第6話
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久保田の脱出は成功したのか。彼の原稿は発表されたのか。発表されたとしたら反響はどうなのか。新聞もテレビもないセンターのなかでは何もわからなかった。ただ月日だけが虚しく過ぎていった。
イオは荒れていた。仕事はせず、機会があるごとに見知らぬ男を電撃棒で襲っては、そのナビゲーターからポイントを奪い取った。イオの噂はたちまちセンター中に伝わり、「三日狼」とあだ名されて恐れられた。
その名は、ポイントをすべて奪い取るのではなく、3日分程度の食費と寮費だけは残しておくことに由来していた。
イオは、こんな暮らしに満足しているわけではなかった。だが理沙も久保田もいないいまは、暴力だけが自分を支える証であり、杖だった。とはいえ、全部を巻き上げてはあの0713号と同じになってしまう、と考えるぐらいの理性は残っていた。
その日も、小柄な初老の男を標的に定め、そのあとを追っていた。これまでの経験で、音を立てずに背後に忍び寄る方法にはかなり習熟していた。
一気に間合いを詰め、ポケットから取り出した電撃棒を初老の男の首筋に押し当てた。しかし男は何事もなかったように向き直ると、イオの手首を握って捩じりあげた。思わぬ反撃に、イオは電撃棒を取り落とした。
「いてててて」
初老の男はイオの手首をさらに捩じった。そして、たまらず床に倒れたイオに馬乗りになった。鼻の下に貧相なヒゲを蓄えた男は、楽しそうに口の端をゆがめて笑った。
「どうやら、力があり余っているようだな」
話すときに口が斜めに開くのが、この男の特徴だった。
「放せっ」
「いや、放さぬ」
初老の男はさらに腕を捩じった。関節が
「降参するか?」
「わかった。わかったから放してくれ。頼む」
たまらずイオが大声をあげると、男は手を緩めた。
「お前、名前は何と言う」
「せ、1957号」
痛む腕をさすりながらイオが答えると、男は馬乗りになったまま怒鳴った。
「違う! 本名だ」
「なぜ、そんなことを」
「また、痛い目に遭いたいか」
男は再びイオの手首を握った。
「待ってくれ。言うよ、言う。槇島イオだ」
「そうか。ひょっとすると、お前があの『三日狼』か?」
「そんなふうに呼ぶヤツも、いるみたいだな」
「ちょうどいい。お前のような血の気の多いのを探していた。いっしょに来い」
男は立ちあがると、イオを手伝って立たせた。そして床に落ちていた電撃棒を拾い、イオに渡した。
「いいのか?」
「かまわんとも。こんなもの、
そういうとイオに背中を見せ、足早に歩き始めた。イオは少しためらったが、彼についていくことにした。
迷路のような通路の角を何度も曲がり、たどり着いたのは、久保田と密談した場所と同じような工事中の一角だった。男は、「37区工事事務所」と書かれた何の変哲もないアルミ製の扉をノックした。
すると、なかから薄緑色のつなぎを着た女が現れた。女は初老の男の顔を確認すると無言で場所を空け、二人をなかに招じ入れた。エキゾチックな顔立ちをしたその女からは、むせるような色気が発散されていた。驚きの混ざったイオの視線に、女はグラマラスなボディを見せつけるようにポーズを作って応えてみせた。
部屋に足を踏み入れたイオは驚いた。一般社会なら容易に手に入りそうな量産品ではあったが、そこには応接セットやテレビが置かれ、床にはカーペットまで敷かれていた。それらは殺風景なセンターのなかではおそろしく贅沢なものに見えた。
「座りたまえ。ビアンカ、彼に何か飲み物を」
女はゆっくりとうなずいて奥へ消えた。
「儂は、ヨハンという」
「ヨハン?」
「もちろん偽名だがね。ところで」
男は、身を乗り出してイオの目を覗きこんだ。
「君はなぜ、こんな暮らしをしておるんだ?」
「なぜって、働くより楽だからな」
「そうかな? 儂には、そうは見えんぞ」
イオは沈黙した。さきほどとはうって変わった穏やかな話しかたに、少しとまどいも感じていた。
「このセンターのなかで人を襲う人間には二種類がある。一つは、それしか生きていく
自分の心のなかを見透かされているような気がして、イオはヨハンから目をそらせた。
「後者のようだな」
「うるせえな。オレは帰る」
立ち上がとうとするイオを、ヨハンはなだめた。
「まあ、待ちたまえ。自暴自棄というのは、何か目的があって、それがうまくいかないか、見失ったときになるものだ」
ヨハンの言うとおりだった。浮かせかけた腰を、イオは再び下ろした。
「目的を持ってこのセンターへ来るものなど、おらん。とすると、君は何のためにここへ来た?」
「……。彼女を探しに」
「その女は、死んでおったのだろう?」
「え、なぜそれを」
「簡単な推理だ。それにしても、女が死んで自暴自棄か。泣かせる話だのう、ビアンカ」
先ほどの女が飲み物を持って戻ってきた。イオの目の前に置かれたコップには、なみなみと注がれたコーラが入っていた。センターの売店に置いてはあるが、あまりに高価でふつうでは口にすることのできないものだった。
「さ、遠慮せずにやりたまえ」
イオはヨハンの表情をうかがいながらコップに手を伸ばした。
「毒など入っておらんよ。だいいち、君に毒を盛る理由もない」
慎重に一口、舐めてみた。妙な味はしなかった。それどころか、久しく口にしていなかった甘さに、脳が痺れるほどの刺激を感じた。
「あんた、ここで何をやっているんだ。何でこの部屋を自由に使えるんだ?」
先ほどから疑問に思っていたことを、イオは口に出した。
「儂か? 儂はテロリストだ」
そう言うとヨハンは、ビアンカと目を合わせて笑った。それがイオには、自分が馬鹿にされたように思えた。
「帰る」
立ち上がったイオを、ヨハンはあわてて制止した。
「すまん、すまん。からかったのではないのだ。儂は本当にテロリストなのだよ」
なおも疑いの目で見るイオに、ヨハンは説明した。
「これでも、ここへ来る前は、中東のほうでちょっとは名の知れたテロリストだったのだ。だが向こうではだんだん活動がしにくくなってな、拠点を日本に移すことにしたんだ」
「ふーん。そのテロリストさんが、どうやったらこんな部屋や、りっぱな家具を手に入れられるんだ?」
「儂の専門は電子戦でな。パソコンが一台あれば、だいたいどこのシステムにも潜り込める。こんな部屋を作る命令書など、朝飯前だよ」
「ここへは、パソコンなんか持ち込めないじゃないか」
「スーパーバイザーとかいう連中が使っているタブレット、あれはよくフリーズするのでな。その面倒を見てやるついでに、いろいろとな」
不敵な笑みを浮かべるヨハンに、イオはますます疑念をつのらせた。
「じゃあ聞くが、あんた、何に対して戦っているんだ?」
「人間性を踏みにじるすべての無法な権力だな。さしあたっていまは、非国民プロジェクトの破壊を目的としておる」
その一言に、イオの心のなかの何かが反応した。
「非国民プロジェクトの破壊?」
「そうだ。このような奴隷制度に等しい悪政は、根底から破壊しなければいかん」
「だったら、コンピューター・システムに潜りこんでぶっ壊せばいいじゃないか」
「戦いというものは、最終的には人間を
そう言うと、ヨハンは急に真顔になった。
「いいかね、槇島君。コンピューター・システムなどというものは、いくらでも作り直しがきく。片っ端から壊したとしてもキリがない」
「……」
「これは戦争と同じだ。最終的には、コンピューター・システムを扱う人間、そして彼らを動かす人間を始末しなくては終わらんのだよ」
若さは、過激な言説と親和性が強い。まして心のよりどころを失っていたイオには、ヨハンの言葉は啓示のように響いた。
「儂の仕事を手伝わんか? 自暴自棄になるのもいいが、それが行き着く先は、やり返されるか、無様に死ぬかだ。どうせ、ろくなことはない」
イオの目に意思のようなものが現れたのを見てとったのか、ヨハンは言葉巧みに誘った。
「これまでの槇島イオは死んだと思って、これからは非国民プロジェクトの破壊を生きる目的にしたらどうだ」
イオは少し考えたあとに、うなずいた。
「……。何をしたらいいんだ?」
いつの間にか背後にまわっていたビアンカが、耳のそばで囁いた。
「『フュルフュール』にようこそ。槇島イオ」
イオの頬を、女の冷たい手がゆっくりと撫でた。
緊急事態条項挿入の可否を問う憲法改正の国民投票は、賛成多数で成立した。
投票日が夏休みに設定されたこともあり、投票率は驚くほど低かった。それも、岸辺ら黒糖組の考えた作戦だった。
成立を祝う〈美しい国民の党〉支持者の集会に呼ばれて出席した繁之は、挨拶に立った国会議員たちの発言に不安を募らせた。
「これで終わりではありません。国民主権、基本的人権、平和主義。この三つをなくさなければ本当の自主憲法にはならないのです」
「国民の生活が第一などという政治は間違いです。大事なのは国民ではなく、国家です」
「国家なくして国民なし。国は民族の誇りを胸に、迫り来る国難に対して挙国一致で対処しなくてはならない」
「我々の敵は、日本にいる反日日本人なんです」
客席は、それらを万雷の拍手で称えた。繁之は表面上笑顔を取り繕いながら、震え出す手をしっかり握って抑えつけた。〈美しい国民の党〉に所属する議員たちのこうした発言を耳にするのは初めてではなかったが、今回ばかりは言葉の重みが違った。彼らはすでに、国民投票によって最終兵器ともいうべき切り札を手にしていた。
〈美しい国民の党〉が緊急事態条項を宣言する日を想像し、繁之は嘔吐しそうになるのをかろうじてこらえた。
集会が終わり、場所をホテルの最上階に移して極秘の懇親会が始まった。ここには総理と非国民プロジェクトに携わる数人の閣僚や官僚、そして総理と関係が深い10人ほどの財界人だけが招かれていた。プロジェクトの一員として、繁之もなかば強制的に参加させられた。
「総理。おめでとうございます」
フォーマルなスーツに身を包んだグッドジョブ社のCEO、福神が近づいてきて挨拶をした。
「やあ、福神君。調子はどうかね?」
「おかげさまで。また近々川崎へおいでください」
「ちょううどいい。初めての面々に紹介しておこう」
村井は周囲にいた財界人に福神を紹介した。
「総理から内々でお話を承った。うちも参加したいのだが」
「ほんとうに、そんなに安価な労働力が使えるのかね?」
「労働の質は、大丈夫なのか?」
福神は、彼らの質問に一つ一つ丁寧に答えていった。するとそれをさえぎるように、招待客の一人が村井に向かって無遠慮な質問をした。
「ですが総理。美しい国民の党政権がこの後もずっと続くという保障はあるのですか? 政権が変われば、このプロジェクトだってどうなるかわからないでしょう?」
村井は、不敵な笑みを浮かべた。
「そのための緊急事態条項ではないかね」
緊急事態が宣言されているあいだ、衆議院は解散されない。そして議員は、その議席が保証される。
「なるほど、そういうことですか」
客は納得したような表情を見せた。
予想される大災害や緊迫する東アジア情勢を、政府は緊急事態条項挿入の理由として挙げていたが、繁之にはそれがまやかしであるとしか思えなかった。
村井やその取り巻きの政治家と接するようになってわかったのは、彼らは二度と権力の座から離れるつもりはない、ということだった。この日本から選挙をなくすのが、彼らの究極の目的ではないのか。
繁之は、やや離れた場所から村井の表情をうかがった。その目は死んだ魚のように白く濁っていて、そこから何らかの意思を読み取ることはできなかった。
テロ組織フュルフュールの一員となったイオは事務の仕事に就き、表面上は穏やかな生活を続けていた。事故を起こした原子力発電会社に対して、被害者が補償を請求する書類に不備がないかをチェックする仕事だった。
30人が並んで座れる大きなテーブルの上部にレールが走り、そこから次々と書類が目の前に落とし込まれてくる。てきぱきと処理しないと書類は溜まる一方だが、チェックじたいは、慣れてしまえばそれほど難しいものではなかった。
終業時間を告げる放送が流れた。従事していた非国民たちは一斉に立ち上がり、部屋を出ていった。イオも立ち上がり、一人の女のあとをつけた。
女は食堂へ向かった。誰とも同席せず一人で食事をとる女を、イオは少し離れた席から観察した。やがて食事を終えた女は食器を所定の場所に戻し、売店へ向かった。
少し時間をおいてイオも売店へ入った。女は生理用品を手にレジへ向かうと、ナビゲーターを操作して支払いを済ませた。そしてまっすぐに寮へ向かい、ベッドの一つへもぐりこんだ。
そこまで見届けたイオは、37区工事事務所へ向かい、ドアをノックした。
「どうだった?」
ビアンカの問いかけに、イオは首を振った。
「今日も、誰とも接触していません」
「そうか。誰とも接点がないというのは、我々の同志として有望だな」
真剣な表情でうなずくと、ヨハンはイオに指示した。
「引き続き監視を続けてくれたまえ。だが、まだ接触してはいかんぞ。もう少し行動を確認してからだ。政府のスパイかもしれんからな」
「わかりました」
部屋を出ていくイオの表情には迷いや疑いはまったく見えず、フゥルフュールの反政府活動を心から信じている様子だった。
イオが部屋を出ていくのを見届けると、ヨハンは机の抽斗から携帯端末を取り出し、番号を押した。
「ヨハンだ」
相手が出たことを確認すると、ヨハンは一方的にしゃべった。
「手頃な男が見つかった。多少粗暴なところはあるが、簡単に人を信じる。いまはテロリストごっこに興じておる」
それだけ言うと電話を切り、抽斗のなかにしまった。
無言で通話終了のボタンを押した岸辺に、福神が尋ねた。
「ヨハンですか?」
「〝駒〟が見つかったそうだ」
そう言うと岸辺は柔らかい革のソファに身を沈め、心地よさそうに体の力を抜いた。
岸辺は、福神と会う時はいつもこのホテルを指定してきた。地下駐車場からフロントを通さず直接客室に上がれるという構造は、密会が多い政治家にもってこいの構造だった。だが福神は、ここの調度が気に入っているのも大きな理由だろう、と想像した。内装はアメリカの著名な建築家が手がけたもので、ニューヨークの高級ホテルを連想させた。岸辺の大嫌いなA国を連想させるようなものは、室内にひとつもなかった。
それにしても今日の岸辺は、妙に上機嫌に見える。
「そうですか。しかし、ほんとうにやるんですか?」
あご髭をまさぐりながら、福神は念を押した。ことが始まってしまえば、岸辺とは一蓮托生だ。この男の本気度をもういちど確かめておきたかった。
「今さら、
「あと数年待っていれば、総理の座は向こうから転がり込んでくるのではありませんか?」
「それまで、待っておれん。だいいち党首選で勝てるかどうかは未知数だ」
あんたのような薄気味の悪い人間は人が寄りつかないからな、という言葉を福神は飲み込んだ。
「で、いつやるんです? 今週ですか?」
「まだだ。だが、もうすぐ週刊誌が動くという情報が来ている。その結果次第でタイミングを決める。そっちの準備は整っているか?」
「ヨハンが、うまくやってくれています。『爆薬は儂の専門ではない』とさんざん文句を言っていましたが。そちらは?」
「党本部は、ヨハンが手配した専門家がすでに仕事を終えている」
「そうですか。うまくいくことを祈っていますよ」
「うまくいかせるんだよ、福神君」
「そうでしたね」
福神は傍らに置いてあった上着を取り、ソファから立ち上がった。
「それでは」
「うん」
岸辺に軽く会釈をし、福神は部屋を出た。
車の後部座席に収まると、福神はネクタイを緩めた。
「村井。あんたの変態性欲に付き合うのも、あとわずかだ」
吐き出すようにそう言うと、口元に暗い笑みを浮かべた。
福神が立ち去った後のソファの上に、何か光るものが目についた。岸辺はデスクから立ち上がり、ソファに歩み寄った。拾い上げてみると、それはグッドジョブ社の社章だった。福神の上着から落ちたようだ。
「痛っ」
裏のピンに指を刺され、岸辺は社章を取り落とした。人差し指から血が噴き出ている。舐めると、金属のような味がした。血は止まらなかった。
「救急箱を持ってきてくれ」
インターフォンで呼ばれた秘書官は岸辺の傷を見て、救急箱から消毒液のプラスチック・ボトルを取り出し、蓋をゆるめた。鼻を刺す、独特の匂いがあたりに漂った。
そのとたん、岸辺の頭の中に、消したくても消せない記憶がよみがえった。
「客を取れない子は、臓器を売って金を稼ぐんだ」
A国の言語で語られたその言葉が、岸辺の頭の中でエコーがかかったように繰り返し響いた。
激しい動悸が始まった。額から脂汗がにじみ出た。悪寒が全身をかけめぐり、手の震えが止まらなくなった。筋肉が硬直し、動かすことができない。
出せる力のすべてを集中して、なんとか声を絞り出した。
「薬を……」
秘書官はあわてて薬瓶の入ったセカンドバッグを探したが、その間に岸辺の意識はじょじょに薄れていった。
「救急車を呼びますか?」
「ダ……メ……だ」
やがて岸辺は完全に気を失った。秘書官は内線電話でSPを呼び、ひそかに車をまわすように命じた。官房長官が救急車で運ばれるという事態になれば妙な憶測を呼びかねず、下手をすれば政局にさえなりかねない。それだけは避けたかった。
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