第15話
「お湯、なくなっちゃいましたね。水、入れてきます」
陽來が窓際の流しへ向かう。
俺は陽來が蛇口を捻るのを横目で見て、琥珀色のカップを見下ろした。
今しかない。
俺はそっと机の引き出しを数センチ引いた。その中に用意してあった空のビーカーに、自分のカップの中身を傾ける――。
「ああっ――――!!」
天地がひっくり返りそうな大声にびくりとして、俺は咄嗟に腹で引き出しを閉めた。紅茶が俺の身体をすり抜けてイスに零れたが、そんなことを気にする余裕はない。さっと首を横に回すと、陽來は窓に張り付いていた。
なんだ、俺じゃないのか、ビビらせんな……。
「どうした?」
心臓がまだ早鐘のように打ち鳴っている中、俺は平静を装って声を振り絞る。
「あの幽霊! やっと見つけた! 今度こそ逃がさないんだから!」
ビーカーを放り、陽來はひらりと身を翻した。
「先輩! わたし、行ってきます!」
理科準備室を風のように駆け抜けて行こうとする陽來。
「おい、待て、どこに……?」
言いながら俺は窓へ近付き、水を得た魚のようにサッカー部に混じるマユリの姿を見た。
あのバカが……!
俺はリノリウムの床を蹴ると、陽來を追って理科準備室を飛び出した。
廊下に出ると、陽來の姿はもう遥か彼方だ。
くそ、なんだってあんなに足が速いんだよ。
舌打ちを堪えて走る。
一瞬、床をすり抜けようかとも考えたが、陽來を追い越してしまってはマズいので、思い止まる。実は俺、テレポートができるんだ、なんて嘘はさすがの陽來でも信じてくれないだろう。
地道に生徒や教師が入り乱れる放課後の廊下を駆け、陽來の背中を追う。こっちは人を避ける必要がないから有利かと思いきや、陽來との距離は一向に縮まらない。野兎のような俊敏さで生徒教師の間をかい潜る陽來は、むしろ俺との差を広げつつあった。
このままじゃマズい、と焦り始めた俺は途中で陽來の名を呼ぶも、廊下の雑音に消されて聞こえないのか振り向きもしない。
階段を飛ぶように下り、昇降口も上履きのまま通過。校庭に躍り出た陽來は銃を虚空へ向けた。
「待てっ、陽來、止まれってば……!」
ゼィハァと息を荒くしながら俺は叫ぶ。
幽霊でも運動不足なんてことがあるんだろうか。女子と追いかけっこして負けるとか体力なさすぎだろ、俺。
咳き込み、下駄箱に手をつきながらようやく昇降口へ辿り着いた俺は、ヨタヨタと陽來へ近付く。
パンッ。
陽來の銃が音を立てた。けれど、マユリはまだサッカー部員たちの間で揉まれている。無事なようだ。
「やめろって、陽來! そいつは……!」
「この幽霊です! 入学式のときにマイクを止めたり、垂れ幕を落としたり、記念撮影の邪魔をしていたのは!」
自業自得とはこのことか。
「わたしが必ず退治してみせます。先輩は見ていてください」
凛とした姿勢で銃を構える陽來。
「だから待てってば! そいつは確かに、悪戯好きで、人間を驚かすのが趣味で、だけど、悪い奴じゃ……ああもう、俺の話聞けよ!」
叫びながら俺は最後の力を振り絞って駆ける。
だが、傍に行ったところで幽霊の俺は人体には触れられないため、せいぜい陽來の制服の袖を引っ張ることくらいしかできない。それならば。
俺は未だ何も気付かず呑気にサッカーに興じているマユリへ叫んだ。
「逃げろ、マユリィィィイイイイッ――――!!」
俺の絶叫にマユリがふとボールから目を離し、顔を上げる。
「あれ? ハル?」
首を回したマユリが俺に目を留め、
――――パンッ。
銃弾がマユリの白い額へ吸い込まれた。
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