第14話 彼の帰郷
昼前に南禅寺先生と別れた後、僕は一度自宅へと戻った。
昼食だけ食べてそのまま大学に戻るつもりだったのだけれど、帰り道で浴びた夏の日差しに体力を奪われたせいか、食事を終えるとそのままベッドで眠り込んでしまった。
薄暗い部屋で目を覚ますと時計はすでに午後6時を指していた。僕は思わず舌打ちをした。しかし、よくよく考えるとそれほど悪くないような気がしてきた。
どうせ烏丸先輩は深夜近くにならないと研究室には現れないだろう。夏休み期間中は特に決まった時間に大学に行く必要もなかったので、今から研究室に行って仕事をしながら烏丸先輩を待てばいい。それにひょっとすると南禅寺先生がすでに術式並列化用ライブラリにアクセスするためのキーを送ってくれているかもしれない。
そう考えた僕は自転車に乗って大学へと向かった。
昼間のギラギラした日差しはすでに影を潜め、太陽はゆっくりと西の空に沈もうとしていた。茜色に染まった空とどこからか聞こえるひぐらしの鳴き声は徐々に近づく夏の終わりを感じさせた。川沿いを自転車で走ると湿気の混じった生暖かい空気が僕の頬を撫ぜた。
大学の駐輪場に自転車を止めたときにはすでに辺りは薄暗くなっていた。
ちょうど研究棟の入り口から中に入ろうとしたとき、廊下の奥から白い影がこちらに向かって駆けてきた。白いノースリーブのワンピースを着た北条さんだった。
北条さんは僕の前まで来ると息を切らせながら立ち止まった。僕は南禅寺先生と会ったことを話そうとした。
「ああ、北条さん。術式並列化の話なんだけど……」
「渡辺くん! 今村さんが帰ってきたの!」
「えっ?」
突然の言葉に何を言っているのかわからなかった。
「隣の研究室の同期の子が見たって! 時計台の近くを歩いてたらしいの。間違いないって」
北条さんが早口でまくし立てる。時計台といえば大学の敷地の中央に位置する本部校舎だ。
「でも、今村さんって……」
「やっぱり大宮さんの言う通りだったのかも。きっと夏休みで帰国したんじゃないかな。でも、帰ってるならなんで研究室に顔を出さないんだろ」
弾んだ声で話す彼女を見ていると、とても「見間違いじゃないのか」とは言えなかった。
「わたし、ちょっとそのあたりを見てくる!」、彼女はそう言うと笑顔で外に飛び出していき、そのまま薄暮の闇に消えた。
僕は彼女の後を追いかけようとしてやめた。よく考えれば、僕は今村零士の顔を知らなかった。それに、今村零士と再会したときの北条さんの顔を僕は見たくなかった。そして、そんなことを考えてしまう自分にも嫌気が差した。
そのまま研究室に行くと自分の席に座ってPCの電源を入れた。メールボックスには南禅寺先生のところの技術秘書さんからのメールが届いていた。メールには術式並列化用ライブラリのダウンロードの仕方から使用方法まで細かな説明が書かれていた。僕はそれを読み下そうとしたが、さっきの北条さんの笑顔を思い出すと胸の奥に異物を飲み込んだような感じがして、なかなか内容を理解することができなかった。
1時間ほどすると、北条さんががっかりした表情で研究室に戻ってきた。
「見つからなかった?」
「うん……」
「帰ってきたばかりでいろいろ忙しいのかもしれない」
「……そうだね。研究室には明日以降に顔を出すつもりなのかも。私は今日はもう帰るね」
「うん。お疲れ様」
彼女は話しながら自分のデスクに置いたトートバッグを手に取ると帰り支度を始めた。
「そういえば、さっきなにか言おうとしてた?」
荷物を持って研究室から出ようとした北条さんは、突然、思い出したように僕の方へ振り返った。
「いいよ。その話はまた明日で」
「そう。じゃあ、おやすみなさい」
そう言って彼女は帰っていた。
僕は一人、デスクに座って考えていた。当初は烏丸先輩に今村零士の研究について聞こうとしていたのだけれど、もし本当に今村零士が帰国したのであれば、本人から直接聞くのが一番良いのかもしれない。しかし、それはなんだか気が進まなかった。
おそらく僕が彼に研究内容について尋ねれば、彼は自分の表向きの研究内容について説明してくれるだろう。以前、彼の大学院生時代の論文を読んだことがあった。内容は黒魔法と白魔法の統一を目指した基礎研究で、野心的な内容ではあったが、僕が感じているこの不吉な感触を解決してくれるものではなかった。
しかし、本当のことを言うと僕は怖かったのだと思う。今村零士という人と会って話すことで、自分が抱えている焦燥や不安感が彼に対する嫉妬に根ざしたものにすぎないと分かってしまうことが怖かったのだ。
それ以上余計なことを考えないように、僕はダウンロードした並列化術式のドキュメントに目を移し、その中から自分の役に立ちそうな術式を探した。仕事に集中すると、胸の奥に溜まった嫌な感じは徐々に薄くなっていった。
僕がドキュメントを読み始めてどれくらい時間が経っただろう、不意にスタッフルームの扉が音を立てて開いた。振り返ると烏丸先輩が部屋に入ってきた。
烏丸先輩はぴったりとしたグレーのタンクトップに白い半袖のシャツを羽織り、太腿を露わにしたデニム地のショートパンツを履いていた。相変わらず露出を気にしない服装だったが、体に密着したタンクトップは彼女の大きな胸を普段よりも一層強調していて、そんな先輩を見ると僕はやはり目のやり場に困ってしまう。
「よっ」
烏丸先輩は僕の方に目をやるといつものように一言だけ声を発した。
「烏丸さん、ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
僕の言葉を聞くと、烏丸先輩は不思議そうな表情で僕の顔を見ながら少しのあいだ黙った。
「……ん? ん。わかった。でも、ちょっと待って」
烏丸先輩はそう言って部屋の隅に備え付けられた流し台に行くと、そこでごそごそと何かをし始めた。
気がつくと先輩は流し台の横にあるコーヒーメーカーのスイッチを入れていた。
コーヒーが出来上がるまで先輩は目をつぶって一言も言葉を発しようとはしなかった。僕もなにも言い出すことができなかった。
コーヒーメーカーがカチッと音を立てるのを聞くと、烏丸先輩は出来たてのコーヒーを二つのマグカップに入れた。先輩は二つのマグカップを手に僕の方へやってくると、そのうちの一つを僕に手渡した。
「ありがとうございます。ところで……」
「まず一口飲んで」
「……はい」
先輩はちょうど僕の向かい側のデスクの上に軽く腰をかけた。僕は先輩を上目遣いで眺めながら渡されたコーヒーを啜った。それはひどく濃いコーヒーで、ひとくち飲んだ途端に酸味と苦味が口いっぱいに広がった。
そんな僕の様子を見た先輩はふっと息をついた。
「で、どうした? きみ、今、酷い顔をしてるぞ。すぐにでも泣き出しそうだ」
烏丸先輩の言葉に僕は思わず自分の顔を触った。今、自分はどんな顔をしているのだろうと考える。なんだか情けなくなった。
「ほむらとなにかあった?」
烏丸先輩は心配そうに僕の顔を覗き込む。
「いえ、そういうわけではないんですけど……。烏丸さん、以前聞いた今村さんがやろうとしていた研究についてもう一度教えて貰えませんか?」
僕はなんとか気持ちを切り替えて烏丸先輩に尋ねた。
僕の言葉に烏丸先輩は少し驚いたようだった。
「なんで、急にそんなこと……。まぁ、いいよ」
烏丸さんはコーヒーを一口啜ると、マグカップをデスクに置いて、こう言った。
「あいつが求めていたのは、『
楽しい博士課程(後期)の過ごし方 そうる @reeler
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