Episode 047 「共有する時間」
特別な関わりを遠ざけてきた智史は部活動とも縁がない。すべての授業が終了し放課後になれば、そこからは自由な時間となる。親しい友人もいないため、自身が望まない場所へ足を運ぶ可能性も皆無。誰の指図を受けることなく行動することができた。
だからこそ、選択肢は少なかった。漫画雑誌を購入するためにコンビニへ寄ることがあっても、娯楽施設へ出向いたり飲食店に長居するような機会は訪れなかったのである。基本は寄り道をせず自宅に帰る。智史にとっての有意義は、他人への不用意な干渉を避けることが軸になっていた。
「…………」
そのようなパターンしか選んでこなかった智史は今、以前に一度だけ訪れたことのあるカフェで喉を潤していた。アイスコーヒーを口に含み、味わい、飲み下す。これからのことについて考えを巡らせ、思いを馳せる。今日の出来事、そして今日までの些事や大事を吟味した。
智史が店に着いてから十分弱が過ぎた頃。
ドアに付けられたベルが何度目かの来客を知らせる。
逸る気持ちを抑えようと、智史は居住まいを正して瞑目した。店内に配置されている調度品や観葉植物が視界を妨げることはない。しかし、それは他人の顔をじろじろと窺って良い理由にはならないだろう。
やがて足音が近づいてくる。その影は横を通り過ぎることなく、智史が利用しているテーブルの前で動きを止めた。
「まさか本当に待ってるとは思わなかったわ。前回は逃げ出そうとしたくらいだったから」
笹原の第一声は小馬鹿にするような文句だった。
対する智史の反応はあっさりしたものだ。
「なんだ、来たのか」
「随分と冷めてるわね。わざわざ誘いに応えてあげたっていうのに」
「誘い?」
「どうして疑問系なのよ」
「心当たりがない」
平然と答える智史。
笹原は証拠として自分のスマートフォンを突き出した。
画面には短いメッセージが表示されている。
和島『放課後、この前寄ったカフェにいる
好きにしてくれていい』
それは確かに、智史がまだ教室にいた時に送信した文章である。ホームルーム中に思案を重ね、端的に打ち込んだものだ。
「待ってるから来いってことでしょ」
「無視してくれても良かったんだぜ?」
「『ここにいるよ』って伝えてきたのは君のくせに。よくもまあそんな態度でいられるわね」
「『俺がお前を待ってる』とまでは明確に書いてないし、断る理由ならいくらでも用意できただろ。……それでもここに来たのは、お前だ」
理屈を聞かされ固まっていた笹原は、深く深く溜め息を吐いた。
「あっそ。じゃあ、そういうことにしておいてあげる」
「とりあえず座ったらどうだ。邪魔になるぞ」
「言われなくても分かってるわよ、それくらい」
笹原は半ば投げやりに結論づけて、智史の正面の席に腰を下ろす。
「ん」
「どうも」
智史がメニューを差し出すと、笹原は手早く希望の品を決めた。店員を呼び止め、アイスティーを一つ注文する。
「以上でよろしいでしょうか?」
「大丈夫です。それで――」
「あと、フレンチトーストもお願いします」
割り込むようにして智史は追加を申し出た。待っている間に候補を絞り、笹原が到着したら頼もうと考えていたのである。
店員が離れていくのを確認してから、笹原は手許のメニューに載っている写真を眺めた。
「食べたかったの?」
「まあな。お前はどうだ、小腹は空いてるのか?」
「我慢するほどじゃないけど、まあ多少は」
「そうか」
「……なんの確認よ、それ」
不可思議そうに笹原は疑いの目を向ける。これまでの傾向とは違った言動に戸惑っているようだ。当人も不慣れな行いを自覚していた。智史はグラスのストローに触れながら平常心を意識する。
「別に、大した意味はない」
「なら先に食べていれば良かったじゃない。来るのか分からない相手を待つ理由なんてある?」
「いいんだよ。結局、お前はここに立ち寄ってくれたんだから」
それは、隠していたものを半ば認める発言だった。
意表を突かれ、笹原は警戒心を強めた。
「どうしたの? 今日の君は……なんだが変よ」
「お前こそ、今日みたいなのは普通のことなのか?」
率直な物言いが重なる。
これまでになかった新しい一歩。
避けていたはずの領域へと、智史は自ら進もうとしていた。
対して笹原の顔には困惑が浮かんでいる。
会話が途絶えても、無理矢理に繋ぎ直されるようなことはなかった。
程なくして、アイスティーと複数のフォークなどが入ったトレイが運ばれてくる。グラスを受け取った笹原が再び言葉を返せるようになるまで、智史は余計な口を挟まない。
先方へ応えるように、笹原も意を決する。
「やっぱり、私の考え方って度が過ぎてるのかな」
「一貫して強気な態度に見えてたけど、実際は違ったのか?」
「今日のは相手が冷静じゃなかったからよ。感情的な人間ほど自分の気持ちが正しいと思い込んでるから、あれくらいしないと止まらないでしょう」
「確かに。あの怒りは、簡単には収まらなかっただろうな」
エスカレートしていった杉山の言動と照らし合わせることで、智史は納得する。それと同時に疑問が浮かんでいた。
「でも、あんな反論ができるってことはさ、以前から恋愛とか人間関係について深く考えてたってことだよな?」
「……なぜそんなことを聞くの? もし私が頷いたとして、君はどうするって言うの?」
拒むようにして、笹原が根本を尋ねた。
ここに、二人を隔ててきた一線があるのだろう。その点を解っていて、なお智史は確認しようとした。だが威嚇するような眼差しを受けて、怯む。杉山に対峙した時と同じ、鋭い視線を向けられる。
「まさかとは思うけど、あの先輩の味方でもするつもり? もっと加減を覚えろって、そんな忠告をするために私を呼んだの?」
笹原は敵か否かを見極めるために語気を尖らせた。
今回の一件に関する智史の見解は決まっている。
「邪推しすぎだ。俺個人としては、お前の価値観のほうが正しいと思ってる」
「ふーん。そうなんだ……」
迷いなく返答する姿勢を目にして、笹原は自ずと視線を逸らした。はっきりとした賛同が得られることを想定していなかったからである。正論を語り間違いを指摘する行為が、人間関係を良好にするとは限らない。使い方を誤れば一方的に他人を傷つけてしまう恐れがあるからだ。現に智史は杉山が追い詰められていく姿を目の当たりにしている。涙を流した女の子に対して、同情することがあってもおかしくはなかった。
笹原が友人を作ることについて後ろ向きである背景には、そういった事情も含まれているのだろう。小言を素直に許容できる人間もいれば、事実を直視できずに反発する人間もいる。だからこそ対立構造は顕著に現れてしまう。
「じゃあ、君は一体何をしたくて、私のことを知ろうとするの?」
批判するためでないとすれば、その目的はいかなる種類のものか。本音を隠さない性分はあらゆるものを詳らかにしようとする。
悩み
「正直、自分でもよく分かってないんだ」
「……それ、本気で言ってるわけ?」
「だから『好きにしてくれていい』って送ったんだよ」
メッセージを打ち込む際に、智史は断言できない表現を避けた。必須事項を簡略化した結果、相手の自由意思に任せるような文面が出来上がったのである。
期待をするのは個人の勝手だが、それを要求するには動機が不明瞭だった。
拍子抜けしたと言わんばかりの吐息が混じる。
「まあ、別にいいけどさ」
けれど、具体性の見えない行動を笹原は許した。時間を無駄にする可能性も考慮した上で、席に座り続けることを選ぶ。
「悪いな」
「今さらでしょ。実りのない会話なんて、これまで何度もしてるじゃない」
不満をぶつける材料があるにも関わらず、穏やかで寛容な態度。
我儘に付き合わせている、という図式を智史は嫌った。
「それはそうかもしれないが……」
「昼間のことだったら、無理に何か言おうとしなくてもいいよ。君は知ってると思うけど、私っていう人間は――いつだってこうだから」
気を遣いつつ、笹原が自身の在り方に触れる。諦めてしまったような声音は寂しそうに揺れていた。
近いようで遠い笹原との距離を、智史はどうにかしたいと考える。
「そうだとしても……俺は」
丁寧に、踏み外さないように続きを紡ぐ。
「うまく伝えられないけど、それでも、このままじゃいけないような気がしたんだ」
智史の感情が前へと向かう。
他の誰でもない笹原の姿を捉えている。
「今さっき、私の価値観が正しいとか言ってなかったっけ?」
「ああ。そう思ってはいる。でも、間違わないように行動し続けるのって大変じゃないか?」
「……へえ。心配してくれるんだ?」
笹原は正体を探るための一手を打つ。
しかし、智史は即座に反応を返せない。
「何か言いなさいよ」
「ごめん。気持ちの整理ができてなくてさ」
「別に責めてるわけじゃ、ないんだけど……」
これまでに類のない性質の空気が二人の言動を鈍らせた。
適切な言葉を浮かべることができず、流れが滞る。
その合間を縫うようにして、店員が注文した品を届けに来る。智史が頼んだフレンチトーストである。綺麗な焼き色をした厚みのある食パンが二切れ、皿に盛り付けられたそれは仄かな甘い香りを漂わせていた。
「取り皿をご用意できますが、いかがしますか」
「一応、お願いします」
智史は特に迷いも見せず申し出た。承知した店員はテーブルから離れ、小振りの皿を持って戻ってくる。
オーダーが揃ったことを確認して店員は去っていった。
一連の流れを静観していた笹原が口を開く。
「私、何も言ってないわよね?」
「折角足を運んでくれたわけだから、多少はお裾分けしようかと思って。俺だけが食べるってのもあれだしさ」
「大した人付き合いもないくせに、どうやったらこんなふうに気を回せるようになるのかしら」
「……用意してもらったけど、この皿は使わないってことでいいか?」
「こら、待ちなさい。訂正します。要らないとは言ってないわ」
「素直じゃないな」
智史は苦笑しながら、トレイから取り出したナイフとフォークで皿にトーストを分ける。
「ほら、お前のだぞ」
「どうも」
続いて笹原もトレイに手を伸ばしてナイフとフォークを用意する。
無意識に、智史はその所作を待っていた。
「どうしたの?」
「いや。三人が揃ってから食べるのに慣れてたから、その流れで。つい」
それは早川の影響によって定着したものだ。昼休みの暗黙の了解となっていた行動が身についてしまっている。
「……いただきましょうか」
「だな」
二人は過度な意識をしないように目の前の食事に集中した。
各々が出来立てのフレンチトーストを一口頬張る。
「メニューの写真で分かってたけど、やっぱりうまいな」
「甘さも食感も絶妙だし、これはまた食べたくなる味ね」
少しずつ切り分けて噛み締めるように料理を楽しむ二人。
「ねえ、それってメープルシロップ?」
笹原が指し示したのは、フレンチトーストと一緒に運ばれてきた小瓶である。
「そうみたいだけど」
「貰ってもいい?」
智史が首肯すると、笹原は適度にシロップを掛け、変化した風味を堪能していた。
「どうだ?」
「こういうのは女子として控えなきゃって自分に言い聞かせてるんだけど、病みつきになりそうだわ」
「ほう……。俺もそれ使いたいんだが」
「あ、忘れてた。ごめんなさい」
笹原はテーブルの中央に戻し忘れていた小瓶を、智史に直接手渡そうとした。
微かに指先が触れる。
智史が目を遣ると、笹原は物言わず視線を
だから、双方がこの一瞬を素通りした。思春期に惑わされ過剰反応することを嫌ったのだ。
小瓶を黙って受け取り、智史は気もそぞろにシロップをフレンチトーストに掛けた。必要以上に垂らしてしまい、慌てて中断する。
それを食べた智史の口中には、馴染みのないメープルシロップの甘さが広がった。
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