第9話
客室から自室に戻っていたハニエルは、仕事もそこそこに済ますと衣装棚の前へ行き、じっとその場に立ち尽くしていた。その顔は険しく、なにか考え事をしているようだ。
時計の長針と短針は夜の九時をとっくに過ぎており、いつもなら就寝時準備に取り掛かっているところである。しかしハニエルはそこから動かないばかりか、棚の取手に手を掛けると中の衣服を取り出していき、吟味していく。どうやら動き易い服を選んでいるようだった。
「あんまり持っていけないよね」
用意していた外出用の鞄に衣服を詰めると、部屋にあった手頃な調度品を掴んでそれも鞄の中へと放り込む。やや乱雑な扱いであるが、そのどれもが高価な代物で、見る人が見れば目を剥く一級品だっただろう。
しかしそれを気にすることはなく、ハニエルは黙々と荷造りを済ませていく。部屋の外に気を配りながらの作業は思いの外時間が掛かってしまい、全てを終える頃にはすっかり就寝時間を迎えていた。ハニエルが眠ることはない。
彼は用意した荷物を持つと、そっと部屋から出て行った。手にはミラージュから貰ったあの眼帯が握られており、ハニエルは素早い動作でそれを身に着ける。
「おや、こんな遅くにどうされたのです? 王子が夜に出歩かれたのでは、騒ぎになるのではないのですか?」
そんな折、声を掛けてきたのは時計を直してくれたあのときの中年従者と青年従者だった。
「王子様が夜に外出とは穏やかじゃないねぇ。さては、コレかい?」
中年従者が茶化すように小指を立てた。まるで近所の若者に接するような遠慮のない対応であったが、ハニエルは咎めることなく笑って答える。
目の前の従者は多少無礼ではあるが、気さくで話し易いとハニエルは好感を抱いていたくらいだった。
「まあそんなところだよ。……君たちは王宮にきて日が浅いのかい?」
誇れた経歴ではないが、数年前までハニエルは夜遊びが酷く、精力絶倫と陰で言われるくらいには旺盛な青年であった。当時王宮に居た者なら誰もが知っている過去である。
そんな経験があるせいか、ハニエルが夜に外出すると笑顔で送り出すのが王宮内では常識と化していた。
「ええ、最近勤め始めたばかりです。年こそ離れてますが、そこのおっさんとは同期です」
青年従者が中年従者を指して言う。「可愛くねーな!」と中年従者が文句を垂れるが、青年は特に気にも留めていないようだった。
「そうだと思った。僕が夜遊びに出掛けたってのは内緒でお願いできるかい?」
「もちろんさ! 難ならとっておきの抜け道を教えてあげますぜ?」
軽い口調で中年従者がそう申し出れば、青年従者が怪訝そうに顔をしかめる。
二人は少し揉めた後、特に潜む様子もなく歩き始めた。余りにも堂々と進むので、ハニエルが大丈夫なのかと尋ねれば、「この時間には、見張りの兵士が別の場所に居るから平気なんだ」と、得意気な返事が返って来た。
半身半疑で後に続いて歩いて行けば、二人の歩みが止まる。目の前には兵が常駐している見張り台があった。
声を小さくして中年従者が言う。
「ここはちょっとコツがあるんですよ。今から俺が石を投げて注意をそらしますから、その間に右側に向かって全力で走る。そんで、生垣の前に着いたら待っててください」
「体力持つかなぁ……」
「まぁ、ちょっとの距離なんで頑張ってください。最悪そこの坊主が背負ってくれますって」
そう言って中年従者は青年従者を顎で示す。指名された青年は明らかに不服そうな顔をしたものの、仕方ないとでも言うように深く溜め息を吐いた。
「やだなぁ……」
無意識なのだろう、口癖ように青年従者が呟く。
一連のやりとりを見る限り、この従者たちは親しい仲だということが窺えた。
「準備完了です。王子、男を見せてくださいよっと!」
そう言うや、中年従者が拳大ほどの大きさの石を思い切り投げる。石は見張り台を横切り、石壁に当たると茂みの中へ落下し、葉音を立てた。
兵士たちが音の出所へ視線を向ける。それとハニエルが走り始めるのはほとんど同じだった。
(全力で走るのなんて久しぶりだな)
足が動くか心配だったが、縺れることなく彼の足は前へと踏み出す。体重を前へ乗せて加速すれば、体が少し軋んだ気がした。
そのまま脇目も振らずに駆け抜ければ、眼前に生垣が見えてくる。
「体力に自信がないと仰っていた割には良い走りでしたよ」
生垣の前で止まったハニエルの横に、涼しい顔をした青年従者が並ぶ。
肩で息をするハニエルとは違い、彼は息一つ乱してはいなかった。
「無事に着いたようですね」
中年従者が合流する。
「ここから出るのかい?」
「ええ。まぁちょいと見ててくださいよ」
そう言うと中年従者は生垣を思い切りよく蹴り飛ばす。枝葉が盛大に宙を舞い周囲に散らばると、目の前にはか細い隙間が出来ていた。散乱した枝葉に視線を落とせば、それらには刃物で切られたような切り口がある。
「剪定中にちょっと細工をしておいたんですよ。まさかこんな形で役立つとは思いませんでした」
仕事をさぼってこっそり遊びに行く目的で作ったのだと中年従者は笑った。
生垣の中に生まれた道は、人一人通るのがやっとの隙間で、三人が連なって通り抜ける。
道を通り抜ければ、そこは王宮の外だった。
「ありがとう、助かったよ」
「まだ兵がうろついてますから気を付けてくださいよ。ささ、行った行った!」
中年従者に背を押され出発を促される。背後を振り返れば、松明の炎が複数揺らめいているのが見えた。
「時計を直してくれてありがとう。お陰でいい夢が見られたよ」
そう言えば、中年従者が片手を上げて応える。青年従者を見れば、彼は生憎腕組みをしたままだった。少し寂しさを感じながら、ハニエルは歩みを進める。王都を脱出するまで気は抜けない。
ハニエルの前には街の明かりが揺らめいている。それはまるで、彼の心を映すように、ひどく不安定に輝いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます