8.終わりなき絶望の輪舞曲

第40話 かくれんぼの時間だ

 雨に打たれた水面から、白煙がふきこぼれる。


 二つの眼が凄絶にぶつかりあった。一瞬の睨み合い。

 凶悪な笑いを放ったローエンは、身をひるがえしてラトゥースへと襲いかかった。


 想定外の動きに、ラトゥースは顔をこわばらせた。銃の引き金にかけた指の力が入る。だが。

 何度引いても反応がない。弾を撃ち尽くしたのか。

 手応えがないにも関わらず、無駄に何度も引き金をはじく。

「嘘っ、そんな、どうして……」

 黒い影が眼前に迫る。ローエンはラトゥースの銃をむしり取った。高々と振り上げる。


 悲鳴が、豪雨に呑み込まれた。水面に反射する光。コマ送りめいた殺意の影絵。


「やめろ」

 ハダシュの喉から、慮外の叫びが漏れる。

「やめてくれ……!」


 それは、今まで一度も感じたことのない感情。誰かが傷つくことへの恐怖だった。


 ローエンはハダシュの反応を見計らってから、ニヤリと歯を見せて笑った。

 ラトゥースを力任せに殴りつける。


 鈍い音がした。細い身体が声もなくのけぞる。

 棒のように倒れ込む寸前。ローエンが髪の毛をつかんだ。残酷な力で引きずり寄せる。

 ぐらぐらと顎をそらし、意識もないラトゥースの身体を腰抱きにして。

「一歩でも近づいてみろ。この女の命はないぞ」

 こめかみに銃口を突きつける。けたたましく笑う。

 狂気と血と唾の混じった雨が、口元をつたい落ちた。


「脅しのつもりか」

 ハダシュは白い息を吐いた。

「そんな、弾切れの銃で何ができる」

 強がっても何の役にも立たなかった。自分でも声が波打っていると分かる。


「はっ、お笑いぐさだな。蛇蝎だかつのごとく忌み嫌われた殺し屋が、小娘の命乞いとは」


 ローエンは、野獣のようにあえぎ笑った。じりじりと後ろに下がりながら、銃でラトゥースの横顔を粗暴に小突く。


「おっと、動くんじゃねぇ。一歩でも近づいたら、この女のションベンくせえ横っ面を、二目と見れねえグッチャグチャにしてやるからなァ……!」


 ハダシュは奥歯を噛んだ。

 拳が震えた。深呼吸する。腹の底に憎悪が煮えたぎった。

 本来なら、手負いのローエンなど、赤子の手をひねるも同然の雑魚にすぎない。一瞬で殺せる。


 ラトゥースを見殺しにさえできれば。


 無様だった。身動きひとつ取れない。このままどうなってもいいのなら、後先考えずに殺れる。ラトゥースの笑顔が二度と見られなくなってもいいのなら。あの、純粋な笑顔。いたずらな微笑が。二度と──


 ローエンはげらげらと笑い出した。嘲笑だった。さらに後ずさってゆく。

「最高だなァ、おい!? さあ、ゲームを始めようぜ? かくれんぼの時間だ。動くなよ? 十数えてからだぞ? ひとーつ……ふたーつ……もういいかい? まーだだよ……おい、動くなって言ったろうがブッ殺すぞ女を!」


 奥歯が、ぎりぎりと耳の内側で削れてゆく音を立てた。

「てめえ……どういうつもりだ」


 けぶる雨の中、意識のないラトゥースを脇に抱えて。黒い姿が先を駆けてゆく。

 ローエンはさびれた櫓の前で立ち止まった。半ば朽ちて破れた木戸を前に、わざと振り返り、ハダシュと目を合わせる。


「よし、いいぞ。さあ、来い、ハダシュ。せいぜい楽しもうぜェ……!」


 ハダシュは雨を蹴散らして後を追った。

 木戸を蹴破る。木っ端が散った。

 ふたつの足音と、乱れた呼吸がもつれ合って反響した。かすかな灯りだけを頼りに、狭い螺旋階段を上へ、上へと駆け上がってゆく。


 逃げるローエンの足音だけが頼りだった。頭上のどこかで、乱暴に扉が閉じられる。

 周囲が闇に落ちた。


 ハダシュはつんのめり、我に返った。

 闇。

 今までは、階段のどこかに誘蛾のごとき灯があった。道をしらせるかのごとく、点々と、灯りが。


 平静を取り戻し、息をつく。

 これは罠だ。ハダシュは自嘲の笑いを浮かべた。

 そんなことは最初から分かっている。


 階段を上りきった突き当たりに木の扉があった。

 気配を探り、息をとめるなり。渾身の力を込めて肩でぶち当たる。ちょうつがいが弾け飛んだ。中に転がり込む。

 体勢を立て直し、身構える。


 中は、ほのかに明るかった。壁掛けの錆びたランプが、脂臭い煙をくすぶらせている。

 正面には割れたまま暗黒へと通じる窓。雨が斜めに降り込んで、床に黒い滲みを作っている。


 誰もいない。肩すかしを食らって唖然とする。


 床に目を移すと、足の踏み場もないほど乱雑になげうたれた古い漁網。ぐるぐる巻きのロープ。壊れたブイ。割れたランプのかさ。赤茶けたもり。鉛のおもり。折れたかい。つぶれてねじ曲がった鋤簾じょれん。無数の蛸壺たこつぼ

 踏みつぶされた青緑と茶色入り交じるペンキのバケツには、汚れた刷毛はけが逆さに突っ込まれている。

 ありとあらゆる漁具のがらくたが、雑然と部屋の隅に積み上がっていた。

 それらは一見、長い間、誰も出入りがなかったと見せかけるかのようだったが。


 先ほど無我夢中で追ってきたはずの螺旋階段を、上ってくる足音が聞こえた。

 いったい、すれ違ったのか。腹の底が急激にちぢんで冷えた。


 一歩、また、一歩。

 床板が軋み、残酷な靴音が響く。


 ハダシュはゆっくりと振り返った。

 なぜか、穴蔵のような酒場が懐かしく思い出された。

 遠い昔。こんな雨の日はしけた《客》ばかりで稼ぎが悪いと口汚い文句ばかりを垂れていた、どこにでもいる、そして、今はどこにもいなくなってしまった、泥臭く、青臭い、二人組の悪たれ坊主ども。


 階段を上がってきたローエンは、壊れた扉の横で立ち止まった。

 壁に肩でもたれて、かろうじて身体を支えている。血の気の失せた顔だった。息をつくたび、死臭が漂う。


 ラトゥースの姿はない。


「クレヴォーはどうした」

「……あんな上玉の女を殺すほど落ちぶれちゃいねえよ」


 ハダシュはローエンと正面から向き合った。


 にじむ血が、黒々とおそろしいかたちに包帯を染めている。瀕死の喘ぎばかりが聞こえた。もしかしたら、もう、まともに立っていられないのかもしれなかった。

 吐息に嗅ぎなれた腐臭が混じる。

 甘い、堕落の匂い。


「ローエン、大丈夫か」

「殺しにきといてそれはねえだろう」


 すかさず当然の嘲笑が返る。

 ハダシュは口をつぐんだ。ローエンが笑い出した。おかしくてたまらないといったふうに身を折り、腹を抱え、ときおり痛みにはげしく顔をゆがめながら、それでも笑っている。


 ハダシュは、よろめくローエンの胸ぐらを猛禽のようにつかんだ。

「おい、クレヴォーはどこだ」

 ローエンは答えない。脂汗の浮いた苦痛の顔で、揺すぶられながらもまだ笑っている。


 何の予兆もなかった。突然、背後から降ってきた投げ縄に首を狩られ、ハダシュは大きくのけぞった。払いのける間もない。

 体勢を崩したところに足払いを掛けられ、一気に引き絞られる。


「本当に馬鹿なのね、あなたって」

 上気しきった女の声が、鼓膜に突き刺さった。

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