阿蘇由実(会社員)【9】
店の中央に鎮座する白と赤の芋虫は、横転した救急車だった。なぜこんなものがここにあるのか、すぐには頭が働かず、由実はまわりを見まわすために首を巡らそうとして――まったく身体が動かないのに気づくと、目だけで店内を探った。あたりは砕けたテーブルや棚の木片、割れたガラスや散乱した商品で惨憺たるありさまだ。天井からは剝がれかけたボードがぶら下がり、電気配線がやられたのか、断続的に火花が降り注いでいる。そこかしこに横たわる人たちの姿。まったく動かないものもあれば、突きあげた腕を緩慢に振っているものもある。断たれていた聴覚が戻るにつれて、低いうめき声が聞こえてきた。それに重なる娘の泣き声も。
途端に意識が完全に覚醒した。目のまえに、涙と血で汚れた娘の顔がある。
とっさに、どうしたの、と訊こうとして、声がうまく出なくなっていることがわかった。喉がねばねばしたもの――気泡か何か――にふさがれているような感じで、うまく呼吸ができない。咳きこんでそれを押し出そうとしたが、力のない濡れた音がひとつ、喉の奥でぐぶりと鳴っただけだった。口の端から血が一筋流れたことに、由実は自分では気づいていなかったけれど、みのりの半狂乱になった表情で自分がどう見えるのかを察した。
遅ればせながら、全身をさいなむ痛みが由実の意識を叩きはじめた。背中が焼けるように痛くて、腰から下の感覚がない。首を巡らせるだけの力がどうしても出せないので、自分の身体がどうなっているのかはわからなかった。いったい何が……いや……そうだ、車が店に飛びこんできて、それで……どうしたのだろう。轢かれてしまったのだろうか。それに洋子は? 自分の目のまえに座っていたはずの洋子は、どこにいったのか――。
そのとき、視界の片隅に、床に倒れた洋子の右腕が見えた。見慣れた薄ピンクの腕時計――彼女が娘の亜美ちゃんからプレゼントされたと嬉しそうに話してくれたのを覚えていた――でそれがわかる。というより、由実はそう思った。だがすぐに自分の間違いに気づいた。床に転がったその腕には、肩から先がない。分解されたマネキン人形のそれのように、断ち切られた右腕だけがぽつんと瓦礫にまみれている。
状況が鮮明になるにつれ、パニックの発作が胸の奥から湧きあがり、由実の喉元をひきつらせた。しがみついてくる娘を抱きあげてここから離れたいが、立ちあがるだけの力はやはりない。それどころか、視界の隅を徐々に黒い靄が覆いはじめていた。
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