萬福博吉(農業)【9】
廊下の端まで這い進み、壁を支えにしてなんとか立ちあがる。
ぐらぐらと大波に揺られるような感覚に耐えながら、博吉は廊下を見渡した。みのりの姿はない。もつれ合っている三人の姿だけ――だが、あれはなんだ? 徐々に視野と意識がはっきりしてくるにつれ、その異様な光景が明らかになった。全員が倒れているわけではない。警備員の制服を着た男が仰向けになり、その身体に取りつくような格好で、学生らしき男女が四つん這いになっている。廊下を覆うように流れるあれは……血溜まりだろうか? 戦慄に棒立ちとなる彼の耳に、ようやく、獣のような低いうめき声と、何かをぐちゃぐちゃと咀嚼するような音が届きはじめた。
人が人を食べているのだ。少年が警備員の腕に嚙みついていた。腹部に顔を突っ込んでいた少女が上体を起こす。喰いしばった歯のあいだに、ずるりと引きだされた赤黒い臓物がぶら下がっていた。
正気でいられる光景ではなかった。何千何万という氷の蜘蛛が背中を這いずりまわるような感覚、抗いようのない恐怖に駆られ、博吉はほとんどその場から逃げだしかけた。
そのとき、三人の向こう、由実がいたはずの店のほうから、かぼそい泣き声が聞こえてきた。
破壊された店内から、小さなこぶしで目をこすりながら、みのりが歩いてくる。怪我をしたのだろうか、右頬にはりついた血が博吉の背筋を凍らせた。
彼が孫娘に気づくのと、警備員を貪っていた少女が顔を向けたのは同時だった。
血と汚物と肉片にまみれた少女に射すくめられ、みのりは小さな悲鳴をあげて立ちどまる。
――いけない! 思考が言葉になるよりも速く、身体は動いていた。みのりちゃん、と叫びながら走りだす。突然の、しかも急激な動きに、痛めた腰が悲鳴をあげた。一歩を重ねるごとに、激痛が鼓動のように弾ける。ふだんなら動けなくなるほどの痛みを感じながら、しかし博吉の足は止まらなかった。血腥くおぞましい少女が、動けずにその場で震えている孫娘にゆっくりと近づいてゆく。返り血で朱に染まった腕が、みのりを捉えようと伸ばされる。
みのりの眼がこちらに向けられた。赤く泣きはらした眼。泣くな、と頭を撫でてやりたかった。お母さんを一緒に探そう、と手を握ってやりたかった。子どもはあんな顔で泣くべきではなかった。あんな、すべてを失くしてしまったような……絶望したような顔で泣くべきではなかった。
おじいちゃん、と呼びかけるように大きく開かれた口が、少女の手に塞がれようとする。
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