月・他

救急車に乗ってどこか遠くへ行きたい。暗くて静かに雨の降る路の、オレンジ色の街灯が、狭い車内に坐った隊員の顔をちらちら照らす、その回数を数えているうちについた病院は、酸素濃度がコンマ一パーセントだけ薄まったような息苦しさで、私は大きく、肺に沁みるような冷たい消毒液味の深呼吸をする。





月は外宇宙から覗く眼だ。夜の暗幕につぷりとあいた空隙から、灰白色の透徹した視線を送る一つの瞳なのだ。ほら、いま、十夜余りもかけてまん丸に開いた瞼の奥から、透過性の光線がまた注ぎ込む。窓辺のきみを貫通し、肌が仄かに燐光を放つそのとき揮発する微量な香気が、月を新たな眠りへ誘うだろう。





その影だけがまだ海を漂っている。話が終わり立ち上がった彼の、吐息の湿り気を耳に感じる。だからあまり月を視てはいけない。鳥目になってしまうよ。白く細く、冷たい指が、私の頬をひたひたと這って、ぴったりと視界を覆う。触れた彼の掌が融けていきそうで、この生温い身体を捨ててしまいたくなる。





米が炊けるのを待つ間我々は空腹を紛らわすべく街へ繰り出した。私が路地の脇を指し「なんだかおいしそうな店がある」と言うと、彼は「じき米が炊けるよ」と困り顔をした。しかし米など勝手に炊かせておけばよいのだ。私は店の戸を開けながら、暗い台所の中虚ろに響く炊飯器の音色を思い浮かべていた。





北の易者を訪れる。鈍行の単調な駆動音に誘われた微睡を硬い靴音が破る。その靴だけが目に入る。言う、低く厳かに、前置きなく、死期を告げる医者のように。? 或いはこの男も――。靄がかった思考で連想する。終点まで、まだ少し眠れるだろう。

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