闇鍋ノッペラボウ

神田 るふ

闇鍋ノッペラボウ

 闇鍋をしようという誘いが来た。


 気温も湿気も登り調子になってきて、日中はもちろん日が落ちても外にずっとはいたくない、梅雨入り直前のこの時期に、である。


 誘ってきたのは大学入学以来、何かとつきあいのある男だ。


 大学入学直後のオリエンテーションの時から大学二年の現在に至るまで、俺のキャンパスライフはこの男に散々振り回されてきた。


 ある時は解体中の学生寮の屋上に一晩取り残され、またある時は田舎道の真ん中で人生初の職質を受け、ついでにそのまたある時は猪と猿の群れ同時に追いかけられ……思い起こせばきりがない。

 

 毎回どれだけ俺が文句を述べようとも、こいつときたら、肩までかかる黒髪をかきあげながら。


「人生の楽しみを無料で教えてやっているのだ。感謝したまえ」


 と、どこ吹く風な様子である。


 そう、まさにあの男は風なのだ。


 気まぐれでつかみどころがなく、飄々とこのキャンパスと世の中を渡り歩いている。しかも、奇特なキャラクター性に関わらず、交友関係は不思議と広い。

 

 それに対して、俺はどちらかといえば友人関係は狭い部類に入る。


 自分の世界を広めるよりも深める方に興味がある、といえば聞こえもよかろうが、要は単にあまり積極的に人とは付き合わないようにしているだけだ。


 中学生の時からこんな厭世的なスタイルで学生生活を過ごしていたためか、大学生になっても友人知人が少ないことは、今更気にはならない。

 

 だが、社会生活に不適格なこんな俺でも、中学二年生の時には彼女がいた。


 俺が言うのもなんだが俺と同類みたいな子で、贔屓目ひいきめに見て大人しい、実際の所、かなり暗くて地味な子だった。


 何をするにもどこに行くにもお互い無口のまま。


 時々彼女が見せる笑顔は、困ったようなくしゃりとした笑い顔だった。


 高校はそれぞれ別の学校に進んだため、当然ながらその後は音信不通となり、関係もそのまま途絶えてしまった。


 いわば、自然消滅である。


 その彼女と、俺は昨年まさかの再会を果たした。

 

 昨年四月、入学早々、俺は例の悪友に出会うや否や、学生会館で開かれた古本市に付き合わされた。教授や卒業生が寄付した本を売り払い、その売り上げを寄付に回すという毎年恒例のイベントである。華奢な身体にもめげず、本棚に群がる学生たちと悪友が格闘する様子を生暖かい目で遠くから眺めながら、俺はフロアの椅子に腰を下ろしてスマホをいじっていた。


「お久しぶり。元気にしてた?同じ大学だったんだね?」


 懐かしい声に思わずスマホから顔を上げた。


 驚きのあまりスマホを落としかけた。


 其処に、彼女がいたからだ。


 だが、彼女の姿は俺の記憶の中のそれとはずいぶん、否、全く違っていた。


 伸びるに任せていた黒髪はきれいにカットされていたし、青白かった表情はナチュラルなメイクで美しく彩られていた。服装はといえば中学時代は学校の制服や体操服以外の服装は殆ど見たことがなかったのに、目の前の彼女は初夏の時節にぴったりな、淡いブルーを基調とした見事なファッションで身を包んでいた。


 何より、高度成長的発展途上といえる中学生の時期を駆け抜け少女から女性へと変わった彼女の目鼻立ちとスタイルは、その全てが美しく成長していた。


 細胞の一片まで沈黙してしまった俺が何か告げようと腰を上げた時、膝の上にびっしりと本が詰められた紙袋が二つ、三つと放り込まれた。


「そのままステイだ、和多さん!その本を確保したまま動くなよ!?動いたら鼻のあなからインコの餌のにおいが取れなくなる呪いをかけてやる!」


 なんだその地味に嫌な呪いは。


 言うだけ言って我が悪友が再び本棚のジャングルに分け入っていったのと同時に、彼女の周りに友達と思しき男女数人が集まってきた。


「お互い取り込み中みたいだね。じゃ、また」


 それだけ言い残すと、彼女は俺の前から立ち去って行った。


 俺には見せたことがない、弾けるような明るい笑顔と笑い声を友人たちと交わしながら。


 気持ちも体も取り残された俺は膝に紙袋を乗せたまま呆然と椅子に座り続けていた。


 気づいた時には、本が入った紙袋は五つに増えていた。


 やがて。


 それから何度となく大学の構内で彼女の姿を見かけるようになった。


 美人は、目立つ。


 かの我が悪友に負けず劣らず、彼女は大学の至る所にコミュニケーションの輪を拡げ、何時しか学校のあらゆる所で彼女の噂と目撃談が溢れるようになっていった。


 その大部分は、いわゆるゴシップ的な男性ネタの話だった。


 同じサークルの先輩と中庭を散歩していただの、カフェで学生会の幹部とお茶していただの、バスケットサークルのエースと帰り道を同行していただの、図書館の前で新進気鋭の大学講師と歓談していただの……。


 実際、彼女が様々な男性と歩いているのを俺自身も見てきたし、その度ごとに彼女のいろんな笑顔が目に映った。チャラそうな男と一緒の時はケラケラ大口を開けて笑っていたかと思えば、穏やかそうな男子の前では柔らかな微笑みを絶やさず、知的な男性の隣では澄ましたようなクールな笑みを浮かべていた。


 どんな時でも、彼女は笑っていた。


 その笑顔は千万変化。


 目、口、眉、顎、それらを繊細に使い分けることで笑顔に無限のバリエーションを作っているかのようだった。


 文字通り、女優顔負けである。


 まるで別世界、否、別次元の存在となってしまった彼女を、俺は遠くから見ている外なかった。


 またね、と言われたが、その後は一二度すれ違った時に挨拶程度の言葉を交わしただけで、結局まともに会うことはままならない状態で一年が過ぎた。


 そんな時、あの悪友から闇鍋の誘いがもたらされたのだ。


「あの有名な“彼女”も来るってさ。しかも彼女、部屋を提供してくれるって。乙女の一人暮らし。部屋の規模からいって参加人数は十人前後かなあ。どうだい?和多さん?」


 一昼夜迷った挙句、俺は参加を決意した。


 闇鍋の日はそれからあっという間にやってきた。


 スタート時間の十九時に合わせて外出の準備を整え家を出ようとした十七時頃、あの忌まわしき悪友が俺の住んでるアパートにビニール袋を下げて現れた。


「悪いが行けなくなった。バイト先の古書店の店主が風邪をひいてしまってね。代わりに僕が店に出ることになったんだ。あ、これ?どうせ今日のことで頭がいっぱいでろくに材料も決めてないんだろ?僕が持っていく予定だった食材を持って行きたまえ」


 図星をつかれて面食らいつつ、袋の中を確認する。紙の包みの中に肉らしきものが見えた。


「ムジナの肉だ」


「ムジ……何だって?肉?それ動物か?」


「肉だと言ったからには動物だろう?レタスの肉なんて言うものかね?ムジナとはアナグマのことだよ。タヌキとよく間違われるが、タヌキと違ってすこぶる美味だ。ムジナといえば、のっぺらぼう。小泉八雲の『むじな』ぐらい君も読んだことがあるだろう?」


「な、何だってそんな話を……」


 俺の言葉は、目の前の男のぴんと立てられた美しく長い人差し指にさえぎられた。


「ねえ、和多さん。のっぺらぼうとは、どのような妖怪だろうか」


 はじまった。


 この男の名前は、天津あまつ奇常きつね


 天津は神だの仏だの妖怪だの魔物だの、とにかくそういった類の話や知識を愛好し、尚且なおかつ、頼まれもしないのに講釈を垂れるという悪癖を持っている。


 弁が立つ上に決まって黒と白の二色の服しか着ないので、聞いてる方は僧侶か牧師に説教されている気分になってくるのだが、こいつの言葉には思わず引き付けられてしまうような不思議な引力がある。


 何時ものごとく、引き寄せられるように俺は彼の問いかけに乗ってしまった。


「のっぺらぼうって……あの顔がないバケモノのことだろ?」


「それだと半分しか正解してない。いいかい?のっぺらぼうはであるのと同時になんだ。さっきの『むじな』の話を覚えているかい?」


「ああ、そういえば。確か女子とか蕎麦屋のおやじとかに化けてたな。なるほど。自分の顔がないからどんな顔にも化けれるのか」


 然り。


 何時もの口癖を呟くと、悪友の美しいなつめ型の目は細く流麗な弧を描き、薄い唇がつくる笑顔は顔いっぱいに広がっていった。


 まるで狐のようだ、と毎回のように思う。


「ここで君にのっぺらぼうの精神史を語ってあげてもいいが、生憎あいにくと僕には時間がない。君の恋路になんか全く興味はないが、肉の味とネタは保証しよう。では常春とこはるに」


 言うが早いか悪友はするりと踵を返して部屋を出て行った。


 何が恋路だ。


 俺はその言葉にムカつきながらドアを閉める。


「そうそう、もう一つだけ」


「うわっ!?」


 慌ててドアを開きなおした視線の先に、口が裂けんばかりに笑みを浮かべる天津が立っていた。


「のっぺらぼうを殺す方法を教えてあげよう。……。『荘子』にそう書かれてある。あ、それから。ムジナの別名はという。今宵の宴にぴったりじゃないかね」


 狐のような笑みを浮かべたまま、悪友はするすると廊下を抜けて階下へと消えていった。


「……二つ、言ってんじゃん」


 虚空につっこみをいれながら、俺は彼女のことを……真己まみのことを思い浮かべていた。


 駅から徒歩七分の所にある瀟洒なアパート。その五階建ての四階、いちばん奥が彼女の部屋だ。ドアベルを鳴らすと、程なくドアが開いて真己が顔を出した。シャツにジーンズというラフな服装だ。


「いらっしゃい。……どうぞあがって?」


 真己の招きにああだのおうだのという我ながら嫌になるくらいぶっきらぼうな返事をしながら部屋に入る。


 こざっぱりとした1DKのアパートで玄関もダイニングキッチンも綺麗にまとめられている。ダイニングのテーブルには既にカセットコンロの上に鍋が置かれ、準備が整えられていた。他の参加者の姿は見えない。


「俺が一番乗りだったのか?」


「うん。……それが」


「?」


「みんな予定ができちゃって。参加は和多君と私だけ」


 マジかよ。


 思わず、顔と体が固まった。


「いいじゃない。さ、はじめましょ?」


 真己の言葉に促され、俺が席に着くのと同時に真己が鍋の蓋を開けた。


 白い湯気の奥、出汁がはられた鍋の中に白い塊がいくつか見える。


「これ、餃子か?」


「残念。ワンタン。一応、自家製だから。和多君は何を持ってきたの?」


 真己の問いかけには答えず、俺は袋からムジナの肉を取り出すと、何の肉かも告げずにどばどばと全て流し入れた。ふつふつと湧き上がる出汁の中で、薄切りの肉がゆらゆらと揺らめいている。


 やがて、肉の色が変わったのを見計らってから、未成年な二人はコーラで乾杯を交わし、黙々と鍋に箸を伸ばし始めた。


 お互い無言のまま、食事が進む。


 テレビも音楽も流れていない。


 二人の間に一切の会話は無く、キャンパスでは多彩な表情を見せていた真己の顔も、ほとんど動くことがなかった。


 傍目から見れば、ずいぶんぎこちなくて気まずい晩餐だったかもしれない。


 だが、俺は逆に奇妙な安らぎと懐かしさを感じていた。


「まるで中学の時みたいだな」


 俺がそうぽつりと呟くと、真己はこくりと頷いた。


「公園に行っても、食事に行っても、ずっと俺たち黙ったままだった」


「ええ、でも」


 真己が取り皿から顔を上げた。


 彫像のように美しく整ってはいるものの、その顔に生気はない。


「私は、あなたともっとお話がしたかった。もっと笑いあいたかった。それができなかった自分を変えたかったの。そして、私は……」


 何者でも無くなってしまった。


 俯いた真己の顔を前髪がぱさりと覆い隠す。


 真己の顔が、


「高校に入ってすぐ、同じクラスのある女の子と親しくなったの。彼女の友達がビジネススクールの講師をしててね。私が変わりたいって言ったらいろいろと聞いてきてくれて。そこから笑顔や所作を学んだの。そうしたら嘘みたいにいろんな人と仲良くなれちゃって。私、得意になってもっと自分を磨いた。そうしたら、自分が変わるごとにたくさんの友達が増えたの。嬉しかった。ああ、これが本当の私なんだって思えた。でも……」


 ―私が本当に笑顔を向けたい人は、其処にはいなかった。


 中学の時と同じように黙りこくったままの俺に、顔を上げることなく真己は言葉をとつとつと続けていく。


「私が誰に笑顔を見せればいいかわからなくなった時、私は気づいたの。私の本当の顔ってどんな顔だったっけ?本当の私ってどんな私だったっけ?私は何のために私になろうとしたんだっけ?私は目の前にいる人に合わせて自分の表情を変えるだけ。それは私が望んだことなの?私の顔なの?……私ね。鏡に映った自分の顔を見るたびに毎日呟くの」


 この、のっぺらぼう。


 真己が顔を上げた。

 

 困ったような、くしゃりと歪んだ笑顔が、そこにあった。


 そっと、俺は両手を真己の頬に伸ばす。


「その笑顔」


「え?」


「それ、お前の顔だ。俺が好きだった顔だ。……今でも好きな顔だ」


 真己の頬に添えられた俺の手の間を、温かな流れが通り過ぎていく。


 はらりはらりと、真己の両目から涙が零れ落ちていた。


「ごめんな。俺がもっとかまってやっていれば、そんなつらい思いをさせなかったのに」


「私こそごめん。あなたの隣にいる時に変わるべきだった。あなたと別れてから変わるなんて遅すぎたの」


「遅すぎじゃないよ。だって……」


 これからはまた一緒だろ?


 涙をとめどなく流しながら、ゆっくり、何度も真己が頷く。


「……笑えたよ。私、やっと自分の顔で笑えたよ」


 困ったようなくしゃくしゃの笑顔。


 俺にとって最高の笑顔で、真己は微笑んだ。


 後日。


 鬱陶しい梅雨の雨に辟易しながら講堂に入った俺は久しぶりに講義に顔を出していた天津の隣に腰を下ろし、先日の闇鍋の話について報告した。


 俺が語っている間も、悪友は『セラフィータ』なる本から目を離さず時々「へえ」「そう」と適当な相槌を打つだけだ。まあ、何時もの反応なので、今更気にすることもない。


「それにしても、お前、よくアナグマの肉なんて手に入れたな。意外とうまかった」


「美味に決まってるだろ。正真正銘鹿児島県産黒豚のロース肉だしね」


「は?」


 ようやく本から顔を上げた悪友の顔には、シャツを後ろ前逆に来てしまった我が子を見る親のような、慰めと愉悦が入り混じった表情が浮かんでいた。


「君の数少ない美点はその歳で極めて純粋だということだな。アナグマの肉なんてこの辺に売ってるわけないじゃないか。まあ狐に化かされたとでも思いたまえよ。そうそう、彼女に聞いたかもしれないが、あの闇鍋の会は最初から君だけしか呼ばれていなかった。全ては君と彼女を取り持たせるための、僕の粋な計らいだったのだ」


 なんてまわりくどい粋な精神だ。


「友人を介して彼女に笑顔の作り方を教えたのは、実は僕なんだ。彼女とは高校時代、無二の親友だった。だが、良かれと思って教えたことが彼女を縛ることになるとはね。今回の件は、その罪滅ぼしでもあったのさ」


「おい。そんな話は初めて聞いたぞ?……ん?ちょっと待て。確か真己は女子高に行ったはず……てことは、お前!まさか!?」


「今更気づいたのか。そんなに驚くなよ。ねえ、和多さん。人の世も社会も闇鍋のようなものだと思わないかい?隣の親友の性別や過去すらわからない。僕たちはそんなあやふやな世界で生きてるのさ。ほら、のっぺらぼうが、おいでになったよ」


 おまえは断じて親友じゃねーよ!と心の中で叫びながら、我が“悪友”の言葉を受けて俺は後ろを振り返った。


「おはよう。キツネちゃん。和多君」


 俺の視線の先に、困ったような、くしゃりとした笑顔で、真己が微笑んでいた。

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闇鍋ノッペラボウ 神田 るふ @nekonoturugi

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