第34話 班旗のもとに

 たとえ短期間でも班に加入するには儀式が必要で、宝余はまず廟の神前に酒を献じて拝礼を済ませたのち、竿に結び付けられた橙色の班旗に額づき、忠賢の唱導に従い入班の誓いを立てた。

 つぎに班主の忠賢から始まって、序列二位の女形の藍芝らんし、三位の女傀儡師の紅鸞こうらん、そして一番下の愛姐あいしゃに至るまで、一人一人に跪いた。


 班は廟を今夜の宿りと決め、一番下の序列の人間になった宝余は、寝る場所を皆に譲るため、袋を抱えて廟の正堂から立ちのき、門の脇の小屋に行った。そのつくりは屋根から星の見える酷い代物であったが、寝場所を分け合う愛姐はのんびりとした調子で話す、陽気で邪気のなさそうな若い炊事係だった。

 みなは廟の外で火を起こし、遅い夕食の粥を口にした。ろくに具も入っていない薄い粥だったが、胃の腑から粥の温かさが全身に広がり、宝余は先が不安ながらもようやく緊張がほぐれてくるような気がした。瑞慶府に入る前に各地に寄ると忠賢は言っていたから、大分遠回りの行程にはなるだろうが、身の安全には代えられない。


 小屋に戻り、襤褸ぼろ同然の敷物を一枚もらってそれにくるまると、すぐに宝余の意識が遠のいて行った。


 明け方になり、宝余は愛姐に起こされた。

「朝餉の前に、今から私達は仕事をするのさー」

 宝余が寝ぼけ眼で愛姐についていくと、愛姐は廟の軒下の、班の荷のあれこれが山のように置かれている場所に行き灰汁の洗い粉を懐に入れ、大きな包みと網を二つずつ取り、包みの一つを宝余に投げてよこした。あわてて両腕を出して抱き留めると存外に重く、宝余は思わずよろけた。その様子が滑稽に見えたのか愛姐は呵呵大笑し、廟の北側を流れる小川に降りて行った。日がようやく登ろうとする頃だったが、川岸ではすでに生き物の動く気配がする。


 宝余と愛姐は並んで顔を洗い、どちらということもなく洗ったばかりの顔を見合わせて、にっと笑った。そしてさっそく包みを開くと洗濯を始めた。包みには汚れ物が三十枚くらい入っていたが、愛姐はそれを手際よく洗っていく。宝余のほうは、涼では一応の経験はあるものの養父との二人暮らしであったから、これほどの枚数を一どきに洗うのは初めてで、しかも疲れが完全に取れていない状態であったから、立ち上がって腰を伸ばすと、きしむかのような音がした。もっとも、いまは夏だから良いようなものの、冬などあっという間に手があかぎれだらけになるであろう。

「あんた、洗濯物など触ったことのないお嬢さんのようにみえて、案外できるんだねえ」

 愛姐の何気ない言葉が嬉しく、宝余は微笑んだ。褒められるのは本当に久しぶりだった。


 しかし、明るい気持ちもそこまでだった。宝余は愛姐とともに薪を拾って火を起こし、鍋で粥を炊いたのち、自分も椀と箸を持って粥をもらう行列の最後に並んだ。取り分は鍋の底に残っていたもので他の者よりも少なめだったが、食べられるだけありがたいのであって、文句はいえない。彼女が椀を手にしたまま座る場所を探していると、手元が衝撃とともにふっと軽くなった。

「――?」

 いきなり椀が飛んで地に落ち、なかの粥がぶちまけられた。宝余が驚いて振り返ると、あの女傀儡師が自分の傀儡を右肩に載せたまま、すっと右足を引くところだった。どうやら彼女が高く足を上げ、わざと宝余の椀を蹴り飛ばしたらしい。宝余は我に返り、さすがに怒りをあらわにした。班の者は、みな食事をやめて二人を見ている。


「これはどういうことですか?」

 宝余の咎めを傀儡師は鼻であしらい、片手を腰に当て、もう片手で椀をことさらに指差してみせた。

「あら、新入りの分際で、あたしたちの稼ぎでこしらえた粥を捨てたのかしら?あんたは山海の珍味を口にし、おかいこぐるみで育ったお嬢さんのように見えるけど、あたしたち下賤と同じものは食べられないの?正直で困るわね」

 宝余は一歩進み出ようとしたが、その肩を後ろから強く押さえた手がある。宝余が首をねじ向けると手の主は愛姐で、彼女が初めて見せる真剣な眼差しで首を数度、ゆっくり横に振った。

「そんな…」


 序列が一番下、というのはこういうことなのだろうか、反論もできないとは――。

 宝余は唇を噛んだ。これが昨夜言われた、「覚悟せよ」ということか。王宮だけではなく市井でもどこでも、理不尽や嫉妬、蔑みや憎しみは存在するということを、今さらながら思い知った。


「あんた達、何つまらないことで揉めているのよ。さっさと食べて出発するわよ」

 すでに食事を済ませたのか、長い煙管で一服している藍芝が気だるい声を漏らした。だが、班の者の視線は彼ではなく、班主の忠賢に集まった。彼は腕を組み渋面を続けていたものの、やがて口を開いた。


「新入りのことを気にしている暇があったら寸暇を惜しんで芸を磨け、紅鸞」

 顔色が変わったのは、紅鸞のほうだった。

「何ですって!?あんたが班主とはいえ、私にたやすく命令しないでちょうだい。あんたにわたしの芸の心配をされるいわれはない」

 そして宝余をきっと睨み返すと、足音荒く耳房に消えて行った。愛姐が自分の椀を宝余に差し出したが、宝余は無言で首を振って断り、気持ちだけをもらうことにした。この炊事女はぽんぽんと、新入りの洗濯女の肩を叩いた。

「あんた、がっかりせんでー。これから明州まで行って芝居をかけるから、あんたも隅っこで見られるさー」


 一行は食事ののち、廟の神像に宿を借りた礼を述べるとともに、内外を一通り清掃して出立した。宝余は旗竿の先に一座の徽章が結び付けられ、高々と掲げられるのを見守った。翩翻へんぽんとひるがえる橙色の旗。皆が三度歓呼の声をあげ、それから荷車がゆっくりと動きだした。

 旗手に班主の忠賢が続き、以下のみなも列を作って歩き出す。最後尾の集団に組み込まれた宝余は、しんがりの若い男が、旗のつけられていない別の旗竿を掲げていることに気がついた。その竿の頂には金色に輝く鳥の飾りがつけられ、先頭の竿よりよほど立派だった。なぜあの竿に旗を掲げないのか、宝余は隣を歩く愛姐に尋ねてみた。

 愛姐は曖昧に笑い、「そのうちあんたにもわかるときがくるさー」とだけ答えた。

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