏が知りたいのはただ契約書がどうなっていて、私と三宮氏がどういう関係なのか、のようだが、それを調べる過程で出てきたこのおびただしい数の隠し撮り写真と私に関する詳細の記録を見てしまっては、もう私は契約どころではない。
なぜ三宮氏はこんなに私のことを嗅ぎまわっているのだ。
しかしそれを探ろうにも、私は三宮氏のことは何も知らない。知っているのは名前、住所、勤務先、学生時代に時給800円でバイトをしていたこと、昔は祖父母と暮らしていたこと。でも、それは確かなことなのだろうか。名前はともかく、他のことはすべて彼の口から出たことで嘘をつこうと思えばできないことはない。
何より、楽しく旅行をしているその間に私の部屋の屑籠を漁っていたであろう三宮氏の姿を想像してしまうと、恐ろしさで身がすくんでしまう。
「……ふうん、別にお前にとって極端に不利な契約ではないみたいだな。何を考えてこんな契約をしたのかはいまだにわからないけど、とにかくお前はあいつとできてるわけじゃなさそうだな。
さて、知りたいことはわかったし、……帰るか」
えっ、帰るの!?
私はそれを聞いて目を剥いた。
え、陵氏が帰るってことは、ここに私は一人で残るということになる。一人で残るのはまあいいとしても、一人でここに残っていたら、いずれは三宮氏がここに帰ってくるということになる。
そうなったら私と三宮氏は二人きり……ということに、なる。
彼は自室の秘密を知ってしまった私をどうするのだろう。証拠隠滅のために……こ、こ、ころ……。
「か、帰る……の?」
「ああ。残る理由もないだろ。じゃーな」
さっと部屋を出ていこうとする陵氏。私はあわてて彼のGパンのベルト部分に手をかけた。
「待って待って待って、なんでこの状況で帰れるの!?私、ひとりでここに残すの!?三宮氏が帰ってきたらどうするんだよ!!」
「しらねーよ。あいつと顔を合わせるのが嫌ならお前も出ていけばいいだろ。監禁されてるわけでもないんだから普通に自分の家にでも帰れ」
「その家がないんだってさっき説明したよね!?親が昼逃げしたって!!」
「行政を頼れ」
「さっき私が警察に電話した時聞いてたでしょ!?逆に私が職務質問されそうになったんだから!!
ダークサイド・パトロン コレステロール宮田 @be-in-the-pink
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ダークサイド・パトロンの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます