第39話 衾を譲る人

「班主、お早く」

 呼ばれて忠賢はくるりときびすを返し、庭に入るやいなや門が閉められる。宝余の見たところ、彼は明らかにこの決定に不満のようだった。


 ――彼の性格からすれば、無理もないけれども。


 宝余はふうっと溜息をつき、あたりを見回すとそこには納屋があった。

 ――馬小屋でないのだから、多少はましかしら。


 すでに材が朽ちかけており、たてつけの悪い――というよりもはや立てかけてあるだけに近いその扉をあけると、異臭が流れ出てきた。藁も積んではあったが、すでに半分は腐っているのではないか、と思うような代物だった。これなら戸外で寝るほうがまだ過ごしやすいかもしれない。だが、山中とあって屋外はすでに冷えていたし、たとえ一尺でも一寸でも、座の皆により近いところにいるほうが安全であった。


 宝余は戸をまだ閉めずにおいた。この家はさほど裕福でもなさそうだったが、さすがに盗賊よけの松明だけはしっかり焚いてあるので、戸を半開きにしても室内はぼんやりと明るく、これならばなんとか寝る準備はできそうである。腐った藁を戸外に出し、乾いた藁をならして、上にそっと借り物の衾を敷き、さらに残った藁を束にして床を掃う。


 そこへ、とん、と音がして、扉に背を向けていた宝余は飛び上がった。振り返ると、戸口に愛姐がおり、碗を二つ持っている。一つはごく薄い黍粥が入ったもの、ひとつは湯。礼を言って受け取ると、愛姐は「一晩の辛抱だからさー」と囁き、小走りに内門の向こうに消えた。

 藁の上に座り、粥を食べる――というよりほとんど飲み干し、まず碗の半分の湯で口を漱ぎ、残る半分を手ぬぐいに垂らし、それで顔や手足を拭った。そうすると、少しは気分がさっぱりした。戸をまた立てかけると屋内は暗くなり、衾に包まれると、風の音がはじめて耳についた。


 横になると、我知らず、涙が頬を伝い落ちていた。気強く耐えてきた自分でも、今日という今日は心がぽきりとおれてしまいそうだった。

 ――どうして、こんなことになるのだろう。

 彼女は衾のなかで身体をまるくし、誰も聞いていないのにもかかわらず、声を殺して泣いた。


 ――あめが下はこんなにも広いのに、どこにも、私がいてよい場所などないのだろうか?


 自分は王妃でも洗濯女でも何でもかまわない、ただ行方の定まらぬこんな状態がいつまでつづくのだろう。――一年先、十年先?それとも死ぬまでこのままで?

 養家の人間にもなりきれず、涼の公主にもなりきれず、また烏翠の王妃にもなりきれず、ついには班の人間にもなりきれず――。輿入れしてくる前は、まさか自分がこのようなことになるとは、考えもしなかった。


 剣で自分のかつぎを取り払った紫瞳の国君のことも、蜘蛛のごとく黒々とした雰囲気をまとう恐ろしい慈聖太妃も、急流にのまれて消えた父の琴も、眼下にひろがる瑞慶府の街並みと、銀色の蛇のような蔡河のきらめきも、冬淋宮での死と隣り合わせの日々も。すべてが夢か、遠い昔のことに思える。


 ――天帝よ、お耳をお持ちであるならば、私の申し上げることを聞いてください。お口をお持ちであるならば、私に理由をお聞かせください。自分に一体どのような罪があって、このような目にあうのでしょうか、不繋ふけいふねのように、どこまでも漂っていかなければならないのか――。


 いけない。彼女は両手で顔を覆った。いけない。自分だけ、と思うのはやめよう。卑屈になるのだけはやめよう。少なくとも、こうして今日は寝る場所があるのだから――。

 宝余が強いて別のことを考えようとしたとき、今更ながら自分をくるむ衾に気がついた。


 ――渡されたときは、ろくに礼も言わなかったけれど。

 この衾を渡してくれたひとは、今日は寝具もなく、冷たい床に横たわっているのだろうか。

――明朝、彼にきちんと礼を言わなければ。そうでなければ、私は本当に人でなしになってしまう。


「……温かい」

 思わず、声に出して言ってしまった。本当は、衾をかぶっていてもなお、藁の下から冷気が上がってくるから、寒くてたまらなかったのだが――。

 の人は夢も見ず寝ているのだろうか、それとも何か夢に見ているのだろうか。そんなことを考えているうちに、いつしか眠りにひきずりこまれていった。

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