編集済
第七十二回 漢兵は再び許戌と戦うへの応援コメント
前回、許戌は一応、負けたはずなのに勝ったことになっていますね(笑)
李珪も戦死しているし、これも講談という性質上の設定変更の後かもしれません。この戦いは、劉喬・許戌が手強くいい感じです。
追伸
そこは、続三国志演義を読んで不思議に思っていたところでした。晋兵が主語ではなく、漢兵が主語になるところなのですね。ありがとうございました
作者からの返信
仰るとおり、この戦いはけっこういい勝負で面白いです。
> 負けたはずなのに勝ったことになっていますね(笑)
せっかくのご指摘なので調査させて頂きました。
(維基)
勃然狂風自北而起,刮得天昏地黑,眼目難開、(漢兵)被晉兵殺死無數。
雖在上風、奈對面不辨、(両軍)遂皆鳴金收兵。
劉聰計點人馬、被一陣風到、(漢軍)折去三千有餘、(漢軍)又折了將官李珪。
關防、王彌痛哭不已、(劉聰)令人尋屍葬之。
一行目「被晉兵殺死無數:(漢兵は)晉兵の殺死を被ること數無し」
翻訳を間違えていそうですね。
(通俗)
「晋兵爰に於いて殺死さるゝもの其数を知らず」
中村さんがやらかしてる。。。書き改めておきます。
【再返信】
▼全面的に改めました。
上の原文に()で主語を補いました。
主語なしは叙事と考えています。
主語の判断は難しく、文脈以外の
論拠はなかなか持てないです。
カクヨム内で『襄陽守城録』の原文に
訓読と小説的な訳文を公開されている
氷月あやさんは、文法を加味して判断
されているようですが、私はそこまで
及んでいないので。。。
いつも勉強させて頂いております。
『襄陽守城録』
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884171637
第七十一回 劉霊は鉅鹿に戦うへの応援コメント
すでに蜀漢の滅亡より41年も経っていたらどう見ても年齢に無理があるのですが、講談に突っ込むのも野暮かもしれませんね。
しかし、ここであっさりと李珪が戦死したのには、驚きました。確かに、あっけないのですが、味方側の人物も死ぬことがそれなりにあるのは、ほとんど味方が死ぬことがない当時の講談が多い中では、小説として成立しているとプラスに評価しています。
作者からの返信
年を書くならそれなりに意味がないと、
というわけで付け足してみました。
経過した時間が掴めないのもつまらないので。
かなり時間が経ってますよね。
劉淵は挙兵から死までが短いので、
それはそれでありかな、と。
李珪の扱いは酷いです。
後半にはぽっと出でもいい死に様の人もいるのに。
手に怪我をしてその後に戦死した人、
って印象しか残らなかったです。
▼訂正です。
手に怪我をしたのは弟の李瓚でした。
しかもこの先の八十四回です。
ごっちゃになってました。
謹んでお詫びと訂正させて頂きます。
やっぱり人物リストが要りますね。。。
もう少し王彌や関防と絡ませればよかったのに。
編集済
第七十回 韓橛は金龍城を建つへの応援コメント
今回は、続三国志演義には珍しい怪異話しですね。これが少ないことが「当時としては歴史物として完成度が高い」と私が評価している理由の一つです。
ただ、この韓橛の話しは、元ネタが分からないままですね。ただ、劉淵の忘恩、妖怪によってできあがった平陽城と不吉な兆しの伏線にはなっていますね。
追伸
『捜神記』でしたか。翻訳は持っているのですが、把握していませんでした。ありがとうございました。
作者からの返信
怪異譚は初めてですね。
個人的に怪力乱心は大好きです。
『晋書』は怪異譚が多いですね。
この話の出典は干宝『捜神記』です。
ほぼ同じ筋書きだったように思います。
ただ、初読の際に「ホンマかいな」と思って
『讀史方輿紀要』で平陽府を繰ってみましたが、
金龍城とは呼ばれていないようです。
地方志は見ていないので、
確定はできないのですけど。
第六十八回 漢主劉淵は蒲子に移るへの応援コメント
本日もお疲れ様です。
平陽の守将である于禁の孫・于明は、『通俗続三国志』では干明(かんめい)
維基文庫(https://zh.wikisource.org/zh/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97%E5%BE%8C%E5%82%B3)
では「於明」とされている不遇な人物でしたが、修正されていてよかったです。(于は現在中国語でも存在し、于と於は統合されて「于」になったため、「于」の旧字は「於」であるという勘違いから起きた間違い)
漢軍は武勇では王彌・劉霊・関防の三人が地位から見ても、傑出しているみたいですね。
作者からの返信
いつもありがとうございます。
維基は割りとやらかしているので
扱いは注意が必要ですね。
早稲田『通俗』と上海古籍『後傳』の
併用を基本に読んでおります。
古い人間なんです。
『後傳』は簡体字なので手こずります。
『通俗』は中村昂然さんが誤ったとは考えにくく、
版木を起こす際の誤りかも知れません。
上海古籍『後傳』ではちゃんと于明なので、
校正はありがたいです。
見れば分かるだろ、ではありますが。
関防、劉霊、王彌は漢軍で突出していますね。
後半ここに趙勒や劉曜も参戦しますから、
楽しみです。
歩将の楊興寶、夔安、曹嶷の活躍は不思議です。
汲桑と被るので対抗馬が必要だったんでしょうか。
何か優遇されているような。。。
序列が分かりにくいので、武官階はいずれ
ちゃんと調べて何かの形で記載をできれば
と考えています。
第六十七回 劉淵は左國城に漢を継ぐへの応援コメント
素晴らしい早さで更新されていますね。読んでみて、読みやすいし、なつかしいです。
ところで、驃騎大将軍の王桂は唐突に出てきた人物であり、李瓚、樊榮より上位に来るべき、李珪がいませんし、その後に、後軍として出ているので、消えているわけではないことから、王桂は李珪の『三国志後伝』の間違いではないかと思われます。よろしければ、修正などについてご検討ください。
また、劉理は劉淵の兄とありますが、これは叔父だと思われます。通俗続三国志では劉淵は劉禅の子なので、これはおかしいですが、そこは注釈などで対応できると思われます。
続きを楽しみにしています。
作者からの返信
助かります!
王桂は確実に李珪ですね。
修正させて頂きました。
劉理の字は奉孝,亦た後主の庶弟なり,永と母を異にす。
ご指摘の通り、劉理は劉禅の弟です。
劉淵は劉禅の末子という設定なので叔父ですね。
見直す箇所が多そうですので、確認して修正させて頂きます。
第五回 蜀雄は乱を避け興業を計るへの応援コメント
失礼します。
ここで劉霊の兄、劉宣が出てくるのに、いきなり消えてしまい、後に40回で同名の別人・劉宣が匈奴の主として出てきます。また、後に出てくる劉伯根は余りにも唐突に重要人物として存在します。
これは、劉伯根を劉霊の兄とすると設定が変更したのに、『三国志後伝』でそのままになっていたのではないでしょうか。
ここは混乱を避けるために、劉宣を劉伯根と変更する方が良いのではと考えます。ご考慮いただければ幸いです。
作者からの返信
さすが鋭いご指摘ですね。
ありがとうございます。
劉宣の分断は初見からどないやねん、と思っていました。
劉伯根(劉立本)と劉宣の設定変更が徹底できていない、
というお説が正しそうです。
それでけっこう話が通っちゃいますから。
もう一度通読して問題なさそうならご提案通りに直しますね。
こちらも少々お時間を頂ければ幸いです。
あと、近況で苦情募集はじめました。応援コメントもちゃんと読みますから、この誤りやご意見があれば、ご指摘下さいね!
◆調査結果の回答予定地◆
第一回 王渾と王濬の二将は大いに平呉の功を争うへの応援コメント
twitterのツイートで9月末に気づき、応援させていただいています。
私が大学時代に果たせなかった続三国志のこなれた翻訳だけでも嬉しいのに、『三国志後伝』も踏まえた翻訳とは。感謝どころか感動の領域です。
これで、『続三国志演義』が『反三国志』の何分の一かでも、読まれてくれればと願っています。
とはいえ、確かに、『続三国志演義』を面白く見せるにはなかなか難しいですね。ただ、名がつく人物が多数出てくる作品を好む人は多くいるので、そこらあたりをつかめればと思います。
趙雲ファンからは、実際、感涙ものの結末ですしね。
私が思うに、『続三国志演義』最大の欠陥は、漢側の登場人物が多すぎる上に、兄弟で見分けがつきにくいことだと思います。漢の登場人物の一覧があればさらに読みやすくなるのではと思います。
僭越なことを申し上げましたが、ご考慮いただければ幸いです。
作者からの返信
閲覧&レビューまで頂き、ありがとうございます。
twitterでご紹介頂いた方もおられたのですね。
あわせて感謝です。
ご存知の方でしたらお礼申し上げていたとお伝え下さい。
大学時代にもうご存知だったんですね。
私は昨年に神保町で偶然に出会いました。
1冊100円でした。
たしかに初登場回併記の人物一覧は必要かも知れません。
ご指摘のとおり、登場人物は無暗矢鱈と多いですね。
後半の大会戦直前は二回分くらいまるまる人物リストです。
お時間を頂いてしまいますが、チクチク整理してみますね。
第七十四回 王彌は典升を擒うへの応援コメント
この後、許戌・典升がその後どうなっていくのか、気になっていたのですが、再登場しなかったところを見ると、処刑されてしまったみたいですね。味方側の人物が初めから過剰であるため、在野の士は加わることはあれど、敵将を捕まえて味方にするという三國志演義の醍醐味をあまり感じることができないのは残念なところですね。
作者からの返信
許戌と典升は残念ながら血祭に
上げられたんでしょうね。
敵将を味方にする事例は、おそらく
全篇を通して皆無かと思います。
『襄陽守城録』の氷月さんに御教示
頂きましたが、作中に五胡南北期の
引用がチラチラするそうです。
南宋も河北を金に奪われているため、
五胡南北期の史書を士大夫が熟知して
いたのかな、という印象を受けました。
書かれた時代の空気もあるだろうな、と。
翻って『後傳』ですが、明も末期に入り、
序から10年を経ずにヌルハチが後金建国を
果たしていますから、時人は北の不穏さを
感じ取っていたのではないと想像します。
となると、誰もが匈奴と知る劉淵の軍に
明らかな漢人が次々投降するのは如何?
という批判に晒されるのではなかろうか、
などと想像する次第です。
当時の出版や輿論の形成には詳しくなく、
印象論の域を出ませんが、昨今のご時勢に
※※東征を江上波夫説により再解釈した
時代小説を出す程度には可燃性が高い
行為ではなかったか、と推測しています。