終章 烏神の導きのもとに
第62話 戻る日輪
顕錬は邸外の東南の角に宝余を連れて行った。一時、邸内の火勢があるうちは木のはぜる音がしきりに聞こえ、火の粉も飛んできていたが、今はやや落ち着いたようである。そして、気づかぬうちに夜はすでに白み始め、鳥の鳴き交わす声もまた聞こえてくる。
どちらが先ということもなく、二人が互いに向き合ったとき、宝余は相手の顔を改めて見て驚きに打たれた。夫の頬が、別れる前より明らかにそげていたからである。諸州を流浪した宝余とは異なり、顕錬は瑞慶府から動くことはなかったが、朝堂での暗闘の激しさが彼の頬から肉を奪っていったに違いない。夫はその頬をゆがめた。
「どちらから話すのが先か?そなたか?私か?」
問われた宝余は少しの間うつむいたかと思うと、泣き笑いのような顔を相手に見せた。
「あなたに会う前は、いろいろ言いたいこともあったのに、だからここまで辿りついたというのに。――どうしたものか、いざ願いがかなうと、言うべき言葉が見つからないのです」
「……それは、憎しみや罵倒の言葉だろうか?だが、そなたが私を罵ったとしても、当然のことだ。私は王として夫として、そなたを守り切ることができなかった。理由あってのこととはいえ、命の危険にさらし、辛い生活を強いたことに変わりはない」
その自責の念が滲み出た口調に、宝余は驚いたように目を見開いた。
「では、私があなたを憎んでいるかもしれないと?」
「違うのか?」
顕錬は、今は仮面のような無表情を捨て、希望と諦め、悔いのないまぜになった表情をしていた。彼女は考え込み、一語一語、確かめるように口に出す。
「確かに、棄てられた初めは事情も知らなかったから、あなたと、瑞慶宮の人たちを憎んでいました。死んだはずの人間が現われたらあなた達は驚くはず、それで死ぬことになっても、せめて一矢報いて死ななければ、と。それが瑞慶府に私を向かわせた動機です、最初は」
「……最初だけか?」
「でも、しだいに、怒りよりも疑問のほうが勝っていたし、あなたが、あのようなことをするとはどうしても信じられなかった。それに、みちみち謀反の噂を聞いてあなたがとても心配になったの。――」
「なぜそのように思える?私達は互いに頑なで、琴瑟相和すといった夫婦でもなかっただろう」
「それは――」
夫はさきほどから問いばかりを口にしているが、それは長く艱難辛苦に満ちた少年時代を送ったが故に、つねに最も悪きものを基準に考えてしまう習い性のためだと、彼女は理解していた。
「初めはいくら情が薄くても、同じ屋根の下で暮らしていれば、なんとなく相手が見えてくるものです。それだけでなく、離れているうちに見えてくることもまたあります。山河を巡り、班のなかで日々の生活に追われていたあの時でも、たまさかにあなたのことを思い出した。地方を回るうち、この国にも様々な宿弊があり、あなたが瑞慶府でご苦労されているその一端も垣間見ました。そして、弦朗君さまからお話をお伺いして、確信できたのです。やはり、あなたは妻を卑怯なやり方で欺いたり、陥れたりするような人間ではないと」
宝余は視線を外して空を見上げた。もうすぐ日輪が上るだろう。
「私は冬淋宮であなたと烏翠に対する呪詛の言葉を刻まなかったけれど、それだけはしなくてよかったと思っています。そう、私が戻ってきたのは、私があなたの隣に座す資格をまだ持っているのか、そして互いに信じて生きていけるのか、あなたから直接に確かめるためです」
顕錬はそこまで聞くと、懐に手を入れた。
「……そなたの手を」
宝余はいわれるままに右手を差し出した。
「――これを」
上に向けた手のひらに、ふっとわずかな重さが加わった。重さの正体を見極めるために、松明のある方向に手のひらを向ける。その上で、金色の輪がきらりと光った。
「――これは」
顕錬が頷いた。
「そなたのものだ。だが、それを左右どちらの指につけてもよい。そなたの意のままにせよ」
宝余は一旦うつむき、やがて再び夫を見上げたとき、はにかんだような微笑が浮かんでいた。
彼女は無言のまま、小さな日輪を右の薬指にくぐらせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます