第四話〜3

 ドクを見ていられなくて、俺は咄嗟にうつむいた。

 怖かったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 とにかく、どうしても俺は、ドクを直視することが出来なかった。


 耳のすぐ裏で、激しく心臓が鳴っている。

 高速で身体中を巡る血液は、酸素をまともに運べていないようだった。

 締め付けられるように頭が痛み、指先から冷えていくような心地がする。


 ――それでも、ドクに手を引かれるままに俺の足は勝手に進む。


 ドクがいつの間に視線を外したのか、そんなことすら気付かずうつむいていた俺がようやく顔を上げたのは、教室のドアレールを踏み越えた後だった。

 右手へ向けて、空間が広がっている。

 同じ高さの机と椅子が教室の前方へ向けて規則正しく並べられ、やはり掲示物だとかはない。

 短針しかない時計は、変わらず五と六の間を指していた。


 陽が射さない側だからなのか――薄暗く、宵闇の気配が濃厚に漂うそこは、ひたすら赤に染まっていた校舎から、急に切り離されてしまったかのような錯覚に陥る。


 また、目眩がする。

 赤ではなく、月明かり――


「ああ、あんなところに」


 まるきり棒読みで発せられたその台詞に、俺はゆっくりと目をしばたたかせた。

 急に世界が赤みを帯びたような気がする。

 微かに眉根を寄せながら、視界の左下から入り込んだ指先を見つめた。

 白い指。

 赤くでも、青くでもなく、ただ白く浮かび上がるそれは、気だるげに持ち上げられ、一点を指す。


 左側――窓側から二列目の前から三番目、机の真ん中に乱雑に置かれた本。

 そして、散らばる紙切れ。

 似ている――俺はその場にドクを置き去りにしたまま、引き寄せられるようにして机へと近付いた。

 もう寝惚けてもいないし、手を引かれているわけでもないから、始めてここで目を覚ましたときとは違い、授業中のようにするすると間を抜けることが出来る。


 本は、開かれた状態で置かれていた。

 ハードカバーの単行本のようだ。

 何の本だろうかと手を伸ばしたのは、無意識でのことだったけれども、その手はしかし、触れられないまま机へと到達する。

 手のひらに感じるのは、わずかにも温もりを感じさせない、メラミン加工のつるりとした無機質さ。


「すり、抜けた……?」


 茫然としてつぶやいた言葉は、伝わることを恐れるかのように、微かに空気を揺らしただけでこぼれ落ちていく。

 机に手のひらをぴたりとつけたまま、俺は動揺から目を背けた。

 本と俺の手、どちらが透けてしまっているのか。

 一体、どちらが実体を持つものなのか。

 それを直視するのが、恐ろしいような気がしたのだ。


「ああ、なんてことだろう!」

「ッ!」


 ドクの声だった。

 鋭く鼓膜を震わせたそれは、思ったよりも近い。

 俺は熱いものでも触ったかのように、勢い良く手を引っ込めた。


 腹の辺り、冷たい右手で包みながら、左手を握り締める。

 確かにある。

 俺の手は、確かに実体を持って存在している。

 爪が皮膚を抉るほどに力を込めれば、どくどくと速い脈動が指先を震わせた。

 ゆっくりと手を解けば、赤い指の跡が残る。


「見てご覧よいっちゃん! 破いてしまうだなんて、ああ、なんて酷いことをするのだろう!」


 ドクは、机を挟んで向こう側、俺の方を向いて立っていた。

 俺の恐怖も動揺も、目に入っていないのだろう。

 大袈裟に声を上げながら、両手で顔を覆って嘆いている。

 自分の表情が、一瞬、抜け落ちたのが分かった。


 ――何だって、そんな紙切れ程度で。


 込み上げる、自分でも良く分からない激情はしかし、声にならないままはらの奥底でどろりと溶けた。

 今まで意識したことがなかったと混じり合い、どす黒い澱になっていく――そんな心地がする。


 細く細く、息を吐く。

 普段からの感情表現が特別豊かだとは思わないけれども、無の表情をしているだろう自分を思い浮かべると、何だか居心地が悪い。

 幸いというべきか、ドクは相変わらず俺を見ていなかったらしかった。

 その場でしゃがんで、床に散らばる紙切れを見つめている。


「……ドクは、それが何か知っているのか」


 妙な虚脱感があった。

 どうせ、答えは返ってこない。

 そんな確信を持ちながら、ぽつりとつぶやく。


「ああッ!」


 けれども、返ってきたのは、想像をしていなかった反応だった。

 思い切り顔を上げたせいで少しふらつきながら、それでも黒い瞳で俺をじっと見つめる。

 開かれた唇から、赤い舌が覗いた。


「ああ、ああ、勿論だとも! これは、これはね、とても大切なものなのだよ、いっちゃん」

「大切な、もの……誰にとって?」

「それは勿論、私にとって!」


 今までの事柄にさんざ関係ないという態度を取ってきた――と少なくとも俺は思っている――ドクが、唐突に、世界のオブジェになっていく。

 そんな予感がして、けれども、上手く反応出来ない。

 ドクは俺から、目を逸らして立ち上がった。

 スカートを払いながら、億劫そうに体勢を立て直す。

 そしてくるりと、背中を向けた。


 また、目眩。

 光が射している。

 赤い陽光なのか、青い月光なのか、しっかりと見えているはずなのに判別がつかない。

 明滅、もしくは、混濁。


「……と、言いたいところなのだけれどもね」


 不満げな声だった。

 何もかもに納得がいかないと言うような声だった。


「私なら、こんなことはしない。私なら、破いてしまったりしない。私なら、決して、手放したりしない」


 けれどもそれと同時に、どことなく諦めているような――許容を含んだ声だった。


「けれど、分からないでもないんだ」


 ドクの声を、初めてきちんと聞いた気がする。

 その背中に手を伸ばして――やめた。

 今、この状態で、彼女へかけられる言葉はないとそう思ったから。


 凍り付くような沈黙が漂う。

 恐ろしいという感情よりも俺は、焦燥に駆られていた。

 何に対するものなのか、自分でも分からない。

 ただ、漠然とした焦燥。

 逃げるようにうつむけば、そこには相変わらず、触れることの出来ない本が鎮座しているだけだ。


 ――これは、何の本だろう。


 最初に感じた疑問がまた鎌首をもたげたのは、焦燥感から逃避したいが故のことだったのかもしれない。

 ともかくも、気が紛れるならその方がいい。

 考えることを放棄して、じっと本を見下ろした。


 ドクは黙ったままで、俺からも話しかけることはない。

 続いている沈黙が俺の心臓をさわさわと撫でていっても、気付かないふりをした。

 何より疑問の解決を優先すべき事項に定めただけであって、これは決して、逃避のために事態を後回しにしたわけではないのだ。

 そんな言い訳を、心の中で誰ともなくつぶやく。


 ただ、俺は結局、本の内容を知ることは出来なかった。

 そもそも本自体に触れられないのだから、表紙や他のページも確認のしようがなく、タイトルも分からない。

 開かれているページはといえば、飛び飛びで平仮名が並んでいるだけだった。

 子供向けの絵本のように平仮名だけで書かれた本だということではなく、ぽっかりと空いているところには恐らく、漢字が入るのだと推測出来る。

 けれども、だからといってそんな平仮名だけの、歯抜けになった文では、どんなジャンルのものなのかすら分からない。


 ――何だって言うんだ。


 これが何らかのヒントになると、俺は恐らく、知らず知らずの内に思っていた。

 怒りとも落胆とも取れない感情が、はらの底で、ごぷり、と音を立てたような気がした。

 そしてそれと同時に、ひどく後ろ暗い気分になる。


 目を閉じて、そしてゆっくりと開く。

 沸き立とうとする澱を、後ろ暗さと共に、殺してしまおうと試みる。


 まばたきをする度に赤みを増して見える教室内で、俺はただ、二人分の呼吸音を聞いていた。

 視界がぼやけていくように思える。

 夢に落ちるときの、一瞬の浮遊感。

 自分が今どこに立ち、何をして、誰といるのかが分からなくなり、何もかもが瓦解する――


「いっちゃん、これを」


 ――不意に、ドクの声がやんわりと空気を震わせた。

 まばたきをしたのは、ただの反射だ。

 それでも、そのまばたきのお陰で、世界は形を取り戻す。

 粒子となって漂っていた全てのものが、わずかな瞬間に正しい形へ整列し直して、俺は、自分とドクの存在を改めて認識した。


 ゆっくり顔を上げた先、ドクの白い手のひらが俺へ向けて差し出されている。

 それの上にはやはり、紙切れが載せられていた。

 これで何枚目だったか。

 ぼんやり考えながら受け取って、流れ作業のように白衣のポケットへと突っ込む。

 かさりと乾いた音が耳へと届いた。


 こんな紙切れ、重さなどあってないようなものだ。

 例えばきんのように重さで価値が変わるのならば、俺が集めさせられているこの紙切れには何の価値もないだろう。

 手をすり抜けてしまった、机に置かれたままの本だって、触れられないのなら何の意味も持たない。


 机の上と、床にも散らばっている紙切れを見つめる。

 ポケットの中の紙切れは、きっと同じものなのだろう――そんなことを、勝手に考えていた。


「触れられないよ、そう言うものだから」


 いやに静かな声で告げられる。

 どうやら本が気になって仕方がないらしいと、思われたようだった。

 正確には本自体を気にしていたわけではないけれども、わざわざ否定してみせる必要も大してない。

 分かりきっていたことだとばかりに、俺は黙ってうなずいた。

 そしてまた、思惟に沈んでいく。


 ドクは、あの紙切れをどこから見つけてきたのだろう。

 いや、何がどこにあるのかをそもそも知っている様子だから、見つけてきたという表現は正しくないのかもしれなかった。


 ポケットの中の紙切れと、散らばっている紙切れ。

 同じものなのだと思うのは相変わらず、友人曰くのアテにならないただの直感だ。

 けれども、もし、そうであるのなら、と心の中だけでつぶやく。

 ここが狭間だというのなら、この本や紙切れはどちらに――あの世とこの世のどちらに属しているのか。

 帰還のための手掛かりならば、この世かもしれない。

 いや、あの世での何かしらを解決したら帰還出来るという可能性だってある。

 触れられないのは何故なのか。


「さぁいっちゃん、そろそろ行こうか」

「……あぁ」


 俺の返事を聞くよりはやく、ドクが俺の左手を取る。

 すぐに背を向けられてしまったせいで表情はうかがえず、ただ、頬が赤く照らされたことにだけは気が付いた。


 赤。


 教室の中は、こんな色だったろうか。

 誰へあてるともなくつぶやいて、俺は手を引かれるままにその教室を後にした。

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