11.音楽を手放さなければ
喫茶店を出ると、既に辺りは暗くなっていた。鶴見舜は松原ハジメから受け取ったできたばかりのデモ音源を大切に胸に抱えていた。
正真正銘、舜が一番初めに耳にすることになるのだ。
松原の今後に関しては思うところがあるものの、松原が今後も音楽を続けること、早速新作を制作してきてくれたことに喜びと興奮を覚えて自然と急ぎ足になっていた。
「そうさ。兼業アーティストだってそれこそたくさんいるし……」
舜は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「就職したことで、新しい観点とか、モチベーションも上がるかもしれないし」
重ねるようにつぶやいた舜の声に、ふいに第三者の声が重なった。
「あなたは本当に、音楽がお好きなんですね」
突然の誰かの介入に舜は驚いて跳び退ったが、頭の片隅でそれが誰であるか分析できていた。
「松原氏は、あなたを“音楽の神様”だとおっしゃっていましたよ」
恭しくお辞儀をしたのは、これで三度目の対面となる老紳士だった。渋い声ですぐに彼だとわかった。
「お、音楽の神様!?そんな……大層な」
「わたくし藤井も、そう思います。あなたは誰よりも純粋に、音楽を愛しておられる」
軽くそう告げた後、藤井は一歩後退し、丁寧にお辞儀をした。
「初めまして。藤井と申します。貴方様のことは先から一方的に存じ上げております」
妙に丁寧に挨拶をした藤井を、舜はまじまじと見つめる。
「初めまして、ではありませんよね?あなたは僕を……」
──助けてくれましたよね。
その言葉を口にするか迷って、舜は押し黙った。
「松原ハジメ様のスカウトに、この藤井は失敗いたしました」
「スカウト?」
やはりこの男が、都市伝説のスカウトマンなのだと悟り、舜は改めて不気味になってきた。それでなくても現実離れした見かけと言動なのに。
動揺する舜に、藤井は顔を近付けてきた。そして、何の感情も浮き出していない目で舜の目を見つめた。
「松原様は元より、鶴見様のことも……藤井は諦めておりませんよ」
舜は頭の中が真っ白になった。もうとうに捨てたはずの、可能性。
藤井の無表情な口元に笑みのようなものが一瞬、浮かんで消えた。
「……一つの芸術が完成するには時間が必要なのだと、今回藤井は学習いたしました。松原様はじっくり時間をかけて、ご自分の手で音楽を育てていきたいとおっしゃいました。それが十年かかろうと、構わないと」
言葉の意味を頭の中でなぞる舜に、藤井は続けて言う。
「そしてそのパートナーは鶴見様、あなたを選ぶと松原様はおっしゃいました」
藤井はため息をついた。が、それは形式的なものに見えた。
「えっ、僕……?」
「貴方様の音楽への真摯な態度が、信頼に値するということでした」
舜は藤井の言葉を胸に刻み付けていた。それが本当だとすれば、これほど光栄なことはなかった。
「つまり」
余韻に浸る舜に、藤井は人差し指を突き付けた。
「貴方様はご自身もアーティストでありながら、現時点では藤井とはライバルだということです」
「へっ?」
混乱する舜に言いたいことだけ言い切った藤井は、再び深々とお辞儀をした。
「そういうわけで鶴見様、また第二章でお会いしましょう」
言うが早いか藤井は踵を返して歩きかけたが、急に振り向くと、
「あ、万が一音楽活動を再開されるときはお声がけくださいね。そうなれば話は別です」
釘をさすように言い置いて、歩き去ってしまった。
「何だ、あれ……」
舜が我に返る頃には、藤井の姿はどこにもなかった。
後日談として語る。
松原ハジメはデザイン会社勤めの傍ら、水面下で音楽活動を続け、一年後に「松原ハジメ」名義で音楽活動を再開した。
鶴見舜の所属するレコード会社のインディーズレーベルからミニアルバムを発売し、じわじわと売り上げを伸ばしている。今月末に新しいミニアルバムも発売予定だ。
「音楽さえ手放さなければ」
これは先輩から言われた受け売りだった。鶴見舜は、今でもこの言葉を自分と、自分の愛するアーティストたちに言い続けている。
祈りの言葉にも似たような気持ちで。
「さてと、今日は松原さんの音源を売込みするか」
「tipi」時代から松原の音楽を評価していたラジオ番組のディレクターが、松原の新譜に興味を示してくれていた。
「うまくいけばゲストに呼んでもらえるかもしれないぞ」
舜は張り切って紙袋に真新しいCD数枚を詰め込んだ。
電車に揺られながら、松原は次に売り出すアーティストの紙資料を広げてチェックしていた。
「そう言えば、第二章で……とか言ってたな」
車窓から外を眺めると、雲一つない青空が広がっていた。
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