第43話 俺なんか元よりあの人に選ばれるはずがないのに、もしかしたら、なんて
一瞬。
閃光めいた失神の感覚と同時に、天井が見え、床が見え、くろがねの薔薇が花咲いて見えた。鉄の匂いが飛び散る。
全身が強く床に打ち付けられる。意識が引き戻された。ハダシュは喉に食い込んだ縄をむしり取った。身を折り、激しくむせる。
背中の硬い感触が、床に転倒したことを教えていた。首を吊っていた縄がいつの間にか切れている。
ぼた、ぼた、と。
雨漏りにも似た、重い水の音がした。
「なんで。どうして」
ローエンが後ずさった。背後にあった棚にぶつかる。横板がはずれた。積み重なっていたがらくたが転がり落ちる。
打ち捨てられた古い廃材が、次々と床に跳ね、倒れ、凄まじい物音を上げながら砕けてゆく。まるでローエン自身が壊れてゆくかのようだった。
「そんな奴のために、あんたが、」
床に、ぼとり、と、赤いしずくがしたたり落ちた。また一つ。さらに二つ。みるみる飛沫が大きくなる。
ハダシュは呆然とヴェンデッタを見上げた。袖が裂けてちぎれている。手袋も同じように裂けていた。血まみれになったナイフの切っ先が、ヴェンデッタの手の甲を深々とつらぬいている。
ヴェンデッタは、葡萄色の唇を苦悶の形にゆがめた。自らの手に突き立つナイフを引き抜く。血が法外にあふれ、大粒の雨のようにハダシュへと降りかかった。血だまりが広がる。
「言ったはずよ。私にはハダシュが必要だと。それは、今も同じ。でも」
低い声に、ハダシュもローエンも息を呑む。
ヴェンデッタは掌から流れくだる血の色に、絶望にも似た微笑を向ける。
「かつてのあなたからは、血の臭いがした。ぬぐってもぬぐっても取れない殺戮の匂い。血を吸ったナイフにだけ映る、うつろな微笑み。満たされぬ世界にあって、どれほど憎んでも愛しても決して飽きたらぬ深い闇と強い輝き。やっと運命を見つけた。あなたなら、きっと。……そう思ったのに」
ゆっくりと語るその語尾に、しずかな、だがつんざくような恐ろしい響きがこもった。
「でも今は、あなたの弱さがあまりにも憎い」
ヴェンデッタは編み上げヒールのブーツを履いた足を上げ、つま先でハダシュの顔を力任せに踏みにじった。
「この程度の思いが、あなたのすべてだったなんて」
激情の海に引きずり込まれ、ハダシュは辛苦の呻きを上げた。
「全てを奪いつくしてやりたくても、あなたは何ひとつ持っていない。踏みにじってもずたずたに傷つけても、あなたは何も無くさない。自分の価値さえ分かってないくせに、自分を棄てたつもりになって酔いしれている。守るべきものが何かすら分からない、からっぽの、骨抜きの、腰砕けの、卑怯者。だから、そんなにも弱いのよ」
ヴェンデッタは一瞬のきらめきを凄まじく眼に宿らせてから、ローエンの足下へナイフをなげうった。
とてつもなく無機質な、軽い音が響きわたる。
「私が失ってきたものを、あなたにも教えてあげる」
ローエンは震えた。
全てを失った眼が、つい今しがたまでの彼自身に似たナイフの切っ先を呆然と見つめる。
「始末しなさい」
残酷な微笑みを最後に、ヴェンデッタはきびすを返した。
「……私が欲しいのなら、ね」
ローエンの顔色が変わった。
「終わったら来て。明日の朝。《暁の港》で。いいわね」
そっけない言葉だけを残し、立ち去る。後には、点々と落ちる黒い薔薇の花びら。血の残り香だけが漂った。
詰めていた気息からようやく解き放たれ、ローエンはよろめいた。
「俺が、あの、ひとを、刺し……!」
がくりと両膝をつき、床のナイフに震える手を伸ばす。糸の切れた人形のようだった。ナイフ一本握ることができず、拾っては落とし、落としてはまた手を伸ばして、そのたびに、嗚咽する。
「目を覚ませ、ローエン」
ハダシュは息を乱し、ぬめる床に手を突いてあえいだ。腰から下が土になったような気がした。おそろしく重い。そして、だるい。
「あの女はお前を利用してるだけだ」
刹那、ぎらりと走った追撃の目にハダシュは気を呑まれる。
声が続かない。
ローエンは立ち上がり、扉へと倒れかかった。
両手で包み込むようにして持ったナイフを、だらりと身体の前にさげる。
「あのひとの考えることぐらい、もとより分かってる」
倦んだ様子でつぶやく。声が熱を帯びて震えた。
窓の外の雨が、ふいに音を高くして降りしきった。
その合間から、とぎれとぎれにラトゥースの声が伝わってくる。
おそらく、このやぐら内部のどこかに閉じこめられているのだろう。
虚しく壁を蹴る音、涙混じりのかすれたさけびが胸を打った。
それは助けを求める声ではなく、ハダシュを心配し、無事を確かめるための声だった。自分自身ではなく、ハダシュを。仲間を。守るべき理想を。正義を。
守るために。
「ガキん頃は、悪くねえダチだったよな、俺たち」
ローエンもまた、叫び声に気付いたようだった。視線を、扉の向こうの階下へと走らせる。
「クズはクズ同士、うまくやれると思ってた。でも、そう思ってたのは俺だけだった。うだつの上がらねえチンピラが、身の程もわきまえずに女に口説かれて組織を裏切ったつもりが」
ローエンはナイフを手にしたまま、呆然と泣き笑った。
「お前をおびき寄せる
ハダシュはローエンを見つめた。
何も言えない。何も言うことはない。
分かっているのは、もう二度とあのころには戻れないということだけだった。
ハダシュがどんな選択をしようと、それはローエンの自負を傷つける。
「それでも、俺にはもうあのひとのところ以外、戻る場所がねえんだ。お前を殺せば、あのひとは、俺を
声がみるみるつり上がって裏返る。切り裂かれたような叫びだった。
「そうだろハダシュ。そうだって言え」
ローエンは体中から危険な熱気を放ち、ハダシュにつかみかかった。
よろめいて飛びのくハダシュの足に、積み上げてあった古網がもつれた。たまらず平衡を崩した。仰向けにのけぞって倒れる。
「死ねよ」
ローエンはのしかかってハダシュの肩を手で押さえた。頭上に高くナイフを振りかざす。
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