八
ゆったりとした印象とは裏腹に四年間は瞬く間に過ぎ去った。卯月は三年になる少し前からひしひしと迫ってきた危機感に従い、就職活動の事前準備を済ませ、四年の夏前にはとある中堅商事会社の内定を得た。
反対に幸一の方はそれらしい素振りを直前まで見せず、就職活動セミナーに足を運んですらいないようだった。どうするのかなと卯月が珍しく彼氏の行く末に対して思いを巡らせた夏の終わるか終らないかという時、幸一はなんでもないことのように大学院に行くと言った。それほど、熱心に勉強をしているのを見たことがなかったのもあって、一瞬、本当かどうかを疑ったが、こうして口にしたということは本当なのだろうとなんとなく受けとめた。
この段階では卒論すら終わっていなかったので、もしかしたら留年するのに見栄を張っているのではないのかと、この彼氏らしからぬ行動を想像したりもしたが、幸一の入っているゼミの教授とたまたま道で会った際の世間話で、本当に院に行くと知った。
幸か不幸か卯月の就職先は今の住居から電車で通える距離だったので引っ越しの必要もなく、会う頻度は減りはしたものの、二人の付き合いに変わりはなかった。
就職後は覚えることも多ければ初めてのことばかりだったのもあり、右往左往している内に一日が終わり、帰って寝るの繰り返しだったため余裕などほとんどなかった。その際、最寄り駅からの距離の短さもあり、幸一の家に潜りこんで寝ることが多かった。もちろん、幸一は例のごとく、迷惑そうな顔をして卯月を見ていたが、院に上がった際に買ったばかりのベッドではなく、床に布団を敷いて寝ることを条件として、ぼろアパートが寝床になるのを受けいれた。卯月もまた、大学時代からたびたびこの場所で外泊をしていたのでなれたものだった。
そんな生活を送っているうちに、卯月はマンションに帰るのが段々と面倒になっていったのもあって、連日幸一のアパートに泊まりこみはじめ、元の家に帰るのも稀になった。
お盆にはいったあたりでようやく精神的に余裕が生まれた時、卯月は自分が借りているマンションを金の無駄ではないのかと思いはじめた。考えてみれば学生の時も家を空けている時間が多く、あまり愛着を持ってもいなかった。
そんな実利的な事情を鑑みて、卯月は幸一に正式に一緒に住まないかと打診した。幸一は最初こそ嫌そうな顔をしてから自分の家に帰れと口にしてみせたが、家賃やその他費用がほぼ半分になるというところに思い当たったらしく、渋々ながら頷いてみせた。
程なくしてマンションを引き払った卯月は、幸一のアパートに転がりこんだ。元々、それほど物を持っている方ではなかったのと、多くの物を既に移動していたのもあってか、引っ越しはあっさりと終り、いくつかのかさばりそうなものは実家の方へと送り返した。
その際、後の禍根の種になりそうな同棲という事実は早々につたえた。高校時代までの大人しい卯月の印象がぬぐえないせいか、両親はどこか戸惑った顔をしていたが、既に娘が二十歳を越え就職していることや、半ば放任主義だったのもかさなり、たいした苦労もなくともに住む許可は下りた。
代わりというのか、両親に一度、彼氏同伴で食事することを求められた。おそるおそるそのことを口にしてみせると、幸一はなんでもなさそうに頷いてから、次の休日はいつかと訊ねてきた。問いかけに答えながら、卯月は男の反応を意外に感じる。とりわけ自らの予定を縛られることや、しがらみが多い事柄をなんとはなしに避けていた印象があったため、その思いはひとしおだった。
疑問が顔に出ていたのか、幸一はくせっ毛を掻いてみせながら、こういうことはいつかあると思ってたし、などと口にしてみせた。卯月にとってその答えは、尚更、想像の範囲外だった。しかし、長々と関係が続いていった場合、親族との交流が途切れていなければ、この手の付き合いを多少なりともしなければならないのは予想できたのかもしれないなとすぐに思い直した。同時に、時折、顔を出す彼氏の勘の良さのようなものを垣間見て、まだまだ知らないことばかりだな、と力が抜けた。
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食事会当日、卯月はグレイのスーツとネクタイで決めている幸一の姿を目にして、思わず噴きだしそうになった。おそらく、卒業式などで何度か目にしていたはずだったし、教授について学会に足を運んだりする場合も似たような服装でいるのかもしれなかったが、見慣れていない卯月からすれば、どことなく合わなさのようなものを感じざるを得なかった。
不機嫌そうに睨みつけてくる彼氏の視線に気付かないふりをしながら、胸ポケットにあの青いボールペンが相変わらず差しこまれているのを目にして、やっぱり好きなんでしょと問いつめようかとも考えたが、更に表情を硬くされると食事会がお通夜のようになってしまいかねないと察し、喉の奥に飲みこんだ。
正午、久々に踏んだ故郷の駅で待ち構えていたのは、以前より白髪が増えた父親と髪を黒く染めたであろう母親だった。長期休み以外は面倒がって家に帰っていなかった卯月は、親の老いをしみじみと感じつつ、ここまでほとんど持ち合わせていなかった、家にもう少し帰っておくべきだったという後悔を膨らませた。
「どうも、こんにちは。卯月さんと付き合わせていただいている、市井幸一です」
そう早々と一礼をしてみせた幸一の表情には、見慣れない笑みが浮かんでいた。しかし、すぐに初めてちゃんとした会話をかわした時はこんな顔をしていたと思い出す。違うところがあるとすれば、そこからふざけたところが抜けているところだろうか。
父は四角い眼鏡のフレームを調整しながらやや戸惑っているようではあったが、同じように名乗りながら一礼し、母親もそれにならった。
卯月は母親の身体の肉付き良くなったことや、父親の背が小さくなったような印象を受けつつ、時間を多くともにしたはずの二組の出会いを、どこか他人事のように感じていた。
やや暑さを感じさせる日の光に目を細めながら、卯月は自らが消えてしまいそうな錯覚に陥りそうになっていた。
それなりに値が張る料亭で、食事会は和やかに進んでいった。幸一は普段にはない口数の多さで、大学院で学んでいる日本文学のことや卯月と過ごす日々について話した。一部の話は卯月もまた当事者であり、特になんの脚色もしていないにもかかわらず、起こったはずの事柄が、実際よりも魅力的なものに聞こえる気がした。
幸一の話しぶりに引っ張られるようにして、父親は自らの仕事についてや趣味で観戦しているボクシングの話をした。母親の方はといえば、家事をして過ごしている間のなんでもない出来事や、通っている手話サークルの話、それに加えて卯月の幼い頃の思い出について語ったりした。小さい頃の卯月について盛り上がった時、卯月は恥ずかしさを覚え、もしも幸一の両親に会う時があれば、同じようにして仕返しすることを誓った。
両親の緊張がほぐれだした時、ビールで顔を真っ赤にした父親が、幸一に、娘のどこが気に入ったのかね、と直球を投げこんでみせた。
瞬間的に馴れ初めを思い出した卯月は、気にいった気にいってないで付き合ってない、と考えた。強いて挙げるならば、卯月の提案に幸一が乗った形で始まった関係であり、その言葉以上の意味はないはずである。
マグロの刺身に手をつけていた幸一は目を軽く見開いたあと、小さく顔を伏せたあと、そうですね、と考えるような素振りをしたあと、両親の方を見かえしてから、脇にあったビールを軽くあおる。
「とてもまっすぐなところです」
その横顔の生真面目さに、卯月は身体をこわばらせる。これまで聞いたこともなかった言葉に、偽りは少しも見受けられなかった。
どこがまっすぐなのだろう。卯月には自分自身のことであるはずなのによくわからなかった。いままで、流されて生きてきて、むしろぐねぐねとした道を歩んできていたはずだ。そんな自覚があるゆえに彼氏の言っていることが信じられない。幸一はなにを見て、そんなことを思ったのだろうか。両親と親しげに談笑を続ける彼氏たちからむけられる話題に、卯月は適当に相槌を打ちつつも、ぼんやりとそのことについて考え続けていた。
両親たちと駅の改札口付近で別れたあと、夕日が差しこむ列車の揺れを感じながら、卯月は普段通りの仏頂面を浮かべる幸一を横目でうかがっていた。先程まで表に出ていた笑みを少々気持ち悪く思いはじめていたところだったので、見慣れている顔に戻ったのにほっと胸を撫で下ろしつつも、食事の席で得た戸惑いは消えない。
知らず知らずのうちに溜まっていたであろう気疲れによる眠気や、車内に溢れるざわめきなどに考えを遮られそうになりながらも、頭の中にある気がかりを解き解すでもなく、ただただ見つめている。
なんとなくはじめたらなんとなく今があった。このような感覚だけがただただある。その間に、二人に多少なりとも精神的なかかわりがなかったわけではないが、限りなく薄かったはずだと卯月は思う。会話にしたところで、最低限しかかわしていない。だからこそ、お互いの相手に対する理解は、長い年月を積み重ねてきたことにより、こうだろうという曖昧な感覚によるものでしかない。少なくとも、卯月にとってはそうだった。
しかし、幸一はやけに確信に満ちた調子で、彼女に対する美点を口にした。卯月からしてみれば、勘違いそのものの答えでしかないはずだったが、少なくともこの彼氏はそれを信じているように見受けられた。そして根拠のないはずの勘違いは、幸一の口を通して耳にすると、あながち間違いではないのではないかと思わされそうになる。
なによりも信じられなかったのは、気にいったところ、という質問に対して、さほど時間を置かずに答えてみせたことだった。仮に卯月が幸一の両親の前で同じ状況に陥ったとしたら、適当にごまかすという選択肢をとるほかなかったはずだった。しかし、この男にとってはたいした難題ではなかったらしく、答えはすらすらと口にされた。
そこに嘘が見受けられなかった。付き合いの長さゆえに、絶対とは言い切れないが概ね間違いはないはずだった。だとすれば、必然的にどこかしらの時点で、幸一は卯月に、まっすぐさ、とやらを見出したということになる。拙い記憶をたぐるかぎりでは、卯月の二面性に興味を抱きはしても、今日口にしたことついては触れもしなかったはずだ。となれば、どこかしらで心変わりしたのだろうか。
そこまで考えたところで、卯月は自らの思考を差し止める。いつからという問いかけにはたいして意味はない。間違いなく、幸一が、まっすぐな彼女というものを信じているのだとあらためて理解したからには、それ以上、堀下げる気にはなれなかった。
ただ、どこをどう見て、そう思ったのだという点に関しては、多少なりとも興味がなくはなかった。
答えを知るのは簡単だ。直接聞いてみればいい。差し障りのないことであれば、たいした苦労もなしに教えてくれるだろう。しかし、なんとはなしに卯月は尋ねたくなかった。面倒だという気持ちと、あらためて真面目な話をする気になれないというのが一つ。それ以上に、わざわざ教えてもらおうとするというのが、どことなく乞食じみていて惨めな気がしてならなかった。
知らないでもいい。卯月は自らに言い聞かせる。これまでも別段、知らずにいて不都合などなかったのだし、これからもなるようになるのだろうから。だから、どうでもいいのだと思おうとする。だが、一度気付いてしまったゆえか、知りたい、という気持ちは消し難かった。知っても知らなくても、どうなるというものでもないのに、卯月はこのなんともいえない心情をぶつけるような心持ちで、腕を組んで座席にもたれる幸一の横顔を眺めていた。
「そんなおっかない目で見られるようなことをしたか」
困ったような顔をする彼氏の声音に、卯月は自分が浴びせていた視線がどのようなものかに気が付く。すぐに、首を横に振るが、幸一は身体を卯月の方にむけてから、小さく溜め息を吐いた。
「お前って嘘つくの下手だよな」
その声は呆れているようにも喜んでいるようにも聞こえ、卯月の中の戸惑いの色合いをより強くしていく。幸一は例のごとく後頭部の癖っ毛を人差し指にからませながら、目を細める。
「つっても、なんとなく言いたいことはわからなくもないが」
前置きしてから、唇の端を緩ませる。
「たしかにありゃ、柄にもないって思うわな」
あらためて口数が増えたのを耳にして、卯月は彼氏の態度を疑う。卯月の両親の前であれば、空気を悪くするわけにはいかない、という理由でそのように装うというのはわからなくもなかったが、この場ではそんな風につくろわなくてもいいはずだった。ゆえに、こうしてほんのわずかばかりとはいえ、笑みらしきものを浮かべる幸一の態度は、珍妙なものに思えた。
「ああいうこっぱずかしいのは、今後はできるだけごめんこうむりたいが。無理かもしれないな」
それなりに大きな駅で止まった列車の扉が開き、多くの人が下りるのと同時に、入れ替わりでそれよりやや少ない人々が乗りこんでくる。うるささに耳を奪われそうになりながら、すぐ前の彼氏の言葉の意味について考え、ほどなくしてでてきた答えに呆気にとられる。
扉が閉まり、列車が再び走りだすと、ざわめきは徐々に収束していく。何人か雑談をする人間は残りはしたが、自分たちの話が遮られない程度には静かになった。
「こっぱずかしいっていうのは」
卯月は頭の片隅に思い浮かべかけたことを一旦、置いておきながら、口を開く。なぜだか、喉がひりつくのを止められない。
「話しは割と楽しかったけどさ。さすがに、どこに惚れたとか聞かれると困るって」
もしかしたら、卯月自らが話題にしなくてはならないと思っていただけに、幸一が口にしたのにほっとする。ただ、言い方からすれば、やはり、無理をして作りだした理由なのかもしれなかった。それでは、食事中に抱いた印象とは大きく異なるが、誰にでも間違いがあるだろうと、卯月は自らに言い聞かせようとする。
「ああいうのって、できれば墓まで持っていきたいことなのにな」
すぐにひっくり返された気持ちに、卯月は唾を飲みこんだ。幸一のどことなく照れくさそうな表情からすれば、今度こそ、嘘をついている様子はない。だとすれば、まっすぐなところというのは本音だということになる。
こんなのは私の知っている幸一じゃない。そう考えかけたところで、知らない相手とずっと言ってきたのを思い出す。なによりも、まっすぐ、と言われて悪いところなどあるのだろうか。そう思う卯月は、しかし、心の乱れを止められない。
そんな彼女の心情をどのように思っているのか、幸一はしかめ面をしつつも、どことなく生温かな瞳をむけてくる。今すぐにでも目を逸らしたい気分でいっぱいになりつつも、なんだか、この場で流されるのが嫌で彼氏を見返す。
たしかめたいことはまだいくつかあったはずだったが、馬鹿正直に聞き返す気になれずに、黙りこんだまま自分よりもやや高い位置にある頭を見上げるほかない。男の方もなにも言わずに、先程と同じような色合いの視線をむけるばかりだった。
車内に紛れこむ夕焼けが暗さを帯びていく。列車の揺れを身体で感じながら、二人は何も言わずに、ただただなにかを待ち続けていた。
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