第六話〜3

 俺が次に目を覚ましたのは、白い病室だった。

 右腕と右の足首が折れていて、それまでに感じたことのない痛みに目を覚ましたのだ。

 茫然とする俺が寝かされているベッドの横で母親は泣いていて、父親は安堵と俺には良く分からない感情を湛えた表情で俺の頭を撫でる。


 ――良かった、ああ、良かった、でも、どうしてあんなことに。


 そう言って震える声で言う母親をじっと見つめた俺は、意味が分からずに首を傾げた。

 あんなことが、どんなことなのかが分からない。

 何せ、俺の最後の記憶はいつもと同じように布団へ入ったところで途切れているのだから。


 そんな俺の異変に気付いたのは父親で――問うべきか問わざるべきか迷っていたのだと思う――苦し気に呼吸をし、唇を戦慄わななかせてからようやく言葉を発した。

 どうして、痛いのか分かるかと。

 そう言われた俺は全く意味が分からなくて、首を傾げることしか出来なかった。

 それを見た両親は痛みを堪えるように目を閉じると、ナースコールを押したのだ。


 少ししてから看護師がやって来て、その看護師に呼ばれてやって来た優しげな顔をした医師は簡易的な診察をして、言った。

 分かりやすく言うなら記憶喪失で、改めて検査をしないとはっきりとしたことは言えないけれども、脳に損傷はなかったからストレス性のものだろうと。


 俺は、彼女を忘れた。

 その日の出来事だけでなく、彼女という存在を忘れた。


 両親が何とも言えない表情をしていたのを覚えている。

 それから俺は、ずっとその記憶に蓋をして生きてきたのだ。

 時折溢れ出す、どうしようもない無力感と恨みと――愛しさを抱えながら。




 俺はその舞台となったここで、記憶の欠片を集めていた。

 蓋をして、閉じ込めて、もう見たくないと投げ出した記憶をしかし、集めたのだ。

 右のポケットに揃った紙切れは、俺の記憶ごと破いたあの日俺が書いた婚姻届。


 俺と彼女の――いや、違う、それは、もう。


 目眩がするほどに心臓が脈動して、息を吐き出した。

 ゆっくりと目をしばたたく。

 今は確かめることを何よりも優先すべきであって、余計な考察はしなくていい。


 伸ばしたこの手で、今なら触れられると、そう思った。

 これが俺の記憶なら、俺の心を映しているというのなら、触れられるはずなのだと。

 果たして、そういうことになった。

 いや、正確に言うならには触れられていない。

 それでも、彼女だけには触れることが出来た。

 当たり前だと思ったけれども、それを口に出す事はしないでただ黙し、目をしばたたく。


 彼女の横顔を見下ろす。

 頬にかかる、解れた黒い髪を壊れ物でも扱うようにして丁重に払えば、その横顔が露になった。

 ああ、そうだ。

 温もりがまだ残る頬に触れて、浅く息を吐き出した。


 暴れ回っていた鼓動が、激情が、ほんのわずかずつだけ穏やかさを取り戻していき、指先へ血が通い始める。

 俺は躊躇うことなくセーラー服の胸ポケットを探ると、そこから取り出した生徒手帳をぱらぱらとまくった。


 背後でドクが、震える声で何かを言っている。

 俺は反応することなく、生徒手帳をまくる。

 勿体ぶるように殊更ゆっくりと、誰も読みやしない校則を見送って、ようやく辿り着いたそこ。

 貼られていた写真と生徒手帳の名義に俺は、自分の唇が歪んでいくのに気が付いた。

 離れた位置で立ち竦むドクへ背中を向けたまま、乾いた唇を舌でなぞってから口を開く。


「――なぁ、ドク」

「っなん、だい、いっちゃん」


 ドクの声は無理矢理震えを押さえ付けたようで、妙なところで途切れていた。

 俺はそれに答えず、気怠く立ち上がる。


 駄目じゃあないか、ドクがドクでありたいならそんな調子じゃあ――そんな気持ちを、ゆっくりと目をしばたたくことで隠した。

 左手に持った生徒手帳越しに、横たわる姿を見下ろす。

 そうして右手では、白衣のポケットに手を突っ込んで紙切れをもてあそぶ。

 視界が赤く染まっているようだ。

 何故だろう、朝日か、それとも彼女の口から吐き出された赤が、こびりついているのか――ゆっくりと目をしばたたいてみるけれども、どうも意味はないらしい。

 冷たい空気を肺の深くまで満たして、中途半端に温められた呼気に音を乗せる。


「君は――いつからドクだった?」

「っ、え?」


 虚を衝かれた風なドクは、答えを探しているのか戸惑った声より以降は何も発しない。

 まぁそうだろうと俺は勝手に納得して、彼女へと振り向いた。

 俺が踏み出せば、彼女は一歩後退る。

 そして俺はまた、一歩踏み出す。

 それを繰り返して、結局、追い詰められるのは俺ではない。

 とんと、ドクの背中が壁へとぶつかった。


「いつからだ?」


 問いを重ねてみても、彼女は戸惑っているようで答えることが出来ないらしかった。

 手のひらに乗せるようにして持っていた生徒手帳を、手首を返すことで彼女へと向ける。


「なぁ、いつからなんだ?」


 そこへ貼られた、三つ編みをお下げにしている不機嫌そうな少女の写真。

 黒いセーラー服。

 白いスカーフ。


「ッい、や、嘘、やめ、て」


そこへ記されている、来繰くくり読子という名前。


「いつから」

「やめて、いっちゃ、ん」

「この名前を捨てたんだ?」

「――い、いやぁぁぁああああ!」


 世界が、狭間の世界が崩壊する。

 彼女の、絹を引き裂くような叫びに呼応するかのように。

 存在の意味を無くしていく。

 ゲシュタルト崩壊を起こしているかのように。

 崩れて、くずおれて、混じりあって、分かたれて、掻き消える。


 ゆっくりと目をしばたたく。

 細く息を吐き出して、俺はドクが立っていた場所をじっと見つめた。

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