第二幕 三章 ロペの回想
パイプ工はこの街でもっとも割りに合わない仕事だ。パイプ工とは、パイプに開いた穴や開いた継ぎ目などを補修する、学がなくともできる単純な仕事である。
だが、この街は無節操な開発計画により排気・下水管は乱造されている。それは地下に、建物と建物の隙間に、暖炉から煙突に伸びるまでに、鼠すら走れぬ程隙間なく入り組んでいるのだ。表に出ているパイプならばいいが、入り組んだ中に埋もれたパイプ、地下を走るパイプなど、到底人が手を加えられない位置にあるパイプもある。
ならばどうするか。パイプの中に直接入り、内側から補修するしかない。煤まみれの排気管を。隔離病棟の下水が流れた排水管を。人が入れる直径ならば、どこへでも。
この仕事を初めて三年もしない内に、肺は焦げたように真っ黒になる。医者に診せようにも、手元には今日食うだけの金しかない。それがホーツゴートのパイプ工だ。
少年、ロペもまたパイプ工である。『あの日』もまた、排気管の中をモグラのように這いまわっていた。この娼館で燻る様な異臭騒ぎがおきたらしい。大方、暖炉の排気管のどこかに穴が開いたのだろう。ロペは営業時間までに穴を塞げと、娼館のボーイに依頼されたのだ。あるいは、命令されたのだ。
彼はヘッドライドの薄い光で円を描きながら、排気管に空いた穴を捜していた。あまり奥に無いことを祈っていた。こんな場所には少しでもいないほうがいいのだ、たとえ口元をスカーフで隠し息を止めていても、煤の粒子は少しずつ気管に積もっていく。
『長寿』のパイプ工であるロペが生きてこられたのは彼が早仕事であったからだ。あるいは、たとえ仕事が終わらずとも決めた時間以上潜らないからである。報酬がもらえずとも折檻されようにも、救貧院で息をするたび痙攣しながら死ぬのよりはましに思えた。
今回も、おおよそあと3分たったら一度出て肺を清めるつもりでいた。層を成した煤をかき分けながら、化石を掘り出すようにパイプの壁を検分する。そうしていると、ロペは膨らんだような箇所を発見した。継ぎ目だ。異臭騒ぎはおおかたパイプの継ぎ目に亀裂が生じ、隙間が生じることによって起きる。この継ぎ目を重点的に見ていれば、すぐに補修箇所は見つかる。
ロペはヘッドライトを膨らんだ箇所に近づけ、煤を払いながら調べてゆく。上から下へ、仰向けになった後うつ伏せになり、継ぎ目の曲線を指でなぞっていく。そして亀裂は、彼の左肩程の高さにあった。
ロペはサイドポーチから、黄色い布テープを取り出す。それを千切って歪みに張り付けると、一度肺を換気するため後退しようとした。しかしその時だった。奥の暗がりから、吐息のような、不快な熱気が流れてくる。彼はヘッドライトを奥へかざしたが、闇はすでに高速で迫ってきていた。赤熱した石炭が放つ闇、排気管を走る煤の雲だ。
そんな、まさか。ロペは己の目を疑った。清掃中、暖炉は使われないはずであったのに。営業前の娼館の誰かが、それを知らずに暖炉を使ったのか。あるいは知っていながら使ったのか。
途端、ロペは小刻みに体を動かし後退する。しかし排気がすぐに彼に追いつき、呑みこんだ。
決して呼吸してはならなかった。吸えば、血管に一酸化炭素がなだれ込むだろう。息を止めても、目を開ければすぐに煤の粒子が角膜に張り付いてくる。早く出なくては、酸素欠乏で死んでしまう。ロペはもはや冷静でいられなくなった。後ろに這おうとして暴れまわり、何かに助けてもらおうと、必死に両手であちこちを叩き続けた。それは穴につまった人間というよりは、濁流の中、枯れ枝にすらつかまろうとする漂流者に見えた。
そのロペの手が、何かを掴んだ。もがく手が鋼鉄の網に爪を立てる。さらに手で探ると、それは金網だとわかった。彼は無我夢中で網の壁を揺すり、痛ましく軋ませる。すると、砂利を噛むのにも似た破壊音が響き、網は開き戸のように向こう側へ開いた。向こうにはパイプが続いているようだった。ロペはそこへ頭をつっこみ、身をよじらせて奥へと潜る。
横穴はロペが潜るにはすこし狭く、彼は上辺に頭を打ち付け、つかえた脇腹を削るように擦りながら奥へと進んだ。少しでも、空気の澄んだ方へ。ヘッドライトはどこかへ置いてきてしまい、鼻先から向こうは一切見えない闇だが、その先から煤煙の臭いはしないことだけはわかった。
肘立ちで身を縮めながら進む。肘を擦るように動かし、寂れたパイプの表面を這っていく。その肘を圧迫する痛み、そしてパイプの感触が、突然、消えた。
ふっ、と肘を支えていたものがなくなり、見えぬ暗がりに腕が投げ出される。その先は下へと折れていた。そのまま上半身もバランスを崩し、煤のせいで堪えることもできず滑り落ちる。
壁についた煤が舞い、煙となる中で、ロペは目を硬く閉じた。そして数秒もしない内に、衝撃が彼の身中に響き、灰が肌の表面を覆うのがわかる。
瞼の裏からでも、橙色の光が見えた。目を開けると、まず燭台があるのがわかった。それはロペが今まで踏んだことのない紅いビードロの絨毯を照らし、部屋の真ん中に置かれた、人ひとりにはあまりに大きすぎる寝台まで儚い光を投げかけている。そして、そこに腰かけた少女さえも。
歳は12くらいだろうか、共和国にも、大陸にもいない血だ。曲線が少なく、まだあどけない顔、蜜蝋を重ねたかのような肌。
そして、じっとりと吸い込まれるようであり、周囲の闇とは交わらない、黒。黒色の髪、黒色の瞳、黒色の、奇妙なドレス。それは足元のビロードよりも、レリーフを持つ燭台よりも、光を放っているように見えた。
少女が動き、目をこちらへとむける。ロペは少女と目を合わせる。そして、額を灰の中につけた。
彼はただただ、名も知らぬ少女に謝っていた。許しを乞うていた。汚い身でこの部屋に現れたことを。絨毯に灰で汚したことを。静寂を乱し気分を害されたことを。そして乞うた、決して、娼館のオーナーに告げないでくれることを。
少女がこの娼館の何なのか、そんなことを彼はまるで考えていなかった。彼には、依然貴人の応接間を煤で汚した友人の末路しか考えられなかった。年端もいかない少女は寝台から立ち上がる。ロペは暖炉の中に後ずさり、頭を下げ続けた。言わないでください、言わないでください、少女が少年の前に立ち、屈むのがわかる。お願いです、どうか――――。
冷たく、濡れた感触が、彼を黙らせた。驚き、彼は顔を上げる。
「煤まみれ、それに、傷だらけ―――」
少女はそういうと、濡らしたナプキンで、たしかに黒ずんだロペの顔を、撫でるようにそっと拭っていく。ガスで熱され、乾ききった肌に、心地よい冷たさが浸透していく。
それはナプキンによるものでもあり、頬にじっと肉薄した、小さな掌から際立って感じるものでもあった。
「熱いだろうに、なんで暖炉の中にいるの?」
少女の声はあどけなく、しっとりと水に浸されたようなものだった。ロペは今になって、眼前の少女の小ささを知った。そして、胸中にある何かの糸が切れて、言葉が出る。
「仕事、だから」
少女はそう――とだけ答え、翻る鴉の羽の様な、目の淵を彩る睫で瞳を隠す。
「私も、これから仕事」
ガタン、と扉の向こうから音がした。床を打つ靴底の音だ。その音に少女は電流が走ったかのように反応する。彼女はすぐさま、ロペの腕を強くつかみ、部屋へと引っ張った。
ロペは絨毯に灰の後をつけるのを畏れたが、少女は強く強く引っ張る。途中、彼女はグラスに入った氷の山から一つを掴む。
彼女は首をせわしなく動かし、部屋のあちこちに目を走らせた後、ロペを扉の脇、蝶番の横に立たせた。彼女は顔と顔とを近づける。
「扉があいて、人の背が見えたら、静かに、振り返らず、そのまま廊下へ出て行って。最初の突き当りを右にいったら、階段があって、一階まで下りれば裏口にはすぐだから」
ロペの手を、冷たい感触が覆う。彼女の手が彼の手を包んでいた。そしてそこには、ナプキンでくるまれた氷のかけら。
「―――がんばって」
少女が、泣き出しそうな表情で、熱のこもった言葉を継げる。靴音がすぐ扉の向こうまで来ている。彼女は扉から離れ、暖炉へ向かう。
金細工のドアノブが音を立てて回り、扉が絨毯を擦って開いた。ロペはすでに一歩踏み込んでいた。扉を隔てて、灰色髪の頭が見える。狼の毛がついたローブの背中が見える。ロペは踵からつま先へ、意識を集中させ、滑るように男の背後をくぐり、廊下へと抜ける。
思わず、振り返っていた。振り返らずにはいられなかった。廊下から見た扉の向こうでは、こちらへ目をやらず、うつむいた少女と、後ろ手で扉を閉める女衒。そして、すぐに何も見えなくなった。
ロペは、言われた通りに、白熱電灯に絶え間なく照らされる廊下を進む。その手の内には、手の熱でだんだんと水に変わる氷があった。握りしめても、不思議と冷たくない。氷同様、手も冷たいから感じないのだ。体が冷え切っているから、感じないのだ。
少年はその時、初めて、自分が寂しかったのだと気づいた。
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