第7話 王国 Ⅱ (マルズ)

「あはははは!」


そこは王子に当てられた一室。

そこでは異様な笑い声が響いていた。

決して耳障りな声ではない。

青年の、どちらかと言えば聴きやすいはずの声。

だが、その声の中には聞くものに生理的嫌悪をもたらす何かを含んでいた。


「本当に、全てが私の思いの儘だ!」


しかしその声の主、王子マルズはその部屋に近づこうとした召使いが無言で避けるように踵を返していることなど知らず、歓喜に満ちた顔で笑い続ける。

その時彼の胸に満ちていたのは一種の達成感。

今まで必死に恐れてきた国王陛下の叱責を逃れることが出来た、そのことに対する喜び。


「本当に、これだけで良かったのか!何故今まで考えつかなかったのか!」


そう笑うマルズの顔に浮かんでいたのは全能感。


ーーーそんな程度のことで全能感を感じるマルズが自分がどんな事態を起こしかけたなど考えているわけもなかった。


「それにしても本当にアストレア家の面々のあの唖然とした顔には気が晴れたよ!娘が冤罪であることすら知らず、絶望に喘ぐあの顔!」


そして国を二分するだけの大事件を起こしかけたマルズの行動の理由はただの嫌がらせでしかなかった。

それはまず第一に自分に体を許そうとしないアリスに対するもの。

それから、カインに怒鳴られ惨めに命乞いをしたあの時のことだった。

マルズは人間として酷く歪んでいた。

そしてそんな彼が王族として生まれ、王太子になり、持ったのはただ自分は誰よりも上の存在であるというどうしようもない優越感だった。


「それが当然の報いだ!」


だからこそ、幾らアストレア家に言われたとしてもアリスに手を出すことになんの躊躇も存在していなかった。

何故ならば、マルズが持っていた考えはアリスは王太子である自分を好きなる、などではなく、


アリスは自分につくなければならないという酷く身勝手なものだったのだから。


だからマルズは国王陛下にその行動を咎められた時、憤慨した。

確かにマルズにとって父は唯一自分をよりも身分の高い人間ではあったが、それでもそれは身分だけで資質は自分の方が高く、よって本来支持される謂れがないと思い込んでいたのだ。

だが、常ならば父の叱責があればマルズは愚行をやめていただろう。

マルズは自分の方が父よりも優れている、そう思い込みながらも唯一自分を咎められる父親のことを恐怖していたのだから。


しかし、それでも抑えられないほどにアリスの美貌はマルズの心を奪っていた。


そしてその初めての感情に戸惑った王子はあることに気づいた。

それはつまり、ただの勘違いで、最悪の思い込み。


ー 向こうも自分のことを思ってくれているからこそ、こんなにも相手が気になって仕方が無いのではないかという。


だが、その想いに基づいて起こした行動の結果は散々なものだった。

カインが激情し、マルズは生まれて初めて死の危険を感じた。

そして泣き叫び、無様に命乞いをした。

それは当たり前の結果。

ただ、自分の思い込みで行動して、その結果失敗したというだけ。


ー 裏切られた。


だが、その時マルズの胸に生まれたのは責任転嫁の感情だった。

自分が何をして、そしてその結果何が起きたのか、そのことを全て自分の中で作り変えたのだ。


つまり、自分のことをアリスが裏切りその結果自分はこんな目にあったのだと。


そして、それだけのことを考えマルズは心底呆れたように呟いた。


「本当に愚鈍な奴らだ。王族に、この私に逆らえばどんな結果になるか分かっていただろうに」


その声には本当に心の底からの憐れむような思いが込められていて、だからこそその言葉はアリスへの最悪の侮辱だった。

もし、この場にカインがいれば迷わずマルズを殺してもおかしく無いほどの。


「ええ、その通りですわ」


だが、この場にはカインはおらず、代わりにいるのはマルズを擁護するものだけ。

マルズが振り返ると、そこにいたのは婚約破棄の時にいた没落貴族の女性、マイア・テルドールだった。


「おぉ、マイア」


マルズが声をかけるとマイアは優雅に一礼をする。

それは本来国王に貴族がするもので、その最上位の礼を受けたマルズの口元に笑みが浮かぶ。


「どうした、何か用か?」


「はい、実は慈悲深きマルズ様にご提案が……」


「ほう、申してみよ」


そのマイアの言葉をマルズは一切疑うことなく、そう告げる。


「では……アリス・アストレア、いえ、アリスに慈悲を与えてはいかがでしょう?」


「慈悲、とは?」


「えぇ、彼女ももうそろそろ反省している頃でしょう。そしてそんな時にマルズ様が妾に加えようとそう言われれば……」


「っ!」


マルズはマイアの言葉に一瞬絶句する。


ーーーだが、その顔に浮かんでいたのは抑えきれない欲望だった。


「ああ、さすがマイアだな!そうだな私も悪鬼では無い。そのくらいの慈悲ならば……」


そしてマルズはそう笑い始める。

その顔には明らかにアリスに対する下劣な思考が浮かんでおり、マルズが何を考えているのかなど考えるまでも無い。


「ふふっ、」


そして欲望で頭を支配されていたマルズは気づいていなかった。


アリスに手を出す、それが今度こそ避けようと無い大事を起こすことを。

さらには、そのことをマルズに唆したマイアの顔に、狂気にも似た感情が浮かんでいたことを……

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