第2話
ハニエルに挨拶を済ませたロゼは早々に王宮を発つ準備を整えると部下を率いて王都北部へ馬を走らせた。
新ヴィクトリア王国の王都アリダ・ヘルバは北方に山脈、南方に平原が広がる山の麓に築かれた都である。山を背にするように王宮が建ち、そこからやや下ったところに市街地が広がっていた。
昨晩見つけた足跡はかなり大型のもので、そのような大きさの魔獣が市街地に向かえばまず大騒ぎになっているはずだった。しかし街はいつも通り平穏で、化け物を見たという情報が挙がっていない。ハニエルの指示で市街地にいつもより多くの兵を向かわせていたので、見逃したというのは考えにくい。
王宮で目撃された魔獣が誰にも気づかれず姿を眩ますには、北部の山脈に逃げ込むしかなかった。
「ロゼ様、寝不足なのでは?」
並走していた部下が心配そうにロゼを見遣る。
「大丈夫よ。ちゃんと休んだわ」
彼女は昨晩の騒動からずっと気を張っていた。休んだと言ってはいるがその目は薄っすら充血しており、疲れが滲んでいる。
「やはり王子に少し頼むべきだったのでは……」
「駄目よ。ハニエル様にこれ以上負担は掛けられない。昨晩だって兵の往来が激しかったのに起きてこられなかった。余程疲れていたのね、休ませて正解だったわ」
ロゼは最初からハニエルに頼る気などなかった。有事の際に備えろと言って寝かせたのも方便に過ぎず、実際は彼女が夜間も指揮を執り動いていたのだ。恐らく魔獣が出現していたとしても彼女はハニエルを呼ばなかっただろう。
「私のことは心配しないで。さ、そろそろ到着よ。降りる準備をしてちょうだい」
鬱蒼とした木々が見えてくる。馬ではここまでが限界だ。馬を降りると、一行は山の中へと入る。
いつ魔獣に遭遇してもおかしくはない状況だった。そのため十一名は極力近くに寄って捜索を行う。特に魔術師は失ってはいけない存在だ。
魔力を持つ魔術師は、同じく魔力を持つ魔獣を感知出来る。捜索隊の安全のためにも、彼らの鋭敏な感知能力は身を守る上で重要だったのだ。
「何か少しでも異変を見つけたら速やかに報告してちょうだい」
夏場とはいえ北の大陸に位置するヴィクトリアの、さらにその北部に位置する山の中ともなれば、まだいくらか雪が残っている。そのうえ雪解け水が土を湿らせており、泥の地面は滑り易くなっていた。滑落にも注意しなければならない。
ロゼは時折双剣を支え代わりにしながら山の中を歩いた。剥き出しとなっている薄紫の刃は所々泥が跳ねて汚れている。
「……ロゼ様」
しばらく歩いた頃だった。
一人の魔術師が緊張した面持ちでロゼに話し掛ける。彼女は魔術師のその様子から異変を察知した。剣を握る手がわずかに汗ばむ。
「魔力の気が感じられます。歪な……、間違いなくこれは魔獣でしょう」
「ありがとう。他の兵には魔獣のことは伝えてあるかしら」
「ええ、残りの者が伝達を行っております」
「わかったわ。結界を準備しておいて」
「承知しました」
ロゼの指示を受け魔術師が残りの者に耳打ちすれば、彼らは言葉少なめに会話を交わした後一斉に詠唱を開始する。
「〝我は汝に魔を鬻ぐ。我求めるは盾、その身を守る盾! 対価は支払われた。汝求めに応じ与えよ!〟」
結界魔術は高度な魔術のうちの一つだ。きちんと詠唱を唱えても魔力が不安定になりやすいため、複数人で術を発動した方が成功率は高い。一人で術を完成させるには、魔方陣と呼ばれる特殊な計算式の組み込まれた補助図形を作成しなければならないだろう。
魔術は学問だ。莫大な力を得る代わりに学ぶことは多い。高度な魔術になればなるほどその技術や知識、何より魔力も必要になってくる。持って生まれた才能と、知識を探求する勤勉さ、自身の技術を怠らずに磨く忍耐。その全てを兼ね備えた者が魔術師になれるのだ。
「近くに魔獣が潜んでいる可能性があるわ! 気を張りなさい!」
魔術師から発せられた魔力が周囲の魔力と呼応して紫の結界を形成する。
しかし油断は出来ない。相手の魔獣も同じように魔力を持っている。どんな魔術を使ってくるのか、こちらからはわからない。
張り詰めた空気が辺り一帯を支配していた。些細な音にも神経を尖らせる。
ロゼの額から汗が伝った。それは胸元に垂れ、豊満な谷間に流れ落ちる。彼女は剣を構えたまま動かない。
互いの息遣いが聞こえていた。その呼吸音は荒く、緊張から肩で息をする者もいる。
するとそのとき、風が止んだ。
そして、がさがさと煩わしいほどに葉音が鳴り響く。
「魔獣だ!」
破裂音のような乾いた音が鼓膜に刺さる。なにかが結界に当たった。
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