第44話
姫条の手が矢から離れた。
次の瞬間、老人がこっちを見て、
「っ……!」
ベッドから布団が落ちる。
隣で息を呑む気配がした。
放たれた矢と老人の身体が交錯していた。
およそ老人には似つかわしくない俊敏さ。布団をはねのけベッドを飛び出た老人はナイフをかざし迫る。
姫条が再び矢をつがえるより速く、ナイフは振り下ろされ――
「姫条……!」
咄嗟に叫んだ俺の前で、クロスボウの先端が老人を貫いていた。
血走った目をした老人の胸には、漆黒の弓が生えている。彼はしゃがれた呻き声を上げると、ナイフを取り落とした。
シュウウゥと空気が抜けるような音がした。静止していた老人の身体が崩れる。見ると、気絶した老人からは黒い靄が立ち昇り、姫条の右手に吸い寄せられていた。
「これで任務は完了ね。じきにその人は目覚めるわ」
衝撃的な一幕を見せられ声もなく立ち竦む俺へ、姫条は涼しい顔で言った。
「……おまえは、こんなことをずっとやってきたのか……?」
ナイフを持った奴を相手にするなんて、女子高生の日常じゃない。
「まだ今回は楽なケースよ。得物がペーパーナイフだもの。ひどいと警官や自衛官に憑りついたりして銃火器を乱射してきたりするわ」
「なんだそれ……」
そんな輩と戦って無事な姫条はマジで何者なんだよ……。
「今回はおじいさんの身内から様子がおかしいと本部に連絡があって来たけど、普段から私たち死神はこうして自縛霊の集まりやすい場所、大きな病院とかを見て回るの。もし憑依している自縛霊を見つけたら、こうして封印する」
クロスボウを消した姫条は廊下を歩きながら言う。俺は倒れた老人を振り返りつつも、その後を追った。
「憑依した幽霊はすぐに封印するのか? 霊を身体から追い出すだけじゃ……」
「ダメね。自縛霊にとって肉体は禁断の果実みたいなものなの」
禁断の果実。知恵の実。それを食べてしまった人間は、自我に芽生えたという。
「自縛霊は人間と同じように心を持つ。大概の自縛霊は幽霊となってしまった状況に耐えられない。あなたもわかるでしょう? 自分の姿は誰にも見えず、自分の声は誰にも聞こえず、誰も自分を認識しない。そして、そんな状態が永劫に続くように思われる」
喉を嚥下させていた。
痛い程にわかる。思い出したくもない絶望感。
「この場合の永劫は地獄ね。終わりがあるのは救いよ。そう考えると、不死なんて人間のないものねだりにしか過ぎないのかもね。〈永遠のアニマ・ムンディ〉という組織は不死になるために死神から増幅器を奪い、自縛霊を使って実験を繰り返しているらしいけど、正気とは思えないわ」
「その、アニマ・ムンディって何だ?」
「哲学や錬金術で使われる言葉よ。宇宙霊魂、とも訳されるわ。意味は『あの世』と同義ね。私たちの魂はそこから肉体に宿り、また還ると言われている」
病院の見回りは終わりなのか、姫条は階段を下っていた。俺はその後を守護霊みたいについていた。どっちが守護されているのかわからない力関係だったけれど。
「話を戻すと、憑依を覚えてしまった自縛霊は他人の肉体を奪うことに固執し始める。元々、生き足りなかったから自縛霊は生まれるのよ。彼らの行きつく先が憑依になるのは、自然な流れとも言えるわ」
ドキリ、としていた。
病院を出た姫条はビニール傘をさし、俺の内心など知る由もなく言った。
「そんな妄執に囚われる前に、私としては未練を叶えて成仏させてあげたいの。それが私なりの善意よ。協力してほしくなったら、いつでも来なさい」
傘を叩く雨粒が、ビニールを伝い落ちていく。
姫条は言うべきことは言ったとばかりに踵を返した。俺は病院の庇の下に取り残される。
雨は来たときより激しくなっていた。姫条の後ろ姿が白く霞んで見える中、ふと視線を感じて俺は斜め上を見上げた。
病院の窓。その一つにこっちを見下ろしているお婆さんの顔があった。団子頭が妙に大きくてバランスが悪い。
何を見ているのだろうか。そう思って俺は周囲を見渡す。だが、色彩の乏しい病院の玄関には、物珍しいものなんか何もなくて。
もう一度振り仰ぐと、お婆さんの顔はなかった。
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