9. 新たな兆し

「お酒の席とは言え、そちらの方も否定されていますし、無理に詮索するのは無粋なことかと」

紳士はほとんど抑揚のない声でそう言った。

「……誰ですか?」

見ず知らずの老紳士に注意され、男はうろたえていた。

「私は、皆様と同じように音楽を愛する通りすがりの者です」

凛とした声で紳士が答えると、水を打ったように辺りは静まり返った。

「えっ、じゃあ……見ず知らずの人ってこと!?気持ち悪…」

男が自分の肩を自分で抱くような仕草をしても、紳士は平然としていた。

「あの、僕……急用を思い出したので、すみません、今日はこれで!」

舜が代金を払おうとするのを、ベテランのディレクターが手で制した。

ここはいいから帰れ、と目で知らせてくれたのに頭を下げ、逃げるように酒の席を後にしたのだった。


ーーやっぱり覚えている人っているんだな。

悪いことをしているわけでもないのに舜は走って店を離れ、人気が少なくなる場所まで来ると落ち着いて今までの一件を思い返した。

指摘されたことは、すべて事実だった。


舜が高校生の時、組んでいたバンドがレコード会社の主催する高校生限定のコンテストでグランプリに輝いた。

高校生にしては卓越した演奏力と舜の歌唱力を高く評価され、グランプリという予想以上の栄誉を受けることになった。

バンド活動には真面目に取り組んでいた。メンバーもみな、やる気のある面子ばかりだったし、練習してテクニックが向上していくのは面白かった。

 洋楽のコピーから始めて、すぐにオリジナル曲を書き始めた。舜が書いた曲の下地を、メンバー全員でアレンジして直していった。

曲が磨かれ、完成していく過程も楽しくて夢中になれた。

「正統派高校生ロックバンド」「実力派」などと評され、舜たち自身も驚くほどあたたかく迎えられたのだった。

 音楽事務所とレコード会社との契約、CDデビュー。

 グランプリ獲得バンドとしてたくさんの取材も受けた。

 しかし順調に見える道に思わぬライバルがいた。


 ファイナリストまで勝ち進んだソロアーティストが舜たちを押しのけ、急に注目を集めたのだ。荒削りではあるが強烈な個性。

稚拙ギリギリの忘れられないフレーズを多用した独特の歌詞。

 とあるアーティストが目を付けてラジオ番組で取り上げられたことから一気にブレイクした。その後は彼のほうが順調にCDをリリースし、メディアにも多数露出した。

 こう言っては身も蓋もないが、彼は見た目もイケていた。


 自分たちには遊び心が足りなかった。

 魅力に欠けていた。

 言葉ではうまく説明できないが、「負けている」という感覚ははっきりとあった。それは、高校生のバンドのモチベーションを下げるには

簡単だった。

 やがてメンバー内がぎくしゃくし始め、「いい新作を作って見返そう」という前向きな案もネガティブな波に飲み込まれてしまった。

 シングルを二度切ってもらった後、アルバム一枚を出し、自然消滅のような形でバンドは解散してしまった。

 メンバーを引き止める気力も、舜にはもはや消え失せていた。

 演者としての舜は燃え尽きたが、もう一度冷静になってライバルの曲を聴いてみた。かっこいいと思った。

 進化している。そしてこれからもっと、すごいアーティストになるに違いない。

 そう感じた瞬間に全身が震えた。

 舜の目から涙が自然に溢れ、みじめだと思ったがそのまま号泣した。

「音楽が好きだ、勝ち負けとかじゃなく、いい音楽を聴きたい」

 舜は音楽を嫌いになれない自分と正面から向き合った。

それでも、音楽のそばにいたい。舜は自分が前に出ることよりも素晴らしい音楽に出会えることのほうが嬉しいと感じていた。


それにしても、あのときのおじさんはどうして僕を助けてくれたんだろう──?

奇妙なタイミングで現れて、話題を無理に打ち切ってくれた。

「謎のおじさん……」

 そのまま舜は逃げ帰ってしまったので、あの後場がどうなったのかはわからない。今後の付き合いが

やりにくくなるかもしれないが、さりげなくフォローしてくれたディレクターの心遣いも思い出して温かい気持ちになった。


「ひょっとしたら、あのおじさんが都市伝説の」

──敏腕マネージャーだったりして。

 舜はふいに謎の紳士と交流していた記憶が蘇って驚いた。

「……って、今そんな場合じゃないし」

 もう一度舜は松原ハジメに電話してみた。もちろん出ない。出ないだろうとは推測していた。

──また、直接お会いしたいです。いつでもいいです。いつでも、待っています。

 舜は縋るような思いで松原にメッセージを送った。


 松原ハジメの隣には藤井が立っていた。二人ともスーツ姿だった。

 厳密に言えば藤井は三つ揃えのジャケットにスラックスのいつもの執事めいたスタイル。松原のほうは不慣れなスーツ姿で、転職の面接にでも出向くような

趣に見えた。

「すみませんねえ、藤井さん」

 松原が頭を下げると、藤井は不思議そうに視線を向けた。

「何がですか?」

「こんなところまでついてきてもらっちゃって」

 こんなところ、と松原は言いながら見上げる。そこは、鶴見舜と音楽論を語り合った喫茶店だった。

「いえいえ、造作もございません」

 藤井は恭しく頭を下げた。

 松原ハジメは緊張した面持ちで、喫茶店を見据えた。しかし、その顔は決して暗くはなかった。

「もうすべて決まったのに、緊張しておられるようですね」

 声のするほうを見ると、藤井が穏やかな声で言った。


 不思議な男だ、としみじみ松原は藤井を観察する。松原の前に現れて以来、節目節目に手を差し伸べるようにそこに居た藤井。

 自分を「人形だ」と名乗ったときは、純粋に狂っていると思ったが──。

──俺も藤井さんと同じ世界に入ってしまったのだろうか。

 今でも素姓のまったくわからない藤井を、松原はいつの間にか受け入れていた。

「それにしても、こういう形もあるんですね」

 あなたには才能もあるのに、そう藤井はつぶやいた。

「これでよかったと思っています」

 松原はそう言うと、大きく息を吸い込んだ。

「……でも、最後に音楽の神様にきちんとけじめをつけてから」

 松原の言葉に、傍らの藤井は大きく頷いた。

「え、藤井さんも彼を知っているんですか?」

「ええ、もちろん。あの方はずいぶんお若いけれど、確かに音楽の神様と言っても差し支えないでしょうね」

 二人が言い終えると、道の反対側から一人の男が歩いてきた。

 狐につままれたような顔をした、鶴見舜だ。

 

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