第13話 夕焼け空がまぶしい。忌々しいほどに
「うるせえ、黙れ。話しかけるな」
ラトゥースはたちまちむすりとくちびるを尖らせた。
「せっかく治療してあげたのに。何その言い方」
「勝手にそっちが絡んできただけだろうが。誰が治療しろと頼んだ」
さらに言いつのるかと思いきや。
ラトゥースは唐突に口をつぐんだ。
「……本当にひどい怪我だったのに」
言い放つなり、断ちきるように背を向けてしまう。
ハダシュはたじろいだ。
ラトゥースはうつむいて机に手をついたまま、じっとして動かない。
風もない。人気もないせいか、外の物音すら聞こえなかった。
ハダシュはベッドから身を乗り出そうとして、また唸った。謝るべきか、それとも。まんじりともせずにただ黙り込む。
「ま、いいか」
ラトゥースは顔を上げた。
「それもそうよね。確かに恩着せがましいのはよくないわ。いけないいけない、気をつけなくちゃ」
ローブの裾をふわりとひるがえらせて振り返る。微笑みが戻っていた。まるで猫の目のようだった。ころころと表情が変わって、そのどれもが万華鏡のように驚きの連続だ。
「そうそう、怪我と言えばその背中だけど」
もう完全に話題が変わっている。
高低差の激しさにハダシュは今度こそ呆気にとられた。
先ほどの落胆は何だったのか、などと思う間もない。
ラトゥースは無防備な少女よろしくハダシュの傍へと近づいてきた。
「見せて」
とっさにあからさまな嫌悪を浮かべて身を引く。
「何よ、逃げなくてもいいでしょ」
ラトゥースの頬に、皮肉な笑みの影が落ちた。
悪戯なまなざしが、肩から背中へと続く異様の刺青に向けられている。
「見るんじゃねえ」
ハダシュはいらいらと遮った。
「別に何もしないってば」
ラトゥースはひょいと指を伸ばして肩の刺青に触れる。
思わず振り払う。
荒らげた声に怖れが混じっていた。それを気取られまいと、ハダシュはなおのことラトゥースを拒絶する。
「触るな」
「違うの。刺青じゃなくて。治療跡のほう」
「うるせえ」
刺青のことなど考えたくもなかった。
「怪我の治療を、今まで自分でしてたかどうかを知りたいの」
ほっそりとした指先が肌に触れる。
「身体中、古傷だらけなわりにはね。こっちの新しい傷はきれいに消毒されてるし、もしかして、かなり腕の良いお医者様がお知り合いにいらっしゃったのかしら、と思って。だとしたら……あれ、怒っちゃったかしら」
ラトゥースは笑いかけながら、今度はなれなれしくベッドに腰を下ろして、足の傷に目を近づけた。
包帯をわずかにずらし、傷の具合を確かめている。
ハダシュは憎々しい視線をラトゥースへ突き刺した。
「シェイルが言うには、骨は折れてないんですって。でも本当にひどい傷だったし下手に動きまわって悪化したりするといけないから」
そっと愛おしみ撫でるように手で触れ、そのまま顔だけを上げて人なつっこく微笑む。
「いろいろ気になることはあると思うけど、それは全部横に置いとくことにして、今はここで安静にしてて欲しいの。傷さえ何とかなれば、後のことは後で考えればいいから。ね? で、あなたの名前は」
水ぬるむような、春の陽射しにも似た金色の髪。
穏やかな声につられ、ハダシュはつい口を滑らせた。
「ハダシュだ」
言ってしまってから、ハダシュは自分を呪った。
よくもこんなばかばかしい誘導尋問にのせられたものだ。
よほど気がゆるんでいたか呆けていたに違いない。
「ハダシュ、か。南国風の素敵な名前ね」
当のラトゥースは得られた成果にこのうえもない純真な微笑で応え、ベッドからひょいと降りた。
のんびりとしらじらしく窓縁に手を付き、暮れなずむ空を振り仰いでみせたりしている。
「……ありがと、信じてくれて」
他愛なく振り返って言う。
心底、嬉しそうな笑顔だった。
ハダシュは舌打ちした。夕焼け空がまぶしい。忌々しいほどにまぶしかった。
ラトゥースは帰る様子を見せた。空のカップを拾って窓辺から離れてゆく。
「明日もお天気だといいわね。では、またね。ごきげんよう、ハダシュ」
茜色の空にかすれ雲がたなびいている。
出港を知らせる銅鑼が鳴る。海鳥が啼いて、飛び回っている。
返事の有無はもはや大した問題ではないようだった。ラトゥースは軽く小首を傾げると、にこにこ笑いながら目の前を横切った。
微笑みの横顔が目に焼き付く。
ハダシュは視線でラトゥースの後を追った。頭の後ろでひとつにまとめられた淡い金髪が風を含んでかろやかになびく。違う世界の人間。
去り際にラトゥースはもう一度、唐突に振り返った。
「また来るから安静にしててね」
手袋をはめた手をちいさく振って、しとやかに笑う。
柔らかく宙に遊ぶ毛先が光に透け、うっすらと色づいた淡い影を肩に落としていた。
薄い扉がラトゥースの無防備な背中を飲み込んだ。立て付けの悪い音とともに閉まる。
あとに残ったのは、ぽつねんとした疎外感だけだった。
ベッドのシーツが夕日に赤く染まって光っている。
ラトゥースのいない部屋は妙に静かで、無駄に広く感じられた。やがてハダシュは居たたまれなくなり、自嘲のためいきをもらした。
「捕まっちまうとはな、この俺が」
穏やかな口調の相手だからといって、味方とは限らない。
おいそれと他人を信用できる状況ではなかった。
そう考えれば、丁寧に施された治療でさえ、何かしら別の悪意を持つかのように思えてくる。
自由を奪うが如く身体中をがんじがらめにした包帯、意識を混濁させる痛み止めの薬。すべてが、身の安全をゆだねるには危険すぎる現実を暗示している。
ラウール配下の殺し屋だと知れれば、たちどころに自警団の衛士がなだれ込んでくるだろう。
あるいは敵対する勢力、今まで手にかけてきた相手の仲間。ジェルドリン夫人の配下。そういった連中がいつ何どき報復に現れるやら分からない。
だがラトゥースは、また来る、と言った。
投獄するため人を呼ぶならまだしも、また、来ると──
そこで、我に返る。気を許しそうになった自分が、馬鹿に思えた。
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