ピーター・パンという少年(4)

 ――キャプテン・フック。

 フックのカギヅメが、ピーターのナイフを受け止めていた。

 わたしの、目の前で。


「――客人に、手は出させねぇぞ。ピーター」


 ギリギリとカギヅメでナイフを退けながら、フックがわたしとピーターの間に体を割って入ってくる。

 雨が降りそそぐ。


 あ……え、っと。そうだ、逃げなきゃ。邪魔になる。

 なんとかギリギリそう考え付いて、足を動かそうとして。

 へちょん。とその場にへたり込んでしまった。う、うおおぅ。足が動かないです……。


「平澤」


 マキちゃんが後ろから抱えてくれた。ずりずりと下げられる。おしり、おしり冷たい。

 目の前では、ピーターとフックがにらみ合っている。カギヅメでナイフを抑えていたフックが、ぐんっと左腕を払った。ピーターが後ろに跳ぶ。今度はフックが追うように前に出た。剣を携えて。

 それをナイフで受けながら、ピーターが口を開く。


「どいつも、こいつも。なんで」

 悲鳴のように。

「ぼくの邪魔ばかりするんだ!」

 叫んだ。

 同時だった。

 また例の甲高い音とともに――


 フックの体が、どうっと横倒しになったのは。



 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 時が止まったかのように、ピーターも、ティンクも、ロストボーイズや海賊たちも、誰も何も喋らなかった。

 雨音だけが鳴り響き、それがやけに静かだった。

 その空気を最初に破いたのはマキちゃんだった。


「フック!」


 叫んで走り出す。倒れたフックの側へ。


「しっかりなさい!」

 マキちゃんはフックを抱えるようにしゃがみ込む。

 その背中を見て、なんとか、わたしも意識が戻ってきた。だめだ。しっかりしろ平澤ありす。呆然としている場合じゃない!

 ぱちんっと自分の頬を叩いて気合を入れて、無理やり立ち上がる。大丈夫、立てる。走れる。駆け寄れる!


「フック、マキちゃん!」


 慌てて駆け寄って――でも、わたしの足はまたすぐに止まってしまった。

 マキちゃんに抱えられるフック。

 その右腕がぽっかりと――なくなって、いたから。


「え……」


 かすれた声が、勝手に喉から漏れた。

 その声に、フックがゆるりと重たそうに首をこちらに向けた。脂汗の浮かぶ顔で、口元だけ、笑っている。


「やられたな。まさか直接喰らうとは、な」


 ――! そう、か。


 あの甲高い音は、ピーターの癇癪とともに空間に『闇』を開ける音だ。そしてそれを、おそらくフックは直接体で受けてしまったんだ。

 理解した瞬間、金縛りが解けたみたいに体が動いた。今度こそフックの側による。

 左手はカギヅメ。そして右腕は――右の肩から先は――今はもう何もない。


「い、痛い……? フック」


 ああ、馬鹿な質問しか出てこない。だってあまりにも、現実味がない。血も何も流れていないのに、ぷつん、と肩から先が途切れているのだ。


「いや、痛くはねぇな。ただ……うっかりすると、俺自身が消えちまいそうだ」


 苦笑しながら、フックは絞り出すように答えてくる。とてもじゃないけど、普通の状態ではないらしい。

 マキちゃんの顔も真っ青だ。


「あ……ぼく……は」


 うろたえたような声に顔を上げる。

 ピーター・パンは自分がやらかしたことに驚いたように、白い顔で立ちすくんでいた。


「……ピーター・パン」


 マキちゃんの声に、ピーターが弾かれたように飛び退る。迷うように視線を左右させ、くるっと、こちらに背を向けた。


「――待ちなよ!」

 ほとんど反射的に、わたしは逃げようとするピーターの腕を引っ掴んでいた。

「逃げるの!? こんなのほっといて!?」

「――逃げられないさ!」


 ピーターが、わたしの腕を振り払う。ぴしゃっ、と、腕から伝った雨水がわたしの頬を打った。


「逃げられないさ。知ってるんだろう! ぼくは飛べない。飛べないでどうやって逃げるっていうんだい!?」


 カシャンッと今度は頭上で音が鳴る。マストかなんか、もしくは頭上の空間に『闇』が開いたんだろう。ああ、今はそんなの、どうでもいい。


 どうでもいい。


「――でも実際、逃げようとしたじゃん、あんた、いま」

「そっ……」

「逃げるな、って言ってるのよ、わたしは!」

「うるさいっ!」


 また、音。今度は後ろ。しったことか。


「平澤」

「ちょっとマキちゃん黙っててください」


 ピーターに、一歩近づく。


「こんな事態を招いてんのはあんた自身じゃない。いくらガキだからって、それ免罪符にして何でもかんでも許されると思うな!」

「じゃあ! 君には分かるのかい!? 毎日同じことの繰り返しで、誰かにかつがれた世界で、何が楽しいかも分からない。そんなんでどうやって飛べるのさ。どうやってこの世界を保てるというんだよ!」


 はーん。はあーん。覚えがある覚えがある。これ。同じように似たよーなことでブチ切れてたやつを知っている。どこぞの影の薄い王子様でしたけどねっ。

 残念でした!


「そんなんわたしが知ってるわけないでしょーがっ!」


 ――逆ギレには逆逆ギレで返すのがわたしの流儀なんです悪かったなぁ!


 呆気にとられたのか口をぱくぱくさせるピーターを一度強く睨みつける。言いたいことはいくらでも、腐るほどあるけれど。今はそれどころじゃない。

 ピーターに背を向け、もう一度フックに近づく。


「フック、大丈夫?」

「今のところはな」


 苦笑しながら答えるフックを見て、マキちゃんが近くにいたティンクに声をかける。


「スミー呼んできて」

「おい、マキノ」

 すぐに飛んで行ったティンクを見送りながら、マキちゃんはフックの抗議の声を受け流す。

「心配かけるから、とかなしよ。こういう時、大事な人の側にいるのは、大事に思っている人間の権利なのよ。あんたにだって拒否権はないわ」

「ちっ、うっとうしいやつだ」

 くつくつと、フックは肩で笑う。その先がない、肩で。


「フック、どうすれば……」

「さあな。穴を埋める方法が分かれば、あるいは何とかなるのかもしれんが」

 言いながら、フックはピーターを見上げた。

 少し、寂しそうな目だと、思った。

「そいつがその様子じゃ、無理だな」

「ぼっ、ぼくのせいだって……」


 ――まだ言うか!


「それ以外に何があるって言うのよ」

「平澤、ちょっと落ち着きなさい」


 マキちゃんにたしなめられる。だって。だって! フック、こんなになってるのに!


「おやびーんっ!」


 悲鳴とともに、フックが海賊たちをかき分けながら走ってきた。丸い体で転がるように、フックの傍らに膝をつく。


「おやびん、おやびん」

「ああ、うるさい。だから嫌だったんだよ」

「フック」


 フックが大きく息を吐いた。空を見上げる。

 いつの間にか、空は一面黒々とした雲に覆われていた。雨はやみそうにない。


「いいさ」

 雨粒を受けながら、フックが言う。


「この期に及んでも覚悟が決められねぇガキなら、もうどうしようもねえさ。あとは滅びを待つだけだ」


 ――何でもないことのように、あっさりと。

 そんな、諦めきったことを言う。

 見ると、ティンクもスミーもただ俯いているだけで、声も発しない。

 それは。

 それは――まるで、絶望を許容しているように見えた。


「……やだ」

 気が付くと、勝手に、声が漏れていた。

「そんなの、やだ」

「ありすちゃん」

「ばっかじゃないの! これも運命でーすって受け入れてかっこいいつもりだったら、ばかだって言ってやる!」


 やろうと思えば、たぶん、何とか感情を抑え込むくらい出来た。でも、したくなかった。したくなかったし、する場面じゃないって思った。

 諦めて、絶望して、子どものわがまま聞き入れて。

 それでかっこつけてるつもりなら、怒鳴り声で脳天かち割ってやりたかった。


「ヒラサー」

「なんとかする」

「……何とか、ね」

 無茶なことを、と言うようにフックが笑う。


 分かるよ。だってどうしていいか、今わたしには解決の糸口さえ見つけられていない。それをなんとかする、って、それこそ子どもじみた駄々こねと変わらないだろう。分かっている。現実的にどうにかするには、気持ちだけで何とかなるもんじゃない。方法が必要だ。それが見つかってないなら、本当にただの子どものわがままだ。でも。


 絶望するだけが大人だなんて、わたしは思ってなんかいない。


「あんたが!」

 ピーターを見上げて、叫んだ。

「飛べるようになれば、夢を見られれば、何か変わるかもしれないんでしょ。――ティンク!?」

 ティンクが、大きな目を目いっぱい開きながら頷く。

「き、きっと」

「――フック」


 立ちすくんだままのピーターは、もう、この際無視だ。方法が確立するまで、せいぜい馬鹿みたいに突っ立っていろ。


「もう少し。もう少しだけ頑張って。必ず助けるから。何か方法を、考えるから」


 気づいていた。フックの体から発せられていた気配のような何かが、薄まっていっていることを。フックが口にした、自分自身が消えそうだ、というのは、きっと事実なんだろう。彼はぎりぎりのところで、きっと、踏ん張っているんだ。

 少し色を失い始めた頬を、無理やり動かして笑いながら、フックはかすれた声で言った。


「ヒラサー」

「なに」

「夢を見るだけなら、ガキでも出来る。だが、夢を形にするには――現実力がいるぞ」

「分かってるよ」


 ちいさく、笑って見せた。マキちゃんを少し、見上げて。


「わたしとマキちゃん、そういう仕事をしているんだよ」


 マキちゃんは一瞬驚いた顔をして、それから力強く頷いてくれた。

 フックは目を細める。


「そうか。だがそれは、この世界とたぶん相反するものだ。それは分かるか?」

「分かんない」

 首を横に振る。

「分かんない、けど。でも、どうかな。言うほど相反するものでもない、気もするよ」

 わたしの言葉にフックはまた笑って。


「まぁそこまで言うなら。――任せてみるさ」


 そう、言ってくれた。


 とはいえ実際にどうすればいいのか、分かるわけじゃない。たぶん『彼』に訊くのが早いのかもしれないけれど、今度もまた答えてくれるかどうか分からない。なら。

 ポケットにねじ込んでいた『鍵』を取り出す。


 こっちの世界で糸口を見つけられないなら――元の世界でなら、どうだ。


「平澤。戻るの?」

「賭け、ですけど。でも」


 あっちで何か見つかるとも限らない。でも、こっちにはなくてあっちにならあるものなら、確実にひとつ、ある。


「向こうなら、みんなが、います」

 花ちゃんも剛くんもいる。きっと二人なら、一緒に悩んでくれる。

「……そうね」

 マキちゃんが頷くのを見て、わたしはティンクを振り返る。


「一緒に、くる?」

「え……いい、の?」

「うん。鍵ちっちゃいから、あなたくらいしか連れていけないけど」

「行く」


 即答だった。


「……ティンク!」


 ピーターのひっくり返った声に、ティンカー・ベルはきっと顔を上げた。


「ピーター・パン。ワタシ、あなたが好き」

「ティンク……」

「だから、あなたにまた飛んでもらいたいし、ずっと一緒にいたい。だから。――だからいまは、あなたを置いていく」


 真っ直ぐ、はっきりと、そう言い切って。

 ティンカー・ベルは――ちいさな妖精の女の子は、わたしの手にぴたり、と降り立った。


 ――よし。

 やるしか、ない。

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