1〜6

 しばらくして目を覚ました男は、繙多はんだに何をされたのかを気にするよりも、室内の雰囲気に狼狽うろたえた。

 一番の原因であるくせに俺は、そうなるだろうなと思いながら、気づかってやるほどの余裕がない。

 ともかくも、今日はもう遅いからという理由で、皆、引き上げることとなった。


 渡会わたらい刑事曰くの繙多はんだをとっ捕まえて離さなかった女性は、部屋を出るともうどこにもいなかった。

 同じマンションに住んでいるらしいけれども、繙多はんだと俺にとっては知らなくていい話だ。

 会う機会はないだろう。


 見上げた先では、ぽかりと月が浮かぶ。

 警察署に戻る渡会わたらい刑事を見送って、車を置いてあるパーキングへと歩き出した。

 俺の隣には繙多はんだがいる。

 これから俺の車で、繙多はんだを家まで送るのだ。

 渡会わたらい刑事に呼ばれたときは、大体こういうことになる。

 なる、というか、している、の方が正しい。

 なにせコイツは『俺は車が好きじゃない』などと言って、一時間二時間の距離なら平気で歩いて帰ろうとするからだ。

 繙多はんだ本人が良くても、周囲が良くない。

 ともかくある日、送っていくから大人しく乗っていけとしばしの攻防があって、それからこうして俺は、繙多はんだの足をやっているわけだ。


 パーキングについて、精算を終えてから車へと乗り込む。

 繙多はんだは後部座席だ。

 相変わらず狭いだの何だのと文句を言っているのが聞こえるけれども、それこそ相変わらずの文句なのだから俺は適当にスルーする。

 車を発進させたところで、ようやく文句は収まった。

 諦めたのだろう。


 住宅街を抜けてしばらく走り、坂道を登る。

 こちらもこちらで住宅街ではあるけれども、地価はこちらの方が高い。

 繙多はんだの家は元々祖父母の家だったそうで、その祖父母が街の中心へ移り住んだ際に譲り受けたものだ。


 車の通りが減って、ぽつぽつと立つ街灯に照らされながら車を走らせる。

 ルームミラー越しに後部座席をうかがって、俺は口を開いた。


繙多はんだ

「何だ、無駄話をするつもりなら許さない。運転に集中しろ」

「まだ何も言ってないだろ……」


 間髪入れず返された言葉に、つい呆れた声でつぶやく。

 欠点など――周囲から見ての欠点ではなく、本人が気にするか否かという意味での――なさそうな繙多はんだが車を嫌っている理由が、怖いからだと誰が思うだろう。

 小さい頃に事故にあって、それ以来トラウマになっているらしい。

 繙多はんだという人間に、トラウマという単語はこの世で一番似合わない――茫然とした俺に、そのとき、繙多はんだは呆れたように溜め息をついた。

 俺を、一体何だと思っているのかと。

 まぁ繙多はんだの言葉はもっともではあるのだけれども、それにしても似合わないのだから仕方がない。


 無駄話なら許さないと言うなら、無駄話でなければ良いだろう。

 コイツにしてみれば冗談じゃないと思うかもしれないけれども、気にしていてはキリがない。

 繙多はんだともう一度呼びかければ、深々とした溜め息が返ってきた。


「今回の、繙多はんだは詳しく話を聞いているのか」

「いや」

「じゃあ、さっきので、何か見えたものはないのか」

「特には」

「何でも良い、イジメの主犯格じゃなくても、何か」

語部かたりべ


 やけに静かな声で、繙多はんだは俺の言葉を切った。

 ちょうど標識に引っかかって、車も一時停止する。

 確認してから再び車を走らせるのに合わせて、ゆっくりと深呼吸をした。

 ルームミラー越しに、繙多はんだが俺を見ているのが分かる。

 焦らなくていい――自分を窘めて、また口を開いた。


「悪い、イジメ問題と聞くと、さすがに」


 俺のその言い訳を、繙多はんだはどう思ったのだろう。

 特に何も言わず、ふん、と鼻を鳴らしただけだ。

 そんな状態では改めて口を開くのも憚られて、無言で車を走らせる。

 繙多はんだも黙って外を眺めていて、妙な沈黙が車内には流れた。


 坂道を登りきり、一軒の平屋建ての前に車を停めたのは、それから一、二分しかたっていなかったときであるはずだ。

 体感では、何倍にも何十倍にも思えたけれども。

 車を降りた繙多はんだが、振り返った。

 月明かりが頬を青く染めている。


「おい語部かたりべ

「どうした?」

「お前……いや…………寄っていけ、良いウイスキーがある」


 急な誘いに、目をしばたたいた。

 珍しいこともあるものだ――そうは思っても、ここでうなずくわけにはいかない。


「いや、明日も仕事があるから。今日は帰る。今度また呼んでくれよ」

「そうか、分かった」


 うなずいた繙多はんだは、挨拶もなしに背を向ける。

 結局は通常運転だなと思いながら、俺はまた車を発進させた。

 早く帰らなくては。




 俺の住むマンションは、繙多はんだの家からは車で十五分ほどの距離にある。

 勤めている高校まではもう少しかかるけれども、便利な場所に建っているからまだしばらくは引っ越す予定などはない。

 ただ、もう少ししたら家を探そうかとも考えていた。

 荷物が増えて、手狭になったのだ。

 出来れば、あと一部屋は欲しい。


 駐車場へ車を停めて、自分の部屋に帰り着いた頃にはもう二十二時を回っていた。

 そういえば晩飯がまだだったとか、風呂に入りたいとか、色々思うことはあるけれども、どうにも動く気になれない。

 適当にテレビをつけて、その雑音を聞き流しながらソファにもたれかかった。


 今日は、疲れた。

 最後で一気に疲れが押し寄せたように思う。

 深々と溜め息をついて、額を覆った。

 繙多はんだが紐を見る、ちょうどその辺りだ。


 アイツが俺の真実をひもといたらどう思うだろうかと、ふと考えた。

 怒るだろうか。

 それとも先程のように、静かな声で窘められるのか。

 呆れられるかもしれない。

 いや、やはり、怒るだろう。


 まとまらない思考が、脳みその中でぐるぐると回りだす。


 怒られたとしても、それでも、俺は。

 間違っていない。

 俺は、間違っていない。

 それでいいのだと、あのとき――ドクもうなずいたじゃないか。

 だから、これでいい。


 自分にそう言い聞かせ、俺はソファから立ち上がった。

 明日も仕事があるのだ、準備をしなくてはいけない。

 食事は、まぁ、一食くらい抜いたところで平気だ。

 風呂に入る余力は残っていないから、朝一番にシャワーを浴びよう。


 明日は三回しか授業がないから、合間合間に仕事を片付けて、そして、少しはやめに高校を出て、病院に行かなくてはいけない。

 そっちの準備は出来ている。




「起立、礼」


 いかにも真面目そうな女子生徒の声に合わせて、脊髄反射的に軽く——まるで偉ぶっているようだと自分でも思いながら——頭を下げる。

 ファイルや生徒名簿をまとめてから顔を上げれば、帰る準備を終えるどころか、今まさに席を離れようという状態の生徒すらいた。

 こういうときの行動だけは本当に早い。

 いつでもこうしてテキパキと動いてくれたらいいけれども、まぁ、何でも思い通りになるなら誰も苦労などしないだろう。

 それに、こんなことを言っている俺も、今日は急いでいる自覚があった。

 扉を潜り抜ければその背後は途端に騒がしくなり、すでに廊下は生徒で溢れていた。


「いっちゃーん、バイバーイ」


 心の中では急ぎながらも、教師としては率先して校則を破ってみせるわけにはいかない。

 自分を宥めながら階段を下りる途中、背後から声がかかった。

 振り返った三階と四階を繋ぐ踊り場には、大きなはめ殺しの窓がある。

 西向きのそこからは、時期と時間の関係か、太陽光が斜めに射し込んでいて、何も考えずに振り返った無防備な視界を、その瞬間で焼いた。


 かすかなうめき声とともに、思わず顔しかめる。

 ちかちかと存在を主張する残像が、現実を侵食する。

 視線を落とした先、階段に染みを作っていた。


 目をまたたく。

 それでもまだ、青白い光が居座っている。

 赤くないだけましか、と、頭の中によぎった。


 それでも顔を上げたのは、いくつかの足音と共にわずかだけ、日が陰ったことに気付いたからだ。

 視線の先、踊り場に立つのは――逆光ではっきりとは窺えないけれども――自分が授業を受け持つクラスの生徒達であるらしかった。

 目をこらせば、二人分の影が見て取れた。

 スカートはきっちり膝下丈で、ハイソックスを履いている。

 真面目そうなその二人組は確か、部活に入っていたような覚えがあった。

 文化系の部活だったような気はするけれども、さすがに何部なのかは覚えていない。


「気をつけて帰れよ」


 苦笑をひとつ。

 せめて先生と付けろと前置きしてから返した言葉に、女子生徒達は元気よく、はぁいと答えてまた階段を上っていく。

 帰るんじゃなかったのかと思いながら、それでもきちんと挨拶をする分、素直な生徒達だと心の中でつぶやいた。

 女子生徒の姿が完全に見えなくなったところできびすを返せば、廊下に擦れたゴム底がきゅ、と高い音を立てる。

 それに気を取られながら、右手首の腕時計を見た。

 十五時四十ニ分。

 ああ、早く、行かなければ。




 職員室にたどり着き、早速と仕事を始める。

 今日は急ぐということをあらかじめ言ってあるから、ミーティングを終えればすぐに帰るつもりだ。

 それでもまだ時間はある。

 今日の分の仕事をさっさと終えて、明日の支度もしなければならない。

 夜はゆっくりする時間はないだろうから。

 パソコンを立ち上げて、仕事に取り掛かった。




 しばらく経ったとき不意に仕事を中断させたのは、空があまりにも赤かったからだ。


 ずっと机に向かっていたせいで、肩は鉛の塊にでもなってしまったかのように重い。

 冷たさすら感じるのは恐らく、血の流れが滞っているからなのだろう。


 ミーティングまであと二十分。


 今日中に片付けなくてはいけない仕事は終わっていて、明日の支度が少し残っている程度だ。

 思ったより集中していたらしいと、細く長く、溜め息を吐いた。

 再びパソコンの画面へと視線を戻せば、背後から射す赤く低い夕陽が机に向けて、自分の影を落としていることに気付く。

 パソコンの画面は明るいから、肩の辺りまでしか見えない。

 ただ、影が差していることにも気付いていなかったのだから、溜め息混じりに眉間のあたりを揉んだ。

 これでは道理で目も疲れるはずだ。

 ついでとばかりに上半身を捻れば、腰だけでなく背骨も、何とも鈍い音を立てた。


 振り向いた視界いっぱいに赤く広がる、窓の向こう。

 グラウンドの端に植わっている松が――確か松だったと思う――いやに黒く見える。


 ――ああ、と思う。


 赤いな、と。


 けれどももう、俺を呼ぶ声はない。

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