第57話 汚された名を捨て、弱い自分を絞め殺して生まれ変わって、果たせなかった血讐《ヴェンデッタ》を代わりに成し遂げてやると
死人のようだったヴェンデッタの頬に、不自然な赤みが戻ってきた。
「母の死が、私に果たすべき使命を教えてくれた」
肩を揺らし、低く笑い出す。
「サヴィス家の娘は、もうこの世にいない。母を死なせ、兄を罪に走らせた愚かで非力な娘など、必要ない。その代わり、汚された名を捨て、弱い自分を絞め殺して生まれ変わって、果たせなかった
こぼれんばかりにはだけた胸元から、黒薔薇の刺青に隠されつつも隠しきれない古傷が見えた。
花びらのように赤く、黒く。決して消えることのない深い傷が。
「母を死なせたレグラムも、レグラムを見逃し、兄を罪へと追いやったエルシリア侯も、正義面したその娘も、貴族どもの頂点に立つ国王と宰相も全員……バクラントの力を借りて戦争へと追いやり、住民もろとも皆殺しにしてやると誓った……!」
ふいに、ヴェンデッタは息を深くついてレグラムを見下ろした。
手にした銃をだらりと下ろす。
銃口が、明白な殺意を宿らせてぎらりと重く光った。
「だから、レグラム。おまえだけは絶対に」
名指しされ、レグラムはようやく我に返ったようだった。
「わしのせいじゃないっ」
絞め殺される寸前の豚みたいな悲鳴をあげ、床を這いずって。
船室から逃げだそうとする。
「殺す」
引き金にかけたヴェンデッタの指に、みるみる憎悪がこもってゆく。
「やめて。違う。そうじゃない」
ラトゥースは鎖を鳴らし、身体をいっぱいに引きのばして叫んだ。涙を振り払う。
「これ以上、罪を犯さないで。ギュスタがそんなこと望んでいたとでも思ってるの。お願い、分かって」
時が止まる。
白と黒のみの世界が、その場を支配していた。運命のサイコロを振る音だけが鳴り、それ以外の全てが止まっている。
罪を転嫁しようとする者。
絶望へと突き進む者。
過去に立ち向かう者。
ラトゥースの悲憤に満ちた叫びを聞いた者は、砕けた星にも似た流れ星となって、それぞれに分かたれた運命に従って走り始める。
レグラムが、豚の悲鳴を上げて這いずり逃げる。その背中に向かって。
黒薔薇──身も心も、
そして、ハダシュは。
時が動き出す。
交錯する運命の環が、周り始める。
もう誰にも止めることはできない。
ヴェンデッタは、銃を両手で構え、レグラムめがけて引き金を引いた。
銃火が爆ぜる。
同時に。
硝煙たなびく中心めがけ、ハダシュはナイフを投げつけた。白い尾を引く閃光が交差する。
悲鳴と轟音。ガラスの割れる音。煙となってふくれ上がる銃火。
何もかもが、ひどくゆっくりと回る走馬燈のようだった。
すべてが同時に、一瞬の間に起こっているはずなのに、状況を知覚する意識だけが加速。
さながら紙芝居をめくるかのように、場面だけがコマ送りのように切り取られて見える。
ヴェンデッタの手から銃が弾け飛ぶ。
ハダシュの背後で、吊りランプが粉々にくだける。
燃えるガラスとブリキの部品が飛び散った。
脂が床にこぼれた。油染みを追って、導火線が赤い弧を描く。火の波が同心円状に広がる。
黒煙が噴き出した。一気に壁へと燃えつく。炎の舌が天井へと移った。
ヴェンデッタは、言葉にならない恨みの叫びを放った。
ナイフの突き立った手首を押さえる。
よろよろとたたらを踏み、身を折って、憎悪の眼差しで吹き飛んだ銃の行方を探す。
血にまみれた銃が、金属質の重たい音を立てて床に落ちた。跳ねる。
ハダシュは、呆然と片膝を折った。
左腕が動かない。心臓に近い肩の部分を押さえた手の下から、焼けこげた臭いと、今はまだ麻痺した感覚とともに、血の色が広がり始める。
そのかたわらを、ただ一人難を逃れたレグラムが、四つん這いで逃げていった。恐怖に足をもつれさせ、恥も外聞もない悲鳴と小便とをまき散らしながら這ってゆく。
ヴェンデッタが一瞬、張り裂けそうな眼差しをハダシュに走らせる。
だが、それだけだった。
腕に突き立ったナイフを抜き、投げ捨てる。
返り血が法外に振りまかれた。
構わず銃を拾い、顔をゆがめながら、ふらつく足取りでレグラムを追う。
「逃がさない……絶対に、殺す……!」
吐き捨てて、姿を消す。
火と煙が、船室に立ち込め始めていた。
「ハダシュ、ハダシュ」
ラトゥースのうわずった悲鳴が、気づけば何度も頭上を通り抜けていた。
ハダシュはようやく現実に引き戻された。ぐらつく頭をもたげる。
「死んじゃいやぁ……!」
「死んでねえよ」
ハダシュは、荒い息を振り散らして笑った。
「おまえが無事でよかった」
「人の心配してる場合じゃ……!」
ラトゥースが、涙まじりに鎖を鳴らして叫ぶ。
ハダシュはかすむ片目で斜にすがめ見た。
「素っ裸で偉そうな口を利くなよ……」
「それどころじゃないでしょ……ケガっ……ケガしてる……! 撃たれた……!」
「この調子だと、無事に脱出できたとしても間違いなくあの女軍人にぶっ殺されるな」
くすぶる煙に咳き込み、そのたび噴き出す血に顔をゆがめる。
ハダシュは手近にあった道具を使って木壁に打ち込まれた拘束の金具を叩き壊した。
たとえどれほどの苦痛であっても、ハダシュが今まで人を殺めるのに使ってきた毒の刃で刺されるよりはずっと痛くないはずだった。
ようやく解き放たれたラトゥースは、そのままの姿でよろめいて倒れ込んできた。ハダシュはかろうじて動く右手一本で受け止め、抱き支えた。
「ハダシュ……ハダシュ……!」
「痛いんだが」
「ばかっ……どうして、どうして、勝手に、馬鹿なことばっかり!!」
「どっちがだよ。それより火が回りだしてる。おまえは先に逃げろ、クレヴォー」
「いやだ」
ラトゥースは悲痛に首を振った。金髪を乱して、ハダシュに取りすがる。
「いやだ。ハダシュも一緒に逃げて」
ハダシュはかぶりを振った。
「俺はあいつを止めに行く」
「無理よ。黒薔薇だけじゃないわ、確かめたの……!」
赤く渦巻く炎と煙が、美しい裸身を汚す黒い影となって、ラトゥースの愛おしい姿を浮かび上がらせていた。
煙を吸い込んだのか。息が荒くなる。
「いいから来い。逃げるぞ」
燃え上がる火に追い立てられる。
最後まで言い切れないまま、ハダシュはラトゥースと互いに支え合って、通路へとまろび出た。
火は床をつたい、壁をつたい、赤黒い竜の舌のように周辺を舐めつくしていた。
もう、天井にまで達している。
煙に追われ逃げまどう娼婦や乗組員たちが、狭い昇降口に詰めかけていた。はしごの前で押し合いへし合いし、我先にと登ってゆく。
「上甲板に上がって海に飛び込め。船が沈むより先にできるだけ離れるんだ。さもないと渦に巻き込まれる。俺はヴェンデッタを追う」
「だめ、泳げない……無理よ……」
「それでも逃げろ」
ハダシュは落ちていた女物のガウンを拾い上げた。
逃げた娼婦が拾い忘れたものだろう。汚れをはたき落として、ラトゥースに押しつける。
「逃げるんだ。分かったな」
ラトゥースは雷に打たれたように立ちつくした。渡された服さえ受け止めかねて取り落とす。
「馬鹿、着ろ。丸見えだぞ」
ラトゥースはハダシュの腕を迷子のようにつかんだ。
「いやだ」
せっぱ詰まった涙声が追いすがる。
「あなたが行くなら私も行く。一緒に行く。行かせて」
「だめだ」
だがどんなに押しやろうとしても、ラトゥースは頑としてハダシュから離れようとしなかった。
「ハダシュの馬鹿。嘘つき。そうやってまた私を置いていくつもりなんでしょ」
ラトゥースは、今にも消え入りそうな声でうめいた。
「ひとりで行っちゃいや。もう、二度と、私をひとりにしないで」
ハダシュはラトゥースの思いに胸をつかれた。揺れ動く瞳に見つめられ、射すくめられ、声もなく立ちつくす。
本当は。
手を伸ばし、その涙にむせんだ頬に触れ、引き寄せたかった。いっそ猛る思いのままに受け止め、抱きしめてやりたかった。
だが。
できない。できるはずもない。
ラトゥースを取り戻すために、ローエンを殺した。ラトゥースを守るために、ヴェンデッタを殺すと誓った。今もまた、何人も見張りを殺した。
そんな禍々しい手、血と罪にまみれた手で恩着せがましく抱きよせるなど。
おこがましいにも程がある。人殺しに人が救えるはずもない。思いに応えるなど、できるはずもなかった。
「勘違いするな。誰が死にに行くと言った」
ついにハダシュはラトゥースを乱暴に押しやった。衰弱しきった身体がよろめく。
「そんな顔をするな。俺はどこにも行かない。必ず戻ってくる。お前の言う
たとえ、それが口から出まかせのうたかたの夢だったとしても。
それでもまだ、平然と笑ってみせるだけの矜持は持ち合わせている。
「だから先に脱出しろ。必ず、戻る」
一歩下がって、ラトゥースから離れる。
ハダシュは、床に散る黒い血の跡を振り返った。
それは、途切れることなく船首側の闇へと続いている。
火の爆ぜる音がして、天井が割れた。火のついた木材が崩れ落ちてくる。
「ハダシュ、危ない……っ!」
ラトゥースがぶつかるようにして飛びついてくる。
二人いっしょにかばいあい、抱き合って床に転がる。
頰を焦がすほどの熱風が吹きつけた。黒衣の天使めいた形の影が踊り狂っている。火の粉が飛び散った。
今までハダシュが立っていた場所は、一瞬で炎の壁に変わっていた。一秒でも遅れていれば、炎に行く手をふさがれ、脱出すらできなくなっていただろう。
ハダシュは呆然とつぶやいた。
「……無茶しやがって」
「どっちが」
ラトゥースは、見るのも痛々しいほど息をあえがせていた。
腕を引いて、立ち上がらせる。
「今の俺じゃ、おまえを守ってやれない。それでもいいのか」
「自分の身ぐらい、自分で守れるわ……」
「だったらまず服を着ろ」
ラトゥースはあわてて服を羽織った。適当な靴を拾って履く。
炎にいろどられた影が、壁に、床に、天井に、伸び縮みしながら乱舞している。
どこかで柱の折れる音がした。悲鳴のようだった。
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