第55話 呪詛

「――!」


 宝余は何かを叫んだ後、恐ろしくて顔を下に伏せた。彼女の胸元から一瞬、光が飛び散ったが、彼女は気が付きもしない。一瞬遅れて、耳元でまた悲鳴が聞こえた。

 ――?

 自分は死んだと思ったが、その瞬間は来なかった。かわりに、頭上でなにか重いものが倒れる気配がし、また悲鳴が上がる。宝余は床に転がったままおそるおそる眼を開けると、ぼんやりとした視界がはっきりと焦点を結ぶ。そして、彼女は言葉を失った。

「やめて!やめて!」

 頭上の悲鳴は、傀儡師のものだった。彼女は鞭から手を放して床を転げ周り、何かから身をかばっている。

 宝余は彼女を攻撃しているものの正体を知り、血が逆流した。

 それは紅鸞の人形だった。宝余を殺すはずだった小雲は、その目的を果たすことなく、こんどは何故か自分の主人に向かって刃を振りかざしていた。見れば人形には、何か鳥のようなものが巻き付いている。それは白から黄金色をしていて尾が長く、その幻影が動くたびに金粉のような光がまき散らされている。

 刃は狙い狂わず、獲物の体に突き刺さる。何度も、何度も。刃が肉に食い込むたびに、骨に届くたびに女は絶叫し、血まみれの体をよじらせる。執拗な攻撃に対し、紅鸞の全身は襤褸ぼろのようになりつつあった。

 あまりに凄惨な眺めに宝余は言葉も出なかった。何とか身動きしようとしたが体は石のように重く、ただ頭だけを持ち上げて事の成り行きを見るしかなかった。


「何をしている!」

 そのとき、部屋に飛び込んできた者がいる。忠賢だった。彼は床に転がっている宝余と、紅鸞と小雲を一瞥し、二人と一体に向かって叫んだ。

「やめろ!」

 だが、小雲は攻撃をやめない。また、血しぶきと悲鳴が上がった。忠賢は床の宝余に飛びつき、まず頸の鞭を外してやってから、誰にともなく怒鳴った。

「あの人形をなんとかしなくては!」

 頸の戒めが解放されたことにも気づかず、宝余は救いの主をぽかんと見つめていた。だがすぐに忠賢の言わんとしていることを察した。


「やめて!やめなさい!」


 宝余が叫んだその瞬間、小雲にまといついていた烏の幻影は消え、人形は動きをとめた。かくかくと動き、こちらを振り向く。にっと笑ったかのような表情をしたが、それは宝余の気のせいだったかもしれない。血と脂にまみれた刃がその小さな手を離れ、床にぶつかって跳ね返った。ついで人形自身もかつての主人の膝の上に落ちた。

 忠賢は紅鸞に歩み寄り、驚愕に見開いたままの眼を閉じてやった。彼女はすでに事切れていた。それから、ふーっと大きなため息をつく。宝余は気を失いそうだったが、何とか持ちこたえた。


「……しょうのないやつだ」


 誰が「しょうのないやつ」なのか、宝余なのか紅鸞なのか、そして、忠賢は床にぺたりと座り込んでいる宝余の前に跪き、鋭い眼で彼女を覗き込んだ。

「彼女に何を言われたんだ?何が起こった?」

 宝余は口を開きかけた。だが、彼女はからからになった喉の奥にいうべき言葉を押し隠した。


 ――彼女は、私に死ねと言った。そんなことを彼に言ってどうする?


 忠賢と紅鸞はかつて兄妹のように仲が良かった、と愛姐が言っていた。そんな彼女が禍々しい傀儡師に変貌し、呪詛の言葉を吐き散らしていたなどと、言うことなどできるだろうか?宝余は答えるかわりに沈黙した。


「……いや、そなたに礼をいう」

 ぽつんと忠賢がつぶやいたのは、宝余が無言を通した理由を察したであろう。おそらく、彼も気がついているはずだ、紅鸞が宝余に何を言い、何をもたらそうとしていたかを。それが証拠に、忠賢は決心したかのように、倒れている人形を手に取り、腹から裂いた。


「…嫌な感触だ、まるで生身の人間を裂いているかのような――」

 その言葉に、宝余も顔を顰めた。忠賢の手もとを覗き込んだ彼女は、声を上げそうになった。古そうな、宝余もよく知らぬ字体を刻んだ芯のなかに、さらに一枚の紙が筒状になって入っていた。注意深く取り出し、灯りの下で広げてみる。それを観たとたん、宝余は総毛だった。


「――催命符さいめいふ


 禍々しい呪文と文様に彩られたそれは死の命令符、すなわち相手に死をもたらす呪符であり、文様で縁取られた真ん中の空間には、宝余の姓であるいみなれい、そして彼女の四柱が朱字で書きこまれていた。

「…まさしく私の姓名と四柱です。私は誰にも告げたことがないのに、どうして紅鸞が知っていたのでしょう?」

 互いの四柱を訊くことは、班における禁忌の一つであった。宝余の諱や四柱を知っているのは、この国では限られた者、つまり宮中の人間しかいない。何故。まさか――。


「どうしたのだ?」

 はっとして、二人が振り返ると、手燭を掲げた大班主が立っていた。忠賢から事の成り行きを聞き、老人は厳しい表情で首を横に振った。

「馬鹿者め、大班主の位とはそういうものではない――」

 そして忠賢を副班のもとに走らせ、催命符を一瞥すると、宝余を鋭い眼で刺した。

「これは、涼の国姓と同じだな」

 宝余は俯いた。とうとう大班主には自分の身分が明らかになってしまったようである。忠賢は気付いただろうか?だが、ことここに至っては仕方がない。

「大班主様、お願いがあります。紅鸞の持ち物を見せていただくことはできますか?」

 老人は「諾」の返事をする前に、眼を細めて宝余を見据えた。


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