第6話 タキの好きなサワの話
(タキ)
サワのことをいつ好きになったのかは、覚えていない。
友達だった。特別な友達で、サワも自分を特別だったらいいのに、と思うようになって、サワが笑うとそわそわするようになった。
学校の三階の廊下で、窓枠に凭れて喋っていた。そろそろ北風が冷たくなってきた頃で、窓ガラスがガタガタと鳴った。俺たちの後ろを女子が笑いながら走りすぎてゆく。サワとタキのクラスは別々で、だから喋るなら暖かい教室の外の、廊下だ。タキにはそれは全然苦ではなかった。サワはどうだったんだろう。
喋るっていっても、眠いとか寒いとかその程度で。窓に切り取られた冬の空は少し曇って、雲が早く流れてゆく。窓の下に、キリがないように黄色い葉を落とすイチョウを見ていた。
サワが面白がるように、ちょっと蔑むふうに笑って言う。
『だァって俺、お前のほかに友達いねぇもん』
『え、俺はいるぜ、ふつうに』
いっしょにすんな、とごねたら、知ってっよ、と言い返された。サワの指が、タキの前髪を絡めとって、軽く引っ張る。俺に軽く腹を立てたときの、サワの癖だ。その後、一秒だけ、じっとタキを見るまでが癖。サワの唇が、ふっと馬鹿にしたように歪む。
『お前は、たった一人いればいいってタイプじゃねぇもんなァ』
ばかサワ、と口走りそうになるのをぐっとこらえる。ばかサワ、わかったような口をききやがって、ばか。お前が俺にとって、どれくらいたった一人なのか知りもしないくせに。その手に、どんなに触りたいと思ってるか、なんて。サワ。
ガリッ、と腕を齧られた激しい痛みに、はっとタキは現実に返る。
サワだったゾンビが、タキの腕にかじりついて食いちぎろうとしていた。タキはとっさにゾンビの髪の毛を掴んで、引きはがそうとする。掴んだ分の頭髪がごっそりと抜けて、緑色の頭皮があらわになった。「くそっ、サワ、おとなしくしてろ ……!」
タキの声が反響する。二人がいるのは、高架下の、公営駐輪場だ。空から発火剤が降ってこない、延焼しそうなものができるだけ少ない、追いつめられての逃げ場所だった。現に駐輪場の両側では、金網に絡んで繁茂した蔦も、看板とゴミバケツも燃えている。
タキの意識が持って行かれがちになるのも、化学薬品臭と煙のせいだ。タキは今度はゾンビの喉首に手を当てて、力の限り押しはがす。
肉が食いちぎられることはなく、ただ歯に深く削られて腕から血がどっと流れ出た。ガチガチっ、と、喰いつく対象から遠ざけられてゾンビが歯を鳴らす。ぞっとした。
腕が、脈打つたびに、ずきずきと深く痛む。ゾンビの口元がタキの血に汚れ、それに、流されるままの大量のよだれが混じって、あごを滴り落ちる。
食欲をもたれている。
サワに。
体の芯が震えた。恐怖、だけならよかった。
やみくもにゾンビが歯を鳴らし、腕を伸ばしてつかみかかるのを、必死の思いでアスファルトに引き倒して抑え込む。緑変してもろくなったゾンビのの肌は、荒く扱うとずるりと剥ける。中の分泌液と脂肪と筋肉が混じった匂いが鼻につく。できるだけ一カ所に力を込めないように、片手でゾンビの口を覆ってふさぎ、腰のあたりに乗り上げて下半身を抑え込み、肩を肩に押し付けて、動きを封じる。
からだの下でゾンビがびくびくと暴れる。ゾンビの力は、筋や神経を痛めることを考えないから激しく強い。全身の力でそれを抑え込みながら、タキは、なにをしているんだ、と自問する。
なにをしているんだ、自分は。
なにがしたくて、こんな、不毛なことを。
……サワ。
ずっと、しずかに触れることだけを思い描いていた。
こんなふうに傷つけて辱めることなんて、一度も望まなかった。
(なぁサワ、さっきおれ、子供の死体をふみつけた)
(人が食われる隣を、なんどか自転車で、通り過ぎた)
(最低だったし、少し、疲れ……)
ゾンビを押さえつける力が、ふと緩んだらしかった。ガツ、と髪の毛を掴まれて、強く引っ張られる。のしかかっていた体をはね除けられ、タキはアスファルトに転がる。ゾンビが身を起こして、その上に馬乗りになった。
ゾンビの口元からよだれが滴り落ちて、びしゃり、とタキの頬を濡らす。タキはその瞬間に、あぁ、と息を吐いた。体の力を抜いて、諦めた。
もう、サワが望むなら、食べられてしまえばいい。その歯で噛み裂かれて、肉を咀嚼されて、……しまいたい。
本当は、サワがゾンビになったと理解した瞬間から、タキはそれだけを望んでいたのかもしれない。自転車を漕いでサワを探す間も、サワの手を引いて逃げ出したときも。
「サワ……」
仰向いているから、タキが落とす涙は目尻をつたってこめかみに流れる。こんなに安らかな、甘い気持ちで、これは絶望の涙だ。サワの背の向こうに、駐輪場の天井のコンクリートが見える。空でも見えればきれいなのに、と思う。
感情を、ためておける場所が体の中になくて、口にする。
「好きなんだ、お前だけが、たった一人」
ふと。
……ゾンビの押し寄せるような食欲が一瞬鈍った。
同時に、ピクンとゾンビの左腕が上がる。
え、とタキは目を開いて、ただそのさまを見ていた。思い出すのは、ゾンビになったサワが時折見せていた、左腕を上げて、置き場所がないように、また下げる動作。
ゾンビの左腕の先、緑色をした生気のない指の影がタキの顔にかかる。指先が、タキの前髪をくるりと巻き取って、軽く引っ張る。
何のことだか分からなかった。ゾンビは、指からタキの前髪が逃げると、一度左腕を下まで降ろす。そうして、もう一度髪のところまで上げて、タキの前髪を巻き取り、軽く引く。それを繰り返す。四回……五回……。
こんなゾンビの話を聞いたことがある、とタキは思い出す。あれは医者から聞いたのだ。トイレのドアを開けて、座って、また開閉からやり直すゾンビ。同時にもう一つの記憶が鮮明によみがえる。電車から降りたプラットフォームで、わずかに左手を上げかけたサワの動作。
医者は、そうだ、トイレのゾンビの話をする前に、こう言ったのだ。
『死ぬ直前に、強く思った衝動が残ることはある』
自分にのしかかる、この緑色の死体が、サワの最後の衝動を写し取ったものなら。
ゾンビの指がまたタキの前髪を巻き取る。少し力を入れて引っ張って、それから、緑の指先がタキの頬に触れる。親指で撫でるようにして、ゾンビは口元をタキの顔に寄せ、
「サワ」
タキはぎゅっと目をつむって、自分の額にそっと寄せられるゾンビの唇を、受け入れる。唇はあくまでも冷たい感触で、けれどタキの体は指先まで暖かに血が巡った。そういうことだった。
生きているのはこっちで、向こうが、死んでいる。
(ばかサワ)
サワ、もし最後に(もしかしたら、髪を引っ張るときはいつでも)、ほんとうはお前がこうしたかったんだとしたら。
力一杯抱きしめてしまいたい。なのにもう、どこにもいないなんて。
ぐる、とゾンビの喉が鳴る。同じ動作を繰り返すうち、途中から、一度は退いたゾンビの食欲がまたよみがえり強まってゆくのは、察していた。
タキは、暖まった指先で、自分のポケットを探る。ケースから、注射器を取り出す。
ゾンビの肩を両腕で抱き寄せて、その冷たさにぞっとした。ゾンビの髪に唇でふれて、血と粘液の匂いに吐き気を感じ、好きだ、と囁く。
そうして、腕を回した首筋に、ゆっくりと注射針を押し込んだ。
駐輪場にゾンビの断末魔が響き渡り、ゾンビの体が強く仰け反り、徐々に硬化が広がって真っ黒な物体に変わる。
タキは歯を食いしばり、ずっとその体を抱きしめ続けた。
サワに似て動くものが、完全にサワでなくなる、最後まで。
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