第24話 朝を告げる鳥
それからどれくらい時間が経ったのだろうか、半ば失神していた宝余が正気に返ったのは、ふわっと自分の身体が浮き上がったからであった。
「――?」
その直後、なんとも嫌な感じ――自分が落下する感覚が襲ってきて、はげしく身体が衝撃を受けた。
痛い!という、声にならぬ声がふさがれた口から漏れる。自分はどこかに叩きつけられたらしかった。がさがさと音を立て、自分をくるんでいたものが剥ぎ取られる。ついで襟首が乱暴につかまれ、無理やり引き起こされた。ぺたりと座った状態で、目隠しと猿轡が緩められる。
「――あ」
ぱらりと眼を覆っていた布が外れ、宝余は眼をしばたたいた。
「……ちょっと!」
待ちなさい、という言葉を宝余は飲み込んだ。彼らの正体は依然としてわからぬが、どのみち自分の声は届かないだろうし、届いたとしてもその声に従う連中とはとうてい思えない。宝余はがっくりと肩を落とした。手が夜着の上をすべり落ち、自分をくるんでいた麻袋に触れた。
――いっそのこと、殺してくれたほうがよかったのに。
間違いはない。文字通り、彼らは王妃を「棄てた」のだった。だが、どうして自分をただちに殺さなかったのか、その理由は宝余にもわからなかった。
――川に放り込むとか、深い山中で虎に食わせるとかすれば、もっと簡単だったはずなのに。
宝余には彼らのしたことがいかにも中途半端な処置に思え、首をひねらざるを得ない。
ため息をついて、彼女は改めて周囲を見渡した。自分がいるところはどこかの道のそばで、草が生い茂っていた。道のかなたには松の林が茂り、三方は山々の連なりが見えるが、道も松林も山々の連なりですら、宝余の知っているものではなかった。がさがさに乾いた唇を舌で湿らせると、血が出ているのか金気くさい味がした。
――瑞慶府からは、どのくらい離れているのだろうか。
自分が気を失っていたのは一晩なのだろうか。もしそうだとするならば、荷車の速度と道の良し悪しを考えると、どう多く見積もってもせいぜい七十華里程度だろう。
だが辺りには人家もなく、ただ道と、叢と、林と、そして遠くに山が見えるだけ。ここがどこか、皆目見当もつかない。瑞慶宮にいたとき、手元にあった輿地の文献を飽かず眺めており、烏翠の大体の地勢は頭に入っていたが、しょせん地図は地図である。こうして山の形をぼんやり眺めていても、ここがどこなのか見当もつかない。
――それとも、やはり殺すつもりなのかしら、間接的に。
それは可能性として十分あり得た。彼らにしてみれば、処刑より簡単な、もっともお手軽な「王妃の処分法」であろう。自ら手を汚さずに済み、涼には「病死」の旨知らせをやってしまえばよく、烏翠は土葬ではなく火葬の風習を持つ国であるから、骨など誰のものでもすり替えがきく。どうしても遺骸の身代わりが欲しければ、それこそ見習い女官の誰か、でなければ死刑が決まっている人間でも見繕うだろう。
生き抜く力ももたない異国の者、しかも女であれば生きて瑞慶府に戻るのは難しい。自分も、飢え死んだり、山賊に襲われてその女にされたり、人攫いに捕まって売り飛ばされるのが落ちなのではないか。そう考えると、宝余は手の先がすっと冷たくなる心持がした。
――何とかしなければ。何とかしなければ。
そう焦る自分を、さらに別の自分がせせら笑いながら眺めている。
――お前は先ほどまで、あれほど死ぬのを待ち焦がれていたではないか。死んで彼らのすることなすことを逐一見届けると。それなのに、もう生きるために「なんとかしなければ」だと?沙汰の限り!死ぬのだったらさっさと死ぬがいい。
もうひとりの自分が必死に反論する。
――あの時は、確実に殺されると思っていたのだもの、今はとりあえず生きているけれど。このまま何も為さずに野たれ死ぬのもいい、でもこのままだと悔しい。彼らは自分のことを死ぬ運命の人間だと思い込んでいる。王や太妃の機嫌をひたすら窺い、異国の者に嫌悪を示す者達。私という忌まわしい存在が消え、彼らはさぞかし安心しているに違いない。
そう、自分が生きて還ってやったら、彼らはどのような顔をするかしら。あの宮門をふたたびくぐり、王宮の不正と不誠実を白日にさらしたとき、誰も私を見てみぬふりをするか、それとも私に呼応するか――。
そうなったとき、おそらく前者の道が選ばれるであろうことは宝余にも予測がついた。それこそ、最終的には自分の死でもって終わるかもしれない。だが、どうせここで拾った命ならば、せめて一矢報いてやらなくては気がすまない。――宝余は夜明けの冷え込みでかじかむ両手をぐっと握りしめた。
「…痛い」
何も履いていない足裏に、小石が当たって痛い。このまま歩けば、一里もいかぬうちに動けなくなってしまうかもしれない。
彼女は自分の身体を見回し、ふと猿轡に使われていた布に手をやった。その長い布切れを腰から外し、それだけでは片足分にしかならぬので、素服のうち、二枚重ねになっている上着をも脱いだ。猿轡を右足に覆うように巻きつけ、上着は左足をつつむようにした。さらに布がほどけてしまわぬように、麻袋の口を縛っていた紐を巻きつけると、いかにも左右が非対称の、珍妙な履物ができあがった。
――いつかは行き倒れるか、飢え死にしてしまうかもしれない。
それでも、と彼女は思った。あの恐ろしい宮に閉じ込められて死ぬのよりは何倍ましかはわからない。少なくとも、ここには歩くべき道があるのだ。どうせ死ぬのであれば、一里でも一歩でもよいから、瑞慶府に近づいて死にたかった。
どこかで、朝の鳥が鳴き始めた。宝余の耳には、それが自分の生還を宣告しているかのように聞こえた。高らかな、澄んだ声だった。彼女はふうっと一度大きな息をつくと、ついで昂然と頭を上げ、陽の昇る方角を指して歩き出した。
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