ひとりひとりの勝手なイメージ
だから、完全に脳内信号を制御されちゃったらアレだけど、少しでも隙間があるうちは、アート(=祈り=歌)は残るだろう。確かに、チャンスザラッパー本人が感じた「興奮そのもの」を共有したいというファンたちには、チャンスの歌は必要なくなる。「汁」吸うから。チョクでイクから。しかし、チャンス本人にとっては、めちゃめちゃ切実に、歌が必要。彼が「ここじゃないどこか」「ここにいないだれか」を想像したくなる以上(必ずそうしたくなる。彼の脳内が他者に100%制御されていない限り)、「祈る」行為は絶対に必要。
っていう結論は何を意味するんだ? 結局アートは消えるのか、残るのか? いや、だから、残る。独り言としては。独り言は共有されないのだろうか? チャンスの独り言のような歌を聞きたがる人はいないのだろうか。いや、俺はまさに、それが聞きたい。その独り言、つまり「祈り」を共有したい。え? じゃあ、その祈りの「汁」をチョクで吸えばいいじゃん。なにも歌なんかわざわざ聞かなくても。
うーん。するってーと、「歌」はチャンスの手元にいつもあって、それはまったく共有されてないけど、チャンスの脳内信号である「汁」は、ガンガン共有されまくってると。そんな状況が生まれるだろう、っつってんのか、俺は?
いや、それでもさ、「歌」の方を聞きたいよ、俺は。なんかさ、やじゃん、「汁」。ナマっぽすぎるって。母子間のチョクはキツいだろってのと同じでさ。あれ? ってことは、「汁」の共有レベル、ナマ度を下げればいいのか。
いや、そういう話じゃないな。「型」の重要性の話だ。とめどなく溢れ出る感情を、カチッと3分間にまとめたからこそ(ラモーンズは2分)、ポップソングは魅力的なんだ、という話。ヴィヴィッドなナマネーチャンより、モナリザの方が魅力的。つまり、アートが好きな人って、アーティストのドロドロのナマ感情じゃなく作品の「型」の方を見て、心震わせてる。
そう考えるとアートの肝ってのは、共有されるものではなく、ひとりひとりの勝手なイメージなんだなと。むしろ共有された瞬間に、それは五感に成り下がるんだなというか。エセ科学っぽく言えば、或る系から持ち出された瞬間、不可逆的に変質してしまう電気信号もあるんだってことだろう。
ブルース・スプリングスティーンは確か、「型」ってのはエラい、みんなが共有できるから、みたいなこと言ってた。一見、正反対の結論だけど、言いたいことは同じだ。アートの魅力は結局「型」に宿る。
つまり、アートは、どこまでも独り言なんだな。チャンスの「祈り」に触発されて、俺の「祈り」が生まれる。祈りの「気持ち」を共有することは出来るようになるだろうが、それは俺が愛してきたアートとは違う。
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