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跋─西晋滅亡にあたって─への応援コメント
司馬業が死ぬまで書いてくれてありがとうございました。
西晋の滅亡する様は本当に素晴らしいですね。
結局司馬熾が逃げようとしてて
荀希が拠っていた倉垣の位置がよく分からなかったのですが、
許昌から東に90kmくらい行った辺りなんでしょうか?見当違い?
とても具体的にありがとうございました。陳留の方が近そうなんですね。
逃亡先に選ばれるくらいなので気になっていたのですが細かい所が
分からなくてもやもやしてたので助かりました。
作者からの返信
ご無沙汰しております。おつかれさまでした。
西晋は瓦解という言葉がふさわしいですね。
倉垣は許昌との関係では東北東くらい、
兗州陳留国浚儀縣の倉垣城と見るのがよさそうです。
●小黄
▲倉垣城
●
俊儀縣
こんな位置関係です。ほぼ浚儀だと考えてよいと思います。
原文は倉坦になっていましたので、手入れしておきますー。
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最終回 漢は長安を破りて愍帝司馬業は降るへの応援コメント
長安は孤立無援で援軍も晋軍の内紛のために届きませんでした。締まらない終わり方ですが、西晋らしい終わり方と言えますね。
華勍は元々、史実にはいない人物のようで、フェードアウトしています。関西の華雄のイメージから生まれた人物なのでしょうか?
閻鼎もいつの間にかいなくなっていますが、これも内紛ですでに死んでいます。
索綝は自己保全の策を講じましたが、これは相手が悪く通用しません。これが、宮崎市定「大唐帝国」にも記載している劉曜最大の見せ場ですしね。外せません。索綝にも酉陽野史は思い入れがあったからかもしれませんが、索綝は不忠の臣として劉聡のところに連れられて処刑されますね。確かに、関中での頑張りを見ると、ここで終わるのはもったいない人物ではあったかとは思いますね。
鞠允については、三国志後伝では史実通り、拝礼した後、獄で自殺しており、通俗続後三国志ではその場面が無く、司馬鄴が前編では獄で自殺したことになっており、後編二巻では劉聡に殺されることになっています。これは、誤訳か、前編でも終わらせていいようにした結果と思われます。前者だとさすがに私でもやらないので、河東さんが尾田玄古さんの翻訳に言いたくなる気持ちは分かります。
ところで、私の三国志後伝の原作を読んでやっと気づいたのですが、ここでやっと劉曜が劉諶の子であるという伏線が解消されましたね。譙周たち降伏を主張するものを不忠として斬るように進言した劉諶と、西晋の降伏を主張したものを不忠として処刑した行動は、親子ならばですね。
当初は、成都武侯祠の像もあり、反三国志では劉禅を殺してまで二代皇帝となった劉諶を持ち上げるため、名将の劉曜をその子にしただけと思いましたが、きちんとした伏線と構想があり、こちらについては感心しました。
ここで最終回ということで、寂しくなりますが、「読史の断片録」にも引き続き、コメントさせていただきます。また、「通俗続後三国志後編」の翻訳される日がありましたら、そちらの方も楽しみにしておりますので、よろしくお願いします。「蘇峻の乱」はどうでもいいのですが、北漢の滅亡は河東さんの翻訳で読んでみたいと思っております。
元帝十六翼士の最後の一人も謎のままですしね(温〇?)
【追伸】
>北漢滅亡は三国志後伝にはないので、
>他の志怪小説を継ぎ足すしかないんですけど、
>なかなか大変そうだなあ。。。
>辻褄合わないまくりそうです。
ここだけは補足です。ここで私の言う「北漢」は三国志後伝史観のです。(史実では「匈奴漢」と呼ぶ)。すなわち、靳準に滅ぼされる劉粲までを皇帝とする漢ですね。三国志後伝では劉曜の「前趙」とはほとんど切り分けられる別物という扱いになっています。
翻訳としては中途半端な部分で終わりますが、西晋の滅亡以外で、三国志後伝に終わりをつけるのなら、そのタイミングがベストと考えます。後はダイジェストで、細かく読みたい人は「三国志後伝」か、「通俗続後三国志」を読めばいいという感じなら、よいかと考えております。
【再追伸】
そうですね。私としては、巻之十二 「劉永明自立即位」で切るのが適切と考えています。最後は、通俗続後三国志の最後のあの煽りで(笑)
請ふ〇〇〇〇を看て、便ち始末を知るべし!
作者からの返信
【追記を受けて】
〉ここで私の言う「北漢」は三国志後伝史観のです。
なるほど、劉粲のところで切るわけですね。後編では40話でそのあたりが終わりますから、手短に終えられますね。その前段で劉琨の始末もつきますから、いい案かも知れません。
しかし、大口は控えてまずはルビ振りと◆の解消を頑張ります。。。
※
こんにちは。
西晋滅亡までお付き合い頂き、誠にありがとうございます!目下、通俗続三国志の梁王戦あたりを見直しておりますが、隔世の感がありますね。
国家はこんな簡単に滅びますか、そうですか。
〉締まらない終わり方
ガバってます。
なんとなく、梁武帝蕭衍の死を思い出しました。
あの時も、侯景に制圧された建康を諸侯が遠巻きにしながら、誰も助けませんでした。
なかなか、帝室の権威が失墜すると、勤皇の軍勢でも利害調整が必要ということなんでしょうね。
〉華勍
翻訳中、正史にいないことは確認していましたが、華雄とはたしかにかぶるものがありますね。勍も強いという意味ですし、董卓は隴西の出自、長安よりさらに西です。華雄の一族かと思いましたが、通俗にはそういう記述はなかったです。
〉索綝
張華の抜擢を受けながら西晋の命数を悟って職を捨てた索靖の子としては、あまりよい終わりを迎えられませんでした。関中での戦では活躍しましたが、大勢を見極めるには、父に比してまだ若かったのかなあ。人品は父に及ばなかった感じですね。
〉鞠允
索綝とともに司馬業にディスられるなど、なかなかのとばっちりでありましたが、賈疋を加えた三人が関中での抵抗の中心にあった印象です。
忠烈な方ですよね。
これはこれで、一つの悲劇として描きやすいテーマかな、と思います。文天祥、張世傑、陸秀夫っぽい扱いをされても、悪くないと思うのですが。如何せんマイナーですからねえ。江南で東晋を興した司馬睿がよくない。。。
〉劉曜が劉諶の子であるという伏線
言われてみればの伏線回収ですね。あっさりし過ぎて伏線と気づかない人が多数。劉曜は成都脱出時は幼児だったわけですが、父の怨みを忘れていなかったわけです。
三国志演義なら、一旦許そうとしたところに劉諶の亡霊が現れそうな一場でもあります。ここでお涙頂戴せんでどうするんですか。。。酉陽野史はあまりそういう描写を取り入れませんから、知識人が著述した作品で講談のような大衆演劇を経過していないからかも知れませんね。
もっと俗っぽくていいのに。
そんなわけで、続三国志演義は一旦終了となりますが、色々とチクチク調べ物は進めております。如何せん、思うように時間が取れておりませんで、なかなか形にならないんですよねえ。
北漢滅亡は三国志後伝にはないので、他の志怪小説を継ぎ足すしかないんですけど、なかなか大変そうだなあ。。。辻褄合わないまくりそうです。
断片録はお遊びなんですが、まだ試運転で始まりもしておりませんでして。とりあえず、公式レビューパワーで人気があるうちに続三国志演義のルビ振り&刈り込みを頑張ります。
動機がないとやりゃしませんからね。怠け者はどうしようもないです。
あー、温さんかあ。あの方も涙なしには語れない別れがありますよね。ドラマティックです。
第百十三回 陳安は反して隴城に奔り投ずへの応援コメント
ついに長安の陥落寸前となり、西晋の滅亡も旦夕に迫ってきました。
ここまで来て、相変わらず西晋は内紛ですな。司馬保が可哀そうになるほど、胡崧、陳安、張春との息はあっていません。危機が迫っていても、内紛するのは、西晋らしいというか、関中・涼州の伝統らしいというか。
ただ、王該については引き返したくなる気持ちも分かりますが、長安が陥落すれば、北漢はさらに涼州まで迫るのは明白なので、忠義は別にしても、張粛がいうのはもっともですね。韓璞もなかなかの名将のようです。
形勢を観望した勢力が滅び、西晋を積極的に救おうとした涼州だけが漢人政権としての長い間継続していくのも、なかなか目先のことだけでは分からないことも多いものだなと感じます。
いよいよ、次回が最終回ですね!
作者からの返信
こんばんは。
いよいよ次回で最終回、長安の命運やいかにと言いたいところですが、あからさまに先行き不安です。
この期に及んで内訌とは。。。
大黒柱の陳安を普通刺しますかねえ。司馬保も何を考えていますやら。
結局、仰る通りに涼州だけが安定していますが、この涼州も東から見れば辺境ですが、西から見れば中国の入り口ですから、なかなかに安定が難しい地でもあります。
やはり、張軌はかなりの辣腕であったと言えるかと思います。興味深い人物でありますね。
第百十一回 劉曜は魯充と梁緯を殺すへの応援コメント
いよいよ大詰めに入ってきましたね。
関中諸将も、韓豹・魯充・梁緯とおなじみになってきた人物が死ぬと、終わりに近づいた実感が湧きます。
韓豹は前述のとおり、架空の人物ですが、不思議なのは、涼州軍を率いていた北宮純が史実では司馬模がいた時の長安の陥落前に、北漢に降伏しているのに、そのエピソードが抜けていて、韓豹の代わりを北宮純が果たせたはずなのに、北宮純が病気にかかったまま、フェードアウトさせていることです。
北宮純は、討ち取られるにせよ、降伏するにせよ、大きな話の区切りになったはずですが、これはどういうわけでしょう。北宮純の配下の将もその後は登場しないですから、北漢を苦戦させて戦死する役目を果たさせるのに問題はありません。
私としては、酉陽野史に北宮純への愛着が湧き、どのようにせよ、北宮純にひどい死に方はさせたくなかったからではないかと考えています。
もし、そうだとしたら、愛着が湧くのはいいですが、その人物を生き残らせるために他の人物や架空に人物に代わりの役割を果たさせるのは、歴史小説の書き手としては、無駄に人物や尻切れトンボが増えるわけで、いい傾向とは言えないと思います。
作者からの返信
こんばんは。
二十六章は漢の本腰が入った長安侵攻ですが、この百十一回あたりではもはや形勢は定まった感があります。消化試合モード発動。もう少し山あり谷ありにして頂けるとうれしいのですが。
〉北宮純
ああだこうださんの『最期の秋』でも取り上げられていましたね。早く続きが来ないかな。
降った先で内乱に巻き込まれるって、それなんてメルカッツ提督?って感じですが、メルカッツ提督は本望を果たしたのに対し、北宮純は最期まで運命に翻弄された感があります。
しかし、東宮に立てこもって靳準に争った理由はよく分かりませんね。そこまで義理立てする筋合いはなかったでしょうし。
三国志後伝では早い段階で靳準を宿屋のオヤジとして登場させていたあたりは、先々を考えていたんでしょうね。初登場と終わりのギャップがスゴイ。
残念ながら描かれなかったわけですけども。
〉酉陽野史に北宮純への愛着が湧き、どのようにせよ、北宮純にひどい死に方はさせたくなかった
これはあるかも知れませんね。
史書や記録を読むうちに登場人物や著者に愛着が湧くのはよくある話でしょうし、氷月あやさんは翻訳している間、『襄陽守城録』の著者の趙萬年を友達のように感じたと述べておられました。
個人的には愛着が湧くくらいのがよいと思います。作品の質を壊してしまう場合もありますが、それも著者が引き受けるリスクでしょうからね。
むろん、愛着を殺して冷徹に作劇して頂くのが読者としては理想ではありますが、それはまあ、次の方に期待したいと思います(笑
編集済
第百九回 漢将は渭城と茂陵を取るへの応援コメント
いよいよ終わりに近づくかのように、長安の手足をもぐかのような漢軍の長安周辺都市の陥落が続きますね。劉曜が索綝と韓豹と対峙して、その軍を拘束してしまい、兵力と将で勝る漢軍が兵を分けて、周辺都市の弱体な守備軍を破る戦略でしょうか。地味で、時間を要しますが確実な戦略ですね。
>そこは趙染で突っ張る方がよかったかなあ。
前回のコメントのこれは、私もそう思います。趙雲の子孫は弟に従うしかない個性もなく、祖父のような忠誠もないキャラが何もないですから。漢に対抗しようとする石勒や張賓に抗議して、漢軍に来る人物も張氏か趙氏に一人欲しかったですね。忠臣=人格者ではないということで。
>張驥の如き猛将であっても十合を過ぎずして吾に討ち取られた。
第百七回の呼延顥のこの発言はどうでしょう? 三人がかりで、打ち取ったのは呼延攸で、彼はいなかった感じが(笑)。間違いというより、いつのまにか、脳内で都合のいいように記憶を変えてしまうキャラな方が面白そうですな。
夏侯騄配下の狄猛とは、これまたなつかしい名前がでてきました。狄猛はそこそこ斉万年と戦えたので、子の狄鴻の方が強いと聞いて期待していましたが、評判倒れでした。かなり雑になっている印象です。
ただ、正直、百八回・百九回の涇陽・渭城・茂陵はほとんど説明なく、落としてもよかったとは思います。こういうテンポが悪いというか、小さい戦闘まで描写してしまうので、三国志後伝の持つ大きな欠点の一つですね
作者からの返信
こんばんは。
いよいよ大詰めに入ってまいりました。
〉長安の手足をもぐかのような漢軍の長安周辺都市の陥落が続きます
これまでとは様相が異なりますね。
司馬業を中心に関中の軍勢が糾合された結果かも知れませんが、新豊をはじめ長安の東と北が主戦場になっている印象です。関中の軍勢を尽くした総力戦ですね。
それを薄皮を剥ぐように攻めつぶしているわけですから、劉曜も成長していますね。
〉漢に対抗しようとする石勒や張賓に抗議して、漢軍に来る人物も張氏か趙氏に一人欲しかった
そして、魯徽を殺して祟られるだと刺激が強すぎますね。関羽のように兵に優しく士大夫には無礼という人格もありえますが。
〉第百七回の呼延顥のこの発言はどうでしょう?
張驥を討ち取ったのは呼延攸でしたね。
まあ、酉陽野史の誤りだと思います(笑
〉狄猛
登場は初期も初期でしたから懐かしかったですが、狄鴻はあっさり退場でしたね。見せ場を作るのがおしなべてヘタな感じを受けます。
〉涇陽・渭城・茂陵
蛇足感アリアリでしたね。欠点です。
仰る通り、落とした情報だけあればよく、中途半端な戦は省けばよかったと思います。本線前に大事なのは新豊の戦くらいですからね。。。
編集済
第百八回 呼延顥は涇陽を奪い取るへの応援コメント
今まで、ただのモブかと思っていた呼延顥が唐突すぎるほどの活躍ですね。
史実なら、魯徽との関係は趙染の役割なのですが、趙染は石勒の兄として、石勒軍に入っているので、呼延顥にその役割が振られたわけでしょうね。
趙染といえば、私も知らなかったわけですが、wikipediaによると、『常山郡真定県』の出身で父は西晋の征西将軍で『趙統』と言ったそうです。
???????
これ、本気で趙雲の子孫じゃないですか?
正史でなんら活躍も残っていない人物が、征西将軍になる可能性は低いですし、羅憲が安南将軍を贈られているから、趙統が晋に降伏した後で最後に征西将軍を贈られたとしてもおかしくはないですね。三国志の編集中ではまだ生きていて、本籍を常山郡真定県に戻し、息子が晋を裏切ったため、記録が消されて、残らなかったとすれば辻褄はあいます。晋を裏切ったのも、どうあろうと漢を名乗る相手にシンパシーがあるからと思えば分かります。
何にせよ、趙雲の縁戚の子孫である可能性はかなり高そうですね。ちょっとこれは願望では済まない可能性を秘めていると思われます。
趙染の話で終わってしまいましたが、次回は呼延顥の話をしたいと思います(笑)
【追記】そう思って調べたのですが、現行の十六国春秋でも新豊の人とされていますね。これは三国志後伝の記述が百度百科に間違って入り、そのまま日本のwikipediaに移ったようです。お騒がせしました。
作者からの返信
こんばんは。
〉呼延顥
便利使いされて可哀想ですね。明らかなスケープゴート。そこは趙染で突っ張る方がよかったかなあ。蜀漢補正だから仕方ないっちゃ仕方ないのですが。
〉趙染
まめさんが勇み足は珍しいですね。
よくあるというか、これがあるから歴史を楽しめるわけで、勇み足は昔から数え切れません。。。
「新しい説を立てられると思った時、興奮したんじゃないかね?それが知的興奮と呼ばれるものだ」と、かつて我が師は仰りました。
ドキドキしますよね。
もしもその先に本当に新説があるなら、たまりません。知る楽しみで一番大きいのはたぶんそこでしょう。みんな、そのために目を皿にして史料を読み込むのですよね。
自分もまだ糸口を掴んだくらいで先は長く、修行中の身でありますから、早くその先に進みたいものです。最近は足が勇むほどの発見もありませんが(泣)
こちらも是非お楽しみ下さい。
編集済
第百六回 陳元達は賢才を選んで挙ぐへの応援コメント
十六傑の中でも別格の扱いを受けていた張軌が死去し、いよいよ西晋の落日が明らかになってきました。張軌は、西晋への忠誠を保ちながら、かつ、前涼の創業者ですから、別格扱いもうなずけるところです。
涼州も流民が多く、鮮卑が攻め込んできており、後漢時代から中央に組したい漢人と独立したい漢人同士の対立や、異民族の反乱など、争いが絶えない地域です。比較的、安定したといえども、これを「避難できる国は涼土だけ」とした張軌の手腕は、傑出したものといえましょう。
しかし、劉聡が相談するのは、陳元達ばかりで、諸葛宣于は指揮官の候補としても上がっていませんね。劉聡を諫めて、引退していたのでしょうか。張賓のような巧みな指揮を見せることはなく、大会戦の時の勝利しか軍事的には目立った功績はなく、外交による功績もあっさりした描写で、余りにも大物扱いで神格化し過ぎて、結局、張賓の方が目立ってしまったようですな。
今回は、楊龍・李祐・王伏都・黄臣という意外なところの子から人物が出てきました。李祐が忘れられていなかったことはうれしいですが、読んだ時、「また、人物が増えるのかよ」と思ったことも間違いないです。後で、フェードアウトさせるぐらいなら、せめて、前趙の人物の血縁を作成して出してほしかったですね。劉岳は劉伯根の子になっていましたし。
とにかく、今回は今までに比べても本格的な長安侵攻ですね。北漢と西晋の最終決着が近づいてきたようです。
西晋十六傑(十四路諸侯+二)
✕ 征西大元帥・陸機
✕ 荊州刺史・劉弘
✕ 西涼刺史・張軌
✕ 幽州惣官・王浚
✕ 揚州刺史・陳敏
幷州刺史・劉琨
廣州刺史・陶侃
✕ 青州刺史・苟晞
✕ 豫州刺史・劉喬
樂陵太守・邵續
滎陽太守・李矩
✕ 雍州刺史・劉沈
✕ 順陽太守・張光
✕ 武威太守・馬隆
南平太守・應詹
南中郎将・祖逖
【追伸】
ここまで来れば、もう慌てることもないですな。ゆっくり最後までいきましょう。
>竜頭蛇尾とはこのことだ!
もう一度、大会戦が欲しかったですね。酉陽野史は、常識に支配されて、諸葛亮や姜維の北伐みたいな、総力戦で、一郡、一城を奪っていく発想しかなく、戦争によるカタルシスを感じさせる感覚がないのですよ。項羽の鉅鹿や彭城の戦いのような戦いもあり、石勒も王衍相手に行っているのに、だから、これほど描写が長くなると思われます。水滸伝の遼討伐や方臘討伐に影響受けすぎなのかもしれません。
>吐谷渾が慕容廆の弟の慕容吐谷渾から始まったというのはマジメな話なのかなあ。。。
私も資治通鑑で読んでビックリしました。元は、唐代好きだったので。歴史研究ではどうなっているのでしょうか。
>諸葛宣于
戦術・戦場での謀略は張賓に振ったので、戦略、外交や内政、通常の国家運営の役割を与えられたが、史実と酉陽野史の限界で活躍できなかったと推測します。
酉陽野史にそれなりの筆力があり、演義の諸葛亮や、水滸伝の呉用の話の使いまわしを良しとしないのが、あまりよくなかったのかもしれません。
戦争描写を減らして、晋に仕えてしまい、王頎の養孫となってしまった王弥の人材獲得などのエピソードや、匈奴の七縱七禽による心腹エピソードが欲しかったですね。
史実を余り壊さないというのは、酉陽野史の良さではありますが、それが限界をつくってしまい、八王の乱に主人公が加われず、石勒・張賓が無双してしまい、史実の北漢が余り冴えないという制限ができています。
>このあたりもストーリーテリングの手並みの違い、ということでしょう。
そうですね。今までの人物の厚みを増やしていけばいいものを、無駄に人物を増やすという中国文学の悪癖がでています。おそらくは、話の盛り上がりのために旧キャラも死なせねばならないのが惜しくて、無駄に増やすのかと。史実も重視するため、余計に人物が増えてしまいます。
史実の北漢のエピソードが少なく、オリジナル人物の描写が少ない問題点の解消としては、当時の発想の限界を考慮して、蜀漢人物の子孫は各一名ずつだけをクローズアップして、演義や水滸伝のエピソードのコピーをすることで、ある程度は可能だったのではないかと感じます。
関防の「三関突破」とか、張敬が無実の罪で流刑に遭うとか(林冲のパロ)、そういうエピソードを読みたかったですね。
>講談慣れした江戸の人もそう思ったんじゃないかなあ。。。
もうすぐ、次のまとめができますが、やはり、「通俗続後三国志」の方の売れ行きは余り良くなかったようですね。
>盛り上がりにかけますよねえ。
もう、出てくる人物が同じで、完全にパターン化されていますからね。「後編」の翻訳があるとしたら、淡々とお進めになるのが良いのかなと感じます。資治通鑑をそのまま読むよりは読みやすく、意義は存在するでしょう。
「後三国石珠演義」と長所を分け合った作品が読みたかったですね。
作者からの返信
こんばんは。
いよいよ本作の最終局面スタートですね。
竜頭蛇尾とはこのことだ!
やっぱり最後は盛り上がりを作らないとダメ、
とよくわかる仕上がりになっています。
> 張軌
仰る通り、涼州は幽州と同じく異民族の侵入が多く、それほど安寧な地ではありません。
とはいえ、
この頃は東北で鮮卑が猛威を振るったのに対し、
青海の吐谷渾もまだ勃興しておりませんので
西は比較的平穏だったのかもありますかね。
しかし、吐谷渾が慕容廆の弟の慕容吐谷渾から
始まったというのはマジメな話なのかなあ。。。
出来すぎているような気もしますね。
> 諸葛宣于
残念ながら張賓ほどは活躍できませんでしたね。
なんとなく、
諸葛亮に対する酉陽野史の評価が反映されている、
ようにも邪推しております。
「内政の鬼」のイメージだったのかも知れません。
その反面、
神格化と言われれば確かにそうなのですが、
とにかく出番が少ない少ない。
何か含むものでもあったのかなあ、
と勘繰りたくなります。
> 楊龍・李祐・王伏都・黄臣という意外なところの子
これがまたビミョーなんですよね。。。
関防や張敬の子なら、おっという感じなのですが、
三国志演義における関索や張苞の登場時ような
トキメキがないというか。。。
このあたりもストーリーテリングの手並みの違い、
ということでしょう。
羅漢中ってやっぱりスゴイですよね。
> 劉岳
お、劉伯根のお子さんがおりましたか。
気づかなかったなあ。
> 今までに比べても本格的な長安侵攻
なのですが、
生き残りの十六傑の誰も参加しないので
盛り上がりにかけますよねえ。
危ないところに駆けつけて敵を退ける、
あるいは優勢に戦いながら泣く泣く兵を引く、
そういう王道の展開が欲しいところです。
せめて張寔くらいはもう少し絡めてもよかった
と思うのですが、
こう、燃えるツボを外しているというか、
最終局面でありながら、全体的に残念な感じが
漂っております。。。
もっと面白くできんじゃねえのー?
とか言いたくなるのですね。
講談慣れした江戸の人も
そう思ったんじゃないかなあ。。。
第百五回 張賓は謀って廩丘を奪い取るへの応援コメント
王浚・苟晞がいなくなり、もう、華北には石勒を止められる人物はいないと思われましたが、ついに十六傑の一人、西晋の最後の柱、憂国の詩人・劉琨が覚醒します。
ほとんど人がいない并州のはずですが、配下も温嶠・姫澹ら石勒軍とある程度は戦えるほどの人材がいるようです。拓跋鮮卑の力がなくとも、戦えること自体が驚きです。劉琨は曹操と劉備を足して3で割ったような人物に見えますね。
温嶠もついに登場し、影の薄かった十六傑の邵續もクローズアップされています。幽州にいる段部も侮れません。
石勒も前途多難ですが、やはり、軍師の張賓の存在はデカいですな。
ところで、駱文鴛のフリガナは「ダンブンオウ」となっていますが、鴛は呉音が「オウ」で、漢音が「エン」です。これでよろしいのでしょうか?
作者からの返信
こんばんは。
ご指摘ありがとうございます!
〉駱文鴛のフリガナは「ダンブンオウ」となっていますが、鴛は呉音が「オウ」で、漢音が「エン」です。
ウハ(笑)
失敗してますね。早めに直しておきます。鴛鴦からヨミを取り違えたクサイです。
アクロバット読み違いですね。
第百三回 石勒は王浚父子を殺すへの応援コメント
今回は、石勒と王浚ともに「ざまあみろ」と言われる回ですね。
史実上の石勒らしい作戦と行動ですが、本人にとってみれば、リスクの割には余り報われていないような。結果的に生き残ったからいいですが、かなり危うい作戦でした。
王浚の「奸臣」たちを殺したのはいいですが、府庫の米穀を開放しなかったために、大変なピンチになりましたね。キングダムなどにありそうな「敵の大将は討ったけど、こちらも討たれそうになる」という展開でした。孫緯・王甲始・王昌は祁弘の同僚として、ずっと強敵として善戦しており、かなり優遇されていますね。
史実でも変わらない、游統の立場はよく分かりませんね。内通を持ち掛けて使者を殺されて、石勒が王浚に信用を得るために利用されています。その後、王浚にとがめられず、さらに弟まで殺されているのに、石勒防衛を拒絶してため、王浚が捕らえられ、さらに自分も捕まり、不忠の罪で石勒に殺されています。
余りにも脈絡がなく、游統は石勒から全ての悪を押し付けられて殺されたか、とことんまで利用されたか、どちらかではないでしょうか。
とにかく、石勒は生き残りましたが、幽州における強敵を除かれ、あまり石勒は勢力を伸ばせないという北漢には理想的な展開となりました。また、段部鮮卑の段匹殫が幽州に進出し、いよいよ鮮卑が大舞台に躍り出てきております。
大会戦では全員生き残っており、八王の乱でもあまり欠員はでなかった十六傑でしたが、ついに九人目の死者が出ております。リストを良く見たら、上位と下位はきっちりと別れていますね。陳敏と祖逖の位置だけは交代した方が、先鞭コンビが並ぶため、より美しいとは思いますが。
西晋十六傑(十四路諸侯+二)
✕ 征西大元帥・陸機
✕ 荊州刺史・劉弘
西涼刺史・張軌
✕ 幽州惣官・王浚
✕ 揚州刺史・陳敏
幷州刺史・劉琨
廣州刺史・陶侃
✕ 青州刺史・苟晞
✕ 豫州刺史・劉喬
樂陵太守・邵續
滎陽太守・李矩
✕ 雍州刺史・劉沈
✕ 順陽太守・張光
✕ 武威太守・馬隆
南平太守・應詹
南中郎将・祖逖
作者からの返信
こんばんは。
宿敵の王浚を滅ぼしたものの、幽州は鮮卑段部の拠るところとなりました。トビに油揚げですね。
後年、宋は燕雲の地を遼に奪われましたが、このあたりや陝西は地理的に中央から遠く、よく失われた地でもあります。北京は要するに、北からの侵入に備えるための城塞かつ国都であったわけです。
〉府庫の米穀を開放しなかったために、大変なピンチになりました
民を救わなかった報いのような感じでしたね。当時の軍勢にとって現地調達は当然の行いですが、代価をキッチリ支払わされたわけです。
〉孫緯・王甲始・王昌
王浚の部将はアッサリ討ち取られることが少ないですかね。幽州は突騎で知られた強兵の地ですから、それも加味されているかも知れません。
〉游統
正史を読んでも何があったのかよく分かりません。王浚には殺されず、石勒に殺されたのは確からしいですが、何か事績の脱落があるのかなあ。。。
〉北漢には理想的な展開
どうなんでしょうね。
幽州は結局は段部が拠り、代の拓跋部と並んで北漢に好意的ではありません。石勒の勢力は増えもせず減りもせず、現状維持となりました。
ここで石勒が幽州を合わせるとついに自立に走っただろうと考えると、たしかに北漢にはよかったのかも知れませんね。
〉祖逖
遅咲きの印象がありますから、仕方ないですね。
張軌は遠く涼州にあって自らは動かず、應詹はチョイ役でしか出てきません。
青州の王敦、并州の劉琨はまだしも、邵續と李矩は噛ませ犬の上に連携して北漢に対抗もできず、状況は極めてよくないですね。
しかも、好転する見込みがありませんからね。。。
第百一回 王浚は自立して諸官を置くへの応援コメント
いよいよ、石勒の一貫した強敵であり、続三国志演義─通俗續三國志─第二十四回において張られた伏線『甲戌の歳、王彭祖は図るべし』の結末を迎えることになりますね。
八王の乱に加わった主な人物も、残ったのは王浚と劉琨だけであります。良くも悪くも西晋の代表的人物で生き残ったのはこの二人ということで、いまだに華北にあって、北漢を背後から攻撃する面倒な勢力です。
北漢としては相変わらず苦しい立場で、膠着状態ではありますが、王浚としても、西晋は洛陽が落とされ、今後は長安が危機に陥っており、日々、幽州の郡県や鮮卑・烏丸への求心力が失われていき、それ以上に苦しい立場であったのでしょう。心臓部を狙う北漢の作戦は匈奴ゆえに余りうまくいかなかったのかもしれませんが、効果はそれなりにあったと思われます。
王浚としては、郡県や異民族を抑える手段としては自分の勢力に皇帝を立てるしかないわけで、有力な司馬氏を有していない以上、自分が即位するしかない。しかし、劉琨や北漢がいる以上は、このままでは無理なので、北漢の匈奴と石勒のいる羯(種族としての羯ではなく、匈奴の中で本流ではない部族の総称)の温度差をついて羯を率いる石勒に従属してもらうのは理想的で、そのため、信じたい言葉にすがってしまいたいということでしょうか。
王浚が収奪に走ったのは、幽州単独では経済的に苦しい上に、異民族をつなぎとめるための資財がどうしても必須だったからかもしれません。
また、石勒の従属は北漢に全く知られないはずもなく、偽りを行うにしても、劉聡との関係が危うくなるこのような挙に出るはずもないという油断があったと思われます。
なお、棗嵩は、屯田制度の実行で有名な棗祗の曽孫です。経済的に苦しいゆえに、苛政だが、経済政策に明るい人物に頼ったのかもしれません。
作者からの返信
こんばんは。
『甲戌の歳、王彭祖は図るべし』はスゴイ長く敷かれた伏線ですね。石勒とともにそれを聞いた汲桑はすでに亡くなってしまいましたが。
〉王浚と劉琨
司馬睿が江南に逃れて人を集める中、二人は河北に取り残された感もあります。もはや晋朝は頼れず、実質的には自立しているようなものですよね。
そんな中、あくまで晋の臣として生きた劉琨と、自ら即位を図った王浚は違う行き方をしたわけですが、その違いも一つのドラマと言えます。
〉王浚が収奪に走った
たしかに、北辺の幽州は穀倉地帯である冀州に支えられている節があり、生産力は高くなかったでしょうね。幽州単独では多数の兵馬を養うのは難しく、石勒が拠る相州から冀州を喉から手が出るほど欲していたことは確実です。
加えて求心力の問題もあり、石勒からの支持を得られれば、、、という気持ちになるのもやむを得ません。
その先には張軌のように辺境での自立を見据えていたのかも知れませんが、背後を鮮卑に脅かされる幽州に拠っては、涼州のような安定は難しかっただろうなあ。。。
〉石勒の従属は北漢に全く知られないはずもなく、偽りを行うにしても、劉聡との関係が危うくなる
このあたりまで来ると劉聰と石勒の関係も面従腹背ですが、王浚にはそこまで分からなかったんでしょうね。
逆に、石勒としては北漢からの嫌疑を受けても構わないという判断があったわけで、両者の関係もいよいよ煮詰まってきているようです。
〉棗祗
こちらは三國志演義には登場しないのですね。
早い時期に曹操に従い、任峻とともに屯田を推進した人物、三国志好きには大事な方ですね。
ただ、早死になんで事績が少なくて正史にも伝なし、厳しい。。。
棗嵩やその他の子孫にも著述があったようですから、文才があった家系ですね。
経済政策が家学だったかは不明ですが、『晋書』王浚伝には「棗嵩は浚の子壻なり」という一文がありますから娘婿でした。そっちかい!
第九十九回 石勒は水に遭って襄國に還るへの応援コメント
石勒集団の戦略無き流浪時代、もとい快進撃の話ですね(笑)。石勒軍の移動距離の長さには驚きます。ここらは消化しきれなかった石勒戦闘エピソードを出し切っている感じです。
王讃や王茲を討ったのは史実では苟晞を捕らえる前のことですが、ここではかなり後のことにされています。王讃は晋書を引用された通り、石勒を破っているので軍事能力は高かったのかもしれませんが、史実では苟晞とともに殺されています。この当時の石勒軍には危険分子を受け入れる余地はなかったのでしょう。
侯脱たちとは戦いはさらに洛陽攻略の前ですが、王如との関係から、後ろに置かれたようです。ここらは中村昂然さんに負けぬ劣らぬ時系列の入れ替えを酉陽野史が行っているのが分かります。
新蔡公の司馬確については、第四十一回のコメントで書いた通り、司馬騰の子であり、続後三国志では展開が違うので、注釈をいれるか、司馬虞に替える必要があると思われます。
陳眕はここで思わぬ再登場で、石勒の船を焼き払い、張實を苦戦させるなど、以前の大勢の一人であった時とはかけ離れた活躍です。その後の江南との戦いを見ればわかる通り、湿地帯や河川が多い土地を含んだ地の利を得れば、無敵を誇った漢軍すらも互角以上に戦えることができるようです。
刁膺は、三国志後伝では、単なる武将なので、なぜ、ここで急にこのような重要な進言をすることになったのか、意味が分からなかったです。史実では、この事件より以前は、刁膺こそが石勒の中心となる参謀だったのですな。どのような出自か、気になる人物です。
作者からの返信
こんばんは。
河南から江北を股にかけた石勒の活躍ですね。地理的にはツッコミどころ満載なのですが、明代の知識人の地理空間把握ってこんなもんなのかなあ。。。各地を旅行して逸話を収集した司馬遷とはだいぶ違いますね。
> 石勒集団の戦略無き流浪時代、もとい快進撃の話
作中では張賓の策略により、まずは曹嶷と夔安を平らげて山東を掌握しようとしたものの、平陽で劉聰の傍らにある姜發に阻まれる、という前説がついております。
「第二十三回 石勒は計にて枋頭を取る」からはじまった石勒の北漢離脱は本作の主軸の一つでもあります。ネタとしては良質なので、うまくするともっと面白くなったはずなんですけどね。
> 石勒戦闘エピソード
> ここらは中村昂然さんに負けぬ劣らぬ時系列の入れ替えを酉陽野史が行っている
史実では石勒は河南から江北で猛威を振るって故司馬越ご一行様を戮って洛陽を落とし、豫洲方面に転戦後に王彌を殺して葛坡から北上し、棘津から河北に入る流れですよね。
葛坡ということは壽春あたりですから、淮水南岸あたり。長江はまだまだ先です。
作中では先に山東の多くを占めてから洛陽失陥後の河南を支配する流れなので、色々逆転しておりますし、軽々と長江の南まで攻め込んでおります。
このあたりは、創作ということで、一つ。
> 新蔡公の司馬確
そういえばそんな人いたなあ。。。登場人物が多すぎて完全に忘れてました。読み直しが進んでいないので、その際に注しておきますね。
> 陳眕
「第十九回 石超は大いに東海王司馬越を破る」では陳昭と陳眕の兄弟が兄の陳珍に唆されて東海王に降り、成都王を劣勢に追い込む殊勲(?)を挙げております。
同族優先原理では当然の行動なのですが、わりかしダーティなお方という点ではキャラが立っているとも言えなくもありません。
> 湿地帯や河川が多い土地を含んだ地の利を得れば、無敵を誇った漢軍すらも互角以上に戦える
河北の軍勢が淮水を渡ったあたりからとたんに弱くなるというのは、三國志演義からのお約束ですね。
歴史的に見ると、淮南は南朝と北朝の間で争奪が繰り返されたエリアであり、夏季の増水で北人が痛い目を見るシーンが多いです。
それも南北朝時代が後半になると徐々に淮南は北朝の占めるところとなり、戦場も采石磯など建康の目と鼻の先になってしまうわけです。
> 刁膺こそが石勒の中心となる参謀だった
作中では張賓を差し置いてシャシャッた感じになってしまっておりますが、史実準拠ということであれば、
『晋書』石勒載記によると、
其の衣冠の人物は、集めて君子營と為す。
乃ち張賓を引きて謀主と為し、始めに軍功曹に署す。
刁膺、張敬を以て股肱と為し、夔安、孔萇を爪牙と為し、
支雄、呼延莫、王陽、桃豹、逯明、吳豫等を將率と為す。
ということで、鄴を抜いた後に安東代将軍に任じられた石勒は、刁膺と張敬(あっ)を股肱に任じておりますね。この記述を見る限り、どこまでが君子營の人かはちょっとわかりません。
『晋書』の載記を見ても、「股肱謀主」または「股肱爪牙」という用例が見えるので、張敬とともに張賓に次ぐ石勒の近臣であり、参謀と護衛を兼ねる腹心であったと言えそうです。
刁氏は漢人の姓のようではありますので、やはり君子營に集った漢人の一人なのかなあ。
編集済
第九十七回 楊難敵は謀って梁州を奪うへの応援コメント
張光が死に、十六傑も残り半数となりました。
史実では、張光が長安を救おうとして、このような展開になったわけではないようです。しかし、その史実では、あの郝度元(郝元度)の乱により、危機に陥ったところを、索綝の父・索靖に救われていますから、三国志後伝の展開は納得できるところであります。
張光は、十六傑でも、邵續・應詹とともに余り目立たないですね。続三国志演義・第百二十三回で劉曜を苦しめた夏庠もいつの間にかいなくなっていました。史実では李雄相手に勝っているみたいですから、夏庠の力が大きかったことにおきます。嗚呼、夏庠さえフェードアウトしなければ(笑)
史実としては、ここでの梁州の陥落、前仇池の楊難敵の登場は重要ですね。氐族として、斉万年の乱に南方に移ってきた人物の息子ということで、もう一人の李雄ということも言えます。確かに、西晋から五胡へと舞台は移ってきています。
楊武は、本来は楊虎なので、唐王朝の忌諱(李虎)のために迷惑ですね。異体字あたりで対応できるものなら対応してもらいたかったです。
西晋十六傑のリストです。残ったのは、西に一人、北に三人、中央に二人、南に二人ですね。司馬睿、司馬業、司馬保、王惇らを加えると、北漢は外交面ではどことも連携できずに、包囲された形ともいえます。北漢は、石勒と劉曜の軍事能力でわずかに西晋に対して優位を保っている状態です。
西晋十六傑(十四路諸侯+二)
✕ 征西大元帥・陸機
✕ 荊州刺史・劉弘
西涼刺史・張軌
幽州惣官・王浚
✕ 揚州刺史・陳敏
幷州刺史・劉琨
廣州刺史・陶侃
✕ 青州刺史・苟晞
✕ 豫州刺史・劉喬
樂陵太守・邵續
滎陽太守・李矩
✕ 雍州刺史・劉沈
✕ 順陽太守・張光
✕ 武威太守・馬隆
南平太守・應詹
南中郎将・祖逖
作者からの返信
こんばんは。
ホンっとに時間がなくて参ります。
> 張光
ちょっと正史を見てみました。
張光、字は景武、江夏の鍾武の人なり。身長八尺、明なる眉目にして音聲美し。少くして郡吏となり、家は世々部曲あり。牙門將を以て吳を伐ちて功有り、江夏西部の都尉に遷り、北地の都尉に轉ず。
呉平定の戦で戦功があって抜擢されたのですね。というか、江夏の人というのが意外でした。河北の人とばかり。
正史によると、王如の餘黨の李運と楊武が漢中に侵入したのに際して部下の晉邈は賂を受けてこれを入れるよう勧め、成固に留め置いたものの、李運と楊武の財産を狙う晉邈が今度はこれを討つように勧めて従うも勝てず、氐王の楊茂搜の援助を受けた楊難敵に賂を求められても与えなかったばかりに楊難敵は楊武と結んで張光を攻めたという筋書きのようです。
あまりいい感じではありませんね。
ただ、その死にざまは、
嬰城固守すること夏より冬までし、憤激して疾を成す。佐吏及び百姓は咸な光に退きて魏興に據るを勸むるも、光は劍を按じて曰わく、「吾は國の厚恩を受け、寇賊を翦り除くあたわず、今、自ら死ぬことを得れば、便ち登仙するが如し。何ぞ退き還るを得んや!」と。
聲絕えて卒す。時に年五十五なり。百姓は悲泣し、遠近は傷みて之を惜しむ。
国家に忠実な人であったことは確かなようです。
>夏庠
そういえば、晋漢の大戦以来見ないですね。。。
> 氐族として、斉万年の乱に南方に移ってきた人物の息子ということで、もう一人の李雄ということも言えます。
楊茂搜は略陽から漢中に入ったようですね。しかし、氐族というのもイマイチ明確なイメージがないです。
『後漢書』の馬援伝あたりを読んでいると、公孫述に武都氐が背いたという記述があり、隴西郡には氐道縣という縣があったりするので、隴西から漢中にその頃から分布していたようです。
でも、武都には參狼羌という羌族もいたようですので、雑居していたんですかねえ。。。
仇池の楊氏は北魏末まで家系がつづき、楊難當の孫の楊大眼あたりは小説に登場したこともあって有名ですね。
> 楊武は、本来は楊虎なので、唐王朝の忌諱(李虎)のために迷惑ですね。
ほう、諱でしたか。忌諱はちゃんと調べた方がいいのですけどね。面倒臭くてほったらかしにしがちです。正史にあたってみようという方は混乱するでしょうし、どうしたものでしょうね。
>西晋十六傑
北漢から見ると、あきらかに劉琨がジャマですね。本拠地の幷州にいるだけでも相当腹が立つでしょう。晋から見ても南方以外は連携がとりにくいので、膠着せざるを得ない状況です。張軌、王浚あたりは自立を志向しても仕方がないですね。
だんだんと国がバラバラになっていく感じです。。。
第九十六回 漢兵は大いに敗れて長安より退くへの応援コメント
劉曜も、并州と関中という二つの戦線を一人で背負わなくてはいけないので大変ですね。本来なら、劉聡に片方の戦線は担ってもらいたいのでしょうが、本人が安逸に走ったのか、やはり(史実では)兄を殺して簒奪しているから、基盤が弱くて動けないのか、どちらにせよ、劉曜一人にかかっている状態です。
正直、姜發か諸葛宣于が并州の戦線を担った方がいいと思われますが、史実の関係上仕方ありません。
第九十五回の邯鄲の備えは、張軌ではなく、劉琨にすべきですな。
後、北漢軍は確かにキャラが立っていないですね。現在いるなかでは、劉曜以外だと、関山・関心ぐらいですかね。初めに子孫の人物を多く設定し過ぎの上に、中国の講談でありがちな人物の追加が多すぎですな。
梁山泊の生き残りだけに焦点を絞った水滸後伝の評価が高いのは分かる気がします。
作者からの返信
こんばんは。
〉劉曜も、并州と関中という二つの戦線を一人で背負わなくてはいけないので大変ですね。
劉聰は戦に出なくなりましたし、それは皇帝としては妥当なのですが。
石勒ェ。。。せめて二枚看板の一人が協力的なら何とかなりそうなもんですが、仲は最悪ですからね。しかも自立志向旺盛。なんなら劉琨を唆したりしかねない。
戦略的難局ですね。戦術でどうにかなる状況じゃないです。
〉第九十五回の邯鄲の備えは、張軌ではなく、劉琨にすべき
位置関係的に邯鄲だと山西でも南部の上党あたりから東に向かわないといけないので、晋陽界隈にある劉琨の備えとしてもイマイチ。
強いて言うなら滎陽の李矩かと思いますが、「第九十回 劉曜は長安城より退去す」で滎陽を奪われているのですよね。
なので、邯鄲に兵を置く理由は北の襄國の後詰くらいしか意味がなさげです。
〉関山・関心
このあたりをキャラ立てするくらいなら、関防と関謹をなんとかして欲しかったですね。成都脱出からの古参なのにキャラ被りまくりで最後まで通しましたから。。。慎重派と粗暴派で毎回ケンカするくらいのキャラつけは欲しかったです。
やはり、適正な人数規模というのはありますよね。
跋─西晋滅亡にあたって─への応援コメント
遅ればせながら、完結おめでとうございます。
三国志以外の中国史に関してほぼ素人なもので、
「蜀滅亡後」感の強かった前作に比べると
正直、読み始めはやや不安だったのですが
最後まで楽しく読めましたし、勉強になりました。
「登場人物が覚えられないから」と
三国志を敬遠する人たちの気持ちが
少しわかったかも……
と感じた瞬間もちらほらありましたが;;
年の所為かなあ。
しかし過去に訳したものを見直してアップするのはまだしも
これを現在進行形で更新していくというのは
さぞ大変だろうと感服するばかり。
それに比べれば、読む方は気楽なものです。
大仕事を終えられ、次作については検討中とのこと。
どんな形であれ、今後ともご健筆をお祈りしております。
ひとまずは、大変お疲れさまでした!
作者からの返信
おつきあいありがとうございます!
長い長い話も終わって魂が抜けております。
三国志から40年でこれですから、
思えば遠くへ来たものです。
登場人物を覚えられないのはむやみに人数が多いうに、キャラが立っていませんから仕方ないと諦め気味です。漢はだいたいが似たような武人ばかりですから。せめて、武器が独特とか、差別化の記号があるとよかったのですが。
まだ晋の方がマシかなあ、、、という印象です。
一通り訳し終わって気に入らない箇所の手直しを、と思っていますが、なかなか手が動かなくて困ります。勢いも大事ですね。
しばらくは手直しと読む方に専念したいと考えておりますので、また『紅鷹』にもお世話になりに参ります。
引き続き、よろしくお願いいたします。
第九十四回 劉琨は再び并州を取るへの応援コメント
いよいよ、河東さん、ご期待の北魏の先祖・拓跋鮮卑の活躍ですね。五胡十六国の勝者といえば、北魏ということになりましょう。ある意味、北漢にとっては最強の敵です。
北漢にとって見れば、かつての匈奴の地が兵力の補給源となってくれていれば、洛陽に安心して遷都が可能となり、安定した華北政権を作れたかもしれず、江南の不安定な初期状態につけこむことができれば、統一もあり得ないことではなかったでしょうが、拓跋鮮卑が晋につき、対立したことは深刻な問題だったでしょう。戦闘では純粋な騎馬民族である拓跋鮮卑に勝つことができなかったのは、劉淵時代からです。
拓跋鮮卑がいる限り、并州は奪っても、奪い返されてしまい、兵力が消耗するだけということが分かるので、北漢はかなり苦しい状況です。幽州も段部鮮卑や宇文鮮卑がいて、簡単には制圧できません。背後の敵を除くことができません。
異民族ゆえに晋人の抵抗が激しいということを差し引いても、北漢は統一できなかった曹魏に比べて、深刻な問題を抱えすぎているようです。
作者からの返信
こんにちは。
〉北魏の先祖・拓跋鮮卑
もともと鮮卑は満州方面に盤踞した東胡の末裔とされますが、東胡の実態は不明、実際のところは鮮卑、烏桓、契丹、女真といった雑胡のゆるやかな連合政権だったんじゃないかと思います。
鮮卑は段部、宇文部、拓跋部、賀蘭部と明らかに部族分かれしていますから、かなり原始的な姿ですね。
〉北漢にとって見れば、かつての匈奴の地が兵力の補給源となってくれていれば
このように南下した後の漠北に強敵が現れる事象は構造的な問題でして、代にある拓跋部も北の柔然に苦しめられることとなります。
結局、北から中原に入った異民族は、清を除いて北からの脅威により滅亡にいたることになりましたし、清にもロシアがあって積弊から自由ではありませんでした。
〉北漢は統一できなかった曹魏に比べて、深刻な問題を抱えすぎている
時代の要請が変わってしまったのですよね。
後漢末までと比較すると、北方の異民族の存在が中原に与える影響はかなり強くなったわけで、北魏が頑なに代を本拠地としたのは、その辺の事情があったように思われます。
中原だけでなく、漠北をも一つの世界と見なして睨みを効かせなくては国家を維持できなかったのかなあ、と。孝文帝はそれを忘れて洛陽に遷都し、結果として北方辺境の反乱の芽を育ててしまったわけです。
北漢にはそこまでの遠大さはなく、中国内地の混乱に乗じて後漢までの天下を争った旧式の勢力の一つという印象を受けています。
漠北と中原の両方を一つの世界と見なすには、南匈奴は漢文化に親しみ過ぎたのかも知れません。
実際には、この問題は隋唐の時代に暫定的な解決を見たものの、宋元明清にも引き継がれてしまうわけですが。。。スケールが大きい問題です。
編集済
第九十二回 劉曜は并州の城を奪い取るへの応援コメント
劉琨が段々とクローズアップされてきましたね。必ずしも戦が強いというわけではない劉琨ですが、人を惹きつける力はあったようで、これからはしぶとく北漢に抵抗をします。
劉琨と祖逖にあの二つのエピソードが採用されていないのは残念ですね。三国志後伝は戦争ばかりに力をいれ、そういったエピソードがあまりないのは欠点の一つだと思われます。北漢が架空が多いゆえ、バランスをとるためと思われますが、劉殷のエピソードまで落ちているのはなんとしたことでしょう。
劉聡が劉殷の娘を迎えたのは、漢人と融合を図ったのかもしれませんし、司馬熾を辱め、殺したのは、降伏しない劉琨たちの様子を見て、その希望を断とうとした意図であり、いまだ、暗愚と化したわけでもないかもしれませんが、すでにそのような解釈をされてしまうぐらい状況は悪くなってしまっていたのでしょう。
司馬熾も死んだので、かつてのリストの司馬氏は司馬睿以外はいなくなりました。司馬氏の再興もまた無理っぽいので、戦争になっても抵抗を続ける晋人たちに劉聡がいら立って、精神が崩壊しても仕方ないかもしれません。石勒と違って、劉淵一族は教養もあり、屠各種の貴族育ちですから、繊細だったと思われます。
劉義は劉聡の皇太弟になっていますが、三国志後伝では劉聡のおじなのに奇怪な話ですね。ここだけ、劉乂であると言わなかったのは、史実上の劉乂とは別人の解釈も成り立つと思ったからです。
【追伸】
>作中に先鞭はちらっと触れられてたはずです。
先鞭は触れられてましたか。私の勘違いでした。
>劉琨の誤りでしょうか?
劉殷で正しいです。劉殷のエピソードは劉淵か劉聡へのエピソードとしていれてもいいな、と思ったわけです。大事な北漢側の記事ですから、そういった内容を削除するのはもったいないと思った次第です。
>史学が確定させた枠を活用して文学や歴史好きは
>自分なりの推論を楽しむ、って感じでしょうか。
実態は、司馬史観のところでもありましたけど、歴史好きも創作もどちらかというと史学のところに入り込み、人の心理を推測して、面白い独説をとなえるのに、一生懸命って感じですね。
私としては、前もお話した通り、創作をしたいのか、歴史評論をしたいのか、文学史・思想史の影響を受けた歴史研究として考えているのか。
>史学は損です。
あー、分かります。文学や思想史から入ると、司馬氏は何晏(これはどう正史を解釈するかで変わりますが)や竹林七賢を抑圧した圧制者で、状況証拠もあるので、あまり動かないと思っていたのですが、史学の人のそっけなさや、ネット独自の歴史評論から来る司馬氏好きとはどうしても合わないということがあります。
そこは、文学や思想史の方が得なところでもあるわけですね。
>劉乂だと劉淵の子だけど、略字だと劉乂=劉義になる、と。
義の略字は、「义」であり、「乂」ではないです。三国志後伝では、なぜか、司馬义(史実の司馬乂)・魏义(史実の魏乂)・劉义(史実の劉乂)となっているわけです。
これは、前、お話した通り、三国志演義の「呂义」が正史三国志の「呂乂」であるかのようによくある間違いなのです。
ただ、血縁関係が違い、別人設定もありえるので、劉義に関しては劉義のままでいいかな、と考えたという次第です。
作者からの返信
【追記を受けて】
>先鞭
うろ覚えでしたが、
「第六十八回 陳頵は上書して王導に贈る」に以下の記述がありました。
祖逖が六郡を兼ねたと知り、劉琨《りゅうこん》は知人に次のような書状を送った。
「吾は常に矛によって敵を待ち、梟雄たらんと胡族どもと戦ってきた。ただ、祖生(祖逖、生は同輩を呼ぶ呼称)が吾より先に敵に鞭をつけるとは思わなかった」
「敵に先鞭をつけるとは思わなかった」にしようとして、
「これ、出典だからマズイわ」と改めた記憶がありまして。
手紙でも祖逖を称揚する劉琨はいいヤツだったようですね。
> 劉殷
劉淵への進言は諸葛宣于や張賓にやらせたいところですし、劉聰との間では目ぼしいエピソードはないようですね。むしろ、士大夫に重んじられたという記述ばかり目立ちます。
孝友傳に入っているので、政治家というより君子として評価されているようです。傳を読む限り普通に学者ですね、この人。
>人の心理を推測して、面白い独説をとなえるのに、一生懸命って感じですね。
「消費」の仕方としては正しいですね。
ただ、それを使って何かができるかというと、ちょっと難しい。。。
>文学や思想史
こちらは人の内面を扱う学問ですから、作法が違います。
史学との食い合わせはよさそうで実は悪いのかも。。。
史学>文学や史学>思想史なんてことは言えませんが、
やはり、「違う」のですよね。
>义
失礼しました。チョンがつきますね。
チョンがないということは誤り、かな。
史書を観れば作中の「劉義」は「劉乂」の方がよさそうですけど、
なんでわざわざ「劉義」にしたんでしょうね。史書にもいないし。
不思議。
チラ見しましたが、
劉乂の母の單氏と劉聰の逸話はエグイですね。
北齊でよく見たヤツだ、これ。
偽太后の單氏は姿色絕麗、聰はこれを烝せり。
單は即ち乂の母なり。
乂は屢び以て言を為し、單氏は慚く恚じて死せり。
聰は悲悼して已むなし。
劉聰としては心外この上ない話ではあります。
匈奴の習俗ではまったく問題にならない、というより
父の跡を継いだ者の義務でさえあったわけですから。
それが漢化すると倫理上の大問題になってしまうという。
隋煬帝こと楊広は相当ダメな感じですが、
劉聰や北齊諸王のように漢化が浅い方々については、
漢文化の道徳規範からの批判は躊躇してしまいます。
草原で寡婦の生活を保護するには、
こうじゃないとダメだったんですよ。。。
※
こんばんは。
〉劉琨
西晋最後の砦ですね。不屈。
詩人としても名のある方であります。死ぬまで劉氏に膝を屈しなかった剛直の人です。哀しいかな、徒花で終わった感がありますが、悲劇の主人公として魅力的ですね。
しかし、相棒の祖逖もあまり幸せな終わりは迎えていないのですよねえ。載淵め。岳飛ほど酷烈ではありませんが、その先達とも言えるかも知れません。
〉あの二つのエピソードが採用されていない
二人は司州で同輩として務めた経緯がありますね。『世説新語』にある、同じ部屋で寝ていて、、、という話と先鞭の故事は知ってますが、ほかにありましたかね。作中に先鞭はちらっと触れられてたはずです。
〉劉殷のエピソード
劉琨の誤りでしょうか?
劉殷はチョイ役ですが、并州新興郡の人、劉淵に陥ったものの、適切な助言をした重厚な人物だったようですね。人民の支持も得た有力者。
ただ、史書によれば漢文化ど真ん中の人ですから、娘の入内をどのように考えていたのかなあ。
〉劉聡が劉殷の娘を迎えた
匈奴の劉聰を考えると、同姓不婚がどれだけ意識されていたかは不明です。
演義では、趙範が兄嫁の樊氏を趙雲と添わせようとして同姓不婚の理屈で拒否するくだりがありました。
これはつまり、明代の人々の意識を反映したのでしょうけど、匈奴というか遊牧民の風習では父の妾を子が相続するのが一般的、これは女性を軽んじたわけではなく、むしろ逆。
父を殺しても復讐されないが、母を殺せば姻族に復讐されるのが遊牧民の習いです。すなわち、女性は部族の間の紐帯として重要な位置にありました。
よって、娘を迎えるということの意義が、漢人よりもプリミティブだったのではないかと考えます。
娘の入内は、劉聰が劉殷を重視していたから部族的紐帯を求めた、という推論も成立するはずです。
〉石勒と違って、劉淵一族は教養もあり、屠各種の貴族育ちですから、繊細だったと思われます。
詩とか内面の吐露があればともかくですが、立場から考えて気宇壮大な詩しか許されなかっただろうなあ。繊細で弱気だと部族が従わないですし。
だからまあ、薮の中です。
同姓不婚の問題を考えると、匈奴劉氏の漢化はそれほど深くなかった可能性もあるかも知れません。漢文化を血肉化していたら、やはり律に縛られたでしょうし。
ちなみに、史学専攻の考えでは、劉聰の内面の推測は避けて考えるところです。証明して確定できませんから、立論の弱点になりますので。
歴史好きにとっては一番おいしいところなのですが、よほどの場合を除くと外形的に確定できるところが史学の主戦場なんですよね。
そういう意味では、史学は文学の下働きのような側面もあるように思います。史学が確定させた枠を活用して文学や歴史好きは自分なりの推論を楽しむ、って感じでしょうか。
史学は損です。
〉劉義
劉乂だと劉淵の子だけど、略字だと劉乂=劉義になる、と。ただ、略字の使い方から考えて、劉義→劉乂はあっても、劉乂→劉義はないと思います。略されていないので。
互通と略字は似て非なるものです。
原書を未見なので果たして劉義と記されているかは不明ですが、義ならそれで確定でよいのでしょう。
本作は親族関係の誤りがかなりあるというか、あまり重視していない感じがあります。一族だからいいよね、くらいの勢いです。司馬氏を見ても、チョイチョイ誤りがありました。
あまり深掘りしても仕方ないのかも知れませんね。いやはや。
第九十回 劉曜は長安城より退去すへの応援コメント
賈疋はあの賈詡の曽孫です。珍しい曹魏の大物の子孫の登場ですね。
韓豹は韓遂の曽孫という設定ですが、残念ながら架空の人物です。これが一番、意外でしたね。史実でも名前だけは存在するかと思ったのですが。
鞠允・華勍・韓豹・魯充・索綝・賈疋・梁緯・陳安・胡崧と、涼州の軍勢以外は弱いイメージだった関西の西晋軍もなかなかのタレント揃いです。兵力も倍差はなく、劉曜・姜兄弟・関兄弟・黄兄弟がいる北漢軍が形勢不利とは珍しいです。もう大会戦の時の蜀漢演義補正はないようですね。
劉曜の率いる軍は、劉曜が酔っているか、劉曜を抑えられると途端に弱体化しますな。後、劉燦にはなんか負け運がありそうです。王植とその配下5人は北漢には珍しく、やられるためだけに名前がつけられた人物でしたね。
作者からの返信
こんばんは。
ここも地理的にはかなりアレでして、長安から撤退して洛陽の西の滎陽に向かっちゃってます。
山西に帰るなら、蒲坂から河東に行かないと遠いです。藍田を抜けて上洛あたりから洛陽に出たのかも知れませんが、にしてもなんでさらに東に行くのかなあ。山西は洛陽の西北西あたりですが。
〉賈疋はあの賈詡の曽孫
このあたり、紹介されないのも不思議ですよね。三国志マニア的にはおいしいネタなのですが。
賈詡は涼州武威の人ですから、賈疋が関西にいるのは納得であります。しかし、武威の人というのも珍しいは珍しいです。
〉韓豹は韓遂の曽孫という設定
これも紹介がなかったですね。追加しなきゃ。韓豹は正史を検索しても出ませんね。
韓遂も涼州の人っぽいので、後漢末の涼州は辺境ながら人材に富んだ地ですね。
〉関西の西晋軍もなかなかのタレント揃い
河間王司馬顒がよっていた頃とはだいぶメンバーが変わっていますね。河間王は子飼いの将を使っていたのに対し、今回は関中の総力を挙げていますから、当然かも知れません。
しかし、索靖が子の索綝を将相の才と観ていたのは意外でした。張華の懇請を顧みず洛陽を去ったわけですが、やはり栄達が理想なんでしょうね。
〉大会戦の時の蜀漢演義補正はない
だんだんと史実に近づいてきている感じです。というか、史実に合わせるために色々とムリも出ていますね。特に軍の動きは動機と経路が合わなかったり。まあ仕方ないのですが。。。王植のように漢にもかませ犬を設定するあたり、漢軍に苦戦させたい場面なんでしょうね。
〉劉曜が酔っているか、劉曜を抑えられると途端に弱体化しますな。
戦場ではワンマンな感じがしますね。先頭に立って戦うキャラできていますから、ある意味、呂布の直系の猛将っぽいイメージがあります。
人をうまく使うシーンが全然ないというか、石勒とはかなり違いますね。
〉劉燦
負け癖がついているというか、何というか。
王子ながらチョイ役ですからね。。。
跋─西晋滅亡にあたって─への応援コメント
完結おめでとうございます!
初めて更新を見たときに「そっ、そんないっぺんに更新なさるなんてなんてもったいない!?」と、思わず差し出がましくも口を挟んでしまったのが、つい先日のようですw あのときにも驚かされた作品が、今見るとそれ以上に驚かされる大伽藍となっており…w
通読という形で体験させていただくと、改めて質も量も凄まじい、このお仕事に感服しきりです。
バリバリ盗みまくったるぞー、という思いを新たとしておりますw ありがとうございます!
作者からの返信
一年前はアドバイス頂き、ありがとうございました(笑
自分自身がある程度の量がないと読み始めないので、
一気に大量にあげてしまいました。
結局、1年で100万字に迫る物量になってしまいましたので、
読みはじめようとした方も心が折れそうな気がします。
出版物を読む際には何文字あるかなんて分かりませんから、
それで救われている面もあるのですよね。
ほんと、大伽藍というかなんというか、壮観ではありますね。
バリバリ盗んで頂くためにも、もう少し手直ししないとなあ。。。
跋─西晋滅亡にあたって─への応援コメント
お疲れさまです!
完結おめでとうございます!
1年間……長いようで短いようで。
まさかカクヨムという場所で漢文がやれるとは、私も思っていませんでしたけれども、お互いやってしまいましたね(笑)
「もう東洋史に触れることはないかもしれない。特に、自分の専攻ではなかったほかの時代なんて」と思っていた時期もありました。
でも、ここでこうして毎回の更新を追い掛けて、改めて東洋史・漢文のテイストに触れることができて、よかったと思います。
ひとまずは。
完結、本当におめでとうございます!
作者からの返信
色々とありがとうございました。
本サイトに来た当初は、中国史に取材した作品が少なく
意外の感がありましたが、『襄陽』は衝撃的でした。
こういうスキルがある人が世の中にはいるのだなあ、と
大変驚いたものでした。
個人的には本当にまとめておきたい時代が別にあり、
そのための基礎体力作りとして翻訳した本作ですが、
それにより同好または同病のみなさまと知り合えた
ことは貴重な経験となりました。
しばらくは鳴りを潜めますが、また何か中国史に
取材したものをあげられればと考えておりますので、
その際はまた遊んでやって下さい(笑
跋─西晋滅亡にあたって─への応援コメント
完結、おめでとうございます。
一年間(実際は準備期間も含めると、それ以上でしょうが)本当にお疲れ様でした。河東さん個人の尽力で、たった一年でこれだけの翻訳を完成されたのは、間違いなく偉業です。
河東さんのおかげで、私も「三国志後伝」や「通俗続三国志」・「通俗続後三国志」に本格的に興味を持つことができました。
私の三国志後伝に関するtogetterまとめ記事も、作成したwikipedia記事も安定した閲覧件数の増加が見られ、認知は少しずつ高まっていると見られます。togetterまとめ記事もいくつも紹介したい内容が残っていますし、内容紹介でもとりかかりたいことが一杯です。
なにより、河東さんたちのご助力を得たとはいえ、私の手であの三国志演義
の明代におけるほぼ確認できる唯一といえる続編への調査を今まで以上に進めることができたことが驚きです。
これも第一には、私の長いコメントにお付き合いくださいました河東さんのご助言、ご協力があってこそと考えております。
ありがとうございました。
『通俗續後三國志後編』の翻訳については、河東さんのおっしゃる通りだと考えております。ごゆっくりとお考えください。
繰り返しになりますが、一年間、本当にお疲れ様でした!
作者からの返信
西晋滅亡までお付き合い頂き、誠にありがとうございました!
翻訳を完了していた前作とは異なり、翻訳しつつ進めていく
本作の完結は、けっこう負荷が高かったように思います。
以前と比べて近況でもグチが多かったため、反省しきりです。
調査の方も順調に情報を積み上げておられるようで、本作の
原書たちの周囲がどこまで明らかになるか、楽しみです。
完走にあたってまめさんのコメントには大いに励まされました。
重ねてお礼申し上げます。
しばらく『通俗二十一史』は見たくないですね。
時間を置けばまた読み始めると思いますけど。
その時はまたお付き合い頂ければ大変うれしいです。
第八十八回 劉曜は長安城を奪い取るへの応援コメント
第八十五回と第八十六回は、三国志演義の傅僉と蔣舒の話と、関の裏にある小路を使う戦法を好む水滸伝の話を足したものですな。これは、関山・関心のファインプレイでした。この二人は、キャラがちゃんと立っていますね。
今回で司馬模が死亡し、リストに載せていた司馬氏二十三名は、ついに、捕まった司馬熾と司馬睿を除いて、全滅してしまいました。器でないものが天下を有すると、一族も天下の人もまとめて不幸にしますな。誰なら成功したかについては分かりませんが、時代の流れであったというには、余りにも酷い司馬氏の天命でした。後世の人々から酷評されるのは当然だと思います。
晋側も新進の英雄として、陳安・張春らが出てきましたね。関中は確かに、武人の産地ですな。
ただ、この回の張瓊の発言
>かつて魏兵が蜀に入った折、
>後主は譙周の勧めに従って
>鄧艾に投降し、百姓に危害が
>及ばぬよう願ったといいます。
>その子孫が中興の大事を果たし得たのは、
>この一事によるのです。
これを読むと、
何気に、三国志演義では忠烈というような評価を受けていた
劉諶(劉曜の父)が酉陽野史にディスられているのでしょうか?
攻めてきたのが劉曜であるだけに、何気に気になりました。
作者からの返信
こんばんは。
遅蒔きながら今週最後のチャンスなので返信をば。
〉関の裏にある小路を使う戦法を好む水滸伝の話
関所破りや密かに侵入して門を開けるのは水滸伝にかなりあった気がしますね。しかし、講談社学術文庫版は積ん読状態。。。岩波版以来なので早く読み返したいです。
〉関山・関心
関謹・関防兄弟は圧倒的に強い上にキャラ立ちしないという悲しい状態でした。関山とかチョイ役だと思ったら大活躍です。何というか、制御が効いてない感じですよね。関防・関謹がもったいない。
〉全滅
親の因果が子に報い、ではありませんが。
三国時代末期が司馬氏の台頭を要請したことは間違いなく、これは必然だったのでしょう。曹魏の構造的な問題でしょうから。
しかし、司馬氏は手に入れた権限を使って自家の保存に有利な仕組みを作れなかった。また、いわゆる中華の統一に専心するあまり、五胡のような中華の外の異族への対応を怠った。
思うに、このあたりが司馬氏が迎えた悲惨な未来の原因だったのかな、と。
破壊的イノベーションと同じ仕組みですね。
〉酷評
前者はともかくとして後者、異民族が中華文明に接してどこまで力をつけるかは不可知に近く、そもそも意識にあげたのは江統くらいだったのでしょう。これは、司馬氏を下げるより江統の識見を上げるべき事例かと思います。
我々は後世から時代を俯瞰するがゆえにこのあたりを明らかに認識しますが、同時代人であればどうか、その点は常に留保しなくてはならないと考えております。
司馬炎より房玄齢や李延寿の方が情報量が多いことは確かですし、後世の史家にしても然り。このあたりを批判する史家の評は、ある意味で筋違いだなあと考えております。
現場や同時代ではなかなかそこまでは見通せないものですよね。
まあ、司馬炎は同時代人の臣下に諌められていますから、目が利かなかったと言われれば然りなのですが、まさかそこまでとは、が正直なところじゃないですかね。
劉淵がそもそも奇跡に近い存在でもありますし、匈奴からあんなんが出て来るなんて予想外にも程がありますよ。規格外です。
〉陳安
いやー、好き嫌いは別にしてスゴイ人ですよね。超パワフル、個人的には苟晞や王浚と並ぶヒットです。彼の活躍というか、梟雄ぶりも『続三国志演義III』翻訳の原動力になるかも。
仰る通り、関西は武人の産地ですよねえ。
〉劉諶(劉曜の父)が酉陽野史にディスられている
劉曜は劉諶の子だからここでくさした、という可能性も捨てがたいです。結局、投降を首唱したメンツは劉曜に不忠の廉で殺害されてしまいます。
劉諶・劉曜という帝室への忠義を至上とする価値観と、譙周・張瓊という民の保護を至上とする価値観を対比したのは明らかです。
うーむ、気づきませんでした。
勉強になります。
編集済
第八十四回 愍帝司馬業は長安城に即位すへの応援コメント
ここでは、司馬模は、司馬越の弟ではないので、ディスっていますが、実際は司馬越の党が洛陽を見捨てたので、援軍を送らなかったのでしょう。関中は張方殺害で降伏者が多かったようですし、祁弘に略奪されたぐらいしか被害はないので、まだまだ余力は残していたと思われます。氐や羌に備えるために動けなかったと推測する論文もありますが、その後の経過を見ると、とてもそうは思えません。
しかし、こんな時まで、足の引っ張り合いとは、司馬一族の内訌は相当に根深いですね。「国に危機が迫ったら団結する」とする展開は両派の指導者がともに高い意識を持った場合のみ限定の話でしょう。
しかし、西晋も復活も難しいですが、北漢としてもいまだ北に王浚と劉琨を残し、河北の統治も安定せず、石勒と曹嶷の服従が疑わしい現状では、実際の勢力は拮抗しているといってよいでしょう。赤壁後とはいえ、曹操は馬超討伐に苦戦しました。劉曜の長安討伐はそれより条件が悪く、厳しい戦いになりそうなのは予測できます。
しかし、洛陽の陥落により、秦や新のように首都を落とされたら、晋(全部シンですな)が一気に滅亡しなかったのでは、①北漢が匈奴なため反発により各地方が下らなかったのか、②時代の変化により地方の力が増していたからか、③晋の国家体制がこういう危機に対応できたからか、④その他の理由か、自分としては①が主因ではないかなと考えております。
【追伸】
自分としては、前漢・魏は乗っ取り(クーデター)とはいえ、心臓部を奪われたら、散発的な反乱だけで終わり、蜀・呉を含めると、後漢以外は首都を落とされたら一気に滅亡したものと考えて発言しました。
「いつか書きたい三国志」というサイトの、「北漢は洛陽・長安を落としてもいつまでも天命が降りてこず、劉聡のメンタルが崩壊した」という解釈にある程度、納得するものを感じたからですね。これは、あれほど内訌と腐敗の激しかった晋を地方が見捨てて、北漢に下らないという見込み違いが、匈奴(というか異民族)による漢族の支配がまだ初期段階で反発が強いためであると、私は理解しました。
http://3guozhi.net/a/re24.html
>匈奴と漢族の反目
匈奴と同族である羯が、冉閔から虐殺を受けてそれが支持されるなど、さすがに異民族に対する反発が潜在的に相当にあると考えるべきでしょう。
劉宣も劉淵の決起時に「晋為無道、奴隷御我」と語ってますし、北漢や石勒の後趙と同様、胡漢分治していた、前趙は非漢族政権とするための改称だった、とするのは小野響先生の論文「前趙と後趙の成立」にあり、これも反発を背景にしていることを想起するものであります。
作者からの返信
【追伸を受けて】
> 「北漢は洛陽・長安を落としてもいつまでも天命が降りてこず、劉聡のメンタルが崩壊した」
なるほど、面白いですね。
天命が降りてくれば郡県はすべて帰降してくるはずなのに、降ってこないということですか。確かに。李矩や劉琨も執拗に抵抗していますものね。気持ちは分かる感じです。
>匈奴(というか異民族)による漢族の支配がまだ初期段階で反発が強いためであると、私は理解しました。
これも言われてみれば確かに。
漢族が成立してから初めての異民族支配でしたね。それまでは匈奴を奴隷にしていたわけで、部族の人間を奴隷にされた匈奴は漢人を憎みますし、漢人はそれに抵抗する。
憎しみの連鎖が起きやすいのは確実です。
とすると張賓あたりはかなり希少ですね。
しかし、一方で幽燕あたりの士大夫が鮮卑に降って参謀を務めていたりもしますね。鮮卑は中華の外にいたから支配されたというよりも、亡命した感じだったのかなあ。
後漢末から鮮卑もたいがい北辺で虐殺をした記事があったように思います、たしか。そうなると、漢人と鮮卑も仲良しではない。
中華の地を異民族に支配されるのはいや、逆に中華の外に逃れて異民族に従うのはよい、土地も含めて支配されることへの抵抗が強いと考えるべきか。。。
>冉閔
髭が濃い人間は漢人でも殺されたという話がありましたね!
>「晋為無道、奴隷御我」
この発言にも漢人に対する憎しみが見えます。
> 前趙は非漢族政権とするための改称
匈奴の政権で漢はねーわ、という感じですね。
胡漢分離するなら漢は名乗れませんね、確かに。
最近は史書から離れてしまったので、色々ド忘れしておりました。
というより、この時期の異民族に関して定見を持つほどには読み込めていないんだなあ。わりとフワフワしています。
大変参考になりました。
※
こんばんは。
漢文を読むという行為に悩む今日この頃です。
あー、司馬模は司馬越、司馬騰の弟なんですね。父の司馬泰は司馬懿の四男である司馬馗の子、宗室真っ只中ですが、司馬越の党派に与していた、と。
それより何より、高歓が東魏を建国した際の腹心の一人、司馬子如がその末裔と知ってビックリ。詐称クサイですが、名乗って恥ずかしい家名ではなかったわけですよね。
〉関中は張方殺害で降伏者が多かったようですし、祁弘に略奪されたぐらいしか被害はないので、まだまだ余力は残していた
作中では姜發が「雍州から西の漢中、秦隴には数十万の精兵があると観ねばなりません」と兵力があることを懸念していますね。
その重鎮である長安に弟を置いた司馬越は、なかなか頭が切れたと見るよりありません。
〉司馬一族の内訌は相当に根深いですね。
懐帝司馬熾は司馬越を信用せず、司馬模を長安に置いて逃げ場を確保していたわけですが、まあ、司馬越のやり方を知る限り、そうなりますよね。
〉「国に危機が迫ったら団結する」
前漢や後漢のように、二百年を閲した王朝のようにはいきませんよね。当人の識見というより、天があるように国家があると思えるかによるのかなと思いました。西晋は国家として若すぎましたか。
〉北漢
地味に大変な状況です。石勒と曹嶷の自立傾向が明らかになりつつあり、劉聰の掌握する範囲は劉淵の時代とはだいぶ異なります。山東半島から河北中央部への制御が難しい。これはキツイです。
しかも、劉聰の器量は末期の劉淵からでも二段落ちくらいですからね。。。暗雲が垂れ込めます。
〉晋(全部シンですな)が一気に滅亡しなかった
うーむ。どうなんでしょうね。
意図されるところと違うかも知れませんが、首都を落とされてから余燼が燻らなかった国家は逆に少なくないですか?
秦は中央集権で封国が存在しませんでしたから、頭を打たれたヘビのように死ぬしかありません。また、新は簒奪したものの封国を定着させて藩屏とすりには短く、かつ、一族が集中していたので一網打尽にされた印象です。
以降、前漢滅亡時は南陽をはじめとする劉氏が抵抗し、後漢が滅亡に瀕して蜀漢が立ちました。
蜀漢と呉は亡命政権を生まず、魏は内部を食い荒らされて換骨奪胎したために亡命政権はなし。西晋の関中政権や東晋は亡命政権ですね。
前秦はかなりあがいた印象ですし、慕容燕は前燕滅亡に際して国が分かれましたね。
拓跋魏は内部分裂なのであてはまりませんが、その後を受けた北齊は一族の高紹義が突厥に逃れて営州に余喘を保ちました。南朝では梁元帝が江陵に建てた政権が該当しますかね。
こうして観ると、一定期間の支配を維持し、かつ、宗室を封建した国家はだいたい首都陥落後に亡命政権を生んでいる、ような気がします。
そう考えると、漢代に中国古代封建国家の基本型が確立されており、それを踏襲すると首都を落とされても封国に亡命政権が生じる機能を持つ、と考える方がいいのかなあ。。。
〉①北漢が匈奴なため反発により各地方が下らなかったのか
①を推されるとのことですが、匈奴と漢族の反目というのが、管見する限りイマイチ史書に見当たらない気がしました。そういう史料ってありましたっけ?
なので個人的な見解は、
③晋の国家体制がこういう危機に対応できたから
が一番近いかも知れません。
まあ、晋に限った話ではないのですが、中国古代封建国家の完成によるもの、という理解です。
うーむ。まだ釈然としないなあ。。。
第八十三回 石勒は謀りて王彌を殺すへの応援コメント
王彌まで死にましたか。
北漢を初期から支えた勇者である彼も、内ゲバによって、かつての仲間を謀ろうとした上で、謀られて斬られてしまいました。通俗續三國志第十一回での格闘は、英雄たちが互いに認め合うための話だったはずですが、わざわざ王彌を殺す役目を引き受けた孔萇・桃豹は、実は、王彌に含むものをずっと抱いていたという話になってしまいます。
これはもう三国志演義の続編や水滸伝の亜流ではなく、完全にオリジナルな歴史講談ですね。
かなり説明不足ですが、八十二回の王彌が話していた「劉聰が劉和を弑虐して帝位を盗んだ」という話しは、劉聰が太子になっていたのでかなり唐突感がありますね。大会戦の後、問題が浮上した後、いつの間にか解決したと思っていたのに、劉聰が即位して、急に吹き出しました。
考えられるのは、劉和が太子になろうとして運動していたのを、諸葛宣于・張賓・陳元達が阻止して、その件は終わっていたのに、劉聰が即位後、劉和を殺害しようとしたのを、呼延晏・呼延攸・劉乗・劉鋭が諫めて、あわせて殺されたのでしょうか? それとも、王彌は長子の劉和が太子になるべきだと思っていたのに、劉聰が太子であることに不満があったのでしょうか? よく分かりません。
史実では、呼延攸・劉鋭は即位した劉和に進言して、劉乗とともに劉聰たち諸王を攻撃しようとして、反撃に遭い敗れて、劉和とともに殺されています。呼延晏は架空も加えて人物が多すぎるがゆえに整理されてしまいました。姜発はともかく、姜飛は必要なかったですな。無念。
ただ、王彌の人物像はキャラ崩壊といえばそうですが、豪快そうで実は狷介で、人物は単純そうで実は裏表がある人物に描いており、水滸伝や三国志演義にない複雑な人物像を描こうと模索した萌芽が見えます。これは、結果はともかく、評価してよいところかもしれません。
作者からの返信
こんにちは。
〉王彌
何となく、王平の子の独自設定と石勒に暗殺される史実に引き裂かれたイメージです。
〉孔萇・桃豹
たしかに、王彌とは馬邑以来の因縁でした。
『水滸伝』なら酒を酌み交わして仲直りのパターンですが、暗殺役を担ったことでジメジメした印象を与えてしまいます。
ただ、何となく本作は暗いというか、不穏な感じを拭い去れない描写が多い気がしますね。
「第七十回 韓橛は金龍城を建つ」の劉淵もヒトデナシな感じでしたし。
〉完全にオリジナルな歴史講談ですね。
史実に寄せざるを得ず、結果的にこうなったのでしょうけど、仲間割れというか、自立を図る展開は実にドライです。遊牧民的だなあ。
〉劉和
なるべく触れないようにしていますよね。
全体的に不穏な感じなのに、劉和と劉聰の争いまで描くとかなりエグいハナシになりますから、自重しているようにも感じます。
〉劉聰
「第八十二回 石勒は人を遣りて趙彭を訪う」に、王彌は劉聰をあまり評価していないというか、同輩と見ていた描写がありましたね。
〉王彌の人物像
まあ、呼延晏たちの殺害はともかく、王平と王彌父子は黄皓専権の蜀漢で職を辞して閑居していましたから、忠義を尽くすキャラではないのでしょう。
劉聰が器ではないと感じ、さらに劉曜とも不仲になった王彌が洞が峠を決め込むのも、スジは通っていますよね。違和感がないです。
キャラ作りに成功しているように思います。
劉霊・関防・関謹・汲桑に続いて王彌も退場。漢の大物部将がいよいよ少なくなります。
編集済
第八十一回 石勒は苟晞を襲って仇に報ゆへの応援コメント
西晋が誇る知将・苟晞との戦いも決着ですね。張賓や石勒との知能の限りを尽くした戦いを見ることができると思っていたのですが、あっけない最期には驚きました。童礼・葉禄・林潤らも地方に逃亡したか、苟晞に処刑されたのでしょう。
軍法による名将の統率力も、あくまで権威を維持する国家が存在してこそ。苟晞は石勒の話す通り、なんとしてでも司馬熾を救出する必要がありました。苟晞の官職を保証する皇帝がいないのであれば、刺史や太守たちも従う必要が無く、団結して身を守るメリットがなければ離反するだけです。苟晞は将や官僚としては優れていても、英雄や有徳者とは程遠かったようです。いかに個人能力が優れていても、たった一人の力で歴史が決まるようにはなっていないのです。
高俊は、三国志後伝では「高淵」になっていましたが、高淵はすでに第六十六回で苟晞に処刑されたので、「続後三国志」の修正を一部、採用されていますね。夏赤も縁戚のようなので、これも夏陽の親族っぽいですな。
久々に十六傑に欠員が出ました。官職が変わったものも多いですが、最後までリストはこのままでいきます。
西晋十六傑(十四路諸侯+二)
✕ 征西大元帥・陸機
✕ 荊州刺史・劉弘
西涼刺史・張軌
幽州惣官・王浚
✕ 揚州刺史・陳敏
幷州刺史・劉琨
廣州刺史・陶侃
✕ 青州刺史・苟晞
✕ 豫州刺史・劉喬
樂陵太守・邵續
滎陽太守・李矩
✕ 雍州刺史・劉沈
順陽太守・張光
✕ 武威太守・馬隆
南平太守・應詹
南中郎将・祖逖
【追伸】
前のコメントに、お詫びを書いていたつもりが反映されていませんでした。お手数をおかけしました。
作者からの返信
ありがとうございます。
本格的な返信はまた明日以降にしますねー。
※
こんにちは。
遅くなりましてすみません。
〉知将・苟晞
前作では王浚、張軌とならぶ有力諸侯でしたが、
本作ではサイコパス気味な感じですよねー。
ステキ(笑)
〉あっけない最期
キラーマシーン・祁弘を見殺しにしてからは
失策続きでしたね。
敵を強くあらしめることは実に難しいです。
石勒と血で血を洗う戦をしてくれないと、
がっかりしてしまいますよねえ。。。
〉苟晞は将や官僚としては優れていても、英雄や有徳者とは程遠かったようです。
治世の能吏、乱世の奸雄は曹操ですが、苟晞は
及びませんでしたね。あくまで、治世も乱世も
能吏であった人なのかも知れません。
惜しむらくは、
晋の衰退を支えつづける胆を欠きました。
劉弘のような胆があれば長生きしたかも。
〉いかに個人能力が優れていても、たった一人の力で歴史が決まるようにはなっていないのです。
古代において個人の背景は常に一族郎党、
個人はそれらの代表と考えていますので、
おそらく違う意味で同じように考えます。
そのような個人で大勢を覆しはできませんが、
歴史を停滞させることや脇道に逸らすことは
できるように思います。
つまり、流れに異物が挟まってしまう感じ。
王莽、張角、劉備、孫恩あたり。
王敦や桓温父子は正嫡側かなあ。
爾朱栄や侯景もアカン側ですね。
こういう人たちがいるから歴史は面白いです。
正嫡ばっかりでは面白みがありません。
〉高淵
苟晞の麾下は設定が甘い気がしました。
なんか間違いというか、ダブりが。
中だるみみたいなものかもしれません。
〉十六傑
まだ半数以上が生存していますが、
本作中ではお亡くなりになる方が
まだまだおられますね。
前作最後の会戦も今や昔、ですね。。。
編集済
第八十回 石勒は三台の城を奪い取るへの応援コメント
意外と今後のために重要な回ですね。
本来は劉琨に捕らえられていたのは、石虎でしたが、石虎はすでに石勒の子として登場しており、石夫人のもとにいるのはおかしいため、改変されたのでしょう。
しかし、ここで冉閔登場とは随分と思い切ったものですね。冉閔は史実では石虎の養孫ですよ。この世代のぶっ飛びに資治通鑑を読んだ後に気付き、驚いたものです。
郭敬は「通俗續三國志 二十四回」以来の出番ですが、この時、声をかけねば死んでいたわけで、石虎はやっぱり悪役なんじゃないかな、と考える次第です。後趙の衰退は「好殺」の石虎のために予感されていたと。
>荀下、閻鼎、王浚、劉琨、王敦、李矩、張軌など各地の刺史、郡守
ここでいう荀下は三国志後伝でもそうなっていますが、史実にはいないので誰のことなのでしょうね?
【追伸】
>しかし、石虎の実像はホントに『晋書』の通りなんだろうか。。。
そうですね。玄学の人以外はスタンダードな歴史の見方を好む私としては、石勒に比べれば、やはり軍事力に偏った暴君であったかと思っています。また、酉陽野史のような暴虐の結果として王朝の崩壊があったという見方も、道徳というだけではない理はあり、あまり否定するのも不自然と考えています。だから、司馬昭や司馬炎が名君なのに西晋が崩壊したというのは首肯しないわけです。
「近年の中国における後趙史研究」http://jairo.nii.ac.jp/0390/00001907/enという論文によると、中国ではかつて石勒も悪魔のように評価されていましたが、50年代に変化し、80年代からはは石勒は優れた君主と評されたようです。しかし、同時に石虎は君主として否定的に評価されてきたようです。
この論文は1993年のものですので、その後の中国での評価は分かりませんが、この時には田村実造先生の「中國史上の民族移動期」以外での再評価はあまりされていないようですね。
なお、「中國史上の民族移動期」では石虎の行政手腕には見るべきものがあって、東晋の保守的な世族尊重主義よりもはるかに進歩的と評しています。ただ、永和二年の資治通鑑に見える苻洪の諫言からも晋書の暴虐な記述は誇張ばかりでないであろうと述べています。上奏文を疑うとキリがないので、これは、同意できます。
作者からの返信
こんばんは。
〉今後のために重要な回
さはさりながら、『続後三国志後編』でも結局は回収されないんですよねー。残念。
〉冉閔は史実では石虎の養孫ですよ。
パパンの冉瞻は陳午の反乱軍から降って石虎の養子になっていますね。陳午は「第八十三回 石勒は謀りて王彌を殺す」にチラッと現れています。
なんで、冉瞻の子の冉閔は必然的に石虎の養孫になるわけですね。
〉後趙の衰退は「好殺」の石虎のために予感されていた
まあそうなんでしょうねー。石虎は暴走するものという扱いがされていますから、跡を継いだらどうなるかはだいたい見えますよね。
そういう事情を読者に伝える演出なんでしょう。
しかし、石虎の実像はホントに『晋書』の通りなんだろうか。。。
〉荀下
ホントだ。気づきませんでした。影響なさげではありますが、一応調べて不明なら抹殺します。
こういうのたまにあります。その際はだいたい抹殺しちゃうのです。ふふふ。
第七十九回 大漢高宗皇帝劉淵は崩御すへの応援コメント
ついに主人公である劉淵が死にましたな。史実では洛陽陥落前に死んでいますが、花道を飾らせた上で王朝が衰退する原因として、最後の老害を描きたかったのでしょうね。当初の三国志平話にある話しはここで終わりでもいいでしょう。これまでは色々と不穏なところはありましたが、一応は蜀漢の遺臣は漢の再興に向けて戦っていましたが、これからは、史実を元にした酉陽野史のオリジナルとなり、完全群像劇の中、それぞれの思惑で戦うことになりますね。
劉淵の発言をみるに、劉淵は石勒と曹嶷は警戒しているが、張賓とおそらく王彌は信用しているようです。残念ながら、二人とも劉淵死後に向けて動いています。劉聰や劉曜とうまくやっていく気がない彼らは、漢を再興する気持ちとは別に、劉淵の思惑とは違うところにいます。ただ、漢を滅ぼす可能性があるのは、この石勒と曹嶷と見ていること自体は当たっているのかもしれません。
関兄弟は王彌とともに、劉淵の仲間になるのは一番遅かったのですが、一番、忠臣らしく祖父が果たせなかった夢を果たしました。やはり、関羽の子孫、特に関防は優遇されていますね。ただ、関謹と関河は戦場で見せた武勇以外存在感が薄かったので、どちらか片方、あるいは両方とも必要なく、関防・関山・関心のエピソードに集中した方がよかったと感じます。字で呼ぶと、誰が誰か分からないし。
作者からの返信
こんばんは。
〉劉淵
263年の蜀漢滅亡から311年の洛陽失陥まで実に48年、漢を束ねてきた支柱が折れた感があります。
実際には前年の8月に崩御、まあまあまあ。
おっしゃる通り、この劉淵の死を契機に物語は晋漢の戦いから、それぞれが別の思惑を抱えつつ、晋と漢それぞれに緩やかに属する乱世に入ります。
ちょっとワクワク感もありだったりします。不謹慎ではありますが。
〉石勒と曹嶷
外にあって大軍を率いる二人が警戒されるのは、当然のことではありますね。王彌は信用されていたというより、軍の独立性がイマイチだったように見えました。劉曜麾下の一軍、というイメージでして。
漢からの離反も劉曜との感情的なもつれが原因なので、天下に大志を持っていたわけでもなさげですし。石勒のかませ犬にせざるを得ないわけなので、仕方なかったのかなあ。
〉関兄弟
多すぎましたよね。
関防と関謹に関山、関河、関心ですから。しかも字はすべて継〜なんで、誰だか調べないと分からない仕様です。
王彌や姜發、姜飛兄弟との逃避行は面白かったんですけどね。水滸伝チックで。たしかに、関謹と関河はいらなかったかも知れませんねー。
話が散らばって印象が薄くなったのは確かです。残念。
第七十八回 漢は洛陽を破って懐帝司馬熾を擒とすへの応援コメント
ついに洛陽が陥落し、司馬熾が捕らえられ、西晋が実質的に滅亡しました。
張騏・張驥は魏将の子孫にしては忠臣として最後まで奮戦して扱いがよかったですな。張遼・張郃・徐晃・許褚・呂虔の子孫の扱いは比較的いいと思います。特に、張郃は良くも悪くも諸葛亮との因縁の敵ですから。
郗性と郗禮については説明はなかったようですが、おそらく郗慮の子孫ですね。孔萇に仇を討たせるためでしょう。もっとも、郗氏には大物が生まれてしまい、演義ファンには悔しい歴史展開になってしまいますが。
王雋・庾珉の奮戦は、袁紹軍の審配の鄴における戦いを想起させますな。演義の記述をモデルにしたのでしょう。
また、王彌も劉曜と対立し、自立を図ることにしたようです。王彌と劉曜はアンチ石勒で仲良くなれそうな感じがしますが、劉曜は王彌とも対立しました。劉曜は表面では取り繕った石勒にまんまと騙されたようです。石勒の社交スキルの高さと、劉曜の単純さが分かりますね。
ここで記述されていませんが、東平王・司馬楙も戦死します。彼も司馬熾に進言して、東海王の部下・何倫を攻撃させたという事実もありました。なお、史実では呉王・司馬晏も洛陽の陥落とともに死んでいます。リストにいれていなかった太子・司馬詮と司馬衷、司馬遹を含めて、23名中生き残ったのはたった、南陽王・司馬模と瑯邪王・司馬睿(と捕まった司馬熾)のみ。司馬氏の積悪の結果か、国家体制自体が悪かったのか、我欲に狂った八王たちの罪か、時代の流れによるものか、とにかく、晋に再度、統一できる機会が訪れることはありませんでした。
司馬氏のリストもこれで最後です。
(帝室)
懐帝:司馬熾→捕らえられる
皇太后:羊献容→捕らえられる
皇后:梁蘭璧→捕らえられる
執政:司馬熾→捕らえられる
太子:✕ 司馬詮
(八王)
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
成都王・司馬穎(死亡)
河間王・司馬顒(死亡)
東海王・司馬越(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
予章王・司馬熾 → 皇帝へ
✕ 東平王・司馬楙
新野王・司馬歆(死亡)
東安王・司馬繇(死亡)
范陽王・司馬虓(死亡)
東瀛公・司馬騰(死亡)
呉 王・司馬晏(死亡)
清河王・司馬覃(死亡)
作者からの返信
こんにちは。
〉西晋が実質的に滅亡しました。
311年のことでした。
永嘉の乱は316年に長安に残存する西晋遺臣が屈服して終わり、ここまでを一般に永嘉の乱とします。
しかし、洛陽失陥以降の西晋は死に体に近く、事実上の西晋滅亡といってもよいですね。
〉張騏・張驥は魏将の子孫にしては忠臣として最後まで奮戦して扱いがよかった
張郃の子孫でしたね。一般には張遼の方が評価が高そうなので意外な感じでしたが、鼎立後の張遼は対呉戦線が中心になり、蜀とはご縁がなかったので、因縁を重視したのでしょう。
〉張遼・張郃・徐晃・許褚・呂虔
名前が。。。戌とか駑とか生き物系はけっこう見下しているような気もしました。
呂虔は律や鐘で音楽系、徐晃の子孫だけ玖舒と美々しいのも不思議です。思い入れがあったのかなー。
〉郗慮
献帝の伏皇后を連行した華欽の部下Bですね。
孔萇の先祖である孔融とは互いの優劣を競って仲違いしておりますが、鄭玄に師事して荀彧に登用された名門学者さんコース、玄孫は東晋の大立者、北府軍団の創始者である郗鑒ですね。
子と孫の名は伝わっていませんし、郗性と郗禮は史書に見えません。性と礼という名も対照的ですから、創作して伏皇后を逮捕した罪を購わせたのでしょう。
〉王雋・庾珉
正史に記録はありますが、断片しかないので忠烈の印象を与えるため、審配の鄴攻防戦から記事を援用したわけですね。戦の流れとかだいたい同じです。酉陽野史が前史をうまくカット&ペーストして使ったわけで、興味深いです。
しかし、審配さん、改めて見ると仲悪い人が多すぎやしませんか。。。
〉王彌
設定上、劉霊つながりで劉淵に従っていましたから、あまり蜀漢の忠臣という感じではなく、戦争技術者的だったのかも知れません。
劉聰さえ同輩と見ていますからね。劉曜と反りが合わなければ従わないのも何か納得できます。
〉太子・司馬詮と司馬衷、司馬遹を含めて、23名中生き残ったのはたった、南陽王・司馬模と瑯邪王・司馬睿(と捕まった司馬熾)のみ。
うーむ、絶景かな(違う)
三国時代末期に魔王のように力を振るった司馬懿、司馬師、司馬昭の末裔がこんなに悲惨な末路を辿るとは、予想もできませんね。
そう考えると、本作は三国志ファンによる司馬氏への復讐なのかも知れません。司馬懿の曹爽排斥あたりから続けて読むと、ある一族の盛衰という感じになります。
まあ、江南には司馬睿があって晋の国統はさらに100年を閲するわけですが、東晋は連合政権みたいなもんですから、また別の国ではあります。南無南無。
編集済
第七十六回 漢主は夢によりて呼延攸を挙ぐへの応援コメント
劉淵が段々、ひどくなっていますな。『狗でももう少し役に立つ』、『竜頭蛇尾に終わって無駄に銭穀を費やす』とはひどい言い方です。石勒・劉曜という若い世代への不信もありそうで、やはり、信頼できるのは、王彌・呼延晏・呼延攸という昔の仲間なのですな。劉備は関羽の死が原因で、関興・張苞を重用したのに、それとも比べても差を感じます。ただ、石勒・劉曜・張賓・姜發については、不信がある意味当たっているところは皮肉なところです。
やっと、呼延晏・呼延攸兄弟の出番ですね。史実では大活躍の呼延晏ですが、関羽の子孫はともかく、姜維の子である姜發・姜飛に出番・活躍を奪われたのは可哀想ですな。大会戦の劉曜組には呼延兄弟をいれてあげてもよかったのに。姜維は、私は比較的好きですが、そこまでの人気があるとは思えないです。呼延晏と遊子遠は地味に犠牲者ですね。どこかで二人と役割が入れ替わって姜兄弟は退場する形にして欲しかったのですが。
呼延模と呼延莫はここで別人と判明しましたね。河東さんのご説であった通り、胡莫が呼延莫に代わったのかもしれません。
【追伸】
>むしろ、馬超の子孫の陰の薄さが気になりました。
>錦馬超、イイキャラなのに。
馬鉄の孫、馬蘭しかいませんね。おそらくは、斉万年が馬超の刀と弓を受け継ぐため、斉万年を馬超の後継者とするアピールのためでしょう。斉万年と馬超は魏・晋と戦った場所が近いです。史実を見て、周処に勝ったのもあって、酉陽野史(講談師の方)は斉万年を馬超の後継者と見なしたと思われます。
また、史実ではなにげに劉淵の父・劉理は馬超の娘と婚姻しています。おそらくは、劉淵の母方の祖父が馬超なのでしょう。匈奴に無事逃れて、再起できたのは馬超の導きということでしょうね。これは酉陽野史(知識人の方)も納得ではないでしょうか。
もっとも、そのような史実を読むと、なおさら、呼延兄弟こそ馬超の子孫に相応しい感じもしますが、おそらく酉陽野史は、毛本の前にある演義の魏延ごと司馬懿を焼き払う諸葛亮の計略と史実での一族処刑になったのを読んで同情して、姓による字遊びもあって、娘を劉淵の皇后にしたのだと思います。これは、現在、日本の魏延ファンからすると明代の人も同じことを思っていたということで、嬉しいことではないでしょうか。馬超には悪いですが、この設定は私もお気に入りです。
作者からの返信
【追伸を受けて】
なるほど、周処は最初の強敵でしたし、たしかに弓や剣を受け継いでいるところからも、馬超→齊萬年という意識だったのかも知れませんね。
それに、「第十二回 劉璩は劉淵と名を改め郝元度に投ず」でも齊萬年は羌族に詳しいという設定があり、このあたりも馬超の衣鉢を継いだものと考えてよさそうです。
> 劉理は馬超の娘と婚姻
この設定を前に出すと、馬超の末裔を全面に出さざるを得なくなりますし、劉淵の外戚は呼延氏ということで、色を薄めたのかも知れませんね。
魏延は『演義』諸葛亮を非難する際には必ず引用される人ですから、、、やはり明代から違和感を感じている人は多かったのでしょう。そういえば、味方ごと敵を殺した人は、本作でもよい終わりを迎えていませんね。。。誰とは申しませんが。
※
こんにちは。
〉劉淵
著しく老害化しています。
作中の善悪をキッパリ分けない感じは、なかなか冷徹でキライではないです。
人間ですからねー、終始一貫というわけには、なかなか参りません。
〉呼延晏・呼延攸兄弟
忘れがちですが、魏延の子孫の設定なんですよね。劉淵の皇后は呼延氏ということもありまして、外戚でもあります。
なので、劉淵としても軽々しくは使えませんね、と理解しておりました。特に、誰かの下につけるのは難しくなってしまいましたから、活躍できなかったのでしょう。
〉姜維
テーマとして、北漢は諸葛亮、龐統または法正に姜維がいる蜀漢なのかなあ、と思います。
諸葛亮に倣う諸葛宣于は廟堂にあって戦には出ず、軍師策士然とした姜發と張賓が従軍して計略を振るう感じ。
そう考えると、この3人は蜀漢の遺臣でなくてはならなかったのかなあ、と。理想的な蜀漢はこんな感じだよね、という共通認識に訴える仕掛けのつもりだったのかも知れません。
むしろ、馬超の子孫の陰の薄さが気になりました。錦馬超、イイキャラなのに。
〉呼延模と呼延莫はここで別人と判明しましたね。
別人でしたね。
しかし、チラ見せの胡莫も含めて錯雑がありそうですので、扱い注意ですね。読み直しの際には気をつけますー。
編集済
第七十四回 石勒は司馬越の党を殺すへの応援コメント
やっとコメント再開です。三国志後伝のまとめについては、思ったより反響が大きく、この機会にもっと詰めていくことにしました。三国志後伝のwikipedia項目閲覧数もまとめの公表日はかなり上がっていましたね。少しずつ定着するように活動したいと思います。
意外とあっさりですが、石勒の見せ場の一つですね。陳舜臣氏に言わせれば、旧東海王・司馬越の持っていた王衍有する大軍と司馬氏、高官を始末することで、「晋の半分」を滅ぼしたわけです。
王衍としては、司馬熾が司馬越と対立し、苟晞を取り立てたことで、貴族勢力として司馬熾と洛陽を見捨て、おそらくは、戦線を許昌と東海・瑯邪あたりに後退して、山東の苟晞と北漢の戦いを観望しつつ、王導・王敦を使って江南の実権を奪い取り、洛陽崩壊後は適当な司馬氏を皇帝にして、許昌か建康に貴族勢力のための晋王朝を立て直すつもりだったでしょう。
しかし、これが巧みなのは、あくまで貴族政治が横行した晋王朝内としての理屈。純粋な戦争屋である石勒は、そんな戦略が成立する前に戦術で一気に叩きつぶしました。戦争経験が乏しく、前線に出ない貴族の王衍は戦場では石勒の敵でなく、かつての十六傑である劉喬とともに捕らえられたということでしょう。
王衍が石勒に持ちかけたのは、王朝に忠誠心などなく、貴族としては社稷の中で高い地位を占め、自身とその王朝の発展に貢献するものであるという感覚であると思われます。南朝貴族の意識を王衍は先取りしたものでしょう。その後悔は、相手が悪く策謀がうまくいかなかったからだけによるものではないでしょうか。王彌だったら、後の劉裕みたいに取り込めたかもしれません。
王衍は王戎や王導に比べて評価がかなり低いですが、立派な瑯邪王氏の代表だと思います。
早速、瑯邪王家の五虎に欠員が出ました。しかし、瑯邪王氏の本領はこれからです。なお、十六傑の劉喬は正確にはここで死んでいます。
(瑯邪王家の五虎)
✕ 王衍
王導
王敦
王澄
王含
(諸・瑯邪王氏)
王彬
【追伸】
>『後傳』だけでの展開では先が見えていますので、そこから
>後の時代の演義モノに興味を持って頂けるといいですね。
私の考えは違っていて、人の興味の持つ範囲は意外と狭く深いのかな、と思っています。田中芳樹氏やネットの方々が時代を関連付けずにバラバラに紹介したり、比較的、知名度が高い前漢や唐・北宋を押さず、マイナーな光武帝時代や五代時代ばかりプッシュしたことが三国志を除く中国史人気の凋落につながったかなと考えています。要は、固有名詞の定着につながらず、読者から他の中国史はただ難しいものと思われただろうということですね。
私はしつこいぐらいに三国志後伝について切り口を変えて紹介していくのがいいかと思います。日本におけるロマンある中国史人気は「漢」で始まり、「漢」で終わるというイメージですね。通俗二十一史を見ても他の出来のいい講談は、ほとんどが宋ですから、三国志後伝からどうやってつながりようがないですし。
作者からの返信
【追伸を受けて】
〉人の興味の持つ範囲は意外と狭く深い
たしかにそうかも知れませんね。日本人は特に。オタク文化なんてのはその結晶ですから。
個人的には飽きっぽくてダメなんですよねー。飽き性は飽き性でまあまあいいのかも知れません。
〉時代を関連付けずにバラバラに紹介したり、比較的、知名度が高い前漢や唐・北宋を押さず、マイナーな光武帝時代や五代時代ばかりプッシュした
おいしい、好きなところのツマミ食いですね。
陳舜臣『中国の歴史』などで素地があると殷から清までの間を肉付けできたのかも知れませんが、単品で陳慶之とか言われても、「はあ?」となるのは当然ですよね。やむを得ません。
〉三国志を除く中国史人気の凋落
これまでにあったのだろうかという疑問もありましたが、『通俗二十一史』を見る限り江戸時代まで視野を広げると、違う景色がありそうですね。
都市では売り本より貸し本が主体だったでしょうから、民衆人気が見込めないと開版できないでしょうし、あれだけ翻訳されていたのは驚きです。
今の方が訳書を手に入れにくくなっているのは皮肉なものですね。
〉三国志後伝について切り口を変えて紹介していくのがいいかと思います。
有言実行ですね(笑
〉日本におけるロマンある中国史人気は「漢」で始まり、「漢」で終わる
見識ですね。
たしかに、戦国時代末期からの漢文化は五胡の時代に失われてしまいます。河北は五胡、江南は風土が特殊ですから、黄土地帯を中心とした文化は成り立たなくなります。
日本人が思う漢文化の終焉ですね。
ただ、日本はシルクロードの果てでもあり、正倉院の宝物に憧れる身としては、唐とそこにいたるまでの時代には興味があります。
『続三国志II』も終わりが見えてきましたので、これで三国志末から西晋滅亡まで、曲がりなりにも繋げられます。その先はどう立ち向かったものかなあ。。。
『続三国志』のお手入れをしながら考えてみます。
※
こんばんは。
> 三国志後伝のまとめについては、思ったより反響が大きく
多くの方に興味を持って頂けたようで何よりでしたねー。
かなり詰めて調査されていたので、よかったです。
> 少しずつ定着するように活動したいと思います。
『後傳』だけでの展開では先が見えていますので、そこから
後の時代の演義モノに興味を持って頂けるといいですね。
まあ、三國志の続編という点が興味を惹くところですから、
なかなか難しいわけですが、何とかしたいところです。
> 石勒の見せ場の一つ
なんかアッサリだったので、ふーんって感じで訳してました。
どっちかと言うと、王衍を殺害したあたりが見所かなあ、と。
けっこう世評を気にしているあたり、英雄っぽくないですね。
実際には、輿論を味方につけることは非常に大事ですが。
> 王衍
なかなか闇が深い方ではありますが、作中では寒門出身の苟晞と
対比される位置づけなんでしょうね。
王衍が清談に耽って西晋を滅亡に導いた、というのが一般の世評
なのかな、と思います。敗戦責任者。
実際には、貴族勢力の代表者として巧みに立ち回ったものの、
そういうのは一切無視の羯族にかち合ってお亡くなりになった、
というのも一つの可能性としては十分考えられるわけですが。
本作では完全に「アホの子」として描かれておりまして、少々
気の毒な感じもしますね。。。って『晋書』の傳もなかなか
ヒドイ感じなので、唐代の一般的見解なのかもしれません。
俄にして軍を舉げて石勒の破るところとなる。
勒は「王公」と呼び、これと相見えて衍に問うに晉の故を以ってせり。衍は為に禍敗の由を陳べ、計の己に在らざるを云う。勒は甚だ之を悅び、ともに語りて日を移せり。
→ここまでは石勒とうまくやっている。
衍は自ら少しく事に豫らざるを說き、自ら免れんと欲し求め、因りて勒に尊號を稱することを勸む。勒は怒りて曰わく、
「君の名は四海を蓋い、身は重任に居り、少壯にして朝に登り、白首に至る。何ぞ世事に豫らずと言うを得んか!天下を破壞するは、正に是れ君の罪なり」と。
左右をして扶え出さしむ。
→退場。
文脈から見ると媚びすぎて殺された感があります。
> その後悔は、相手が悪く策謀がうまくいかなかったからだけによるものではないでしょうか。
ちなみに正史の末期のお言葉は次のとおりです。
衍の將に死なんとするに、顧みて言いて曰わく、「嗚呼!吾が曹は古人に如かざると雖も、向に若し浮虛を祖尚せず、勠力して以て天下を匡さば、猶お今日に至らざるべし」と。時に年五十六なり。
こうして見ると、やっぱりかなりアレな感じですね。
そこまでのしたたかさは正史には反映されていないです。
果たして王衍とはどういう人だったのかは、かなり謎ですね。
しかし、それを考えるのが歴史の楽しみですしね、ええ。
編集済
第七十三回 苟晞は東海王の罪を訴うへの応援コメント
ついに東海王・司馬越が死に、八王も全滅。八王の乱も完全終了です。
と同時に、中原一帯の西晋の勢力は消耗してしまいました。
司馬熾が司馬越と対立するのは、皇帝としての司馬熾の立場としては分かるのですが、このような外患が迫っている最中に、苟晞に司馬越を攻撃させるのは余りにも行き過ぎという感じは受けます。司馬熾にしても、八王の乱の影響と皇帝権力の確立への焦り、兄弟たちや腹心を殺した司馬越への憎しみで目が眩んだ状況であったのでしょう。
このような状況では軍事力も名門出身ですらない苟晞に急激に一本化するはずもありません。大将軍・大都督・青徐兗豫荊揚六州諸軍事にしたとしても司馬睿らが従うはずがないのです。河東さんがお話された通り、このような官職は人治的なもので、従うものがいなくては、ほとんど意味がありません。
王衍ら貴族勢力もこのことで司馬熾とは両立できないと考えたと思われます。もはや、江南に強い勢力を持つ瑯邪・王氏からも見捨てられました。長安の司馬模は司馬越の弟、建康の司馬睿も司馬越の党派。劉琨すら、劉輿が兄弟であり、司馬越の党派です。頼りは苟晞と張軌しかいません。これは、非常に洛陽が危うい状況です。
司馬氏のリストも変更です。八王がいなくなり、司馬氏の残りは四人。もう、人物を整理するためのリストの意味があまりなくなっています。
(帝室)
懐帝:司馬熾
皇太后:羊献容
皇后:梁蘭璧
執政:司馬越→司馬熾・王衍
(八王)
✕ 東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
成都王・司馬穎(死亡)
河間王・司馬顒(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
予章王・司馬熾 → 皇帝へ
東平王・司馬楙
新野王・司馬歆(死亡)
東安王・司馬繇(死亡)
范陽王・司馬虓(死亡)
東瀛公・司馬騰(死亡)
呉 王・司馬晏(死亡)
清河王・司馬覃(死亡)
【追記】
>これなら天下なんか取らずに河内温の名家として
>存続していた方がよほどマシだったんでは。。。
本当、そうでしょうな。結果としてこれだから、真・三国無双というゲームの司馬親子(司馬懿・師・昭)称賛を見ても全然共感できません。
司馬親子と司馬炎は、八王たちの問題とは切り離して評価すべきという意見がネットでは増えていますが、今のところ全く賛同できませんね。
>実は個人的に好きでして、この時期では
>上司にしたくない男性No.1間違いなしです。
>でも、通鑑を読んでいた時は応援してました。
>なんか魅力があるのです。
私も續三國志演義を読んで、十六傑では、苟晞が気に入りました。以前話していたのは、ちょっと記憶違いで、世説新語のエピソード紹介が歴史解説書にあって祖逖・劉琨だけは十六傑で知っていたのですが、意外な人物が活躍して驚きましたね。祁弘がいないと優秀かどうかも分からない王浚と違って、キャラも立っていると思います。
>降って王彌と江南を攻める姿は見てみたい。
劉淵が長生きしたらありえなくもなかったかもしれません。
劉弘が長生きしていれば、西晋は滅びなかったかもしれない。そう思わせるものがありますな。杜預より劉弘の方が、羊祜の後継者にふさわしいです。
【再追記】
>杜氏の本貫の京兆杜陵は前漢の
>韋賢、韋玄成父子に始まる韋氏の本貫地でもあり、
京兆杜陵は韋氏・杜氏は唐代伝奇好きとしては特別な思い入れがあります。唐代伝奇は特別な背景説明がなくとも、主人公は韋姓・杜姓が多く、これは韋氏・杜氏を想起させるようになっているのです。杜子春はその例ですね。崔姓は自動的に、博陵か清河の崔氏ですね。
>史実に沿った再評価は多様な視点を提供してくれますから、
>歓迎なんですけど。
積極的に朝廷が親王を排除しようとしたわけなく、異民族の支配が行われる前なのに、あんなことをやる西晋の司馬氏の行動を、司馬昭や司馬炎の所為ではなく、司馬炎死後の制度や寒族、公論や政治のあり方だけに起因するという考え方は、どうでしょうか? 八王の場合、十分過ぎるほど、彼らの意志で関与していますからね。司馬昭や司馬炎時代にそのような思想が生まれていたと考えるのが自然な気がします。
【再追記を受けて】を受けて
ありがとうございました。これ以上は長くなりすぎるので(笑)、また、次の機会にお願いします!
作者からの返信
【〆】
楽しくて長くなり過ぎました(笑)
こういう仮説に史実をぶつけて検証するのが歴史の愉しみですよね。
史書を読む歓びでもあります。
またゆるりと。
【再追記を受けて】
〉唐代伝奇は特別な背景説明がなくとも、主人公は韋姓・杜姓が多く、これは韋氏・杜氏を想起させるようになっている
『唐代伝奇』には芥川龍之介『杜子春』の元ネタがありますね。杜陵は長安に近く、伝奇作者が長安住まいだったとすると、土地勘もあって扱いやすかったでしょう。ちなみに、杜氏や韋氏は名家ですが最高峰ではなかったようです。
〉博陵か清河の崔氏ですね。
こちらは最高峰の名家。
唐代の『貞観氏族志』や『元和姓纂』あたりは北魏代の鮮卑名門と漢人名家を秩序つけようとした政策を踏襲しており、面白いなあと思います。
唐代は李氏を頂点とするピラミッドの構築が目的だったんでしょうけど。。。そういう点でも漢人と鮮卑の融合は進んでいたわけです。
〉あんなことをやる西晋の司馬氏の行動を、司馬昭や司馬炎の所為ではなく、司馬炎死後の制度や寒族、公論や政治のあり方だけに起因するという考え方は、どうでしょうか?
端的に言えば、どっちもどっちですかね(笑
少し長くなりますが思考実験をしてみますね。
司馬昭と司馬炎に帰責する場合、なぜ司馬昭や司馬炎の在世中には親王たちのそのような行動がなされなかったのか?という点が問われます。
魏から晋に変わる際に全てが変わったわけではない。必ず前代の制度に基づいて手直ししています。隋は北周ではなく北齊の法制を採用したことは有名ですね。
同様に皇帝という機関のトップが交代した際、制度が劇的に変わった可能性は低いと考えます。
祖宗の法を重視する考え方は、儒教思想にあっては一種の普遍性を持っているからです。がらっと変えると孝の観点から道徳性を問われます。また、儒教思想は基本的に変化を嫌う性格を持ちます。儒者=守旧派と言ってもよいでしょう。
そうなると、司馬炎と司馬衷の治世において、それほど劇的な制度や体制の変化はなかったと推論されます。あまり変わらない。
また、官界は曹丕の禅譲や高貴郷公の殺害を受け、かなり殺伐とした下剋上の時代であったと見られます。
思うに、清談の流行や隠遁思想の萌芽は、危険な官界から距離を取る必要があった豪族層の処世術でもあったはずです。清談や隠逸は単なる思想ではありません。一方においてはきわめて政治的行為と解されます。
そうなると、晋の官界の緊張感は魏よりもさらに高まっていたと観るのが妥当と考えます。親王たちでさえその緊張感の中にあったはず。
司馬炎がやたら寛容だった理由はこのあたりにあるのではないかと推測します。
以上が前提です。
それにも関わらず、先代には起きなかった、または目立たなかった問題が次代に噴出する。それは制度というより運用の問題であったと考えるのが合理的であると言えます。
親王が自らの意志により行動したとしても、外部要因を排除して思想のような内部要因だけでは行動原理の説明としては十分ではない、と考えます。
司馬昭や司馬炎はそんな状況にあっても、問題を顕在化させない運用に務めていた。だから、親王たちは外部要因を欠いて行動できなかった。
一方、暗愚と言い切っていいのか、嵆紹の逸話を考えると韜晦していたのかも知れない司馬衷は、むしろ清談に耽って官界の危険を避けようとしていた豪族層に近い意識の人だったかも知れない。
そうなると、原理を理解して制御していた司馬昭や司馬炎に比して、原理を理解せず現象に適応してしまった司馬衷の運用は低レベルに止まったと理解せざるを得ず、西晋初めの不幸は皇帝を含むトップ層が思想、制度をうまく運用できなかった点にあると捉えられます。
その結果、厳しい緊張感の中に置かれていた親王たちが外部要因を手に入れて暴発したとして、その責をいずれに帰するべきか。
運用できない司馬衷に継がせた点では司馬炎に問題があり、思想や制度を軟着陸させられなかった点では司馬昭と司馬炎の二人に責がある。
しかし、権限を与えられたにも関わらず、運用をこなせなかった点では司馬衷に責を帰さざるを得ない。
後は、いずれが主因であるかという評価の問題であり、明確な論証をなし得る史料の出現がない限りにおいてはいずれに帰責するのも評価の相違に過ぎず、通説として支持されるには至らない、というのが現時点での結論になるかと思います。
西晋は専門外なので、史料の裏打ちを欠いた思考実験に過ぎませんが、完全に否定するだけの材料はないんじゃないかと思います。
どんなもんでしょうか?
※
【追記を受けて】
〉真・三国無双というゲームの司馬親子(司馬懿・師・昭)称賛
まあ、ゲームは所詮ゲーム(ヘイトスピーチ?)、面白ければ自由でいいと思いますが、真に受けるのは困りものですね。ゲームDE真実か。。。司馬懿・司馬師・司馬昭と八王より、ゲームと史実を切り分けて欲しいところです。
史実に沿った再評価は多様な視点を提供してくれますから、歓迎なんですけど。
〉十六傑では、苟晞が気に入りました。
わりと優遇されてるようですね。汲桑に襲われてもうまく切り抜けましたし。しかし、終わりをよくしなかったのが残念。。。いいキャラなんですけどね。今風に言えばサイコパスっぽくて。
〉王浚
通鑑では苟晞と並ぶ存在感で、さすがでした。ただ、作中でキャラがイマイチ立たなかったのは残念でした。もう少しカッコよくしてもよかった気がします。
〉劉弘が長生きしていれば、西晋は滅びなかったかもしれない。
早い段階で荊州から召還して御史や尚書に任じたらどうなったか。荊州は洛陽から遠くないので、十分に制御下に置けた気がします。軍制にも手をつけたはずですから、八王もあそこまで放埒にはなれなかったかも知れません。勿体ない。。。やんぬるかな、ですね。
〉杜預
オマケ気味ですが、この人はホントにマシーンって感じです。人間味皆無、趣味は左伝。。。祖父の杜畿、父の杜恕もそうですが、能吏の家系です。
ちなみに、杜氏の本貫の京兆杜陵は前漢の韋賢、韋玄成父子に始まる韋氏の本貫地でもあり、南北期の韋叡、韋孝寛の出自でもあります。
多士済々でありますね。
※
こんばんは。
長々続いた八王の乱も終結!
と煽るには呆気ない終わり方でした。。。趙王司馬倫に始まる乱は、作中では呉滅亡を恨んだ瑯琊の孫秀の陰謀とされるわけですが(笑)、復讐は成就したと言えましょう。
何しろほとんど誰も残ってない。
これなら天下なんか取らずに河内温の名家として存続していた方がよほどマシだったんでは。。。
〉司馬熾
作中においては優れた君主とされていましたが、頽勢ここに至って何をかいわんや、大廈は一柱にて支える能わず。司馬越も悪手を重ねて自滅に近いです。つーか、司馬越は嫌われてますね。ヒドイ扱いです。
〉苟晞
寒門出身の能吏である彼のような人こそ、「力こそパワー」の北朝異民族王朝に最適な人材なのですが、果たして晋を捨てて漢に降ったりできるか?そんなタマじゃないと思いますけどね。いやー、降って王彌と江南を攻める姿は見てみたい。
実は個人的に好きでして、この時期では上司にしたくない男性No.1間違いなしです。でも、通鑑を読んでいた時は応援してました。なんか魅力があるのです。
〉王衍
完全に逃げ遅れた感アリアリではありますが、こちらも晋に殉じざるを得ない雰囲気、大丈夫?(棒
というか、作中では貴族層はほとんど影響がない扱いでした。強いて言うならバカ代表。扱いの軽いこと軽いこと、山簡や王澄は荊州でボロクソ言われてましたね。晋対漢の構図が崩れるからかも知れません。
前任の劉弘が凄まじかったのもありますが、ホントこの人なんなんだろう。。。武帝司馬炎のご学友、名将羊祜に後継指名スレスレに評価され、張華に引かれて幽州に出鎮し、張昌の大反乱を平定して荊州に着任、徳によって統治して称賛された。。。マンガみたいな完璧超人。ちょっと類を見ません。長生きしたらだいぶ歴史が変わっただろうになあ。
まめさんにまとめて頂いた人物リストの生存版は以下の通りです。忘れないように挙げておきます。
(何を期待している。。。)
第六十八回 陳頵は上書して王導に贈る
(瑯邪王家の五虎)
王衍
王導
王敦
王澄
王含
(諸・瑯邪王氏)
王彬
名門中の名門、瑯琊の王氏のみなさま。東晋成立に深く関与しながらも、必ずしも忠誠心が厚いとは言い難い方々です。王導と王敦さえ見ておけばよい、という節もあります。この二人は東晋初期の巨星ですからね。他は眩むというものです。
第五十一回 甘顧の諸賢は陳敏を誅す
西晋十六傑(十四路諸侯+二)
✕ 征西大元帥・陸機
✕ 荊州刺史・劉弘
西涼刺史・張軌
幽州惣官・王浚
✕ 揚州刺史・陳敏
幷州刺史・劉琨
廣州刺史・陶侃
青州刺史・苟晞
✕ 豫州刺史・劉喬
樂陵太守・邵續
滎陽太守・李矩
✕ 雍州刺史・劉沈
順陽太守・張光
✕ 武威太守・馬隆
南平太守・應詹
南中郎将・祖逖
前作の晋漢大戦に参加した十四路諸侯、元帥だった陸機と南中郎将の祖逖を加えたものです。ちなみに、よくよく見直すと瑯琊王の麾下に王導と祖約がいたりして、あっ!て感じ。
ちなみに、読み返すと『続三国志II』の登場人物はたいていおります。もっと見せ場をプリーズ!
第六十八回 陳頵は上書して王導に贈る
(元帝十六翼士)
顧榮
周玘
甘卓
賀循
卞壷
紀瞻
劉遐
戴淵
刁協
庾亮
周訪
周顗
劉隗
桓彝
郗鑒
(未登場)
こちらは建康に入った瑯琊王司馬睿に従ったみなさん。必ずしも江南豪族ではありません。桓彝と郗鑒あたりは色々と後世への影響が大きいです。
郗鑒は劉琨、祖逖と並んで男児的に燃える要素が多い気がしますね。ともに乱世向きな方々です。
卞壺もいいですね。忠烈。この人も江南豪族じゃない。
最後が気になりますが、そもそも登場が遅いっぽいので仕方ないですねー誰なんだろうなー(チラッ
第六十六回 曹嶷は際遇して青州に拠るへの応援コメント
曹嶷って意外と長生きですよね。大した大物だとは思ってなかったので意外と長く生き延びていて驚いたのを覚えてます。これからどんな感じになるか楽しみです
作者からの返信
薛万徹さま
おはようございます。
コメントありがとうございます。
〉曹嶷
前作「第十八回 張賓は盗に遭いて陳元達を訪う」で初登場、しかも虁安と一緒に『北斗の拳』のモヒカンみたいな強盗で死相が出てる感じでしたが、秘孔を突かれることもなく生き延びてます。
そんな曹嶷も青州に拠って一方の棟梁みたいになってしまいました。軍師がいないのは不安ですが、これからの活躍を期待してしまいますよね。
個人的にも楽しみにしているところであります。
第七十二回 坦延は詐り降って劉曜を破るへの応援コメント
劉淵が段々、怒りっぽくなり夷陵の劉備みたいになっていますな。石勒・張賓の件といい、北漢に早くも衰勢の翳りが窺えます。
今回の曹武も王衍たち貴族勢力の切り札っぽいですが、どこにいたのかとか、七星宝刀や倚天剣ならともかく七保刀とはなんなのかとか、相手の武器を壊すという設定がいきなりなくなっているとか、曹洪の孫がなぜ曹操の武器を持っているのかとか、ツッコミどころが多すぎてわけがわかりません(笑)。
今回の劉曜は、姜發の進言を聴いた上で敗れているので彼だけの責任ではありません。坦延の命がけの芝居にしてやられたのです。二人とも腐敗し、衰退しきった晋にそれほどの忠誠を尽くす地方官がいるとは思わなかったのでしょう。
この戦いの劉曜は内応を待って厳しく攻めなかったところは、長安攻めの桓温、偽降したものに騙されて敗北するところは、淝水の戦いの苻堅に似ています。あるいはモデルにしたのかもしれません。
ところで、近くにいるはずの滎陽太守の李矩は何をしているんだというツッコミがあるかもしれませんが、彼は史実ではただの塢主に過ぎず、東海王に一応、太守(滎陽ではない)に任じられていただけに過ぎません。小説として補完するなら、許昌方面は兵はいても司馬越を助ける将がいないので、李矩はそちらの方で石勒軍と戦っているとみなしてあげてください(笑)。
作者からの返信
こんにちは。
〉劉淵
明らかに老いからの焦りが現れていますよね。
前作の「第七十回 韓橛は金龍城を建つ」でも平陽に城を作った蛇の化身である韓橛を穴に捨てたり、先行きの暗さは暗示されていました。
いよいよそういう時期が来た、ということなんでしょう。衰退の始まりはこういう伸長期にあるのが大半でしょうし。
〉曹武
ビミョーに中途半端な感じです。七保刀は調べましたけど、なんなんでしょうね。
そもそも司馬氏に簒奪された曹操の一族を切り札にせざるを得ないのも、三国志の遺臣末裔設定によるんでしょうけど、それなら曹嶷みたく北漢に与して仇討ちさせる方が自然な気もします。
まあ、曹氏→司馬氏=どっちも蜀の敵!ってことなんでしょうけどねえ。。。
〉劉曜は、姜發の進言を聴いた上で敗れているので彼だけの責任ではありません。
たしかにそうですね。
しかし、呼延攸に重ねて諌められてようやく従った感じで、渋々感満点ではありました(笑
器としてはどうかなあ、と。
どうしても石勒と比較してしまいます。
〉坦延
ポッと出のわりに破壊力バツグンの働きでした。
おいおい!って感じではありますが、北魏末に圧倒的な爾朱氏の軍勢を敵に回し、北魏皇室のために火船の計で河橋を焼いて戦死した、李苗という朝臣がおりましてですね。。。乱世にはこういう方が一定数は現れるみたいですね。
維新期の河合継之助みたいな存在なんだろうか。。。
〉滎陽太守の李矩
彼もまた祖逖と同じハコの印象ですが、活躍は次作に入ってからなんですよね。
前作から諸侯扱いの上に洛陽近郊にいるはず、でもほとんど現れないという矛盾。北宮純とか涼州から加勢に来ましたからね。遠いって。
しかし、滎陽は汴に抜ける東西の流れ上にあって南は山がちなので、許昌の救援に行くのもツラそう。
黄河沿岸を交通して倉垣の苟晞と連携していたと見たいですが、連携していた描写もなさそうです。
実際には、有事になってから台頭した人物だから、仕方ないんでしょうね。
第七十回 杜弢は反して王敦と陶侃はこれを討つへの応援コメント
>あら、祖逖は入りませんかそうですか。
>まあちょっと違いますかね。ほぼ側にいませんし。
前回のコメントのこれは、祖逖・陶侃・劉琨はすでに「西晋十六傑」に選んでいるからです。指原がHKTとAKBを兼任しないようなものです。「西晋十六傑」の方が「元帝十六翼士」より基本的に格上ですね。
第六十九回の王澄の荊州刺史解任への王導の反対は、魂胆が見え透いている感じですな。中央の王衍の関係もあるし(笑)。周顗が司馬睿の参謀として成り上がると同時に、王導の意見に反駁していることにご注意を。
司馬睿の命令を無視して杜弢を討伐する陶侃も、十六翼士には相応しくない感じですな。
王敦は、羅尚を諫めた同名の人物と同一人物とされ、司馬熾に東海王の異心を告げたり、先見の明がありながらも聴かれず、自立心を高めていくキャラに描かれているようです。
史実では、永嘉三年(309)三月の王敦の揚州刺史赴任、四年(310)二月の建威将軍・銭璯の叛乱と王敦の逃亡、周玘による鎮圧、五年(311年)正月、杜弢の叛乱が起きる、同月の寿楊にいた揚州都督・周馥の甘卓による討伐、さらに同月の王敦の揚州刺史の再任用を経て、やっと東晋の基盤作りの端緒につくわけです。
なお、下位の都督である揚州都督・周馥が従っていないため、この頃までは上位の都督であるはずの司馬睿が江南豪族の軍事力に頼らざるを得なかったでしょう。
杜弢の叛乱は本来なら、建興三年(315年)まで鎮圧にかかるのですが、ここでは短期間で鎮圧したことになっています。史実でここまで時間がかかったことで、王敦がかえって荊州地域における軍事の掌握が可能となります。
王敦は軍事能力よりも軍における人心掌握に長けているようです。
作者からの返信
こんばんは。
〉「西晋十六傑」
そうでした。
刺史、郡太守クラスの有力者はこちらでしたね。第五十一回以来なので失念しておりました。キャラ萌えがほぼないタイプではありますが、これはヒドイ。どっちが訳者なんだか。。。
〉周顗が司馬睿の参謀として成り上がると同時に、王導の意見に反駁している
ふうむ。
王導には王導なりの打算があったわけですよね。まあ、個人ではなく一族の利害の代弁者と考えなくてはいけませんから、これはあくまで北来貴族というより瑯琊王氏と江南豪族の勢力争いであって、個人的な闘争ではないんでしょうね。
〉陶侃
佐藤さん『世説新語』を読んで、渓狗と蔑まれた陶侃は五渓蛮だといいなあ、と思っております。三国志の王平みたいな感じで。
やはり彼は彼で何らかの勢力を代表しており、個人としての行動ではなく、利害に沿って行動していたと考えたいものです。だから、晋に忠実ではないと言われると、逆に納得感があります。
〉王敦
たしかに。
あれだけ諫言を無視されたら自立したくもなりますよねー。逆に匈奴出身と思しき陳元達の方が漢人的というか、君は君たらずとも臣は臣たれ、という言葉を地でいく感じですよね。
〉周馥
「第七十五回 漢は洛陽を囲むも克くせずして退く」では亳州の守将として登場しますね。キャラ付けは晋に忠義な人として現れますから、なかなか興味深いです。
〉王敦の揚州刺史の再任用
実は苦労されていたのですね。なんとなく良家のボンかつ腕利きで、苦労人のイメージはあまりないのですが。瑯琊王氏の功徳ですかねえ。
〉都督
調べ直してみるのがいいんでしょうけど、官職の詳細にはあまり興味がないんですよねえ。。。なぜなら儒教国家は法治国家ではなく人治国家だから。
この場合、人により特例が認められ、かつ、それが特例であることが必ずしも示されないため、規定の意味が薄くなるんですよね。
先輩でテーマにされていた方がいらっしゃいましたが、おそらく藪の中だろうと仰っていた記憶があります。
そういえば、王敦さんは桓温、桓玄親子と比して軍事的に秀でた印象はないですね。人気があったというのが実際かも知れませんね。
編集済
第六十八回 陳頵は上書して王導に贈るへの応援コメント
周顗が挙げたダメな諸親王のリストから、長沙王は外れていました。やはり、英雄でないにせよ、忠誠心は認められているようですね。しかし、党派であるはずの司馬睿が、目の前で東海王を木偶呼ばわりされても、怒るどころか、むしろ励まされるとは。本当、嫌われてますな。
ここは『晋書』としてなら、重要人物ばかりですが、これは『三国志後伝』なので、一気に人名が出てきて分かりづらいところですな。初めはたくさんいた人名の一人が後から重要人物と分かるというところは、三国志演義の呉の扱いに似ています。
このエピソードは資治通鑑でいえば永嘉元年(307)から永嘉五年(311)にまたがる部分で、史実の洛陽情勢よりも先に進んでしまっているので注意が必要です。
ここで一端、東晋関係の人物の整理のリストを作ります。瑯邪王氏は別枠ですでに出てきた五人が、能力はともかく役割としては大きいので、一枠にします。集団名の元ネタは水滸伝ですが、虎は龍に次ぐとともに対抗し、同時に馬を喰う存在です。
(瑯邪王家の五虎)
王衍
王導
王敦
王澄
王含
(諸・瑯邪王氏)
王彬
さらに、後の東晋・元帝である司馬睿を助ける十六人です。名称の元ネタはアルスラーン戦記。瑯邪王氏が別枠なのは助けてないから(笑)。すでに十六傑にいる人物と第五錡・衛玠・陳頵らは重要性が低いので外して、元ネタ通り、最後の一人はかなり後から出てきます(笑)。
(元帝十六翼士)
顧榮
周玘
甘卓
賀循
卞壷
紀瞻
劉遐
戴淵
刁協
庾亮
周訪
周顗
劉隗
桓彝
郗鑒
(未登場)
作者からの返信
こんばんは。
改めて読むと訳が荒くてゲンナリ。まあもう一周するしかないんだろうなあ。。。
〉ダメな諸親王のリストから、長沙王は外れていました。
ホントですね!
やっぱり特別扱いされているんですねー。
〉東海王を木偶呼ばわり
江東に逃れざるを得なかった人士の偽らぬ感情でしょうね。別に好き好んで来たわけでもなし、執政者の評価が下がるのはやむを得ないところです。
〉一気に人名が出てきて分かりづらい
たしかに。三国志もそうですが、最初にわっと人を出して、それが散ってまた集まる、というタイプの話が多いですね。
長編では有効といえば有効な方法なのかも知れません。水滸伝でも、出会ってずいぶん経ってから仲間に加わる人もいますもんね。
〉史実の洛陽情勢よりも先に進んでしまっている
あー、そうか。河北と江南で時系列を別にしているわけですね。ここで挟まないと出番がなくなりますから適切な処理ではあります。
〉虎は龍に次ぐとともに対抗し、同時に馬を喰う存在
ヒドイ言われようですが、事実だから仕方ないですよね。瑯琊の王氏は不思議な一族ではあります。
〉アルスラーン戦記
完結おめでとうございます。
〉元ネタ通り、最後の一人はかなり後から出てきます
あら、祖逖は入りませんかそうですか。まあちょっと違いますかね。ほぼ側にいませんし。
ネタ元の最後は白髪鬼パラフーダでしたね。
誰でしょうね。。。かなりと言うことは、前編では出ないんでしょうねえ。後編はやっても来年になりますから、忘れないで下さいね(笑
編集済
第六十六回 曹嶷は際遇して青州に拠るへの応援コメント
苟晞は大勝利を生かせず、高淵ならまだしも、刁膺を捕らえるほどの勇将であり、片腕であった夏陽まで処刑してしまい、さらに青州まで失い、これまた、破滅への端緒にしてしまいました。夏国相を見逃すように進言した葉禄も無事で済んだと思えず、苟晞軍は童礼まで見捨てており、もう、山東・河北広範囲を領有することは困難でしょう。正面戦闘は苟晞軍はさほど強くないのは元々ですし。
これはあくまで小説として分かりやすく夏陽・高淵に集約しているだけで、「屠伯」と呼ばれた苟晞は初め、晋書における従母の息子の処刑に見られるように法家的にできるだけ公正には行おうとしていたのでしょうが、次第に大雑把になっていき、かつ、暴走していき、似たようなことは多々あったでしょう。これが、法家思想の最大の欠点ですね。
曹嶷についても、思わぬおこぼれに預かり、いよいよ史実通りに山東に自立していく基礎ができましたな。現代人としては、晋に滅ぼされた魏が形を変えて復活するのはうれしいのですが、当時の人たちはどう思ったのかは分かりませんな。
先のコメントで河東さんが遊侠についてコメントをお書きになっていましたが、木村正雄先生の書籍でも、陳勝・赤眉や黄巾などの民衆叛乱(あくまで昔の史学の概念ですが)が大規模になった理由として、広範囲での情報を持っていた遊侠や商人の協力があったからではないかと分析されていたと記憶しています。曹嶷もそうだったかもですね。
遊侠は私も大好きで、水滸伝をきっかけとして、大室幹雄先生や相田洋先生の書籍を読んだり、汪湧豪「中国遊侠史」など日本語文献を読んで、同人誌は実は盛唐(をモデルにした中国)の遊侠・商人を主人公にしたものだったので、遊侠の活躍と聞くと嬉しくなりますね。
ネットの歴史議論でも、豪族関係は注目は集め始めていますが、思想史や遊侠にも注目を集めて欲しいものです。
【追伸】
法家は表面上はなくなっているように見えますが、酷吏たちはそれを信望し、前漢の宣帝が「漢は王道(儒教)・覇道(法家)を雑えて治める」として光武帝や明帝に引き継がれていますから。段々、儒教に吸収されながらも生き残り、後漢末の曹操は法家思想が強いことで知られます。乱世では覇道として法家が重宝されますから、法家が盛り返してきて、儒教の信用が薄れて、玄学や文学がもてはやされたのでしょう。
西晋で勢いを増してきた玄学も、実は儒教と対立するものでなく、経典を老荘思想で解釈するというものでしたから、道徳の根幹は同じでした。苟晞は元々さほど高くない身分の役人でしたし、司馬睿や庾亮が後々に国家権力を強くするため、法家思想を重視しますから。道徳的な問題で、あまり前面に出すことが躊躇われただけでしょう。
間違いなく実務レベルでは法家思想は脈々と受け継がれたでしょうね。
王敦は青州刺史だったのは間違いないですが、資治通鑑によると永嘉三年(309年)には繆播が司馬越に殺された後あたりに、司馬越の運動で揚州刺史に任命されていますから、この頃には揚州刺史ですね。陳敏の後任ということにしておけば、全く問題はなかったのに、ここは酉陽野史の順番入れ替えがうまくいかなかったところですね。
王敦が揚州刺史となり、さらにそれが安定してから、司馬睿の都督に実が伴うのでしょう。江州刺史・華軼の例が示す通り、下位の都督・刺史・太守が従わないと、都督の職位があっても役に立ちません。華軼が討伐されるのは311年です。
遊侠思想については仕方ないのでしょうね。昔、「やる夫光武帝」を読んだ時に「遊侠=ドキュン」とされていて、分かりやすくするためのネタであることを理解しつつも不快でそれ以上読むのは止めたことがあります(笑)
作者からの返信
【追記を受けて】
〉法家思想
そういえば、以前に思想史を攻めてはりましたな。
さすがの解説でした。勉強になります。
やはり、技術的な思想は常に現場では必要になりますよね。そう考えると、墨子教団の消滅は実に謎ですね。あれだけ技術に特化した集団もなかったのに。改めて興味が湧きます。
〉王敦
やっぱりなあ。通鑑あたりをまるっと流用したりしてそうだもんなあ。。。後で訂正しないといけませんね。
〉「遊侠=ドキュン」
(笑)
史記の季布伝なんかを読んでドキュン呼ばわりはできませんけどねー。劉邦を敵に回してビビらない大立者ですよ。もちろん、狭いエリアではチンピラっぽいのも多数だったんでしょうけど。
北族の方々はたいていが遊侠的な側面があったように思います。これは北魏末の六鎮の乱を地理的に分析した結果なのですが、明らかに情報の伝播が乱の拡大を引き起こした節があり、河套地方の破落韓、万俟、朔州西部の高車諸部、果ては陝西にある高車や羌族の莫折まで情報の流路があったクサイです。
室町時代の馬借みたいな情報網が張り巡らされていたんでしょうね。
当然、彼らは遠隔地との連絡があり、生業を軸にした交渉を持って遊侠と同じような機能を果たしていたはずです。
うーん、面白いですね。
※
こんばんは。
王浚につづいて苟晞にもケチがついてしまいました。現状、河北の軍閥はこの二人が自立を志向しながらも晋朝の臣下に甘んじており、頼みの綱になっているんですけどね。。。
〉法家思想の最大の欠点
残念ながら、家族主義的な儒教秩序と法家は相性がよくないことは、戦国時代からのお約束ですね。
しかし、苟晞が法家を信奉していたのであれば、それはそれで不思議な話ではあります。晋初の主流は老荘や名家に寄りがちでしたから、法家の学統がどこかで続いていたわけですよね。
そういえば、南北朝の史書を通読すると、酷吏は寒門出身が多いように思います。印象ですけど。
これは、上級官吏の貴族化とともに実務が寒門出身者に丸投げされたこと、および、実務者にあっては法家思想による処理が変わらず必要だったことを示すように思います。
そうなると、貴族が老荘の談に夢中になっているのを横目に、実務は漢代からの法家思想により執行されていた、という漢代以来の二元的な思想運用だったのかも知れませんね。
下部構造の変化は常に緩やかでしょうし。
〉曹嶷
棚ぼたの一語につきますが、苟晞の失策ですね。
この後の青州はいささか疑問があり、苟晞が青州刺史から転任した記述はないのですが、「第六十九回 杜弢は荊湘の二州に拠る」からは王敦が青州刺史となっています。
作中ではこの機に苟晞は青州刺史から転任したと解すればいいのですが、じゃあ王敦は現地に赴任しない遥任だったのかというと、軍勢を率いているからそうでもなさそう、となかなか悩ましい。
曹嶷が廣固にあって臨淄に王敦が赴任した日には、一触即発間違いなしでしょうし。それはそれで激しい罵り合いになって面白そうですけど。
そもそも青州刺史が長沙まで出兵するか?という問題もあり、こういう小さい矛盾が小骨みたいに引っかかるんですよねえ。。。原書がちょいちょい前後関係をイジってるみたいなので仕方ないんですけども。
〉思想史や遊侠にも注目を集めて欲しいものです。
面白いのですが、同時に難しいんですよね。
前者はどこまで現実の意思決定に影響したかが分かりにくいですし、後者は史料に残りません。
着実に実績を積み重ねたい研究者や予備軍には手を出しにくい分野だと思います。
思想史はジャンルが確立されているからまだしもですが、遊侠はむしろ文学を題材にした文化史的なアプローチが目立ちますね。
塩賊や馬賊のような賊徒、秘密結社、それに行や幇のような互助組織は漢文化の特徴の一つですから、おそらく古代まで遡れるものではないかと思うのですが、残念ながら士大夫層から外れるために史料には現れません。
ただ、義兄弟の契りや行も幇も人の流動を前提とする社会経済の中でこそ必要なものであると考えると、いずれも北族の文化が漢文化に取り入れられる過程、五胡から南北朝期が端緒なんじゃないかなあ、と期待しています。
日本の室町期に馬借や土倉が発達したように、地下の発展がこの時代にあったのではないか、そう考えると、カオスと言われる五胡や南北朝の時代も単なる乱世でした、では終わらない歴史的な意味があるんじゃないかな、と。
希望的観測ではありますが。
編集済
第六十四回 苟晞は漢を拒んで汲桑を殺すへの応援コメント
通俗續三國志二十四回での伏線、『壬申の年、苟道将は避けるべし』がついに実現し、すっかりそのことを忘れていた汲桑も死にました。火計に遭った時に思い出すシーンがあればなお良かったですね。呂兄弟については、フェードアウトよりは見せ場に恵まれたと考えるべきでしょうか。
曹嶷は元々は軍勢を率いるほどの高い地位の武将ではなかったのですが、劉淵のお気に入りらしく、方面司令を任されるほどになってきました。大会戦の劉曜の補佐としての活躍や統率力や人望が認められたとも考えられますが、不審な動きのある石勒・張賓への牽制ともとれますね。
これで漢軍にいた抜群の剛勇の持ち主は、齊萬年・王彌・劉霊・関防・楊興寶・劉曜・石勒・汲桑のうち、四名がいなくなり、関防も高齢のためか以前ほどの強さはなく、王彌・劉曜・石勒の三名になりました。時間の経緯を感じます。
三国志後伝でゲーム武力をつければ、私の評価はこの通りです。この後で90代前半の人物は追加されますけど。100と99はどちらにするか迷いましたが、これはあくまで後伝なので。漢軍でこの次ぎに強いのは姜飛か張敬なのかなと思います。汲桑と楊興寶の歩将はクリティカル率が高いですが、防御も低く、飛び道具や計略に弱い特殊ユニットです。
武力
100 齊萬年
99 周處
98 劉霊
97 劉曜・祁弘
96 王彌・張方
95 石勒
94 汲桑・楊興寶
93 関防・北宮純
92 許戌
91 夏侯駿・姫澹
【追伸】
>史実では東萊の人とされ、青州で自立していましたから、
曹嶷は、王彌と同郡出身でしたな。劉伯根も同じで、決起した惤県近くの豪族か遊侠出身っぽいですね。山東も自立しやすい土地ではあるようですな。四川や江南に比べて守りにくいのが難ですが。
>周處が意外と強くてビックリでした。
周處は「晋書」や「世説新語」にあった「周處除三害」の故事が流通して、現在では京劇にもなっており、おそらくはこの時からすでに名は知られていて、敵でありながら、ゲスト出演に近い感じで、齊萬年とも互角に戦っています。初めからライバル設定している(あの周處と互角! 齊萬年って強い!と思わせる)ものと判断します。
こういった講談において、他の作品の強い人物が出てくる時は別格の扱いを受けるのは、「水滸伝」の十節度使、岳飛小説関係のゲストキャラとしての関勝・呼延灼などの例があります。
作者からの返信
【追記を受けて】
〉曹嶷は、王彌と同郡出身
そうですね。
山東半島は内陸部とは気候が違い、多湿な地域だそうで、内陸部の文化的とはやや断絶があるようです。蜀や陝西と同じく、山東も地域的には自立志向があったのかも知れませんね。齊人ですし。
〉豪族か遊侠出身
豪族は土地兼併の結果としてどこでも発生しますが、遊侠は交易に伴って発生するように思います。江戸時代の任侠もそうなんですよね。
だから、遊侠は物産を他地域に搬出する産地や流通の要衝、関や津に多かったはずです。
地縁で固められた農業中心の経済圏は豪族を中心とした秩序があるから遊侠の活躍の場は少なく、別の秩序が交わる交易や地域を跨る流通の場で遊侠は必要とされたはずなんですね。
そう考えると、遊侠や任侠は異なる秩序間の仲介サービス業兼同業者団体みたいな感じになります。曹参には「獄と市を厳しく取り締まると逆に治安が悪くなるから寛容を旨とせよ」と言った記事が史記か漢書にあったはずですが、これは齊国の宰相から中央に転任する際の発言なんですよね。
つまり、前漢初期というより戦国時代から山東では活発な遊侠の活動があった、と推測してもよいのかな、と思います。
その社会的階層が王彌や曹嶷の活躍を支えたのかも知れませんね。胸熱。
〉周處
なるほど。
客演みたいな扱いだったわけですね。たしかに、有名な講談や演劇から客演してもらえば、登場人物のスゴさを伝えやすいですよね。
ゴジラ対モスラ、、、失礼しました。
ご承知の通り、周處は単なる武人ではなく、『風土記』という江南の地理風俗に関する著作を物しており、『博物志』を著した張華と同じく学者肌の一面もあります。
残念ながら散逸して逸文が残るだけですが、現存していれば『荊楚歳時記』と並んで文化習俗を今に伝えてくれていたはずで、文化史に興味がある人間としては大変に惜しい。。。
文武両道のスゴイ人だったわけで、さらに逸話も面白いから、人気が出るハズですよね。
※
こんばんは。
〉壬申
永嘉6年、西暦312年ですか。司馬衷の死から6年が過ぎていますが、司馬越の死と洛陽の失陥は前年の311年ですから、時系列をいじっていますね。
ちなみに、312年は桓温が生まれた年でもあります。
〉曹嶷
史実では東萊の人とされ、青州で自立していましたから、配慮されたようですね。本作ではわりといい役回りを与えられています。
〉時間の経緯を感じます。
263年の蜀漢滅亡から半世紀ほど過ぎていますからね。仕方ないところです。みんな60から70代ですよ。
〉ゲーム武力
ふうむ。齊萬年が最強ですか。
作中ではそんな感じですよね。
周處が意外と強くてビックリでした。
そうかー。陶侃のが強そうですが、イメージは人によりだいぶ違いますね。
編集済
第六十一回 漢軍は計にて王浚を破りて退くへの応援コメント
ついに、劉霊と祁弘という晋漢第一の猛将がいなくなりましたね。晋書ではほとんど存在がなく、資治通鑑ではエピソードだけは許褚以上という劉霊でしたが、初期から最期まで大活躍でした。元々は冷静な性格でしたが、このシーンのために途中でキャラ変更したと見なしていいでしょうね。祁弘も、王浚の最期を予感させる死できちんとした役割が振られたものと思います。
私としては、関東全土を舞台にした晋漢大決戦とは、この王浚・苟晞との戦いも含めてますね。洛陽が失陥した後のこの二人の命運を考えると、「唇滅べば歯寒し」とか、「へぼ将棋王より飛車をかわいがり」、などと言う言葉を思い出します。洛陽に皇帝を擁してこそ、彼らは軍閥としての力を発揮できたのでしょう。
袁紹や劉備、孫権はやはり偉大で、劉琨にしても相当の人望があったと思いますよ。
追伸
>前作は全訳後に読み直しながらアップしていましたが、
>今回は同時並行ということで、読んで頂くタイミングと
>翻訳進行にズレあり&余裕なしなんで変なコメントになりました。
>大変失礼しました。
いえいえ、単純に「なぜ、認識がずれたのだろう?」と思っていました。そういう事情だったのですね。もう、かなりの期間の仲ですから、そういったことでお謝りにならなくてもいいですよ。気楽にお願いしたいです。
>残るは漢主となった劉淵だけになりました。意味深。
楊龍もだったですね。楊龍を失った劉淵の怒りはそのためでしたか。劉和もいなくなり、廖全もおそらくは引退状態。怒りっぽくなった劉淵にも敗戦前の演義の劉備のような老衰の影が見え隠れしています。
>江東を支配した孫策は大したものですよね。
孫策は世間に流通した渡邉義浩先生の学説では、低く評価されることがあるので念のため外しました。例えそうだとしてもおっしゃる通り、大したもので、やはり偉大だなと改めて思えます。
祖逖と劉琨は、まさに不屈の人で、曹操・劉備・諸葛亮などの英雄たちに匹敵する精神と力量を持っていたのでしょう。乱世では、平時でも戦時でも渡り歩ける王浚や苟晞のような冷徹な官僚型が通用しなくなり、彼らのようなどこか欠けたところのある英雄型が光りますね。
作者からの返信
【追記を受けて】
>気楽にお願いしたいです。
ボケっぷりが想像を絶するのでご説明はした方がいいな、と(笑
>楊龍
地味ですがよくよく見ると最初の同志の一人なんですよね。
実は劉淵にとっては大事な人物だったやも知れません。
> 孫策は世間に流通した渡邉義浩先生の学説では、低く評価されることがある
そうなのですね。「江東の小覇王」ですのに。
しかし、歴史上の人物評価が学説になり得るのか。。。
そういう風には歴史に接してこなかったので、変な感じです。
>英雄型
祖逖と劉琨はまさにそういう感じですよね。波乱万丈。
『通鑑』を斜め読みするだけでも「おっ」となります。
この二人を描いた小説がないのが不思議なくらいですね。
ネタとしては面白いんだけどなあ。誰か書かないかなあ(チラッ
※
こんばんは。
あー、そうでした。「二十一章 晋漢争覇:天水訟」の話でした。すみません。
このあたりは晋と漢が河北全域に戦を広げており、おっしゃる通りの全面戦争突入ですね。
前作は全訳後に読み直しながらアップしていましたが、今回は同時並行ということで、読んで頂くタイミングと翻訳進行にズレあり&余裕なしなんで変なコメントになりました。大変失礼しました。
〉劉霊
相討ちですが、死に様は齊萬年に限りなく近い感じでしたね。劉霊の方が軍勢の進退に秀でているという評価だったのですが、武勇を恃んでしまった感じです。
前作の「第五回 蜀雄は乱を避け興業を計る」で劉璩=劉淵に脱出を勧めたのが、劉霊、兄の劉伯根、楊龍、齊萬年だったのですが、これで全員討ち死にということになります。
最古の四人もいなくなってしまい、残るは漢主となった劉淵だけになりました。意味深。
〉軍閥
彼らは自立を志向したものの、王浚は太原、苟晞は河内が本貫ですから土着の豪族ではありません。あくまで晋王朝に任命された地方官であり、背景には皇帝権があったわけです。
だから、洛陽の弱体化とともに彼らの寄る辺は個人的な器量にならざるを得なかったはずです。そして、それが軍閥的な自立を支えるには及ばなかった、ということなのでしょう。
そう考えると、汝南が本貫でも冀州を押さえた袁紹や、呉郡が本貫ながら零落した身の上から江東を支配した孫策は大したものですよね。
孫権は受け継いだ人なので評価軸が違う気もしますから、同じハコには入らないかも知れません。
〉劉琨
興味深い人です。鉄の意志というか、祖逖の友人だけのことはありますよね。フツーあそこまで抵抗を続けるものなのかなあ。。。二人ともあまり善い終わりを迎えられなかったことは残念です。
第五十八回 晋兵は再び漢の両軍を破るへの応援コメント
漢軍が初の大敗、しかも二連敗を喫しました。今までは、郝元度たちが戦死した戦いを除けば、不利な状況による圧倒的多数な攻撃でも兵力ではそれ以上の出血を強いていたのですが、ほぼ同数の兵力差で参謀の存在もありながら、一方的に破られました。酉陽野史としては、八王の軍の中では長沙王配下を晋の忠臣であり、戦力としても別格として扱っているようです。
張騏と張驥は、今までの「勇猛な魏将の子孫を孤城に置かずに、大軍の先鋒にすれば張方や石超の代わりになるんじゃないの?」という読者の疑問にやっと答えてくれた形ですな(笑)。
この二人と賈胤は今までどこにいたのか、という疑問もあったのですが、「王衍たち貴族勢力は基本的に内乱を静観していた」という学説のおかげで、期せずして謎がとけました(笑)。王衍は、内乱は静観するが外患は立ち向かうという方針により、西晋の国体のために切り札を切ったのでしょう。
また、大会戦の時も涼州の軍だけは全く打撃をうけておらず、ついに、ここでその精強さを示した形ですね。蜀漢子孫上将集団の楊龍をいきなり一騎打ちで戦傷死させ、呼延晏を落馬させ、関防と互角とは、北宮純は晋将第三位の武勇ですが、祁弘・張方よりインパクトありますね。あまり討ち取られることのない北漢の将を討ち取った令孤亜と田迥もかなり強そうです。
張軌、王浚、苟晞、劉琨と強敵はまだ残っていますし、良主の資質と呼ばれた懐帝を擁することで西晋が最後の底力を出してきたようですね。再度の晋漢大決戦、しかも今回はメンバー-こそ地味ですが、お祭りではなく関東全域を舞台とした本番です。
作者からの返信
こんばんは。
劉曜はなんか負けてばっかりの人、というイメージがつくくらい負けます。これは、酉陽野史が石勒との最終決戦を意識していたんじゃないかと、邪推しています。
〉参謀の存在もありながら、一方的に破られました。
これも、諸葛宣于の諫言を退けての負けですね。より鼻っ柱が強そうな張賓とは合わないでしょうから、器が小さい猛将というイメージを意図して作り上げたのかな、と。
〉長沙王配下を晋の忠臣であり、戦力としても別格として扱っている
必ずしも善人ではないが、忠義の人として描きたかったんでしょうか。上官己なんかはかなり優遇されていますね。まあ、登場人物全部悪人では講談は成り立ちませんから、当然ですかね。
〉王衍は、内乱は静観するが外患は立ち向かうという方針により、西晋の国体のために切り札を切ったのでしょう。
死に様を知っている身としては、えー?って感じになってしまいますが、それはまだ先の話。かつ、石勒が見た西晋貴族だから、割り引くべきかも知れません。
そもそもそんな分別があるならだなあ(以下略
〉北宮純
武器は大斧という時点で猛将確定ですよね。
そういえば、ああだこうださんの『最期の秋』は北宮純でしたね。楽しみにしているんですけど、再開しないのかなあ。。。
〉再度の晋漢大決戦、しかも今回はメンバー-こそ地味ですが、お祭りではなく関東全域を舞台とした本番です。
私のイメージはいよいよ漢軍が河南に攻め入ったという感じで、関東全域に展開しているかというと、わりと限定的に見ています。
幽州と冀州に拠る王浚はすでに晋を見限り、鄴にあって兗州を押さえる苟晞も同様、河北はすでに失われたという理解です。関西の司馬模も我関せずって感じですし、荊州は江南の乱れに巻き込まれてそれどころじゃない。
そのため、山西から攻め下る軍勢はやすやすと洛陽に到り、晋の中枢は不安定になる。。。いわば、両手を封じられて顔を突き出している状態、後は殴られるのを待つばかり。
晋としては非常に厳しい戦になりそうですね。
第四十九回 錢廣は反して陳昶を斬殺すへの応援コメント
「三国志後伝」を読み返してみたら、七十一回「顧秘起兵平石冰」という丸々、續後三國志演義で省かれた部分を読み飛ばしていることに気付きましたので紹介します。
場所としては、「通俗續後三國志Ⅱ」第九回と第十回の間です。
ここでは張昌と石氷の乱を平定した劉弘・陶侃・皮初・陳敏たちの活躍が描かれていますね。注釈だけではなかったのですな。
まず、劉弘が大会戦の後、荊州に戻り、皮初・張興を従え、張昌・石冰と戦い、勝利します。敗走した張昌・石冰は新野王・司馬歆を討ち取ります。劉弘は、石冰と戦い、皮初はその将・牛升を討ち取りますが、費深は張昌と戦い戦死し、張興は負傷します。陶侃が広州から朱伺とともに援軍に来て、賊を招安し、その徳により、張昌・王坤は味方に殺されます。劉弘は荊州刺史を陶侃に譲ろうとしますが、広州で童鐵が叛乱を起こしたため引き返します。童鐵は逃げ、陶侃は交州刺史を兼ねます。劉弘は荊州でその徳を慕われます。
石冰はその将、夏文・夏正とともに叛乱を続け、周玘(きちんと周處の子という説明がありました(汗))は、呉興太守・顧秘を盟主に賀循・華譚・葛洪(!)・甘卓と討伐の兵をあげます。さらに、周玘は夏文を攻撃し、賊将・黄仁を討ち取ります。夏文は廣陵に逃れます。
石冰の別軍、夏正・汪可東は壽陽、豫章は攻撃し続け、(後伝では)揚州刺史である陳敏は夏文華・夏文盛を派遣して、夏正・汪可東を撃破します。また、陳敏は壽陽太守・劉準と合流し、夏正・汪可東を破り、さらに追撃して汪可東を捕らえます。陳敏は、周玘・顧秘・賀循・華譚・葛洪・夏文盛、夏文華・錢廣らと石冰・夏文と戦い、廣陵に押し込めます。
陳敏は建康に転戦し、夏文盛の進言を聞き、夏正を降伏させます。葛洪もまた、瓜步にいた賊将・苗秀を討ち取りました。廣陵にいた夏文は兄の夏正の手紙により内応を行い、石冰を殺します。
しかし、これを聞いた洛陽で政務をとっていた長沙王・司馬乂は、多事多難なことから彼らを全く賞しませんでした。
この内容は、本筋とは離れますが、三国志後伝では「司馬乂を善玉としているが、先の大会戦での失策とあわせて、完全な人物としていない。やはり八王の一人に過ぎないこと」、「陶侃が人徳により、劉弘に比べても別格の将とされていること」「夏正・夏文の功績は裏切りによるものであり、陳敏の責任があまりないところで恨まれていたこと」、「陳敏もこの時点では注釈とあわせて優れた戦略眼・統率力の持ち主と描かれており、名将とされていること」、「陳敏配下では夏文華と夏文盛、特に後者が名将であること」があげられます。
正直、陳敏がこの時に賞をもらえず、その不満と面子を潰されたことで叛乱を起こしたのなら理解できます。江南豪族との距離感は、少なくとも初期はもう少し史実よりでもよかったのではないかなと思いました。
作者からの返信
こんばんは。
七十一回「顧秘起兵平石冰」ガッツリ抜けてますね。翻訳の際には「通俗の訳だから省く、以上」で見て見ぬフリをしてました。
〉費深は張昌と戦い戦死し、張興は負傷します。
羅尚の下で生き延びた費深と張興にはそんな結末が待っているのですね。劉弘の好意により荊州に迎えられた二人ですが、うまく行かないものです。
〉周玘(きちんと周處の子という説明がありました(汗))
その部分だけは翻訳に移植してもいいかも知れませんね。前作で周處にはお世話になりましたし。
この部分を欠くことで陳敏の乱の描写は分かりにくくなっているようですね。『前編』を訳し終えてから、扱いを考えたいと思います。
ご教示ありがとうございました。
編集済
第二十三回 石勒は計にて枋頭を取るへの応援コメント
ここの石勒と張賓が後のターニングポイントと聞いて、こちらを熟読することにしました。この段階では王彌を指揮しているような描写はあれども、石勒は先鋒に過ぎなかったので、劉曜との北漢における功争いに勝ち、生き残るための戦略程度と思っていたので、それほどまで重要とは思っていなかったのですが、後の後趙の自立に至る重要な発言だったのですね。
かなりの説明不足を補って、想像をたくましくすると、
①張賓は、大会戦の最後に自分たちの命令を聞かなかった王彌・劉霊・劉曜に物足りなさを感じ、特に劉淵の宗族でありながら、手柄争いを行う嫉妬深い劉曜を忌避している。
②その反面、それに加わらなかった石勒に強い将来性を感じ、肩入れしている。元々、石勒自体はぐれたとはいえ、逃亡の時は同じグループであり、親近感がある。さらに、生き残り、新たな将や軍をつれて戻ってきたことに感嘆し、惚れ込んでいる。
③張賓は元々から、ドライなところがあり、漢の復興について多少醒めたところがある。石勒>劉聡と見ている時点で乗り換えることに余り躊躇しない。ましてや、進言を聞かない可能性が高い劉曜と組みたくない。
④そのため、大会戦の時は石勒の参謀だった姜発からその軍師の地位を譲り受けるように工作し、ここだけは変更させている。
⑤それで、この北路の軍も王彌の立場を弱くして、(王彌には「飛豹」、石勒は「将軍」と呼ぶ)、張兄弟・趙兄弟・汲桑・十四悍も同調したため、王彌は主帥を譲らざるを得なくなった。そのため、内心ではこれを不服として同調した楊龍を連れ、分離して活動することにした。
⑥王彌と分離した石勒・張賓はなおさら、自立のための活動をすることにした。張賓と長い付き合いである劉淵・諸葛宣于は多少の不審を感じながらも、信じがたいこともあって刺激しないように様子を見ている。
この後の流れも含めて、このような感じでしょうか。ちょっと、ここは作者としては余り詳細に書きたくないところであるでしょうね。張飛・趙雲を称揚するどころか、貶めかねない部分ですから。
追伸
詳細な解説ありがとうございました。酉陽野史のただのミスとした方が後々の内容とつながるので、そちらの方がよさそうですね。劉霊と王彌は主帥には心許なく、新入りとはいえ、あれほどの勝利をあげた劉曜・石勒の統率力には及ばないでしょう。なんといっても両人には腹心がいて、劉淵・張賓に目をかけられています。
>王彌が分離する過程がまったく不明
三国志後伝でも全く同じく不明でしたね。
張賓が「都督但且慢起,遣使先催王彌將所部三萬人馬去會劉永明,只說我等隨後就發,待其試進,我看緩急而行,豈不兩美乎?」と話しているところから、独断専行しても許可を得て分離したにしても、完全な信頼関係はないですね。その後、王彌が石勒に相談しようとしたり、命令を疑うことなく軍を進めていることを見ると、後者っぽいです。
人格と軍略はともかく、酉陽野史は、「王彌は粗暴だが、忠臣」、「石勒と張賓は才覚優れるが忠誠心は低い」とキャラつけしているのだと思われます。
>後段のことを考えるとけっこう悲しいすれ違いです。。。
そうですね。劉曜は、史実で見ても「本心では自負と主将・宗族(あるいは皇帝)の権威のために諫言に従いたくないのだが、自分が間違っていると認めた時にはできるだけ心を曲げて従うようにしている」のがありありと分かるので、親近感が湧きます。利益のためなら、比較的簡単に従える石勒の方が遠い存在ですね。
作者からの返信
【追伸を受けて】
〉酉陽野史のただのミスとした方が後々の内容とつながるので、そちらの方がよさそうですね。
そうですよね。
いずれは▼付きで改めてしまおうかと考えています。今のままでは読む人は石勒と王彌の関係を見て?ってなりそうで、よくないなあ、と。
〉三国志後伝でも全く同じく不明でしたね。
ご教示ありがとうございます。
やはり後伝も不明ですか。。。
まあ、枝葉ではありますから、
仕方ないですね。
〉「王彌は粗暴だが、忠臣」、「石勒と張賓は才覚優れるが忠誠心は低い」
本作に入ってから顕著になってきました。前作の蜀漢遺臣が一丸となった際の盛り上がりは望めませんが、それぞれの人物が自律的に動き出したとも言えるかもしれません。
ただ、振り返れば自律の起点が大戦最後の四将の独断専行にあるのは確かで、あのあたりも書き込み不足の感は拭えないですね。
〉劉曜は、史実で見ても「本心では自負と主将・宗族(あるいは皇帝)の権威のために諫言に従いたくないのだが、自分が間違っていると認めた時にはできるだけ心を曲げて従うようにしている」
劉曜には「普通の人」の面があるわけですね。
石勒は劉邦を敬愛して諫言に流れるように従う、完璧超人みたいな印象があります。石勒には全幅の信頼を寄せられる張賓がいたというのも大きそうですね。。。
※
こんばんは。
詳細なご検討ありがとうございます。
ほぼ同じような脳内設定ですが、少々違うところもありますのでちょっとまとめてみますね。
といっても、「これが正しい」ではなく、「こう考える方がスキ」に過ぎませんけど。。。
①②は完全に同意、③もほぼ完全に同意ですが、「第七十五回 漢は洛陽を囲むも克くせずして退く」(6/12公開予定)には劉曜が張賓の智謀を評価して撤退を聞き入れる描写がありますので、劉曜としては張賓には従ってもいい気持ちがあったようです。
ただ、劉曜は「第五十八回 晋兵は再び漢の両軍を破る」で姜發の進言を聞かなかった描写があり、
姜發が進み出て言う。
「将となって外征に出れば君命も受けぬ場合があります。時勢を観て判断せねばならぬためです。この戦場に執着してはなりません」
劉曜はそれを聞くと気分を害して抗弁した。
「晋兵など恐れるに足りぬ」
自我が強くて流れるように諫言に従うタイプではなかったことは確かです。だから、劉曜としては張賓になら従ってよい気持ちがあったものの、張賓としてはNoThankYouって感じだったと考えています。
ほぼ同じ見解なのですが、後段のことを考えるとけっこう悲しいすれ違いです。。。
④は「第五十六回 王彌と劉曜は許昌を攻む」で陳元達がくじ引きをさせていますので、陳元達が張賓の願いを容れてクジに細工する可能性は否定できないですね。
⑤は実は酉陽野史のミスじゃないかなあ、という疑いがありまして。
「第二十二回 王彌と劉霊は壷関を取る」を見る限り、最初は「主帥:劉聰、先鋒:劉霊&王彌」で始まっています。
つまり、当初予定では劉聰の本軍に劉霊と王彌が両路先鋒という構成なんですよね。他の人はみんな本軍に属するはず。
で、そこに劉曜がちょっと待ったコールで先鋒に名乗り出て石勒とケンカになり、陳元達が割って入り、軍勢を二路に分けることを提案しています。そのため、先の劉聰が本軍を率いるという当初想定が推測されるわけですね。
ただし、この時も以下のように言っています。
出兵するにしても二路によって軍勢を進め、晋の全軍をもって吾が軍を阻めぬようにすべきかと愚考いたします。
その上で王彌、劉霊の二先鋒に一万の軍勢を与えて不意を襲い、要衝の壷関を奪い取り、その後に大軍を続いて進めれば防ぎきれますまい。
今や全将兵が此処に揃っております。
南北二路を正副の将帥に分かち、劉曜と石勒、張賓と姜發、王彌と劉霊を三組としてそれぞれに籤を引かせ、南北それぞれの主帥、謀士、先鋒とすれば路を争うことはありません。
最後の発言の語順に注意が必要で、
「劉曜と石勒、張賓と姜發、王彌と劉霊」
「主帥、謀士、先鋒」
つまり陳元達は二路の構成を次のように考えていたと思うのです。
主帥:劉曜or石勒
謀士:張賓or姜發
先鋒:王彌or劉霊
そうなると、陳元達が引かせたクジもそのようになっているはずで、石勒と劉曜は主帥だったはずなんですよね。
で、陳元達はこの軍勢の構成を以下のように述べています。
南北両軍は総帥となる太子(劉聰)と国師(諸葛宣于)の節制を受けることとし、違背は一切認めてはなりません
つまり、
主帥:劉聰
先鋒:劉霊&王彌
という当初の想定から、
全軍の総帥:劉聰
全軍の謀主:諸葛宣于
南北軍の主帥:劉曜/石勒
南北軍の謀士:姜發/張賓
南北軍の先鋒:劉霊/王彌
という感じに変わってしまっていると解釈します。
こう考えると、劉聰が同行する劉曜の軍勢では主帥の劉曜は本軍にあって思うように指揮を取れないために先鋒の劉霊が主帥の代役を果たし、劉聰と分かれて動く石勒の軍勢では、石勒が主帥として機能したので王彌は先鋒の任に専念していた、と後段のそれぞれの動きにも沿うように思うのですね。
以上の推測から、劉曜と石勒が主帥、劉霊と王彌が先鋒という設定を酉陽野史が入れ替えて記述してしまったのではないか、と疑っております。
⑥も異論なしなのですが、王彌が分離する過程がまったく不明なんですよね。通俗で省略されているだけかも知れませんが、「第二十九回 段末杯を釈いて遼西に帰す」
までは王彌が石勒と行動を共にしていたことは明らかですが、「第五十六回 王彌と劉曜は許昌を攻む」では石勒と張賓が襄國にいるにも関わらず、王彌だけは轘轅關に軍勢を進めているという有様です。「何で北の襄國から進んで洛陽の南におんねん」という疑義もありますが、まあ王彌は先鋒として戦意が高く、独断専行で先を進んだのだ、という解釈も無理くりですが、なくはないかなあ、と思います。
以上の経緯をもって張賓は石勒の謀主となるわけですが、以降の歴史を見据えると劉曜と対立する石勒に漢からの自立を勧めざるを得ません。
蜀漢を称揚したい三国志演義の続編としては超絶ビミョーな展開にならざるを得なかったわけで、このあたりは描写をモゴモゴするしかないですよね。
編集済
第五十六回 王彌と劉曜は許昌を攻むへの応援コメント
あまり仲が良くないのはなんとなく伝わっていたとはいえ、王彌と石勒・張賓の間がいつの間にか、相当、不仲になっているようですな。北路の諸将のうち王彌一族と楊龍だけは王彌と同行したようです。
元帥の地位のことも明確でなく、別の軍を進めることにしたことも、不仲のことも説明がなく、勝手に進められている感じはあります。
これほどの不和や大軍を有しているはずの石勒・張賓の静観ぶりを劉淵・劉聰・諸葛宣于は問題にするべきでしょう。王彌が仕方なく元帥の職を譲ったにしても、少なくとも、王彌は勅命に反しておらず、命令は忠実に守ろうとしているのですから。
これが、張・趙兄弟全体の総意というのなら、張飛・趙雲が草葉の陰で泣いてますな。
作者からの返信
こんにちは。
> 王彌と石勒・張賓の間がいつの間にか、相当、不仲になっているようですな。
個人的には、王彌と石勒の不仲というより、劉曜と石勒の不仲から石勒が自立を企図していたため、王彌が割を食ったというように考えております。石勒はあくまで劉曜を見ていた感じで。王彌、可哀そう。。。
「第二十三回 石勒は計にて枋頭を取る」では、すでに張賓は次のように言っておりますね。
観るところ、劉永明(劉曜)は都督(石勒)と並び立たず、いずれは覇を競うこととなりましょう。彼は勇猛にして漢の宗族、衆人は忌憚しております。まずは、その嫉妬を受けぬように意を払わねばなりますまい
さらに自安の策を問われた張賓はつづけて、
都督(石勒)におかれては漢主より征討の詔を授けられておられます。まずは勲功を挙げて漢主の心を獲り、その後に假節を下して
山東の鎮守を委ねられるよう願い、麾下の諸将とともに朝命を
待って兵を練るのです。一朝に詔を得れば、諸将に奇略を授けて各地を攻略し、能力ある者を登用して賢人に職を任せ、弱を兼ねて昧を攻めれば、群凶は自ずから滅んで天下は安寧となりましょう
これらはいずれも漢からの自立を志向しておりますねえ。
そのため、この回以降の石勒と張賓には勅命より自己都合を優先する傾向があるなあ、と思っておりました。
石勒と劉曜が激烈に抗争する先々への布石の一つであるわけで、仕方ないところではあります。後傳はそこまで到達しなかったわけですが(泣
> 勝手に進められている感じはあります。
けっこう説明が不足していますよね。
前段と後段の食い違いもちょろちょろ見られますし。
まあ、長い話だから仕方ないかも知れませんが、
こういうところが質を下げているんですよねえ。。。
第五十五回 素喜連は慕容の陣に降るへの応援コメント
いよいよ、主要な司馬氏の勢力の減退とともに、貴族の代表であり、政争に関わり合わないように逃れてきた瑯邪王氏の王衍が主要舞台にあがってきました。石勒とは、通俗續三國志24回からの因縁です。
王衍と東海王・司馬越は、島田悠「八王の乱における貴族ー王衍、東海王越を中心に」で詳細に論じられています。
山簡とともに貴族的な無為な人物として、評判の悪い王衍ですが、玄学によった高い思想性を持つ七賢の後継者でもあり、同じように貴族の代表であり、瑯邪王氏の一人でもあり、清談を好み、表面上は無為の政治につとめ、巧みな政治手腕が最大の武器とした王導が高く評価されているのに、一概に無能と切り捨てるのは不当でありましょう。
長い八王の乱の多くの人物が退場を余儀なくされる中、玄学による「無為の治」を継承し、貴族勢力を率いて、中央の官僚組織を保持し、東海王に組みし、皇帝を無力化し、寒門を用いる斉王・長沙王・成都王・河間王を始末した手腕はなかなかのものと考えられます。
司馬越はあそこまで裏切りを繰り返し、なぜ、八王の乱の勝利者になれたのか。その政治力を怪物的と評価する意見があり、また、司馬越と対立した懐帝・司馬熾を非難する意見が見られますが、司馬越が貴族と長沙王を裏切った禁軍にかつぎされただけと考えれば、そのちぐはぐな政治力に納得がいきます。
また、司馬熾の立場から見れば、司馬氏の代表となりながら、何度も他の王を裏切り、人材を己の幕府に集中され、貴族勢力の代弁者として皇帝権力を侵害し、許昌にいて軍権を握る司馬越に対する不信が充満するのは当然と思えます。
なお、繆播は史実ではかつて東海王の配下として河間王を嵌めて張方殺害を使嗾した人物、何綏は何曽の孫にあたります。司馬熾も司馬越勢力切り崩しを行っており、苟晞もまた司馬越と対立します。
なお、漢軍の洛陽攻撃前に、清河王・司馬覃が皇帝にかつぎだされる動きがあったため、司馬越によって殺されています。司馬越としては懐帝を取り替えるつもりはなかったと思われます。
司馬氏のリストは、変更します。残り5名です。
(帝室)
懐帝:司馬熾
皇太后:羊献容
皇后:梁蘭璧
執政:司馬越
(八王)
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
成都王・司馬穎(死亡)
河間王・司馬顒(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
予章王・司馬熾 → 皇帝へ
東平王・司馬楙
✕ 清河王・司馬覃
新野王・司馬歆(死亡)
東安王・司馬繇(死亡)
范陽王・司馬虓(死亡)
東瀛公・司馬騰(死亡)
呉 王・司馬晏(死亡)
作者からの返信
こんばんは。
〉司馬氏の勢力の減退
宗室がこれだけ死ねば減退もしますわな。
〉石勒とは、通俗續三國志24回からの因縁です。
「郭胡は同情して二人(石勒と汲桑)を匿い、外の者たちの目に触れないようにする。しかし、王衍が刺史に着任するより蜀漢の遺臣の追求は厳しくなり、匿い抜くことが難しくなった」ですね。
ホンのチョイ役であります。
〉司馬越が貴族と長沙王を裏切った禁軍にかつぎされた
ふうむ。
寒門を用いた長沙王vs貴族に与した東海王の争いで、禁軍は長沙王を裏切って東海王についた、というわけですか。
当然、貴族代表の王衍は東海王につく、と。なるほどなあ。。。
〉貴族勢力の代弁者として皇帝権力を侵害し、許昌にいて軍権を握る司馬越
曹操もそんなことはしていませんし、これは、政治的権威と兵権を握る実力者の地理的分離として最初の例かも知れませんね。近いけど。
高歓は皇帝を鄴に置いて自らは晋陽で兵権を握り、宇文泰は皇帝を長安に置いて蒲坂対岸の同州で兵権を握り、それぞれに国家を遠隔操作しましたが、それに近い感じだったのかも知れません。
しかし、王衍の族弟の王敦が変な役回りを与えられているのですね。司馬熾に東海王の異心を警告したり。なんだかなあ。。。
第五十四回 慕容廆は素喜連を囲むへの応援コメント
木丸津と素喜連は、比較的、未開な地にいた鮮卑でしょうか。可足渾氏は彼らの中にあった主要な一族だったかもしれません。
しかし、この慕容氏の扱いの良さはかなり異常に近いですね。慕容廆は、特に欠点無く、下手をすると劉淵以上の君主に描かれていますし。慕容兄弟もどれも知勇兼備とされていて、配下となる漢人も人材が揃っています。大会戦の時の劉曜・石勒の軍の片方となら、互角に戦えるのではないでしょうか。
こう考えると、諸葛宣于の活躍が光りますね。ただ、そこらあたりをあの時点でもっと強調してもよかったとは思います。
慕容皝・慕容翰の兄弟関係の変更は、三国志演義の劉表の息子である劉琦
・劉琮を意識しているのではないでしょうか。演義の世界では庶子でも長子相続優先なので、慕容翰が庶兄だとまずいことになります。やはり、慕容氏はかなり優遇されており、構想では慕容氏が善玉、石虎が悪玉となるはずだったのでしょう。
後趙の不忠を責めて討伐するのが前燕の与えられた役割だったと考えます。
作者からの返信
こんばんは。
〉可足渾氏
北魏末には可朱渾氏と書かれますね。だいたいが昌黎徒河の人なのですが、徒河は遼西になりますかね。木丸津や素喜連に属していましたか。
調べてみないといけませんね。
〉慕容氏の扱いの良さはかなり異常に近い
たしかに。石虎を破り、乱れた後趙を平定する一族ですから、善玉としての仕込みだった可能性が高いですね。もったいないなあ。。。
〉劉曜・石勒の軍の片方となら、互角に戦えるのではないでしょうか。
諸葛宣于や姜發クラスの謀士がいるかどうかですよね。そこまで軍師軍師した漢人がいないので、計略で破られそうですね。
〉諸葛宣于の活躍
前作の「第百八回 諸葛宣于は四雄の兵に説く」ですね。アッサリしていたのであんまりありがたみはなかったですね。
〉演義の世界では庶子でも長子相続優先
ほほー。ということは、明代の聴衆にはそっちのが正しかったということですかね。
嫡庶の別より長幼優先ですか。本来の儒教とは違いますが、アレはアレで部族社会のシッポみたいなものでしょうし。正妻のが妾より一族の格が上だったでしょうから、嫡子優先なんだろうな、と推測しています。
〉後趙の不忠を責めて討伐するのが前燕
物語としてはそっちのが面白くなりますよね。勧善懲悪です。
第五十二回 慕容廆は遼東より起発すへの応援コメント
ついに、前燕・後燕を建国する慕容部が登場ですな。
慕容廆は、元々、西晋と敵対しており、略奪を繰り返しながら、何度も敗北していたのですが、西晋・夫余への略奪のおかげで生産力が安定したのか、西晋への帰順後の棘城に移転してからの農業生産がうまくいったのか、慕容部は発展したようです。
戦に強いイメージのある慕容廆ですが、意外と西晋と戦っていた時は負けが多いです。
しかし、これは仲の悪いイメージしかない慕容三兄弟の仲の良い姿を見ることができる貴重なシーンですな。慕容翰は本来は、慕容皝の庶兄なので、兄弟順は違うのですが、これは酉陽野史の儒教的思想で反映されているようですね。
この時、慕容皝は数えで14歳なので、史実では慕容皝・慕容仁は従軍したか不明です。資治通鑑でもここは慕容翰単独の発言・功績になっているので、後伝では慕容皝の方が兄の功績を吸っていますね(笑)
ただ、ここだけ単独で慕容部の活躍として、正史ではあれほど簡略な素喜連・木丸津討伐に尺を割いているところを見ると、三国志後伝は確かにあそこで終わりではなく、それからの続編の構想があったことをにおわせます。
作者からの返信
こんばんは。
> 前燕・後燕を建国する慕容部が登場
北魏の河北制覇に際して最大の敵になったのが慕容部ですね。
同じ鮮卑族ですが、宇文部や段部よりも東にあり、中原との
接触が遅かった分、勢力をつけるのがおくれた印象ですねえ。
鮮卑は匈奴と戦った東胡の分派と言われますが、さてさて。
東胡というのはいかにも中原から見てのお話ですし、自らを
どう認識していたのかはまったく謎です。
> 慕容廆
『晋書』載記によると字は「弈洛瓌」というそうですが、実際の姓名は
慕容弈洛瓌がだったんでしょうね。瓌字と廆字は同音でしょうし。
『魏書』吐谷渾傳では「若洛廆」となっています。
えきらくかい、または、じゃくらくかい、どっちも意味不明。
ちなみに柔然の可汗には郁丘閭・阿那瓌という人もおりまして、
北朝好きにとってはそれほど変な名ではないのですね。
> 慕容翰は本来は、慕容皝の庶兄なので、兄弟順は違うのですが、
これは酉陽野史の儒教的思想で反映されているようですね。
長幼よりも嫡庶を優先するのが儒教のオススメですから仕方ないですね。
そうなると、酉陽野史はけっこうガチの儒教信奉者ということになりますか。
興味深いですね。
> 資治通鑑でもここは慕容翰単独の発言・功績になっているので、
後伝では慕容皝の方が兄の功績を吸っていますね
つまり、慕容皝は前燕建国の王ですから、正統として扱われるわけですね。
後年は石勒の跡を継いだ石虎と対立したりもしますので、作中では蜀漢の
遺臣たちのライバルという位置を与えられるべき人でもあるわけです。
そのあたりはゼヒ読みたいところではありましたが。。。
第五十一回 甘顧の諸賢は陳敏を誅すへの応援コメント
ついに陳敏の乱も終わりました。
陳敏は三国志後伝では、注釈では夏文盛の功績が主体とされ、夏文・夏正に功績を奪ったと言われ、広陵の守りの善戦も銭端のおかげと言われ、顧栄・甘卓にはだまされまくりで、本人の扱いはあまりよくなかったですな。負けたとはいえ、武勇を見せつけた弟たちの方が見せ場があったと言えるかもしれません。一騎打ちぐらいは見せて欲しかったのです。
陳敏のだまされやすさは、水滸伝の田虎、方臘を想起させます。
顧栄らが陳敏を見捨てた理由としては、司馬越がこの時八王の乱を収めており、西晋の統治力が元に戻ると、顧栄たちが判断したことが理由にあるようです。司馬越と司馬熾との対立や、匈奴の存在を軽く見ているところといい、ここに江南豪族の限界を感じますね。後伝の世界の劉淵たちから見れば、江南をとってくれていれば、晋を滅ぼせたのに、また、呉に形を変えて裏切られたようなものですな(笑)
しかし、あの孟観の先鋒であった紀瞻とはなつかしい名前の登場ですね。丹楊郡出身だったのですな。あれは周処の敵討ちだったのかな。また、銭広は呉興郡出身らしいので、色々と東晋と対立する呉興の銭氏にあたるようですね。
陳敏は死にましたが、江南豪族は温存されました。十六傑は残り十名です。
西晋十六傑(十四路諸侯+二)
✕ 征西大元帥・陸機
✕ 荊州刺史・劉弘
西涼刺史・張軌
幽州惣官・王浚
✕ 揚州刺史・陳敏
幷州刺史・劉琨
廣州刺史・陶侃
青州刺史・苟晞
✕ 豫州刺史・劉喬
樂陵太守・邵續
滎陽太守・李矩
✕ 雍州刺史・劉沈
順陽太守・張光
✕ 武威太守・馬隆
南平太守・應詹
南中郎将・祖逖
作者からの返信
こんばんは。
このあたりは瑯琊王も苦労してるんだよ、という感じで全体としては後編に向けた伏線みたいに感じます。だから、他の話との接続が薄くて、ちょっと読みにくいかも知れません。
〉陳敏のだまされやすさ
陳敏さん可哀相。。。最後は寄ってたかってフルボッコにされた感じで。甘卓や顧榮あたりの裏切りを見るに、お人好しが過ぎましたね。
〉司馬越がこの時八王の乱を収めており、西晋の統治力が元に戻ると、顧栄たちが判断したことが理由にある
陳敏について自立を図るか、晋につくか、ですね。李雄に与した范長生も同じような立場でしたが、わりとアッサリ李雄につきました。
江南と四川では地理的に淮水沿岸と繋がる江南の方が河南との連絡が密である、ということもあるかも知れませんね。
〉孟観の先鋒であった紀瞻
ポッと出のキャラが多い中では最古参。しかし目偏はどこに行ったのやら。
作中では劉淵の挙兵から陳敏の敗死まで13年なんですよね。意外と短いなあ、と思います。
随分と過ぎたように感じますが。。。
第四十八回 劉弘は死して陶侃と張光は兵を回すへの応援コメント
陳敏の緒戦の大敗は痛かったですな。顧栄たちは、陳敏一族に孫呉一族のような軍略を期待していたのに、石氷みたいな賊徒だけに強い「雑魚専」に過ぎないことがばれてしまいました。相手が西晋でも屈指の名将であった劉弘・陶侃であっては仕方ないかもしれませんが。劉弘の死という天佑も生かせませんでしたね。
なお、史実では陶侃はこの時は江夏の太守であり、劉弘の配下です。
陳敏が江南豪族からの支持を得られなかったのは、政治能力の無さや一族の統率がとれていなかったのもあるでしょうが、江南豪族が孫呉の時に比べ、大きな勢力を有しており、軍事力をもって権威を打ち立てるのが難しかったのもあると考えます。当時の江南では、よほど強い国家権力がなければ豪族抑制は難しかったのではないでしょうか。
今回、十六傑のリーダーっぽかった劉弘が死んでしまいましたね。劉馥の孫である彼は堂々と魏の人物の子孫を名乗ってもよさそうです。魏の影響が強い西晋が、次第に東晋へと変わっていくのを象徴するようですな。
西晋十六傑(十四路諸侯+二)
✕ 征西大元帥・陸機
✕ 荊州刺史・劉弘
西涼刺史・張軌
幽州惣官・王浚
揚州刺史・陳敏
幷州刺史・劉琨
廣州刺史・陶侃
青州刺史・苟晞
✕ 豫州刺史・劉喬
樂陵太守・邵續
滎陽太守・李矩
✕ 雍州刺史・劉沈
順陽太守・張光
✕ 武威太守・馬隆
南平太守・應詹
南中郎将・祖逖
作者からの返信
こんばんは。
江南は水路が多くて地理を調べるのが本当に大変です。陳敏は豫章と呼ばれながら廣陵を押さえて建康と対峙していたりで、どうも違和感が。
ちゃんと正史を調べないとダメなんですけどね。それはまたおいおい。
> 劉弘・陶侃
この二人は作中でも屈指の晋将ですから、陳敏もそれほど無能には見えませんでした。酉陽野史としても手強い敵として描きたかったんでしょうかね。
> 史実では陶侃はこの時は江夏の太守であり、劉弘の配下です。
それはそれは。唐の蘇定方と裴行倹みたいですね。誰か史実に則して小説化して貰えないかなあ(切実)。陶侃は五渓蛮出身という説もあるようで、それもオモシロいなあと思います。
> 魏の影響が強い西晋が、次第に東晋へと変わっていくのを象徴するようですな。
なるほど。そういう見方もありますか。たしかに、武帝の頃と比べると顔ぶれはかなり変わりましたよね。時代が変わりつつあるわけですね。
十六傑はまだかなり残っているので安心感がありますね。それに引き換え晋の親王は。。。
第四十六回 陳敏と甘卓は結びて婚を為すへの応援コメント
今回は本来なら、いきなり江南に舞台が移り、新しい人物が続出して混乱するところですが、大会戦のおかげで、十四路諸侯、私の言う十六傑のくくりのおおかげで、きちんと読んでいれば、「劉弘・陶侃・張光・應詹はマークして、劉準と劉機は忘れてもいいな。皮初ってのは確かそれなりに強かったはず」という認識が持てますから、やはり、それなりな工夫の成果と考えていいでしょう。おかげで、私にしてもかなり強いメンバーだなという認識がこの段階でできました。
陳敏は大会戦の時では白耀と花如という武将を失ったのみですな。あまり、目立った勇将がいない陣営という印象です。
今回の話しは、江南豪族が陳敏を推戴しようとして、その官職を受けたことに対する後出しの言い訳でしょう。陸機・陸雲・周処らが無残な死を遂げてことで晋に見切りをつけようとしながらも、狡猾な江南豪族は初めから、陳敏が失敗した時に、責任を押しつける可能性も考慮していたと思われます。
ただ、この江南編は実は三国志の呉ファンにとっては、たまらないところでありましょう。創作で子孫を設定しなければならなかった魏蜀に比べ、賀循は賀斉の曾孫・賀邵の子、甘卓は甘寧の曾孫、顧栄は顧雍の孫、周玘は周魴の孫・周処の子ですから。
ただ、他は仕方ないとして、周玘と周処の親子関係は強調して欲しかったですな。
作者からの返信
こんばんは。
〉大会戦
よくよく考えると、三國志演義も董卓との戦で主要な人物は顔見せが済んでいるわけです。
後傳は大会戦にそれを援用しているのですが、ホントに演義はよくできていますね。
〉陳敏
大会戦の諸侯では、劉弘、張軌、王浚、劉琨、陶侃、苟晞が優遇されていた印象でした。
やはりちゃんと意図があったわけですね。
〉三国志の呉ファンにとっては、たまらないところでありましょう。
そういえばそうですね。
脚色なしで三國志とリンクする唯一のエリアです。
他はともかく、周処は序盤の山場だったんですけどねー、周玘については因縁話は一切なし。なんかアンバランスな感じがします。
しかし、『華陽國志』では甘寧さんは巴郡あたりの出身だったような。呉で栄達して江南の豪族と化したわけですね。四代あればまあ可能かあ。。。
第四十五回 陳敏は謀叛して江東に拠るへの応援コメント
李雄も皇帝を名乗り、新しい三国志、後伝の鼎立の準備が着々と出来ていますな。
概念図も立派なものが出来ていますね。私の方も地理が理解しやすくて助かります。
司馬睿の軍事力問題ですが、三国志後伝の世界では大会戦の時に四万の兵力がいたので、二万はあったでしょう。これからは小説の世界重視で行きます。
陳敏の狙いはもちろん、かつての孫策・孫権のように、軍事能力のある陳敏が軍事力を保有して、江南の豪族に推戴されて鼎立の一角を担うことです。陳敏は名門の出身ではないため、貴族社会の西晋では手柄を立てても重用されません。その点は同類の江南豪族と組もうという考えです。構想としては先見の明があったようには思えます。ただし、実行力となると別の話しですが。
三国志後伝五十七回・晋史の陳敏に関する注釈によると、陳敏もなかなかの判断力をしており、その後も李辰、石冰、汪可東の圧倒的大軍に勝利を重ねているようです。ただ、注釈では討伐は、配下の夏文盛の功績とされているので、三国志後伝では陳敏が名将とまで言い切れないところがあるようです。
呉王・司馬晏も死んだので、西晋のリストも変更ですね。残る有力な司馬氏は後、六名です。
(帝室)
懐帝:司馬熾
皇太后:羊献容
皇后:梁蘭璧
執政:司馬越
(八王)
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
成都王・司馬穎(死亡)
河間王・司馬顒(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
✕ 呉 王・司馬晏
予章王・司馬熾 → 皇帝へ
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃
新野王・司馬歆(死亡)
東安王・司馬繇(死亡)
范陽王・司馬虓(死亡)
東瀛公・司馬騰(死亡)
作者からの返信
こんばんは。
てへ。
いつもありがとうございます。
晋の諸親王も寂しくなりましたね。
八王に至っては司馬越しかいない。
武帝司馬炎が呉を平定の祝杯を挙げた頃を思い返すと、麥秀黍離の感を禁じ得ません。まだ滅んでないですが。。。
新三国志的なテーマにするには、成は引きこもりが過ぎますね。もう少し動きがあると楽しかったのに。
陳敏はなかなかの名将だったのですね。ふーむ。晋漢大戦の際はあまり目立たなかったので、このあたりも早い段階から構想されていたんでしょう。
侵攻中の杜弢の乱は竜頭蛇尾に終わりますから、本作においては陳敏の乱が江南最大の叛乱となります。
概念図は頑張ってますが、なかなか納得いく出来は難しいです。東西が短いんですよねー。
手元はいよいよ一時代が終わる、というところにさしかかりつつありまして、隔世の感を感じてしまいます。
通算200回を超えてますから当然ですが。。。
編集済
第四十四回 瑯琊王司馬睿は江を渡って賢を招くへの応援コメント
いよいや、東晋の基礎づくりの始まりですな。演義劉備のような風情のある瑯邪王・司馬睿と、諸葛亮と並ぶ名声を持つ王導、晋と思えない希望が溢れる建国物語のはじまりです。
本来なら陳敏の揚州刺史は自称で、そこいらはややこしいのですが、陳敏は元から晋の揚州刺史、王導は司馬睿の長史と、ここは分かりやすく工夫されています。
司馬睿は、東海王・司馬越に組みしていたので、この真相は司馬睿に江南を抑えさせようとする司馬越の戦略とする説もあるのですが、川勝先生によると司馬睿はほとんど兵力を有しない状態であり、王敦の合流も遅れたので、案外、この状態が事実に近いのではないかと思います。
ただ、司馬睿は瑯邪王であったため、王導が親しかったように瑯邪の王氏を人材として利用しやすいというメリットは大きかったようですね。
この後の王導による江南豪族の切り崩しは見事という他ないです。若い時は王導の何がすごいのか理解できませんでしたが、軍事力をほとんど有さずに一王の名前だけで、曲芸のような政治力によって江南豪族をいいように利用し、東晋の基礎を固めたのは本当に魔術的としか表現しようがありません。
【追伸】
>こちらも実は穏健な長者ではなく、切れ切れの政治家
>だったんじゃないかなあ、という疑いがありまして。
>東晋建国当初に江南で続発した豪族の叛乱などを考えますと、
>かなり厳しい豪族抑制政策をやらかしているはずなんですよね。
これも正史やそれを研究した論文によると、厳しい豪族抑制政策にやらずに、というよりも建国当初は軍事力がないため、それをやれなかったのに、江南豪族を抑え得たというところに王導の本領と怖さがあります。
当初は江南豪族を建てて、さりげなく、呉・会稽・丹楊の先進地域の豪族を優遇して、呉興の後進地域の周氏・沈氏・銭氏と分断をすすめ、北方から逃れていた貴族達を使い、その伝統的権威と九品制度による郷論を背景に次第に主導権を奪っていくのです。
おっしゃる通り、それに反発して呉興の豪族たちは何度も反乱を起こすのですが、その一族も王朝の権威と官職を餌にさらに分断。それを尻目に、次第に瑯邪の王氏により軍事権を独占していきます。
しかし、王導は決して姑息なだけの南朝の貴族政治家ではありません。民衆に対しては、民衆の生活が困難な時は積極的に助けて民衆の生活が安定するとそれを邪魔しない方針をとる、李済滄先生の言う「清静」政治を推奨するです。これにより、王導は長者というイメージを獲得していきます
もちろん、これは東晋の国家の維持には貢献しますが、皇帝権力の増大は侵害しており、瑯邪王氏が繁栄する反面で、東晋は意気上がらないままであったのですが。
と、川勝・金民寿・李済滄先生の論文を適当にまとめてみました(笑)
これなら、厳しい豪族抑制政策なしでも、豪族の反乱が相次いだ理由が説明がつくので、賛同してもよいのではないでしょうか?
王導の諸葛亮と違うところは、忠誠心については疑わしいところがある、自分だけは人望を獲得し、安全な場所にいつもいる、ところでしょうか?
>かなりのワルモノなんじゃないの、と個人的には見ています。
本当のワルっていうのは、こういう人間を言うのかもしれませんね(笑)
王衍と王導は、実は紙一重の差だったのではないかとは思っています。
(長い!)
【再追伸】
そうですね。私が川勝先生を信じるのは無難だからだけではなくて(笑)、都督~諸軍事というものが、学説の話し合いで、必ずしも軍権を意味するものではないとしているからです。これは、小尾孟夫先生や石井仁先生のご意見です。石井先生によると、使持節都督諸軍事は「宋書・百官志、晋書・職官志で、殺すことのできる人の身分・範囲・条件しか職掌していない。都督という官職・制度の本質、存在理由がこれ以上でもこれ以下でもない」そうです。
>江南に赴任した司馬睿は一定の軍勢を伴っていた
これが川勝先生の該当論文(初期東晋政権の軍事的基礎、加賀博士退官記念中国文史哲学論集収録)が、ciniiに登録されていないので国会図書館から写しがもらえなくて(笑)、他の川勝先生の論文からの孫引きなので、これ以上、語れません。手に入ったら、また、お伝えします。
ここらは私もまだ勉強仕立てなので、学説のコピペが多くなるのですが、これは歴史小説のコメントなので、ある程度は気楽にやりたいと思います。
個人的には王導が徒手空拳から名家の血筋と政治力だけで東晋の基礎をつくりあげたという話しにロマンを感じますね。
【再々追伸】
いえいえ、私も時々、twitterで歴史関係につっこんでしまい、突然、フォロー解除されたり、ブロックされたりしますから(笑)。ああいうのは普通に意見していい、困るならダイレクトメッセージで話すことをお願いされるだけのものと思っていましたが、どうやら違うようですね。
実は、私は強固な自説など持っていないし、おっしゃることは理解できるので、どうお話しようかと思いました。
実際、正史+主要史料を完全に把握して3割、論文(中国語を含む)を完全に把握して3割、さらに思想・制度などの過去からの流れを知るのが2割、そこから統合して妥当な解釈を生んで完成でしょうか。それも、新しい発見が有る度にアップデートしないといけないので、大変です。
通常はそこまでは辿り着けようがないので、気楽になんでもお話されていいと思います。
作者からの返信
【再追記を受けて】
どうもだめですね。
90年代後半、北朝は研究しても仕方ない世界でした。みなさま、たぶんご存知だったんだと思います。
その先が袋小路だと。
最近は新出史料もあり、盛んになってきましたが、20年前は死んだ分野だったのです。
それが悔しくて、色々調べて社会学が成立する最初の時代だよね、というわけで、新しくなにかできないか、可能性を探る日々でした。
そういう北朝研究の闇を背負ってしまっているのでしょう。
当時から研究テーマに事欠かない南朝に対する深いルサンチマンがあるのですね。こういう問題は内側に秘めるべきでした。
しばらくは身を慎みたいと思います。北朝史に定見はあっても、南朝史に定見がないなら黙るべきです。
深く反省します。失礼しました。
【お詫び】
ああ、、、またやってしまいました。すみません。
南朝の話になると、どうもダメです。
古代的な族的結合を前提とする古北朝のありように六朝貴族社会をはめ込もうとしてしまうのです。
本当にそうかどうかではなく、思考のクセになって抜けられないのです。悪癖です。
まめさんにはご迷惑をおかけしました。
【再追記を受けて】
〉都督~諸軍事というものが、学説の話し合いで、必ずしも軍権を意味するものではないとしている
うーむ、都督は厄介なんですよね。
結局、確定的な結論は出てなかったと思います。
まあ、学者が話し合っても意味は別にないです。喋らせるなら金石を含む史料に話させるべきですね。
見る限り、初出は三国志の袁紹伝じゃないですかね。
紹は乃ち統ぶる所を分授して三都督と為し、(沮)授及び郭圖、淳于瓊をして各々一軍を典らしめ、未だ行うに及ばず。
これ、明らかに軍権の分与の記事ですよね。後漢の事例だからセーフということかなあ。
ここまででお察しの通り、個人的には石井説は採りません。最低限の権限規定にしても反証が多すぎます。つーか、そんなわけあるか、と思う。都督の名で粛殺の権を許すだけとか、名分論上から観てもあり得ない。
思うに、北朝の行台尚書もそうですが、非常置の官はそのものが例外的ですから、運用も属人的に行われざるを得ません。
結果、初期には規則性を見出しにくく、ほぼ常置になって運用が固まる傾向があります。それが官志。
しかし、官志は意外と適当で逆に混乱を生むように思います。職掌も消長がありますし。いつ時点やねん、という疑問が。地理志も同じですけど。
仰る通り、王導が徒手空拳で〜、はロマンティックではありますが、私見ではあり得ないと考えたいと思います。
いや、ふつーにムリでしょ?
そうであるならスゴイけど、なぜ王導にはできたのか?とかそういう疑問が湧いてきますし、実現手段を等閑にしすぎです。
日本人は南朝贔屓が多いですから仕方ないかもですが、でも、できないもんはできません。
武力なしの政治や外交がいかに不毛かは、日本人はみんな知っていると思うのですが。
名望や家格は常に刺身のツマに過ぎないのです。大事なのは、財力と武力だと考えます。
戦後平和主義の悪癖なのかなあ。。。
※
【追記を受けて】
こんばんは。
ご教示ありがとうございます。
今のところ確立した定見はありませんので、
参考にさせて頂きます。
勉強がてらに晋書をちょろっと見てみました。
まず、司馬睿の南渡の経緯です。
懐帝本紀、
秋七月己酉朔、東海王越は進みて官渡に屯し、以て汲桑を討つ。
己未,平東將軍、琅邪王睿を以て安東將軍、都督揚州江南諸軍事、假節と為し,建鄴に鎮せしむ。
元帝本紀
東海王越の下邳に兵を收むるや、帝に輔國將軍を假す。
尋いで平東將軍、監徐州諸軍事を加え、下邳に鎮ず。
俄にして安東將軍、都督揚州諸軍事に遷る。
越の西して大駕を迎うるに、帝を留めて居り守らしむ。
永嘉の初め、王導の計を用て始めて建鄴に鎮ず。
王導傳
時元に帝は琅邪王たり,導と素より相い親善す。
導は天下の已に亂るるを知り、遂に心を傾けて推奉し、潛かに興復の志あり。
帝は亦た雅相器重し、契は友執に同じうす。
帝の洛陽に在るや、導は每に勸めて國に之かしむ。
會々帝の下邳に出鎮するに、導を請いて安東司馬と為す。
軍謀密策、知りて為さざるなし。
建康に鎮を徙すに及び吳人は附かず,居ること月餘にして士庶に有至る者有るなし。
導は之を患う。
ざっと見る限り、司馬睿は懐帝の詔により安東將軍、都督揚州江南諸軍事、假節として建康に赴任したと分かる程度ですね。ただ、司馬睿と王導の側から見ると、この出鎮は王導の計略であるとしています。
王導の計略であるとするならば、懐帝というより実権を握っていた司馬越の同意を得るべく運動したであろうことは想像に難くありません。さらに、それが成功したので懐帝は出鎮の詔を発したわけですよね。
単純に考えて、建康出鎮が王導の計略であるか、東海王の戦略であるかと言えば、王導の計略であり、東海王の戦略だった、という回答も矛盾はしないわけです。
実相は藪の中ですが、両方成立しそう、でも王導が策動したことは確実っぽい、という感じでしょうか。
一方、司馬睿に軍権がなかったかと言えば、これはおそらくあったと思います。元帝本紀を見る限り、徐州に出鎮した際は平東將軍、監徐州諸軍事を帯びており、ついで安東將軍、都督揚州江南諸軍事、假節を帯びて建康に出鎮しています。
監と都督は明らかに後者が上ですから、徐州での働きを認められていたであろうことも窺えます。都督が一定エリアの軍権を掌握していたことはご存知のとおりですから、江南に赴任した司馬睿は一定の軍勢を伴っていたでしょうし、州の軍政機構を使って兵を徴発することもできたはずです。
少なくとも司馬睿が州を統治するに足る軍権を保有していたことは確実です。
しかし、それに呉の豪族が従ったかというと、また問題は別です。
有名無実という言葉もあります。王導はどのようにして統治機構を動かしたかを想像するべく、主な人物の任官をちょっと見てみましょう。
王敦
元帝召為「安東軍諮祭酒」。
會揚州刺史劉陶卒,帝復以敦為揚州刺史,加廣武將軍。
尋進左將軍、都督征討諸軍事、假節。
帝初鎮江東,威名未著,敦與從弟導等同心翼戴,以隆中興。
顧栄
元帝鎮江東,以榮為「軍司」,加散騎常侍,凡所謀畫,皆以諮焉。
周玘
元帝初鎮江左,以玘為「倉曹屬」。
甘卓
元帝初渡江,授卓「前鋒都督、揚威將軍」、歷陽內史。
賀循
元帝為安東將軍,復上循為吳國內史
周顗
元帝初鎮江左,請為「軍諮祭酒」
紀瞻
帝為安東將軍,引為「軍諮祭酒」,轉「鎮東長史」。
「」は軍に関わる官ですね。こうして見ると、在地の豪族出身者の多くが軍政や財政に関与する官に就けられていた、すなわち、行政機構が機能するように在地の有力者を巧みに登用していたであろうことが窺われます。
これらの配慮が出発点にあったわけですね。
さてそこからどうなったかという点についても、論文の内容も含めて定見を持てるといいのですけど、そこまで時間を割けるかなあ。
あ、そもそも北朝派なので南朝への興味が薄いのでした。。。
※
こんにちは。
本作の東晋は建国譚まででほぼ終わりなのですよね。本格的な東晋の成立は次作に譲ることとなります。人材招聘が中心になりますので、読む方としては一番面白いところ、ということになります。
>陳敏
作中でも「陳豫章」と呼ばれて「陳揚州」と言われないのは、自称だったからなのですね。
作中における陳敏の勢力圏はイマイチ想像しにくいところがありますが、豫章から長江北岸一帯が勢力圏という設定のようです。
>司馬睿
東海王との絡みは謎ですね。本作ではあまり強調されていない、というか、東海王の下から逃げ出した風味になっていますので、それも一つの解釈としてアリかねえ、という感じです。正史を読むとまた印象が変わるかも知れませんけども。
>王導
こちらも実は穏健な長者ではなく、切れ切れの政治家だったんじゃないかなあ、という疑いがありまして。東晋建国当初に江南で続発した豪族の叛乱などを考えますと、かなり厳しい豪族抑制政策をやらかしているはずなんですよね。
ただ、史料にはそのあたりが残っていないので、何か人心収攬が巧みな人という感じになってしまったのかなあ、と。
かなりのワルモノなんじゃないの、と個人的には見ています。
まあ、そうじゃないと無縁の地に国家なんて建設できませんしね。。。
第六十一回 漢軍は計にて王浚を破りて退くへの応援コメント
司馬業が死ぬまでがんばって欲しい
作者からの返信
コメントありがとうございます。
愍帝司馬業さんの死は318年で没後1700年、恵帝司馬衷さんの死は307年だから、11年後なんですよね。
意外と離れてます。
そこまで辿り着けるよう頑張ります。
第四十三回 南陽王司馬模は河間王司馬顒を殺すへの応援コメント
しぶとく生き残っていた河間王・司馬顒も死に、八王の乱の第八幕が終わりました。あまり配下に恵まれていない東海王・司馬越の勝利です。河間王は、張方と李含ばかり目立って、本人の印象が薄かったですな。豪毅なところはあり、人材は好んでいたようなので、水滸伝の梁世傑に近いイメージでしょうか。
これで恵帝・司馬衷と廃太子・司馬遹を含めて二十二名いた下のリストにいた司馬氏は、司馬越・司馬熾・司馬睿・司馬模・司馬晏・司馬楙・司馬覃
の七名を残すのみになり、三分の一を切りました。大会戦の時には、十七名まだいたのに凄まじい死亡率です。
八王の乱を振り返ると、洛陽内部の争いと、洛陽・長安・鄴・許昌の四大都市の支配者の争いと、二つに大きく分かれると思います。最終的には、さらにその外部の力を使うことに成功した司馬越が勝利しましたが、これからはその司馬越が四大都市を巡って外部の力と争うことになります。
(帝室)
懐帝:司馬熾
皇太后:羊献容
皇后:梁蘭璧
執政:司馬越
(八王)
✕ 河間王・司馬顒
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
成都王・司馬穎(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
呉 王・司馬晏
予章王・司馬熾 → 皇帝へ
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃
新野王・司馬歆(死亡)
東安王・司馬繇(死亡)
范陽王・司馬虓(死亡)
東瀛公・司馬騰(死亡)
作者からの返信
こんにちは。
司馬顒と司馬穎の違いが、作中で優遇されているかそうでないか、くらいしか感じられなかったのは残念でした。もうちっとやりようはあったようにも思うのですけどねえ。李含を登用した話とかを考えても、司馬顒は非主流派の星として描けたような。。。
> 八王の乱
作中ではこれをもって八王の乱は終了、以降は江南に逃れる司馬睿、それに本作のもう一つの主眼、永嘉の乱に焦点が移っていきますね。
> 司馬越・司馬熾・司馬睿・司馬模・司馬晏・司馬楙・司馬覃の七名
これから劉漢との本格的な戦に入るわけですが、それ以前にボロボロになっております。いやー、キツイっす。三國志演義蜀漢派のみなさまとしては、シュートサインを出すしかないですよね。
> 洛陽・長安・鄴・許昌
鄴と許昌は三国時代を通じて魏の本拠地として発展し、漢の都であった長安、洛陽に比肩するに至ったわけです。都市の消長というのもなかなか面白いものですね。
この中で、鄴は幽薊・山西と河南に通じる立地により河北政権にとって重要拠点でありつづけ、北齊のように政治中心は山東の鄴、軍事中心は山西の晋陽という機能を分けた国家も出現することになります。
一方、洛陽から徐州を結ぶ線上にある許昌は残念ながら戦乱で荒廃した後、かつての栄華を取り戻すことはありませんでした。少なくとも、国都とした国はありません。
これはまあ、徐州つまり淮水方面への連絡路が当時はそれほど重視されておらず、南北に分裂した後は戦場となる淮南に近すぎる、という理由もあって忌避されたということかも知れませんね。彭城なんかは南北朝必争の地となってしまったわけですし。
隋に入って大運河が完成すると、徐州の重要性はさらに下がっていったんだろうなあー。(長いわ)
編集済
第四十二回 東海王司馬越は晋帝司馬衷を毒害すへの応援コメント
ついに意外に長く続いた恵帝の治世もこれで終わりですね。八王の乱が分かりづらいのは、恵帝と羊皇后が廃位されたりしながらも、ずっと存在し続けているので最高責任者が誰なのかはっきりしないことも理由の一つだと思われます。
二回前のコメントに関してですが、
>司馬炎の政策が悪かったというより、司馬師から司馬昭という権力の兄弟
>間継承に発した歪みが基本にあり、それを弥縫する権威者がいなかったの
>が問題だったと思います。
これは考えたことがありませんでしたが、なるほどと思います。
司馬師は、武帝が即位後に「景皇帝」と贈号されていますが、
光武帝は兄の劉縯に、孫権は孫策に、姚萇は姚襄に、帝号を贈っていません。このため、現代で孫権は兄に含むところがあったと言われますが、皇帝の権威や正統性のために正しい判断と思われます。これでは司馬攸はただの弟以上の権威を持ってしまいます。司馬衷が暗愚ならなおさらです。司馬炎が司馬攸に嗣がせたとしてもあれだけいる司馬炎の子たちが、司馬攸や司馬冏と争うことになったでしょう。
>継承した弟が権威を子に引き渡せるまでに高める時間がありましたから、
>それが司馬昭にはなかったかなあ、
そう考えると、司馬昭の司馬攸に嗣がせるという考えは、安田二郎先生のとなえるブラフではなく、正統性の確保のための司馬昭の判断かなとも考えられます。
司馬炎は能力的には特別に問題ないように見えますが、司馬昭の指揮には司馬衷はすでに六歳、夭折する時期は過ぎ、知性か人格に相当な欠落があったこと、司馬炎が廃嫡まで踏み切れないことを見抜いていたかもしれません。
また、司馬昭の方針であった寛仁施策を司馬炎なら引き継がざるを得ず、世説新語で分かる通り、面と向かった批判ですら処分しない温厚ではあるが厳格さに欠ける司馬炎の性格では皇帝権力は揺るぐ一方と考えていたのではないでしょうか。
その司馬昭の寛仁施策も曹髦殺害・賈充放免があるので、ただの人気取りと見られ、心服まで得られず、司馬炎の温厚さ・司馬衷の純朴さもその延長上として見られ、忠誠を勝ち得なかった。私には、そういう風に思えました。
リストは洛陽陥落まで続ける予定です。司馬熾の皇后もフルネームが残っていたのですね。調べて、初めて知りました。
(帝室)
恵帝:✕ 司馬衷 →懐帝:司馬熾
皇太后:空位→羊献容
皇后:羊献容→梁蘭璧
執政:司馬越
(八王)
河間王・司馬顒
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
成都王・司馬穎(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
呉 王・司馬晏
予章王・司馬熾 → 皇帝へ
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃
新野王・司馬歆(死亡)
東安王・司馬繇(死亡)
范陽王・司馬虓(死亡)
東瀛公・司馬騰(死亡)
追伸
>なかなか詩的なお名前ですね。蘭壁さんかあ。
すみません。壁の字は『完璧』の『璧』でした。
しかし、ここでこんなありがちなミスをするとは。
>光武帝以降に豪族層を解体しなかったこと
>にあるのかなあ、とか思います。
光武帝ですか。確かに表面上問題を起こさないことを優先した調整型政治が豪族発展を決定づけた感はありますね。
ただ、豪族に関しては、前漢以降豪族の力は強くなってきていましたから。解体に手をつけようとした気配のある王莽は失敗しましたし、時代の流れでもありますね。
ただ、西晋は内部分裂はどうかなったのではないかと思うのですが、何が決定打かと言われると断定は難しいです。
作者からの返信
【追記】
〉蘭璧
入力するときにたしかに違和感ありましたが、「生垣みたい」とか思っただけでスルーしてました。
蘭璧ならなおさら詩的ですね。
〉西晋は内部分裂はどうかなったのではないか
これが内部分裂の原因だった=これがなければ事象は発現しなかった、そう考えると解法が難しい設問ですね。試論止まりになることを約束されている、とも言えます。
調べたり考えたりするには、それが面白かったりするんですけどねー。
※※※※
こんにちは。
〉意外に長く続いた恵帝の治世
何しろ、わずかながら懐帝の治世まで生き抜きましたからね。超時空恵帝司馬衷です。
〉最高責任者が誰なのかはっきりしない
賈后垂簾からコッチ、恵帝でないことだけは確かだったかなあ、と。流されるヤシの実のようなお方でした。
〉二回前のコメント
まー、要因は常に絡み合って鶏と卵を見分けるのは難しいでしょうねー。少なくとも、晋だけを見ても判断はつかないかなあ、と。たぶん、根っこは光武帝以降に豪族層を解体しなかったことにあるのかなあ、とか思います。
ネタがデカいとシャリもデカくなりますから。
〉リストは洛陽陥落まで続ける予定
ありがとうございます!
今も参考にさせて頂いております。。。
中心はだんだん瑯琊王に移ってしまいますが、それは後編からなんですよね。
〉司馬熾の皇后もフルネーム
ほほー、これは珍しい。女性の名前ってホントに残ってませんから。今なら#MeTooモンです。
なかなか詩的なお名前ですね。蘭壁さんかあ。
編集済
第四十一回 公師藩は東瀛公司馬騰を殺すへの応援コメント
東瀛公・司馬騰まで。西晋の王公が次々と死にますな。八王以外の王公も死が相次ぐようになりました。
東瀛公・司馬騰は史実としてのドラマなら、とても重要な人物で、奴隷狩りで石勒を捕らえて奴隷とし、決起したばかりの劉淵討伐を行い、汲桑・石勒と戦い、戦死するという、ゲームでいえば、一番初めの中ボスといったポジションの人物です(笑)。
李豊は史実では汲桑の部下ですね。司馬騰の配下としては、三国志後伝の第六回で續三國志演義では省略された諸王公のリストではその配下に、史実で決起時の劉淵討伐にあたったメンバーの名があるのですが、その設定は使われないままで終わったようですね。
なお、ここでは司馬虞が生き残っていますが、晋書では、李豊を河に沈めた後、司馬虞も戦死したようで、(じゃ、誰が李豊を討ち取った経緯を伝えたのだという話しですが。これだから晋書は)、生き残ったの四男の司馬確です。
後で、司馬確の名が出てきますが、ここでは、注釈をするか、司馬虞に変える必要があると思われます。
しかし、ここでの盧志はいい人に書かれすぎて、成都王の参謀を務めていた人物とは思えませんね。
(帝室)
恵帝:司馬衷
皇后:空位→羊献容
皇太弟:空位→司馬熾
執政:司馬穎・司馬顒→司馬越
(八王)
河間王・司馬顒
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
成都王・司馬穎(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
呉 王・司馬晏
✕ 東瀛公・司馬騰
予章王・司馬熾 → 皇太弟へ
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃
新野王・司馬歆(死亡)
東安王・司馬繇(死亡)
范陽王・司馬虓(死亡)
追伸
>『後傳』では、ここで大哭した後に復讐のために
>北漢に身を投じるというオマケまでついていますね。
そうでしたか。ここでフェードアウトは私の確認漏れかもと思っていましたが、調べたら「三国志後伝」盧志はここで死んでいたのですね。息子の盧諶は登場するのにどうしたのだろうと思っていました。確かに、劉乂(劉義)に謀反を促して殺されるのは後伝の盧志のイメージとは違いますね。最も、美化されているのは盧志かもしれません。演義の荀彧のイメージでしょうか。
しかし、少し前までは日本一詳しいのは自分とばかり思ってましたが、少なくとも三国志後伝・續後三國志演義においては、間違いなくもはや河東さんに譲りますね。こういったものでも力の差は地道な作業によって生まれるのですな。
作者からの返信
【追記】
> 日本一詳しいのは自分とばかり思ってました
いや、たぶん今でも『後傳』はまめさんが日本一詳しいでしょうね。あくまで本作は『通俗』の翻訳なので、『後傳』は参照しているだけですから。盧志の件はあまりに衝撃的だったので覚えているだけです。
東海王は曰わく「卿の言は是なり」と。
乃ち人をして新野に往きて之(成都王の王子)を求め、取りて洛陽に回り、反って之を縊殺せり。盧志は聞知するや、乃ち成都王の墳前に往きて大哭すること一場、東海王を棄て、奔りて北漢の劉聰の軍中に往き、劉輿、司馬越の仇に報ぜんと圖る。
スゴイことになってますね。。。仰るとおりきわめて荀彧っぽいです。
※
こんにちは。
〉西晋の王公が次々と死にます
十八章は西晋諸侯の墓地みたいなものです。これまで西晋を代表していた人物がとにかくいなくなる。下のリストを見れば一目瞭然ですが、まさしく壊滅状態です。まだ死にますからね。。。
〉東瀛公・司馬騰
王浚とセットだと強い、というイメージです。それは王浚が強いということでは?
つまり、作中では優遇されていない人です。成都王と東海王の二人を軸にしているので、仕方ないところではあります。ここでも完全にかませ犬な感じで退場となってしまいました。合掌。
〉李豊
なるほど、ここでは汲桑→公師藩という置き換えが史実に対して行われたわけですね。結果、汲桑の部下のはずの李豊が公師藩の部下になった、と。
史実を下敷きにした際は、改変が少ないほど辻褄合わせが楽ではありますが、こういうことは避けられません。
〉三国志後伝の第六回で續三國志演義では省略された諸王公のリスト
あー、ありますね。『通俗』「第八回 晋帝司馬炎は大いに宗室を封ず」にあたるあたり。
まあ、『後傳』第五十七回からの十八路諸侯の列挙とモロに被りますから、省略はやむなしでしょう。
周良や石鮮を設定したのに使わなかったのは謎です。まあ、扱いが軽いから、というと終わってしまいますが。
〉司馬虞
戦死されましたか。作中では司馬確が巻き添え食らってお亡くなりになっており、司馬虞は生き残って爵位を継いでしまいました。
司馬確を司馬虞として押し通すならそれもよしですが、司馬確が出てくると、アカン感じになりますね。(志怪小説なので、亡霊としての登場は歓迎。そんなことないだろうけど)
〉盧志
『後傳』では、ここで大哭した後に復讐のために北漢に身を投じるというオマケまでついていますね。さすが名門、優遇されています。まあ、最期を考えると、何とかして北漢に行かせる必要はあるわけですが、それにしてもまあ。。。
編集済
第四十回 成都王司馬穎は縊られて死すへの応援コメント
いよいよ、酉陽野史が八王の乱の案内人として晋漢大決戦の大将として選んだ成都王・司馬穎も死亡ですな。三国志後伝では、才覚も人格もかなり美化して描いていた彼ですから、最期は象徴的に悲劇に描いていますな。田徽と会話も正史とは印象が大きく違います。
さらには、なにげに十路の王の一人であった范陽王・司馬虓も死去しています。紹介では「門多剣客、力挙千鈞」(門に剣客多く、力は千鈞を挙ぐ、かな?)とあった彼も配下の王昿の失敗以外さほど目立つこともなく退場です。
>長沙王の麾下にあった韓泰の子の韓玭
これは斉王だと思われます。確認お願いします。
八王の乱も大詰めですな。確かに水滸伝の最後を思い出すような死者の多さです。なお、司馬熾・司馬覃の皇太子・皇太弟は私も把握しきれていないぐらい複雑なのですが、リストでは分かりやすく皇太弟は司馬熾であるとしています。
(帝室)
恵帝:司馬衷
皇后:空位→羊献容
皇太弟:空位→司馬熾
執政:司馬穎・司馬顒→司馬越
(八王)
✕ 成都王・司馬穎
河間王・司馬顒
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
呉 王・司馬晏
✕ 范陽王・司馬虓
東瀛公・司馬騰
予章王・司馬熾 → 皇太弟へ
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃
新野王・司馬歆(死亡)
東安王・司馬繇(死亡)
作者からの返信
こんにちは。
〉成都王・司馬穎
原文はけっこう淡々としていますが、前作から引き続き晋の中心にあった人物ということで、言葉の選び方は少々悲劇風になっております。
実質的にはこのあたりから八王の乱は終息に向かうわけで、この後は後日談みたいな扱いになっていますね。河間王かわいそう。
〉范陽王・司馬虓
訓読はOKです(何様?)。
しばこう、という物騒な名前だけあって、豪傑肌だったみたいです。門に剣客多しという一文は、剣客の訪問が多かった、という意味でしょう。
おそらく、腕競べをして強い者を幕下に迎える、なんてことをしていたのでしょう。『水滸伝』の柴進みたいです。
司馬氏には武張った人が少ないからキャラ立ちできたはずなのに、残念。
〉韓泰
助かります!
原文からして「長沙旧将韓泰」と間違っていました。韓泰は「第九回 長沙王司馬乂は齊王司馬冏を殺す」で劉眞、衛毅とともに擒とされていますね。
修正させて頂きます。
〉司馬熾・司馬覃の皇太子・皇太弟
どっちでも大勢に影響はありませんから、東宮がお飾りになったとよく分かります。皇帝の権威の失墜を象徴していますね。
八王も余すところ二人、統一からたかだか四半世紀でよくもまあこれだけ内訌を繰り返したものです。
司馬炎の政策が悪かったというより、司馬師から司馬昭という権力の兄弟間継承に発した歪みが基本にあり、それを弥縫する権威者がいなかったのが問題だったと思います。
唐や宋でも発生した問題ですが、継承した弟が権威を子に引き渡せるまでに高める時間がありましたから、それが司馬昭にはなかったかなあ、と思います。結局、司馬炎の時代になっても、司馬師や司馬孚はエライわけで、司馬師の血筋の道義的優位が無効になるほどには、司馬昭の権威は「司馬氏の中で」高まらなかったわけですからね。
なんかそんな景色が見えた気がします。
第三十九回 晋帝司馬衷は再び洛陽に還るへの応援コメント
結構、目立っていた李含も退場しました。
本来なら彼は、史実では長沙王・司馬乂を暗殺しようとして、発覚して司馬乂に殺され、三国志後伝でも続後三國志演義十三回で捕らえられ、死んでいるはずだったなのですが、河間王・司馬顒の参謀ポジが必要だったのか、史実より長生きできました。長沙王・司馬倫の孫秀と並ぶ、八王の乱における寒門出身の出世主義者の典型という感じの人物でしたな。
大会戦時点で、晋の人物で目立ったのは、八王と十六傑を除けば、祁弘・張方・盧志・石超・牽秀・姫澹・北宮純・李含・孫洵ぐらいだと思うのですが、すでに、張方・石超・牽秀・李含が死亡、孫洵がフェードアウトとすさまじい死亡率です。もう、漢軍のベストメンバーと野戦で戦うのは無理でしょう。
作者からの返信
こんにちは。
〉李含
不死鳥のように蘇った彼もついに退場です。作中では、成都王における盧志と対になる人物として役を振られていたように思います。
道義と狡知、名門と寒門、対局に置かれています。
史実を見る限り、皇甫商や趙譲といった人と対立があったようで、クセが強かったようです。
しかし、信任してくれた河間王に政権を執らせたい、という執念が強かった節もあり、若い頃に寒門の苦労を舐め尽くした身としては、已むないところかと感じます。
何しろ、狄道出身で始平に僑居していますから、ヘタしたら難民スレスレの出自だったんじゃないのかなあ。そんな感じで、名門の盧志より好きな人物だったりします。恵まれませんけど。
〉すでに、張方・石超・牽秀・李含が死亡、孫洵がフェードアウト
たしかに。
その一方で、前作の晋漢大戦があったので、史実からは見えにくい八王の乱の被害が分かりやすくなっていますね。これが狙いだったのか。。。
この櫛の歯を引くような死者続出はまさに『水滸伝』後半ですよね。もしかすると、そのあたりの手法も取り込んで書かれているのかも知れません。
前作だけだと「なんじゃこりゃ?」となりますが、本作になると伏線や構成の妙が見えてきたような気がします。ううむ。。。
第三十七回 河間王司馬顒は張方を殺して和を請うへの応援コメント
ついに、西晋の武勇における双璧の片方が死にましたな。漢軍に対抗する西晋の切り札っぽかったので、この張飛みたいなあっけない死は残念ですな。
張方のイメージは若い時の董卓ですね。史実や石珠演義を見ても、やはり、祁弘の方が強かったのでしょうね。史実上の彼は歴戦の武将という感じで、名将までは至らないと思えます。
成都王が張方を贔屓し、祁弘との心理的距離が垣間見えた描写の複線が解消されたわけですね。
しかし、河間王・司馬顒は張方が暴走した面もあるとはいえ、他人に責任を押しつけたり、成都王への対応をコロコロと変えたり、かなり、自己中な性格の強欲な機会主義者に見えますな。史実では斉王・司馬冏の使者を殺したのに、司馬冏の方が優位と見て、司馬冏側について、趙王・司馬倫を攻撃したというエピソードが残っています。
作者からの返信
こんにちは。
>張方
確かに、序盤の漢の武勇の象徴だった齊萬年の死とは大きく違い、極めてあっさりした謀殺でした。祁弘と比較すると権勢欲もあり、人間臭くて好きな登場人物でした。
董卓と重なるのは洛陽から帝を長安に連行したあたりのイメージ的な重なりが大きいかも知れません。
>河間王・司馬顒
『晋書』では「少有清名、輕財愛士」とありますから、若いころは親分肌の人物だったようですが、事績を見ると機会主義者というのがふさわしいようですね。
こういう人を重鎮とせざるを得なかったのは、晋の不幸なんでしょう。そりゃ一度乱れたら総崩れになりますわね。。。
編集済
第三十六回 東海王司馬越は兵を会して張方を討つへの応援コメント
三国志後伝の世界にも冀州刺史はいたんだ(笑)。今まで散々、治下の諸郡が漢軍に攻められ、陥落してきたのに全く対処もせず、十四路諸侯として大会戦に加わらず、渤海や襄国も見捨て、八王の乱に加わるとは、温羨はとんでもない不忠にして無能の極みです。
と、講談を本気にしたら、とてつもない冤罪が起きますな(笑)
劉喬もなぜ、河間王・司馬顒の味方をしたのか良く分からないままでしたね。ただの権力争いかな。三国志後伝は恵帝を害し、懐帝を圧迫する東海王・司馬越が一貫して悪役ですからね。さすがに、河間王よりはマシな気はしますが。おまけに鉅鹿知府事の劉喬と同一人物か別人か謎のままで終わりました(笑)。なお、彼は三国志の劉廙の従孫にあたります。
劉喬はこの後はもう活躍はなく、最期に名前が出るだけなので、ここで十六傑のリストから落とすことにします。すでに脱落者が四名目です。
西晋十六傑(十四路諸侯+二)
✕ 征西大元帥・陸機
荊州刺史・劉弘
西涼刺史・張軌
幽州惣官・王浚
揚州刺史・陳敏
幷州刺史・劉琨
廣州刺史・陶侃
青州刺史・苟晞
✕ 豫州刺史・劉喬
樂陵太守・邵續
滎陽太守・李矩
✕ 雍州刺史・劉沈
順陽太守・張光
✕ 武威太守・馬隆
南平太守・應詹
南中郎将・祖逖
【追伸】
三国志後伝・第五十七回に鉅鹿知府事の劉喬と同一人物であることが明言されていますね。失礼しました。
按《晉史》:劉喬字仲彥,南陽人也。其先漢之宗室,世封安眾侯,蔭襲。至三代祖劉奈魏侍中,父劉阜為陳留守。喬少為秘書郎,王戎引為參軍,同伐吳有功。復與羅尚濟江,大敗吳將留憲。又破武不還,授滎陽令,封關中侯。後遷鉅鹿太守。以許戌戰死於漢,喬走回洛陽,齊王拜為尚書右丞。
作者からの返信
こんにちは。
〉冀州刺史はいたんだ(笑)
通なツッコミをありがとうございます。魏郡が危ないのに冀州からは出兵しないという。
そこ喉元ですよ、奥さん。幽州から出兵した王浚を見習え。
〉温羨
冀州刺史への疑惑はさておき、史実の温羨さんは東海王の成都王攻め後に冀州牧となっていますから、踏襲するなら冤罪です。そこを混ぜていいのかは微妙ですが。まあ面白けりゃなんでもあり、史実もファンタジーもテキストとしては等価ですから、受け手次第でしょう。
〉劉喬
史実でも東海王に敵対していますから、それを踏襲した感じでしょうかね。その後に大赦で許されたようですが。
〉鉅鹿知府事の劉喬
前作の「第七十一回 劉霊は鉅鹿に戦う」に登場している彼と同一人物だと思いますが、証拠はありません。思い込みかも。一応、知将キャラつながりということで、同一認定しています。
〉劉廙
マイナー。
劉表に殺された劉望之の弟、と言われてもなあ、ですね。お兄さん含めて誰やねん、と。
長沙定王劉発の末裔だそうですが、中山靖王劉勝の末裔である劉琨と劉輿とは不仲というか、敵対関係に近かったようです。さすがに同族意識はなかったんでしょうね。
興味深い事例です。
第二十九回 段末杯を釈いて遼西に帰すへの応援コメント
永嘉六年にあった襄国の戦いの前倒しですな。
段部鮮卑の力は強くて、実際に石勒は正面からは勝てず、突門の計略を使っても勝てなかったようです。劉淵も拓跋鮮卑には負けまくりなので、内地に入っていった匈奴や羯は、純粋な騎馬民族にはかなわなかったようですね。
意外とイメージと違って、馬を持っていない匈奴の民も多かったかもしれません。
この段末杯解放の件は、この時代に珍しく寛容がうまくいった事例ですな。かえって、正義の味方っぽい段文鴦の方が史実では段末杯を殺してでも石勒を討つように進言しており、石勒・張賓の人心掌握の巧みさを感じます。
しかし、この段階で石虎はもういたのですね。今回の翻訳で初めて気付きました。
作者からの返信
こんにちは。
>永嘉六年にあった襄国の戦いの前倒しですな。
枋頭戦もそうでしたが、石勒の山東攻略の時系列を入れ替えた感じですね。それだけに前後との辻褄が合わなくなっています。
>内地に入っていった匈奴や羯は、純粋な騎馬民族にはかなわなかったようですね。
しかし、これより百年ほど過ぎても、山西の匈奴は歩落稽と呼ばれたり、山胡と呼ばれたり、漢族とは同化していないようです。半農半牧で暮らしていたんでしょうかね。
>石勒・張賓の人心掌握の巧みさを感じます。
ここで段部を取り込んだことが後々に利いてくるわけですが、それはさらに先の話となります。
>この段階で石虎はもういたのですね。
石虎の初出は「第二十三回 石勒は計にて枋頭を取る」ですね。最後の張賓の献策に王伏都とともに名が挙げられています。
第三十三回 呂律は楊謙を斬って漢に降るへの応援コメント
しかし、他軍と連繋する予定ならともかく、張顕兄弟とか呂鐘兄弟とか、20万の大軍相手に「襄陽守城録」の趙淳に否定された「真っ昼間から正面から打って出る」作戦をとりたがるのか(笑)
講談だから仕方ないというのが答えでしょうけど、城に籠もって包囲されたら、周囲は降伏して補給を受けられず、じり貧になることはケースが多いから実際は一概には言えません。
今回の呂鐘・呂律兄弟が晋軍の有力な人物で仲間に加わった唯一のケースですね。三国志演義なら、忠義を尽くそうと敵将を礼遇して心服させることが多いのですが、その唯一のケースが、一族が助かりたくて、忠義を尽くそうとする部下に言いがかりをつけて殺して降伏とは、酉陽野史はこういうところはシビアですな。呂律も「漢王朝こそが正統。俺は真の天子に帰順する」ぐらい言えばいいのに誰も言ってくれない(笑)
関兄弟のキャラがやっと立ってきました。関山は関防の弟ですね。関心の兄とする『通俗續後三國志』の人物紹介は間違いでしょうな。関防は勇猛であるが落ち着いた重厚な性格で、関謹は真面目で大人しい性格、関山は気が強い荒々しい性格、関心は冷静で知謀と捕獲にすぐれているようです。
また、関心の『母の鮑家に伝わる紅錦套索の術』はニヤリとさせるところですね。演義にない関索伝説まで取り入れるとは酉陽野史の三国志愛の深さを感じます。
作者からの返信
こんばんは。
関氏兄弟の見せ場です。
〉「真っ昼間から正面から打って出る」作戦
講談ですから(キッパリ)
〉一族が助かりたくて、忠義を尽くそうとする部下に言いがかりをつけて殺して降伏
楊阜が馬超を走らせた際の史実を裏返した感じです。あの時は、家族が馬超に従うことを拒否して徹底交戦しました。翻案したわけですね。
〉『母の鮑家に伝わる紅錦套索の術』
元代に成立したと見られる『花関索傳』によるものなのですね。鮑三娘が関索の妻とされており、それを引いてきた、と。
失われていたとはいえ、明代には一般的な演目だったのかも知れませんね。なかなか興味深い箇所です。
第二十七回 石勒は襄國郡を奪い取るへの応援コメント
これは、講談ではよくある策略ですが、通常は援軍が来たと思い、出撃したところを包囲する形になるのに、今回は徐玖珮と徐玖瓊が知略にすぐれているためか、偽装した援軍に合流した上で、味方を打ち破らせて、一緒に城に入る形にしていますね。
この形では騙されないものはほとんどいないと思われますが、味方に本当に損害を与えねばなりません。これほどの大軍の戦いなら死傷者も千単位でないと不自然でしょう。ずいぶん、思い切った策略です。
なんとか理屈をつけると、游綸と張豺の率いていた五万は雑軍だと思われるので、これを犠牲にしたということでしょうか
作者からの返信
こんばんは。
計略としては徹底していますね。『アルスラーン戦記』でもヒルメスをおびき出すために同じような策略を使っておりました。
今回は羌族の兵に鮮卑兵を装わせ、漢族を中心にした軍勢が申し訳程度に戦ったわけですが、誰の軍勢という明言はありませんね。それに、趙染や趙概が出て一騎打ちに持ち込んでいますから、軍勢は蹴散らされた程度で死者はほとんどなかったんじゃないですかね。
徐玖珮が蹴散らした軍勢以外は、死体ではなく鎧兜を放り出して逃げていますから、逃げ足もさぞ早かったことでしょう(笑)
第二十六回 邵祿は石勒の軍に降るへの応援コメント
確かに、本当にあっという間に、なんの前触れもなく、石勒が主帥となり、王彌が先鋒となっていますね(笑)。実態は張賓・張兄弟・趙兄弟がグルで乗っ取ったということは考えられそうですが、王彌がなんの抗議もせず、劉淵が認めていますな。
さすがに、これは封神演義の原典同様、批判されても仕方が無い・・。
邵祿の僚佐の応対には笑いました。『参軍に従うのみです。異論がある者はおりません』と言っておいて、お前ら、なあ(笑)
作者からの返信
こんばんは。
ね。なかなか大陸的ですよね。こまけーこたあいいんだよ的。
このあたりが大味なんですよねえ。。。
>参軍に従うのみです。異論がある者はおりません
なかなか笑える展開です。
邵祿も困っただろうなあ。
おいおいと思いますが、息抜きとしては面白いです。
編集済
第二十二回 王彌と劉霊は壷関を取るへの応援コメント
久々の漢軍の出番ですな。八王の話が陰惨になってきたところで「待ってました!」と感じです(笑)。
劉霊と王彌が主帥で関防より上ですか。意外ですな。郡陥落ではそれほどの差は見当たらないと思えたし、関防は敗戦もないと思ったのですが、大会戦で、祁弘・張方を止めた功績が大きく認められたようですね。胡延兄弟の姓も史実通り、『呼延』となっているように、実際は史実重視の流れなったという事情からでしょうけど。
しかし、籤引きとありますが、張賓・姜発と石勒・劉曜が北路か南路かは、兄弟・腹心関係からほとんど内定人事(^_^;。張賓が決めてしまっていた感がありますな。すでに漢軍にも派閥が構成されていますね。
漢軍のリストは今後は不要と思いますが、思い出しのために、『續三國志演義』の最終時点における漢軍メンバーのリストをつけておきます。
楊興寶は書いていた通り、死亡か引退でフェードアウト
調べたところ、陳國賓、靳都、喬昕、喬旿、喬晬、普魯は今後は出てこないのはリストから落とします。おそらくはこの時点では南路の副将に含まれてはいたのでしょうが、今後のどこかの段階で脱落したのでしょう。
劉和は実質フェードアウトしているのですが、明確な描写がないのと、史実を考えて、このまま残しています。
劉淵(字は元海)、劉和、劉聰(字は玄明)、劉義、劉曜(字は永明)、劉霊(字は子通)、劉宣、劉累、劉歓、劉膺、劉宏、劉欽、劉雅、諸葛宣于(字は修之)、関防(字は継雄)、関謹(字は継武)、関河(字は継遠)、関山(字は継安)、関心(字は継忠)、張賓(字は孟孫)、張實(字は仲孫)、張敬(字は季孫)、張雄、趙染(字は文翰)、趙概(字は文勝)、石勒(字は世龍)、黄臣(字は良卿)、黄命(字は錫卿)、姜發(字は存忠または継約)、姜飛(字は存義または守約)、呼延晏(字は伯寧)、呼延攸(字は叔達)、呼延顥(字は季淳)、呼延氏、王彌(字は飛豹)、王如、王邇、廖全、廖翀(字は鳳起)、楊龍(字は元化)、馬寧、汲桑(字は民徳)、孔萇(字は世魯)、刁膺、支雄(字は世英)、虁安、曹嶷(字は子高)、桃豹(字は露化)、桃虎、桃彪、靳準、靳術、崔游、游光遠、陳元達(字は長宏)、崔瑋、許遐、王伏都、徐光(字は普明)、程遐、趙固、周振、范隆、朱紀、劉徴、劉寶、張曀僕、張越、孔豚、趙鹿、呉豫、劉膺、支屈六、呼延模、馬荷、盧忝、鮮于豐
追伸
胡莫も調べたら、なかったのでリストから消しておきます。こちらは北路の副将だったのでしょうけど。
作者からの返信
こんにちは。
> 八王の話が陰惨
漢の話はほっとしますね。十八章はさらに陰惨になりますので、一息ついた感じがあります。十六章から連続で読むとキツイです。
> 劉霊と王彌が主帥
これがまた微妙で、後段では劉聰が同行する劉曜はともかく、石勒は明らかに主帥となります。
> 史実重視の流れなった
本作では史実の時系列を入れ替えた箇所がけっこう見られます。なので、面妖なところも多々あります。
> 内定人事
戦ともなると、戦勝を挙げた主帥と謀士を入れ替えることはハイリスクですよね。なので、前作の晋漢大戦で両道に分かれたメンツはあまり動いていないかな、と思います。
> 楊興寶
あれだけ活躍したのに。強すぎた感じはありますね。
> 陳國賓、靳都、喬昕、喬旿、喬晬、普魯
このあたりはまさにモブの中のモブ、史実重視の流れではフェイドアウトやむなしですね。
> 劉和
彼を出すとお家騒動待ったなしですからねえ。これも仕方ないところです。
編集済
第十九回 石超は大いに東海王司馬越を破るへの応援コメント
あれ? 續後三國志演義でも成都王・司馬穎は皇太弟になっていますか?
三国志後伝第七十四回の
『河間王聽說,乃遣人上表,言:「宜以成都王為太弟,詔入東宮,以衛政治,以壯國本。司馬覃已廢,且在衝幼,不宜再入。」惠帝勉受其奏,不行頒召。』
の最後は、どのように訳すべきでしょうか?
追伸
ありがとうございます!
実態を伴っているが、あくまで自称というわけですね。
リストでは形式にあわせて、今のままにします。
司馬穎としては、恵帝が死んでも実力で皇太弟であったことを
証明しなければならない、あるいは証明すればよかったのですね。
本当、乱世ですね。
作者からの返信
こんにちは。
筋を読む限り、上奏を受けたものの、詔を降して東宮には迎えなかったと解してよいです。
いわゆる、事寝不報または不行と言われるヤツですね。上奏されても応えない、行わない。
が、この時期の司馬衷に実権があったかと言うと。。。河間王が支持して成都王がその気になれば、既成事実化も可能な状況です。
そのため、河間王派、成都王派とそれ以外で筋をとるか、既成事実を取るかで認識が異なるように思います。
結果、後段でも成都王を皇太弟と呼ぶ事例はいくつか見られます。詔は下されていないのに。乱世です。
編集済
第二十回 王浚は大いに成都王司馬穎を破るへの応援コメント
『續三國志演義』で史実を先取りした斉王・司馬冏のかけた司馬騰・王浚による成都王・司馬穎攻撃のフラグが折られず終いで、ついに実現してしまいました。
東瀛公・司馬騰は史実では東海王・司馬越の弟なのですが、三国志後伝では司馬越は司馬炎の子なので、兄弟ではないのでしょうか。
八王と十六傑以外の西晋側で読者が憶えている可能性が高いであろう石超と牽秀もここで退場ですね。祁弘と友軍として助け合い、ともに馬を並べて漢将と一騎打ちに挑んだこともあったのに、その祁弘に討ち取られるとは。声もかけずに石超を囲んで無情に討ち取るところなど、祁弘も戦闘マシーンのような雰囲気ありますな。
羊献容と司馬覃は司馬越により復位していましたが、恵帝は司馬穎に囚われ、洛陽は張方に占領されて、また、廃位されております。史実では少し前後の関係が違いますが、それをリストでは反映しています。
なお、三国志との関係では、石超は石苞の孫、牽秀は牽招の孫です。三国志後伝を見る限り、武勇だけは先祖勝りのようですね。
(帝室)
恵帝:司馬衷
皇后:羊献容→空位
太子:司馬覃→空位
執政:司馬越→司馬穎・司馬顒
(八王)
成都王・司馬穎
河間王・司馬顒
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
呉 王・司馬晏
范陽王・司馬虓
東瀛公・司馬騰
予章郡王・司馬熾
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃
新野王・司馬歆(死亡)
東安王・司馬繇(死亡)
追伸
>孫氏は異民族と絡んだイメージが薄いです。
孫呉は山越が有名ですね。川本芳明先生の「中国の歴史 中華の崩壊と拡大」でも少しページが割かれています。
作者からの返信
こんにちは。
結局、章名は六十四卦のうち最悪のものにしてみました。さて、誰が生き残りますか(すっとぼけ)。
〉斉王・司馬冏のかけた司馬騰・王浚による成都王・司馬穎攻撃のフラグ
第六十五回 成都王司馬穎は職を辞して鄴城に還るにありますね。忘れてましたよ。。。
〉司馬騰
司馬越との絡みが全然出ないですね。悪巧んだ描写もないし、兄弟じゃない設定なんですかね。ナゾ。
〉石超と牽秀
成都王を支えた代表的な驍将です。張方と祁弘の次に目立っていたんじゃないでしょうか。
〉祁弘
生臭い張方のが人間味あります。こちらの方はキラーマシーン的というか、キャラ立ってないというか、戦以外のことをしないというか。バケモノちっく。
〉司馬覃
皇太弟も司馬熾だったり司馬穎だったり、時々により一定しません。基本的にどうでもいい話ではありますが、マジメに読むと混乱必至です。
〉牽招
ほう。。。田豫、満寵と同じハコですね。袁紹→曹操ルートで東北の異民族対策に捧げた一生と言っても良さそう、演義に出ないのも仕方ないかあ。名臣に近い扱いですね。勿体ない勿体ない。
曹操と袁紹の争いは、烏桓や鮮卑が絡んでくるんですよね。馬超にもれなく羌族が絡んでくるのと同じではありますが。蜀漢は羌族や板循が絡んでくるけど、孫氏は異民族と絡んだイメージが薄いです。
ははそさんの広州モノがそれに近いのかなあ。。。
※
〉山越
北方版では致死軍になってましたか。呉は江南の開拓にあたったわけですから、先住民との戦いはありますね。忘れてました。
編集済
第十八回 東海王司馬越は鄴城を攻めんと欲すへの応援コメント
何回も死んでいた郭勱がやっと、ここで正式に死にましたね(笑)
今回、成都王・司馬穎は盧志の献策どおり鄴に戻りましたが、結局、無駄でしたな。これは、斉王・司馬冏が用いれなかった王豹の策と同じで、政府が安定しなければ、どうにもならないということです。司馬冏が影響力を持とうとしたら必ずこうなったでしょう。長沙王・司馬乂を私が擁護したのは、こういう理由ですね。
東海王・司馬越の立場としては、司馬穎が皇太弟であるため、恵帝が死ぬ前に仕掛ける必要があるわけで、屈服させられた洛陽の親軍や司馬乂配下の怨みが司馬穎に集まっている間に決起したところでしょうか。司馬乂配下としては司馬越は裏切り者ですが、厭戦気分で共犯になってしまったものも多いわけで、その点をうまく突いた形でしょうか。
なお、三国志後伝は私の勘違いで皇太弟になっていないので、前回のリストもあわせて修正しておきます。
また、『續三國志演義』45回に出ていた東安王・司馬繇も死んだため、リストで✕にしています。文鴦を楊駿討伐の際に、讒言して、族滅に導いた彼ですが、立派な人物のようにここでは描かれています。人間とは複雑なものですな。
(帝室)
恵帝:司馬衷
皇后:空位→羊献容
太子:空位→司馬覃
執政:司馬穎・司馬顒・司馬越→司馬越
(八王)
成都王・司馬穎
河間王・司馬顒
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
長沙王・司馬乂(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
呉 王・司馬晏
范陽王・司馬虓
東瀛公・司馬騰
✕ 東安王・司馬繇
✕ 新野王・司馬歆
予章郡王・司馬熾
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃→太子へ
作者からの返信
こんにちは。
> 郭勱
まだ死んだままなんで、いずれ直さないといけませんね。
> 成都王・司馬穎は盧志の献策どおり鄴に戻りましたが、結局、無駄でしたな。
司馬穎が安閑としておれたのは、司馬乂が中央を安定させていたから、という理解ですね。司馬越のような腹に一物がある人ではいかんわけです。
> 司馬乂配下の怨みが司馬穎に集まっている
司馬越が流言を流せば簡単に信じる人も多かったでしょう。死に方が死に方でしたからねえ。。。後段にも出ますが、 司馬乂の部将で司馬越に与した人が多く現れます。
> 東安王・司馬繇
「美鬚髯,性剛毅,有威望,博學多才,事親孝,居喪盡禮」ということで、無能な人ではなかったようですね。「亮惑其說,遂免繇官,以公就第,坐有悖言,廢徙帶方」と派手に飛ばされたこともあり、なかなかの苦労人です。しかし、帶方って。。。「惠帝之討成都王穎,時繇遭母喪在鄴,勸穎解兵而降。及王師敗績,穎怨繇,乃害之」を見ると、逆恨みで殺された感がハンパないです。そういう面では、この描写もあながち誤りではないかもですね。
> 文鴦
文俶=文鴦なんですね。段部かと思いました。
「東夷校尉文俶父欽為繇外祖諸葛誕所殺,繇慮俶為舅家之患,是日亦以非罪誅俶」ということで、司馬繇の母方は諸葛誕の血筋なのですね。動機は分からなくないです。しかし、司馬氏と諸葛氏も複雑な関係ですね。
編集済
第十七回 東海王司馬越は長沙王司馬乂を殺すへの応援コメント
いよいよ、八王の乱も大詰め第七幕が終わりました。恵帝にとっては最後の希望である長沙王・司馬乂が死に、野心に満ちた三王が残り、完全に悪魔が微笑む時代(笑)となりました。なお、東海王・司馬越は三国志後伝だけではなく、資治通鑑でも悪役で、ただ単に命欲しさではなく、謀略として長沙王を捕らえたこととなっています。
恵帝は、三王の誰かが勝ち残った後に、用済みとして殺されるか、無理に禅譲させられるか、完全に意志を奪われた傀儡となるか、どれかの運命しか待っていなかったと思われます。もはや、恵帝に天命を感じるものはほとんどいないでしょうから。
史実におけるこの後の八王の乱は誰にも感情移入できず、読むに耐えがたいものになりますが、酉陽野史が大会戦から、成都王・司馬穎をある程度は善人に描いており、これからは成都王に感情移入するようにしているのが救いでしょうか。正直、三国志後伝がなければ、八王の乱は資治通鑑での飛ばし読みしていたかもしれません。
リストでは執政として残った三王が権力を分け合う形とし、第十八回にまたがりますが、羊献容は廃位され、司馬覃は廃太子となり、清河王に戻り、司馬穎が太弟(皇帝の位を継ぐ皇帝の弟)となります。
(帝室)
恵帝:司馬衷
皇后:羊献容→空位
太子:司馬覃→空位
執政:司馬乂→司馬穎・司馬顒・司馬越
(八王)
✕長沙王・司馬乂
成都王・司馬穎
河間王・司馬顒
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
呉 王・司馬晏
范陽王・司馬虓
東瀛公・司馬騰
東安王・司馬繇
✕ 新野王・司馬歆
予章郡王・司馬熾
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃
追伸
>それだけに整理して掘り下げると面白いのかも知れませんが、
>やっぱり面白くないかも。悩ましい。
多分、余程好きでなければ、面白くはないかと(笑)あまりにも短絡的な私権化か公論の暴走というのは、なかなか理解しにくいからですね。ひょっとしたら、現代でも多く見られる光景かもしれませんが、分析できるということがその熱情と遠ざかることですから。
>手元の十八章は章題が難しいです。
八王呑噬:成都王司馬穎・河間王司馬顒
でどうでしょう?
作者からの返信
こんにちは。
〉完全に悪魔が微笑む時代(笑)
もはや恵帝司馬衷に敬意を払う者はなくなり、いよいよ晋の行く末が危ぶまれます。もはや権威も何もあったもんじゃない。訳していてもなかなかツライものがあります。
〉司馬越
完全に悪役なんですね。しかし、彼には彼の動機があったはずで、そのあたりを深掘りした小説も読んでみたいものです。
〉成都王・司馬穎をある程度は善人に描いており、これからは成都王に感情移入するようにしている
そのようですね。それにしても、善い終わりを迎える見通しが全然ありませんが。。。
八王の乱は「何かやってんな」程度しか認識できませんでした。錯綜しちゃってもう。。。それだけに整理して掘り下げると面白いのかも知れませんが、やっぱり面白くないかも。悩ましい。
〉司馬穎・司馬顒・司馬越
枝が茂って幹が枯れる、ですね。曹魏を反面教師にした晋の末路でありますが。曹叡が無気力なら、こんな感じになったのかなあ。曹魏にはまだ後漢から続く皇帝の権威があったように思いますが、このあたりが東晋に始まる南朝の皇帝権の弱さを生んだのかも知れませんね。
手元の十八章は章題が難しいです。なんかもう死にまくり。。。
※
〉多分、余程好きでなければ、面白くはないかと(笑)
そうかもしれませんね。
どこか感情移入できないと面白くないはずですし。
事実を羅列されてもなあ、という感じになりそうです。
〉八王呑噬:成都王司馬穎・河間王司馬顒
ほら、やんごとないお方も退場されるじゃないですか。それが引っかかるんですよね。
第十五回 劉沈と張光は長安を攻むへの応援コメント
ここの戦闘は好きですね。どっちが勝ってもおかしくないし、城内に入り込んだ軍勢が孤立するというのは珍しい展開です。大体は城内に侵入したら、城門を簡単に奪えるのですが、守城兵器が活躍しましたな。『進軍が遅れたため、負けた』という描写があるだけの史実をここまでリアリティを持たせた手腕が見事ですね。
また、あの上官晶と互角に戦った衙博がここでも強かったのはよいですね。こういう脇役でも武将の強弱が唐突に変わるところが少ないのが、三国志後伝の長所でしょう。
なお、通俗續三國志百二十八回で霍原はすでに死んでいますが、ここらは気が向いたら注釈ください。(笑)
張光とのやり取りを見ると、河間王もそれなりに士を遇する気概はありそうです。こういうそれぞれに見所があるところが、八王の乱の昏迷を深めたのかもしれません。
十六傑は三人の欠員です。張光はまだこれから先に活躍があります。
西晋十六傑(十四路諸侯+二)
✕ 征西大元帥・陸機
荊州刺史・劉弘
西涼刺史・張軌
幽州惣官・王浚
揚州刺史・陳敏
幷州刺史・劉琨
廣州刺史・陶侃
青州刺史・苟晞
豫州刺史・劉喬
樂陵太守・邵續
滎陽太守・李矩
✕ 雍州刺史・劉沈
順陽太守・張光
✕ 武威太守・馬隆
南平太守・應詹
南中郎将・祖逖
作者からの返信
こんばんは。
〉城内に入り込んだ軍勢が孤立するというのは珍しい展開
さすが長安ですなあ。。。規模が規格外なんでしょう。
〉守城兵器
兵器というか、シャッターですよね(笑
〉『進軍が遅れたため、負けた』
簡素ですね。後続する軍勢が遅れて間に合わないか。。。北周武帝の北齊平定戦に似たような局面があった気がします。門が閉まって取り残される感じで。こちらは助かりましたが。
〉上官晶と互角に戦った衙博
『通俗續三國志』第九十三回 李流の輩は官寨を夜襲す、でやり合ってますね。上官晶は李特の部将としては屈指の猛将ですから、衙博も相当なものです。
〉霍原
ご指摘ありがとうございます。
林成も頑張ってますね。先を急ぐので最近は開き直り気味になってきました(笑
〉河間王もそれなりに士を遇する気概はありそう
最初は小物クサイ感じだったんですけどね。段々とレベルアップしたんですかね。こうして見るとなかなかの器ですが、司馬氏は人格が不安定なのかなあ。。。齊王、成都王にも見られる傾向ですし。
通読したのにこの後の張光の出番とか全然覚えてない。。。ヤバイなあ。
第十二回 孟玖は讒して陸機を殺すへの応援コメント
ついに、三国志後伝における西晋側の主人公と言える陸機が死にました。史実では軍事実績は七里澗の戦いにおける敗北のみなので、三国志後伝においては諸葛亮に対する司馬懿程度の活躍の場を与えられて、よかったと考えるべきでしょうか。「祖逖や盧志の方が上なのでは?」と感じさせたのもバランスとしては崩壊しない軍事能力であったと考えます。
陸機と盧志は世説新語では仲が悪かったようで、世説新語では盧志が讒言したことになっていますね。正史や資治通鑑では盧志は一貫して善玉なのでそのような記述はないようですが。
華やかな才能と剛直さ、空気の読めなさ(笑)。やはり、陸遜の孫、陸抗の子だなという感じを受けますね。陸雲の方は温厚でおそらく陸機より人望が勝り、兄がいなければ生き残れそうな感じもするので残念ですが。
しかし、十六傑も早くも二人目の欠員が出ましたな。
西晋十六傑(十四路諸侯+二)
✕ 征西大元帥・陸機
荊州刺史・劉弘
西涼刺史・張軌
幽州惣官・王浚
揚州刺史・陳敏
幷州刺史・劉琨
廣州刺史・陶侃
青州刺史・苟晞
豫州刺史・劉喬
樂陵太守・邵續
滎陽太守・李矩
雍州刺史・劉沈
順陽太守・張光
✕ 武威太守・馬隆
南平太守・應詹
南中郎将・祖逖
作者からの返信
こんばんは。
ついに陸機が退場しましたね。同じ呉の遺臣でも、齊王の許を逃れて江南に帰った顧榮とはまったく違う路を辿った感があり、なかなか難しいものです。
華亭の鶴唳は史上の名場面の一つとも言えますが。。。
〉祖逖や盧志の方が上なのでは?
劉弘や陶侃のような重鎮もおりましたし、扱いは妥当だったんじゃないでしょうか。バランスとしては程よくまとまっていたと思います。
〉陸機と盧志は世説新語では仲が悪かった
父祖の諱を呼ぶネタがありましたね。仕掛けたのは盧志でしたから、なかなか性格がよくない。まあ、二人とも名家の出自ですから、仕方ないですね。
〉正史や資治通鑑では盧志は一貫して善玉
ふうむ。そう言えばそうですね。生々しさでは新語に軍配を上げたいところですが、盧氏は確か唐代まで続く博陵の名家でしたっけねえ。。。という点などを踏まえると、何となく『晋書』の闇を垣間見た気がします。コワイコワイ。
〉陸雲
このあたりの文人の逸話は基本的に省かれます。軍談だから仕方ないのですが、本来の面白味をスポイルする部分でもありますね。
〉西晋十六傑(十四路諸侯+二)
二人目ですか。水滸伝もそうですが、こういうのは集まるまでが楽しくて、揃った後は減る一方なんですよね。アルスラーン戦記のように。。。なので、これからも容赦なしで減るんですよねー。寂寥。
第十一回 成都王司馬穎と河間王司馬顒の軍勢は洛陽に入るへの応援コメント
この時の七里澗の戦いは洛陽の恵帝・長沙王側と成都王・河間王側の戦力差は圧倒的に後者有利で、これは意外な結果だったようです。
勝因は司馬乂の軍事能力や人望か、趙王の時は戦わずして降った諸葛亮の八陣などを研究して訓練されていた洛陽の禁軍が強かったのか、成都王側に大軍の奢りと指揮官である陸機が呉人であるために従わず連繋がとれていなかったのか。関中の軍勢はよく精強と言われますが、こういう騎兵中心の兵力は決死の覚悟を決めた軍には弱い感じがしますな。
ところで、馬隆の息子の馬咸ですが、史実でもこの戦いで戦死しますが、実は成都王側だったようです。馬隆に対するイメージを壊さないための配慮でしょうね。史実での司馬乂の評価はさらに上がりますけど。
ただ、この戦いでも司馬乂の配下である祖逖の存在が薄いのは残念です。張方か成都王側相手にその配下の将とともに大暴れさせて、後々の伏線にした方が良かったとは思うのですが。
新たに三国志後伝に即した西晋の重臣たちのリストを作成しました。(名称は「魁!男塾」のパロディです)馬隆はすでに死んでいますので、リストでは✕をいれています。
西晋十六傑(十四路諸侯+二)
征西大元帥・陸機
荊州刺史・劉弘
西涼刺史・張軌
幽州惣官・王浚
揚州刺史・陳敏
幷州刺史・劉琨
廣州刺史・陶侃
青州刺史・苟晞
豫州刺史・劉喬
樂陵太守・邵續
滎陽太守・李矩
雍州刺史・劉沈
順陽太守・張光
✕武威太守・馬隆
南平太守・應詹
南中郎将・祖逖
作者からの返信
こんにちは。
来週いっぱいでネタ切れになりそうでヒーヒーなってます。
〉七里澗の戦い
やはり皇帝を擁する軍勢は強い、ということかも知れませんね。いわゆる官軍ですし。それにしても、洛陽の近傍で内戦とは、晋の混乱を象徴する戦でもありますね。
〉勝因
洛陽の付近は北の黄河と八関に閉ざされた地形になっており、かつ、その内は山もあって大小の河川が走り、騎兵ではなかなかに難しい地形が多い印象があります。東西魏がこの辺りでよく戦っていますが、奇襲や夜襲による決着ばかりだったような。
あとは、人的な問題と大義名分による士気の優劣が大きかったと考えています。
〉関中の軍勢はよく精強と言われます
関中は歩兵が強いイメージがあります。実際には関中にも朝廷の馬牧がありましたから、馬はよかったはずですが、幽州や并州のように鉄騎や突騎のイメージはあまりないですね。ほかの二つに比して人口が多い地域ですから、数が限られる騎兵が意識されなかったのかも知れません。
〉馬咸ですが、史実でもこの戦いで戦死しますが、実は成都王側だったようです。
伝を読んで意外な印象でした。このあたりでは長沙王=善、成都王と河間王=悪という書き分けだったんでしょうね。馬隆は善役なので悪に従うわけにはいかない、と。
〉祖逖
劉琨とは友人関係でともに晋に尽くしたわけですが、本作では劉琨を重視した感があります。并州は争奪の地ですし、鮮卑段部とも関わりますから、仕方ないですね。
後編になると東晋黎明期が描かれるわけですが、そこは王導が無双してしまい、河南に半独立勢力を築いた祖逖は残念ながらスポットライトから外れてしまった感じです。こんな変な人も少ないのに、惜しいですね。
〉「魁!男塾」のパロディ
梁山泊十六傑、懐かしいですね!
ニヤリとしましたが、分かる人は限られますか。
こうして見ると十四路諸侯の大半は本作にも登場するんですよね。そう考えると、前作の晋漢大戦は本作の布石としてよく効いています。
なるほどなあ。。。
編集済
第十回 成都王司馬穎と河間王司馬顒は長沙王司馬乂を討たんと欲すへの応援コメント
長沙王・司馬乂は恵帝を皇帝に戴いたまま、西晋を維持するギリギリ妥協できるラインを示したにも関わらず、ついに成都王・司馬穎と河間王・司馬顒はそれすらも破りました。
恵帝も追い詰められ、もう司馬乂に軍事力で勝ってもらうしか帝位を守る方法はありません。この回の恵帝は名君にすら見えますね。司馬乂の忠誠が恵帝の目を覚まさせたということでしょうか。
私は司馬乂が王豹を殺させたのは、これ以上司馬一族間の不信感が蔓延するのを防ぐためと考えます。王豹の計略を聞けば、司馬冏は助かるかもしれませんが、さらに大きな外鎮を一つ生み、西晋はもっと不安定となるからです。
また、司馬乂の治世時に大勢力である新野王・司馬歆が義陽蛮・張昌の反乱に遭い、すでに司馬穎と通じていたため、連繋を疑った司馬乂の許しを得られないために討伐の詔を得られず、張昌に攻められ戦死しています。續後三國志演義では記載されていませんが、リストでは司馬歆も死んだことにして処理します。
(帝室)
恵帝:司馬衷
皇后:羊献容
太子:司馬覃
執政:司馬乂・司馬穎→司馬乂
(八王)
長沙王・司馬乂
成都王・司馬穎
河間王・司馬顒
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
呉 王・司馬晏
范陽王・司馬虓
東瀛公・司馬騰
東安王・司馬繇
✕新野王・司馬歆
予章郡王・司馬熾
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃→太子へ
作者からの返信
こんばんは。
八王もすでに残り四人ですか。すぐ三人になってしまうわけですが。。。
〉この回の恵帝は名君にすら見えます
たしかに、大局を掴んで惑わされない姿は名君のそれですが。遅きに失した感が否めないです。もっと早く目覚めんかい。
〉司馬乂が王豹を殺させたのは、これ以上司馬一族間の不信感が蔓延するのを防ぐためと考えます。
史実においては、ですね。
まだ史上における八王の乱に対する定見はないので、意見をお返しできません。すみませんね。
読み込めば何か出てくるとは思いますが、今は翻訳上の問題箇所以外は正史にあたっていませんから。
やはり地理的なところが一番引っかかるんですね。嗜好とは仕方のないものです。
〉リストでは司馬歆も死んだことにして処理します。
司馬歆は趙王戦では一番に齊王に応じた人でしたが、成都王に通じていたと見られたのですね。
しかし、義陽蛮ですか。。。五渓蛮といい、荊州は南部山間地が広いのでかなり後代まで蛮族がいたようで、ナシ族も元は荊州だそうですし、荊州はなかなか興味深いです。『荊楚歳時記』には蛮習らしきものはあまりないので、南北格差が大きかったんでしょうね。
第九回 長沙王司馬乂は齊王司馬冏を殺すへの応援コメント
久々の八王の乱! その第六幕ですな。中央の政権を握っても洛陽内に決死の士を養っている軍事的に優秀な指導者がいれば簡単にひっくり返せるという教訓を、司馬倫と司馬允の戦いから学んでいなかった司馬冏の失敗ですね。
後伝でも史実でも、軍事力の時代になっているのに、いつまでも父の司馬攸を引きずっている司馬冏は時代遅れになっていました。
史実では言いがかり臭い司馬冏の誅伐ですが、三国志後伝の世界では安全なところにいて兵糧を絶つという行為に出たので、こういう結果は仕方ないでしょう。
死んだのは葛旟・董艾・路秀・劉眞・韓泰・衛毅の六人ということは、司馬倫との戦いで活躍した王義は生き残ったということでしょうか。字まで設定されていたのにフェードアウトはかなり荒削りな感じを受けます。
(帝室)
恵帝:司馬衷
皇后:羊献容
太子:司馬覃
執政:✕司馬冏・司馬越→司馬乂・司馬穎
(八王)
✕斉 王・司馬冏
長沙王・司馬乂
成都王・司馬穎
河間王・司馬顒
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
呉 王・司馬晏
范陽王・司馬虓
東瀛公・司馬騰
東安王・司馬繇
新野王・司馬歆
予章郡王・司馬熾
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃→太子へ
作者からの返信
こんばんは。
八王も少なくなりました。
〉中央の政権を握っても洛陽内に決死の士を養っている軍事的に優秀な指導者がいれば簡単にひっくり返せるという教訓
あー、これは確かにそうですね。クーデターが成功しやすい体制であり、結局は武帝の軍縮の結果、というわけです。郭欽や陶璜が諫言したのに。。。
〉安全なところにいて兵糧を絶つという行為に出た
分かりやすくワルモノと言うか、朝権を握ってはひっくり返されるの繰り返しになってしまい、その結果として権力奪取→劣化の繰り返しになっています。物語としては単調に感じてあまり良くないです。
〉王義
印象に残っていない。。。そもそも人が多過ぎる気が。。。人数に比してエピソードが少ないのが原因かも知れません。
編集済
第五回 李含は齊王司馬冏を謀るへの応援コメント
ここは第四回で書いた通り、史実では長沙王は小勢力なので、李含は河間王・司馬顒と成都王・司馬穎の軍勢で洛陽に圧力をかけて、長沙王を檄して斉王・司馬冏を討たせた上で、斉王に長沙王を殺させて、それを大義名分に斉王を討つつもりだったようですね。
長沙王が檄されたのは史実も同じですが、先に斉王が攻め込んでいるので、李含はわざと斉王に分かるように伝えた可能性が高いですね。
王豹を斉王に殺させたのは失策かもしれませんが、長沙王は斉王を裏切る気はなかったかもしれません。今後の展開を考えると、長沙王・司馬乂には強い主人公属性がありそうです。
八王の中で歴史ファンがいる人物がいたとしても、長沙王・司馬乂と東海王・司馬越だけでしょう。しばらくはこの二人に注目ですな。
作者からの返信
こんにちは。
〉斉王に長沙王を殺させて、それを大義名分に斉王を討つつもりだった
小勢力ですが洛陽にいたので、利用価値があったわけですね。そうなると、齊王自体にはそれほど責められるべき点がなかった、とも考えられそうです。
〉李含はわざと斉王に分かるように伝えた可能性が高い
河間王がこの策を使うなら、長沙王と齊王の間に確執があってもなくても成立しますから、長沙王が激して齊王に敵対したのか、李含に陥れられて已む無く抗ったのかは傍証を漁らないと分からないのかも知れません。分岐が多くなりますね。
〉王豹を斉王に殺させた
この時点では齊王と長沙王の間は悪くなかったでしょうから、長沙王の意図は齊王の評判を落とすか、あるいは、齊王に洛陽を離れられると困るか、または何も考えていなかったか、という感じでしょうか。
〉長沙王は斉王を裏切る気はなかったかもしれません。
だから、この推論も十分に成立する余地があるわけですね。
〉今後の展開を考えると、長沙王・司馬乂には強い主人公属性がありそうです。
政争に翻弄された犠牲者か、または諸親王を手玉に取ろうとしたトリックスターか、なかなか興味深い立ち位置ではあります。ただ、あまり良い終わりを迎えるのは難しそうです。(すっとぼけ)
〉長沙王・司馬乂と東海王・司馬越
八王の乱に詳しくない身からすると、ドングリ感がハンパない感じではありますが、知名度では抜きん出ていますかね。この後の数回はこの二人を軸に進んでいきますので、確かに注目ではあります。
行為が事実であっても動機まではなかなか見えませんから、利害が複雑に入り組んだ八王の乱は読み解くのが難しいのでしょうね。
こういう場合は事実だけを並べて傍証を搔き集めるのが常套手段ですが、かなり時間がかかりそうですし、結局はありきたりな推論に落ち着きがちなので、やってもつまんないかも知れません。
さんざっぱら検討されてきたでしょうしね。。。
第四回 王豹は諌めて却って殺戮せらるへの応援コメント
東海王・司馬越、葛旟、董艾が悪者になっていますが、実は史実において、この王豹の諫言を司馬冏に「小子、骨肉を離間す」と評し、「なぜ、銅駝下に討ち殺されないのか」といって、鞭殺させたのは、誰有ろう長沙王・司馬乂だったりします。まだ若い長沙王に深い魂胆がなかったと思われますが、本当、八王の乱の複雑さは本当異常ですね。
東海王に悪者になってもらって、なんとか、理解しやすくしようとした酉陽野史の苦労が忍ばれますな。
もっとも、史実の方の長沙王は、小勢力ゆえに洛陽がいたわけで、新野王・司馬歆の方が大勢力ではあったりします。表面上の実力と、実際持っている実力(トップの才覚や持っている精鋭)のアンバランスがまた、認識の違いを呼び、混乱を生んだのでしょう。
作者からの返信
こんばんは。
ご教示ありがとうございます。
> 誰有ろう長沙王・司馬乂だったりします。
これをそのまま書くと、「登場人物全部悪人」状態になるので、読者は混乱するでしょうね。しかし、『晋書』など史書によるとそうなるのであれば、何を以てそういう行動をしたか、という点を明確にできるとよいのですが。誰かチャレンジしてみないかな(他力本願)。
> 新野王・司馬歆の方が大勢力ではあったりします。
『續三國志』では小物風に描かれていましたが、司馬懿の孫、司馬駿の子ということで毛並みはよいのですね。この辺りは通史を一回丸呑みしないと見えないところだからなあ。。。いずれはやりたいですが、今は更新に集中ですね。
編集済
第二回 齊王司馬冏は驕横して禍を起こすへの応援コメント
なにげに、顧栄だけでなく、董艾は董遇の孫、何勖は何禎の子と何気に三国志の子孫が斉王配下に多いですね。誰だよ、そいつと自分でもいいたくはなりますが。
何勖は正史では五公なのに、孫恂に出番を奪われてしまいましたな。孫恂のモデルは正史では新野王・司馬歆の參軍・孫洵でしょうか。
しかし、「繡像三國志演義續編」とは何でしょうか? ネットで検索してもこのページしか出てこないのですが。よろしければ、ご教示ください。
追伸
こちらこそ、ご無沙汰しております。ありがとうございました。
こういうものもあるのですね。これは勉強になりました。三国志演義の続編について特集してある記事とかあったら読みたいものです。
この後に出てくる張翰は、張儼の子。孫恵は孫賁の曾孫とこれまたマニアックです(笑)
構図としては、晋の人物の子孫は高官として朝廷に、魏の人物の子孫は寒門として諸王の幕府に、呉蜀の人物の子孫は官僚として働き名声を得たら諸王の幕府に招聘という感じでしょうか。
再追伸
何禎は調べ直したのですが、魏の人だと思います。廬江出身ということで呉というご指摘ならよいのですが。
https://baike.baidu.com/item/%E4%BD%95%E7%A5%AF
https://baike.baidu.com/item/%E4%BD%95%E5%8B%96/19375903?fr=aladdin
作者からの返信
こんばんは。
ご無沙汰しております。
〉董艾は董遇の孫、何勖は何禎の子と何気に三国志の子孫が斉王配下に多いですね。
ほほう、そうなんですね。しかし、マニアックな感じですね。
杜預のパパンやグランパも三國志ではマニアックですから、しゃーないですよね。
〉「繡像三國志演義續編」とは何でしょうか?
あー、なんかなくなってますね。訓読があからさまにアカン感じでしたから、かなり調べたんですよ。
繡像三國演義續編
http://ctext.org/library.pl?if=gb&res=94632
コヤツですな。調べたのはたぶん昨年末なんですが、当時にあったページは直ヒットしませんでした。
見る限りでは清代に翻刻された明代小説ようです。
ちなみに『両晋通俗演義』に同文は発見できませんでした。解釈できませんから、原文は明らかな誤りであることは確実だと思います。
もう少し調べたいなー、と思いましたが、まいっかで済ましております。
※
〉「繡像三國志演義續編」
乱立する続編たちって感じです。
『両晋』を捻れば完成とも言えますから、やりやすかったのかも知れませんね。整理すると面白いんでしょうけど、書誌学の範疇ですから素人には荷が重そう。
董遇を除く何禎、張儼、孫賁は呉の人なんですね。董遇は「読書百篇」の由来、何禎は東晋の重鎮・何充を出した何氏の祖、けっこう重要そうに思いますが、全然知りませんでした。。。
呉や蜀の人はやはり西晋の頃には冷遇されたらしく、そういう話は散見されます。地域感情もあるんでしょうけどね。
孫洵は辞書登録をしくじってるクサイです。端末変えたからか。。。近いうちに一括置換します。
いかんなあ。。。弛んでますなあ。
編集済
第一回 成都王司馬穎は佞を避けて職を去るへの応援コメント
ついに、「續後三國志」がはじまりましたな。
祭りというべき大会戦が終わり、ドラマでありそうな硬い感じの歴史ものになった感じがします。
鍵を握るのは、八王の生き残りの五人。斉王・司馬冏、成都王・司馬穎、長沙王・司馬乂、河間王・司馬顒、東海王・司馬越ですね。この五人は、司馬顒は司馬孚の孫という血筋と地の利によるものが大きいでしょうが、司馬一族の中では傑出した駿才という感じは受けます。
もはや、恵帝に権威はなく、西晋の基盤も危うい状況ですが、斉王の認識はいまだ中央の政権を握ればなんとかなるというもののようですね。父・司馬攸の頃の認識が頭から離れなかったということでしょうか。
盧植の曾孫である盧志が司馬穎の参謀として、ぐっと存在感をつけてきました。晋側で盧志・祖逖は会戦時でも失策はありませんでした。こちらにも注目です。
太子が立てられたので、久しぶりに西晋のリストです。司馬覃が太子になっていたことを実は忘れていたので(笑)親公王のリストにも追加します。
(帝室)
恵帝:司馬衷
皇后:羊献容
太子:司馬覃
執政:司馬冏・司馬越
(八王)
斉 王・司馬冏
長沙王・司馬乂
成都王・司馬穎
河間王・司馬顒
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
呉 王・司馬晏
范陽王・司馬虓
東瀛公・司馬騰
東安王・司馬繇
新野王・司馬歆
予章郡王・司馬熾
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃→太子へ
追伸
>五胡クラスタのみなさまはむしろこっからがお楽しみでしょう。
私は三国志ファンなので除外ですね(笑)
実は、五胡は三国志後伝が終わるまでの時代までしか興味がほとんどないです。五胡の話題は、慕容恪のまとめとwiki改変以来、自分で原文や論文を全て当たらないといけないと感じ、さすがに面倒に感じました(笑)
>内訌の対立軸があんまり明確じゃない気がしました。
王の周りの寒族と皇帝の周りの貴族の対立が中心でしょうか。寒族同士も出身地により対立しやすい構造があるのでしょう。騒乱の範囲が洛陽で治まらず、鄴・長安と半径が段々広くなっています
>祖逖はもっと面白くできただろうに、と。もったいない。
祖逖は小説十八史略で知っていたので、初登場の時は、漢将キラーとして水滸伝の石宝ポジを期待したのですが、さほど強い描写がなくて残念でした。石勒に匹敵するスペックがあると期待したのですが。
作者からの返信
こんにちは。
〉「續後三國志」がはじまりましたな。
始まりました。五胡クラスタのみなさまはむしろこっからがお楽しみでしょう。
〉ドラマでありそうな硬い感じの歴史ものになった感じがします。
ここからはほぼガチの歴史小説ですよね。前半『續三國志』はなんだったのか。。。
〉司馬一族の中では傑出した駿才という感じは受けます。
通して朱を入れては見ましたが、内訌の対立軸があんまり明確じゃない気がしました。通読したら見えてきますかね。
〉斉王の認識はいまだ中央の政権を握ればなんとかなるというもの
外敵への危機感はなさそうです。洛陽は賈南風の頃からあまり代わり映えしませんが、長安、鄴との関係が大事になってきますね。
〉晋側で盧志・祖逖は会戦時でも失策はありませんでした。こちらにも注目です。
祖逖はもっと面白くできただろうに、と。『世説新語』とか参照するとなお楽しめます。もったいない。
〉久しぶりに西晋のリストです。
ありがとうございます。
すでに死屍累々ですが、八王の乱はまだまだ続きますから。晋の宗室は大変でしたね。うーむ、羨ましくない。
第一回 成都王司馬穎は佞を避けて職を去るへの応援コメント
永嘉三年 三〇九
wikiしか読んだことないけどこれっておかしいような気がする