第40話 八俣

 胡蝶さんが死んだ。

 

 僕は単純な疑問を口にする。

「……いつ?」

「雨牛君と私が彼女に会った日です。私達が帰った後すぐ、彼女はまるで眠るように亡くなったそうです」

「そんな……」

 だって、あの時の胡蝶さんはとても元気だったのに。

 いい夢が見れたと言って、とても喜んでいたのに……。

「雨牛君が病院に運ばれたのは、彼女が亡くなった次の日のことです」

 波布さんは一瞬、僕に視線を向けた。

「朝になっても雨牛君は目を覚ますことはなく、何をしても起きませんでした。雨牛君はそのまま、救急車で病院に運ばれ、それ以来三日間、意識不明の状態が続いています」

「そう……なんだ」

 僕は今、話すことが出来るし、動くこともできる。意識不明と言われても、まるで実感がない。

 羽ばたきながら、空中に制止する『蝶のような生物』を波布さんはじっと見据えている。『蝶のような生物』は動くことなく上から僕達を静観していた。

「彼女は雨牛君を愛していました」

 突然、波布さんはそんなことを言い出した。

「誰も来ず、いつ終わるともわからない入院生活。彼女にとって、雨牛君の存在は暗闇の中の光でした」

「……」

「彼女は思いました“もっと雨牛君と一緒にいたい”と。普通の人間なら、叶わない願いです。しかし、彼女は、その願いを叶えることが出来た。彼女の中にいた『奇妙な生物』が夢を操る力を持っていたからです」

 胡蝶さんの中にも『奇妙な生物』がいたということに、僕は少なからずショックを受ける。胡蝶さんはそんな素振りを全く見せなかった。

「彼女の中にいた『奇妙な生物』は夢を操る力を持っていました。その力を使えば、自分の好きな夢を見ることが出来き、他人の夢の中にも入ることができました。彼女はその力を使って、雨牛君の夢に侵入したのです。そして、夢の中で雨牛君の恋人となった」

 僕は胡蝶さんに告白された時のことを思い出す。

 波布さんの言う通りだとすると、あの告白も夢の中の出来事だったということになる。

「夢の中で雨牛君の恋人として過ごすのは、あくまで雨牛君が寝ている間だけのことでした。その時の彼女には、相手が寝ている間にしか、夢の中に入ることが出来なかったのです。ですので、彼女が夢の中に侵入しても、雨牛君は朝、きちんと目を覚ますことが出来たのです」

 ですが……と波布さんは言葉を区切る。

「肉体が死んだことがきっかけとなって、彼女は自分の夢の中に雨牛君を引きずりこむことが出来るようになりました。彼女自身が夢を操る『奇妙な生物』となったからです。結果、彼女の夢の中に引きずり込まれた雨牛君は朝になっても目覚めることなく、眠り続けることになりました」

 波布さんは言った。胡蝶さんは最早、『人間』ではなく『奇妙な生物』そのものになっていると。

「どうして?どうして、そんことに?」

「人間の精神は肉体の中にあります。その肉体がなくなったことで、彼女は自分の中にいた『奇妙な生物』と一体化することができたのです」

 波布さんの説明に僕は目を丸くする。

 じゃあ、もし波布さんが死んだら、波布さんも『シロちゃん』と一体化するのだろうか?

「いいえ」

 波布さんは首を横に振る。

「あくまで、彼女の中にいたのが『夢を操る奇妙な生物』だったからできたことです。ですので、私が死んだとしても『シロちゃん』と一体化することはありません」

 私は死んだら、それまでです。波布さんは淡々とした口調でそう言った。

 

               ***


 波布さんの話を聞いて僕は理解した。何故、僕に記憶が二つあるのか。


「僕が胡蝶さんと過ごした五年間は……全部夢の中の出来事だったんだね?」

「そうです」

 胡蝶さんに告白されたことも、デートしたことも、一緒の大学に行って、同じサークルに入ったことも……そして、胡蝶さんの家に泊まろうとしたことも。


『胡蝶さんと過ごした記憶』は全て夢の中での出来事だったのだ。


「……どうして、僕は波布さんのことを思い出したんだろう?」

「それは、私と再会することによって、雨牛君の中にあった記憶が蘇ったからです。彼女は雨牛君に『偽物の記憶』を上書きしましたが、『元の記憶』は消えたわけではありません。私と再会したことによって雨牛君の中にあった『元の記憶』が蘇ったのです」 

 記憶というのは忘れていても、何らかのきっかけで蘇ることがある。長年記憶喪失だった人間が、ふとしたきっかけで、記憶を取り戻すように。


「波布さん」

「はい」

「胡蝶さんは、もう……死んだんだね」

「はい、彼女の肉体は死んでいます」

「じゃあ、あそこにいるのは……胡蝶さんなの?」

 僕は浮遊する生物を見る。胡蝶さんの精神と一体化したというその生き物は、じっと僕らを見下ろしていた。

 波布さんは答える

「そうであるとも言ますし、そうでないとも言えます。少なくとも、雨牛君と夢の中で何年も共に過ごしたのなら、彼女の記憶と意識はあります」

「そう……」

 僕は一歩前に出た。じっと僕らを見下ろしている生き物に僕は話し掛ける。

「胡蝶さん」

 目の前で浮遊している存在を僕は「胡蝶さん」と呼んだ。彼女はピクリと反応する。

「あの……」

「ワタサナイ」

 僕が話す前に、羽に描かれた胡蝶さんの顔が口を開いた。その顔がみるみる怒りに染まっていく。

「アマウシクンハ……ダレニモ……ワタサナイ!」

 突然、胡蝶さんが急降下してきた。波布さんは僕を抱きしめ、地面に転がった。頭上、スレスレを胡蝶さんがかすめる。

「胡蝶さん!」

 僕は叫ぶ。だけど、胡蝶さんは耳を貸さない。

「アマウシクンハ……ダレニモ……ワタサナイ!」

「無理やりに……というわけですか。やはり、貴方は危険です」

 波布さんは僕をかばうように立ち上がり、冷たい目を胡蝶さんに向けた。

 その目を見て、すぐに分かった。波布さんは胡蝶さんと戦うつもりだと。

 でも、傷を負った『シロちゃん』は、しばらく波布さんの体から出ることはないだろう。一体どうやって、胡蝶さんと戦うつもりなのだろうか?

「え?」

 その光景を見た僕は、マヌケな声を出していた。


 いつの間にか、波布さんの隣に巨大な蛇が出現していた。


 その大蛇は『シロちゃん』よりもはるかに大きかった。恐らく二倍以上ある。

 それだけじゃない。その大蛇の頭は“八つ”あり、尾も“八つ”に分かれていた。


 まるで伝承に出てくる『ヤマタノオロチ』のように。


「な、波布さん……」

「ここは夢の中。イメージすることさえ出来れば、どんなものでも造り出すことが出来るのです」

 大蛇の八つの頭が一斉に胡蝶さんを睨んだ。八つの頭全てがチョロチョロと舌を出す。

 波布さんは、短い言葉で大蛇に命令した。

「行け」

 波布さんが命令した瞬間、八つの頭と尾を持つ大蛇が胡蝶さんに襲い掛かった。



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