芹ケ野りさ(銀行員)【9】

 エレベーターの階数表示を睨みつけた。「3」が「2」へ変わるのをじりじりとした気持ちで待つ。

「そういえば」と、川内が思い出したように声をあげた。

「芹ケ野さん、さっき――ジムでですけど、なにか言いかけてませんでしたか?」

「あ、いえ」

 淡い光の数字以外は極力目に入れないように努めながら、りさは言葉少なに応えた。

「もうよかったんです」

 川内もそれ以上は突っ込まず、「そうですか」と頷いて、正面の扉を見つめた。エレベーターから二階から一階へと至り、ポン、と到着を告げる音が鳴る。重い扉がなめらかに開き、フロアに出ようとした二人の目の前に血と臓物と汚物にまみれた男が両眼を血走らせ乱杭歯を剝き出しにしているのが見えた。

「え」

 声はそれしか出なかった。状況を把握するための時間はいささかも与えられなかった。

 血まみれの男が川内に摑みかかる。川内の悲鳴は、男の喉から迸る奇声で搔き消された。およそ人間のものとは思えない、音そのものが泡立つような濁った叫び。だが異様なのは声だけではなく、全身を濡らす赤黒い血だけでもない。川内をエレベーターの中に押し倒し、左腕にかぶりついた男――その腹部は大きく破れ、ぬらつく腸が溢れ出ていた。男が身体を動かすたびに、川内が必死に抵抗するたびに、太い縄のような臓物がぶらぶらと揺れ、なんだかよくわからない液体が跳ね散らされる。その凄まじい光景に、りさは身動きもできなかった。

 人間が、あんな状態で動けるはずがない。そもそも生きていられるはずが……。

「あがっ、ぎゃ――やめろッ、やめろ!」

 川内が身をよじり、のしかかる男を突き飛ばそうともがいている。だが男は餌を貪る狼の獰猛さで川内に啖いつき、首を激しく振った。肉を捩じ切ろうとしているのか。川内の悲鳴が高くなる。

 飛び散った血の雫が顔にかかり、りさは自失状態から我に返った。とっさにスポーツバッグを振りかぶり、男の身体に思いきり叩きつける。一度ではびくともしない。二度、三度と力を込めて叩き下ろすと、ようやく男の口が離れた。同時に川内が思いきり両脚を突き出し、エレベーターの反対側まで男の身体を蹴飛ばした。

「かわっ、川内さん、だっ、だい、だい……!?」

 咽喉が恐怖で痙攣し、うまく喋ることができなかったが、りさは倒れた川内を助けようと屈みこんだ。川内は彼女の手にすがり、嚙まれた左腕をかばいながら立ちあがる。――その目がさらなる動揺に見開かれた。りさも視線を追って振りかえる。

 男が壁に手をついて、立ちあがろうとしていた。その拍子に、破れた腹部から、どちゃりと重い音を立てて内臓が床にこぼれた。どぼどぼと大量の血がしたたり、下半身はくまなく赤く染まっている。それでも男は顔を上げ、その充血した両眼を立ちすくむ二人に向けた。ぽっかりと開けた黒い口腔、それをびっしりと覆う汚れた乱杭歯。

 なんなの、なんなのなんなの……。

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