16話 なぜならば、彼が彼であり、私が私であったから

「僕にだってね、言葉が万能だと信じたときがあったさ。だって言葉は、『描けないもの』さえ『書いて』しまう。けれど、所詮は有限の人間が作り出した、有限な道具だということだよ。うーん、うまく言えないけど……。


 そもそも言葉ってのは、人間同士のすれ違いを前提としたコミュニケーションツールだろう? 同じ音や同じ文字を想定して話していたって、そりゃあ相手にもおんなじ風に伝わるとは限らないのさ。『限らない』? いや、おんなじ風に伝わるなんて、『あり得ない』よ! 言葉ってほとんどの場合……誰かに伝えるために使われるものだろう? その誰かってのは、友達だったり、地球の裏側のひとだったり、未来の自分だったりするね。そうすると、やっぱりすれ違うんだよ。だから面白いんだと、思うんだけどね。


 つまり、こういうことだ。不完全で有限な、『言葉』っていう具体的な断片の中に、それを認めた人間の数をかけただけの無限の伸長が続いている。自然数を無限にかけるわけだから、やっぱりそれは無限ってことだ。つまりさ、言葉は宇宙を内包しているんだよ」


「……素敵な話だね」

「君、呆れているな」

「そんなことはないけど……」


「確かにちょっとばかし、調子に乗りすぎたや。でも、君って結構、こういう話、好きなのかと思ってたんだけど。こういう……つまりは、話し続けたってなんにもならなくって、どうしようもなくてくだらない、馬鹿みたいな『暇つぶしの話』」


「……君って、自分の好きなもの、嫌いなの? えっと、なんだか言い方が変だけど、嫌いなもののことをわざわざ話してるみたいに聞こえるんだよ、君」

「僕はそういうものが好きで、そういうものが好きな自分が嫌いなんだ」

「そう……」


「悲しい顔しないでよ。そういう僕のことなんてぜんぜん、大事な問題じゃないんだから。まあとにかくだ! どうやら世界は、君が、いや、僕らが思っている以上にややこしいらしい。ことによると……もしかしたら、もしかしたらだよ? 僕らの知らない世界では、ユークリット幾何学の向こう側で、平行線が交わるかもしれないんだからさ!」


***


 言い忘れていたことがあった。僕が彼らにはどんな風に「見えて」いるのか、という話。どうやらこの「掃き溜め」で僕のことを見つけられるのは、図書館の主人である「彼」だけらしい。つまり僕って「メタ」的な存在なんだ。要するに、僕は彼らよりもひとつ高次に存在するってこと。だから、時間軸なんかも移動できるってことなんだよ。


 そして、その「メタ」な僕に干渉できる彼は、ひとでなしと僕との間にいるような──つまり、建物で言うと二つの階の間にある踊り場みたいな存在なんだな。それついて彼に聞いてみたところによれば、僕は彼からすれば「現れたり消えたり」する存在らしい。僕はまっとうに僕自身の生活を継続して営んでいるだけなんだけど──低次元の存在ってこれだから困っちゃうよね──彼にとってはそうじゃないみたいだ。つまりね、ここからが僕が本当に言いたかったことだけど、「彼女」もまた、僕が存在するってことを知らないんだ! そう、これを一番話しておきたかった。こっちだけがあちらのことを見れるなんて、なんだか嫌な感じだと思うけど。そうなっているんだから、仕方がない。


 さて、今回の下ごしらえはこれで終わりだ。準備は全て整った! それではあなたを、僕が自ら手引いて五十番目の夜にお連れしよう。ああ、どうか、何もかもが上手くいきますように!


***


 その靴音に、僕らの胸は高鳴った。静謐なこの図書館に秩序をもたらす、体温を持った生体の証。いつだって、彼女が僕らに世界をもたらしている。


 あまりにも見慣れた姿をした彼女は、いつもの入り口からやって来た。そして彼の姿を認めるなり、その細い腕は緊迫した様子で「あの」拳銃を抜き出す。そして、それを両手で握りしめ、真っ直ぐ彼に向ける。

「あなたは誰?」

 彼は、何度も目にしてきたその「あまりにも不躾な挨拶」を、朝日の昇る教会の丘を見るような目で捉えていた。

「ねえ、きみ」

 彼が不意に話し出すから、彼女は可哀想に、驚くままにその拳銃を構える腕を震わせる。それから彼は、彼女をそれ以上怯えさせないようにと雰囲気を和らげ、ゆっくりと言葉を続けた。

「もし時間があるならさ、俺のくだらないおしゃべりに、付き合ってくれない?」


 彼は切なげに目を歪めて、けれど、微笑んでいた。もう泣きそうなくせにね。彼女は驚いたように肩をすくめる。それから彼女は何も言わなかったけれど、慎重に拳銃を懐に収めた。それが承諾の代わりだった。


 彼女は、二人の出会いを覚えていない。健気に銃口を向ける彼女を目にして、思わぬ客人に舞い上がった彼は彼女に駆け寄った。それに仰天した彼女が、彼の左肩を思わず撃ってしまったあの夜のこと。撃たれてなおも微笑んだまま、紅茶は好き? と彼が聞くから、彼女はすくんだ足でそのまま逃げ出してしまったあの夜のこと。客人を追い返してしまったことに落ち込む彼の元に、彼女がまたひょっこりと顔を出したその次の夜のことも、彼女は覚えていない。


 彼女は、見知らぬ彼の言うままに、彼のいる机のほうへと近づいていく。

「きみって、誰かと『愛』について話したことはある?」


 彼女が机越しに自分の向かい側の席に着くのを見届けてから、彼はゆったりと彼女に問いかけた。彼は──少なくとも彼は──彼女と似たような会話をしたことがあった。けれど、それは彼だけの話だった。何も覚えていない彼女は、戸惑ってから、けれど彼の言葉をちゃんと受け取って首を傾げる。


「あまりしたことはありません。ましてや、初対面のひとと、こんな……」

 彼女はそれから思わず、といった調子で吹き出した。そして次の瞬間には、はっとした様子で笑ったこと自体を恥じて、彼に謝罪の目線を送る。

「……すみません。でも、なんだか可笑しくて。……いえ、大事な話だと思います」

 彼女は、誰かのそういう気恥ずかしい話を、けれど真面目に取り合うひとだった。彼は、彼女のそういうところをよく知っていたから、ひどく懐かしそうに微笑んだ。

「よかった」

 彼は、目の前ではにかむ彼女の瞳の中に、ずっと前の夜の光景を見出そうとする。



 初めて会った時。ふたりがまともに交わした最初の会話は、ふたりの好きなお菓子のことだった。おずおずと席についた彼女を前に、お喋り相手が見つかって喜んだ彼は、机の上にシュークリームやガトーショコラやシフォンケーキを並べ立てて、あまりにも無邪気に客人を歓迎した。一向名乗ることのない彼に、彼女は先に名乗って、それから彼の名前を聞いた。彼は戸惑った。


「俺には、名前がないんだ」

 彼女のフォークが止まる。

「でも心配しないで。だって名前なんて必要ないんだ。俺のことを名前で呼ぶひとはいないから」

 彼は、誰にも名前を呼ばれないってことを、別に悲しいとは思っていなかったんだ。けれど、彼女のほうは、そのことを悲しいと思ったんだな。

「これからはぼくがあなたのことを呼びますから、何も名前がなかったら、きっと不便になりますよ」


 彼は彼女のその言葉に驚いて、同意し、それから笑った。その夜、彼女は彼に簡単なあだ名をつけてやった。可愛らしいその響きに、彼はもちろん戸惑ったし、彼女だってなんだかまずいような気もした。けれど、どちらもその呼びかわしを拒みはしなかった。だから彼女は、彼を呼ぶのにその名前を使うようになった。彼は、彼女に名前を呼ばれることを嬉しいと思うようになった。つまり、誰にも名前を呼ばれないことが悲しいことだって、思い出したんだな。


 彼に名を与えた彼女は、彼のよきおしゃべりの相手になった。それまで僕に向かってぼうっと微笑むだけだった彼は、うきうきと彼女の訪問を待つようになった。彼女が来るまでの時間は落ち着かない様子で仕事をし、そんなふうに落ち着きのない自分自身を戒めるほどだった。そう、彼はまるで人間みたいに振る舞ったんだな。そして僕はそれを、とても喜ばしいことだと思った。



 彼は、あの時彼女に付けられた名前を、今もちゃんと覚えている。けれど、最初からそんなものなどなかったことにしようとしていた。その名前は、彼の心を彼女にきつく縛りつけて、解けなくさせていたんだな。


 彼は、自分を初めて見ているはずの彼女に向かって、重要な問いを立てる。

「この世に、『誰にも愛されない人間』は、存在すると思う?」


 彼は、机の上で組まれた自分の手から目を上げて、彼女のことを見つめた。彼女は彼の誠実なまなざしに少し喉をつまらせてから、きゅっと眉根を寄せて考え込んだ。それから頭の中で自分の言葉を練り上げて、慎重に口を開く。


「……ぼくは、愛されなければ今まで生きてこられませんでした」

 彼女のその聞き覚えのある返答に、彼はまた、彼女が彼女であることを確かめる。そうして彼がまた口を開こうとした時、彼は、彼女が次の言葉を用意しているのを感じた。「でも」と彼女は言葉をつぐ。

「誰もが愛されているなら、どうして何の罪もない子供が死ななくてはならないのでしょう。どうして親に見捨てられ、路頭に迷う子供がいるのでしょう。どうして……子供達が自らを殺すのでしょう」

 それがわかりません、と言った彼女の瞳の奥は、ぐっと沈んでいる。彼女は、そういうことを考えたことのあるひとだった。

 少し間をおいて、

「例えば」

 と、今度は彼が口を開いた。

「生まれてからずっと、親にぶたれて、それでもなんとか生き延びた子供がいるとするよ」

 彼女は、救いを求めるように、彼のその語りを聞いている。


「その子は、なんとかかんとか、十五になるまで生き延びた。誰にも抱きしめてもらえないのに、それでも毎日学校に通っている。いつも、体のあちこちが痛むんだ。そして、冬のある日──そう、ほんとうに、寒い日なんだ──くらっとして」


 彼はそこで、続きを喋るのが耐えきれないみたいに、息を止めて、吐いた。

「誰にも見つからないように、自分で自分のことを殺してしまう」

 うなだれる彼の後頭部と、彼のことを食い入るように見つめている彼女のことを、僕も離れたところから見ている。

「きみはその子が、『誰にも愛されなかった』、その子の人生を、『ただの悲惨な物語だった』と、そう評価する?」


 彼女は、彼のその言葉に戸惑った。彼がこれから何を言おうとしているのか、彼女にはわからなかったんだな。僕も、彼が彼女にそういう話をするのを、「はじめて」聞くんだったんだよ。


 彼女はいまいち言葉がまとまらない様子で、けれど果敢に口を開く。

「わかりません……というより、裁定を下しようがないと思います。だってぼくは、その子に会ったことがないし、あなたが話すような、ほんとうに縮約されたその子の人生しか知らないから……だから、『悲惨な物語だった』なんて……」

 そんなこと、言っていいのかわからない、と続けて、彼女はそれから口を噤んでしまった。

「……俺もそう思うんだ。だってね、きっと、その子が生まれて来たとき、自分では何もできないその子の身体を、拭いてやった人がいてさ」

 彼は思わしげにはにかんでみせる。


「その子の人生、きっと、一度も笑わなかったとか、そんなわけないと思うんだ。その子にもきっと好きな場所や、音楽や、食べ物なんかがあるんだと思うんだよ。あったんだと思うんだよ。その子は、シュークリームが大好きだったかもしれない……」


 彼女は顔を上げて、またあの、「救いを求めるような」顔をした。

「俺はね、その子を殴りつけるような親にも愛情があった、だからこそ、その子が生き延びたんだ、っていうようなそういう話をしたいわけじゃないんだ。俺が君に問いたいのは、もっと、『もっと大きな愛』の話……」

 彼女の空を映したような青色の瞳が、ランタンの光を受けて煌めいた。



 彼女と過ごす最初の週、あの頃の彼は「何も」考えていなかった。先のことを何も、っていう意味だ。突然やって来た喜びに、彼はそれを享受するので精一杯だったんだな。だから、彼は彼女に自分がここに来る前の記憶がもうなくなってしまったことも話したし、彼女がそういった彼の境遇を哀れに思っているのもわかった。ただ、本当にそれだけだったんだ。仲良くなるためにはお互いのことを話すものだよね。友達になるってことの愉快さだけを、彼は無邪気に感じていたんだな。けれど、彼女の胸の中で、彼の想定していなかった感情がゆっくりと首をもたげ始めていた。僕がそのことに気づいたのは、彼らが出会った時から数えて五つ目の夜だった。


 彼女の中のただならぬ感情が彼の目にも明るみに出たとき、彼は助けを求めるように僕のことを見た。だから僕は勿体ぶらずに言ってやった。

「彼女、君に恋してる」

「俺は、そんなつもりじゃ……」

「恋ってのは契約書を書いて始めるものじゃないからね」

 自分で言った言葉に、なんだか詩人みたいで僕だって自分のことを笑ってしまった。

「でも、俺はもう人間じゃない。彼女と一緒に幸せにはなれない」


「それは事実だね。人としての資格を失った君は、この森に巣食うただの亡霊だ。人を懐古し、惹かれ、それに愛着でもってまとわりつくだけの、一種の化け物でしかない。そして君は、もう『個別の人間』なんてものを愛すことはできない」


 僕にそう言われた彼は、それまで見た中で一番皮肉っぽく笑った。

「俺はどうすべきだと思う?」

 彼は僕の目をじっと見ていた。彼はいつだって、僕に大事なことの如何を問うのだ。ここで僕は、彼にとって父のような存在だった。

「君が、正しいと思うように」


 そして七つ目の夜、彼は彼女が来るなり、彼に関する記憶の全てを彼女から消して、目の前で扉を閉めてしまった。最後彼にそうさせたのは僕の言葉だった。彼はその行いを正しいと思った。僕は、彼の思う正しさを尊重した。けれど、彼があんなにも傷つかなきゃいけないような決断を無理にすることが、本当に正しいことだと言えたのか、僕には今でもわからない。


 彼は、自分がそもそも男性の形をとっていることを忘れていた、と僕に弁明した。この図書館にひとでなしがやって来ることは、ままあるのだけれど、彼の姿をあんなにもしっかりと見つめておしゃべりもできる相手なんてのは彼女が初めてだったから、彼は本当に、そういう人間同士みたいな付き合いに夢中になってしまったんだな。


 彼は彼女のことを「沢山いるひとのうちのひとり」だと思っていた。そもそも彼にとっては、彼と話ができれば、姿や形なんてものはどうでもよかったんだ。そう、ただ、体温があればそれだけでよかった。けれど、彼女は「彼」に恋をしてしまった。それは、不幸なすれ違いのはじまりだった。だから彼は、傷つくことになってしまった。


「まあ、僕がいるじゃないか」

 と、うなだれる彼に向かって僕は声を投げてやる。すると、書架の上で肩をすくめた僕を見上げて、彼はまた平穏を取り戻したあの「はにかみ」を僕に向けた。凹凸のない平穏の日々がまた始まるのだと僕らは思っていた。けれど、八日目、つまり二週目の初め、彼女はその平穏を再び壊しにやってきた。


「あなたは誰?」

 と言う言葉と共に「再び」彼女に銃口を向けられた二週目の彼は、驚いた。彼女がすっかり彼のことを忘れている様子が見て取れるというのに、もう一度全く同じその光景が、そのまま繰り返されたのだ。


 彼女は、全てを忘れている。しかし、「また」やってきた。その二週目、彼は前と同じことのないようにと、どことなく彼女を遠ざけた。けれどおしゃべりの相手が来たことは嬉しくて、だからやっぱり彼女を追い返すことはできなかった。そして、やはり同じように彼女の恋は始まった。二週目の七日目、彼は、ごめんと謝って彼女を突き放した。



 そうだった、彼らはそうやって、三週目も、四週目も、五週目も、六週目も、そして、あなたも知っての通り、七週目も、そうして出会い、別れた。繰り返して、繰り返して、その度彼は愚かにも喜んで、でも同じだけ苦しんで、傷ついて、彼女を傷つけることさえ学んだのだ。僕は追憶の波からやっと抜け出して、やっと再び、今、僕の目の前にいる彼らの方に目を向ける。彼らはまだ、愛されなかった子供の話をしている。彼の言葉には、そのひとつひとつに何にも変えられない重みがあるように思われた。


「その可哀想な子にも、きっと『愛』は注がれていた」

 彼女はじっと黙って彼の言葉を聞いている。

「その、『愛』の主体とは」

 彼は元から垂れたその目尻を持ち上げ、歪める。

「『世界』なんだと、俺は思っているよ」

 息を飲んだ彼女は、それからふるりと口を開き、彼の言葉を繰り返す。

「世界……」

 彼の言葉をそう繰り返す彼女を、彼は真面目に見据えている。

「誰もその子のことを愛さなくても、この『世界』が、その子のことを愛すから、その子を生かそうとするとはいえない?」

 彼の声は、震えながらもどこか明るく弾んでいた。


「もっと具体的に言えば、生命の仕組みというのかもしれない。その子を産んで、生かした、この世界。自分で自分を殺すその時まで、十五歳まで、その子のことを生かした、この世界だ」

 彼はそこで大きく息を吸う。

「俺はその愛をもって、誰にも愛されない人間は、存在しないと思っているんだ」


 そう言葉を続けた彼の口元を、彼女は恐ろしく定まった目元で凝視していた。彼は彼女の視線から逃げるように目線をテーブルの上の木目に走らせ、でも、と言葉を続ける。


「きみたち『ひとでなし』は、その『世界の愛』から唯一省かれた存在なんだ」

 俺にはそう見える、と彼は小さく付け加える。

「けれどそれは、『世界』の意思によるものじゃない」

 彼の背後に並んだ無数の人生の表象がじっと息を殺している。

「ほんとうは『世界』は、きみたちのことを愛したいと思っている」

 無限の時間を過ごす彼の瞳はどこか遠い所を見ているようだ。

「その、届かずにあぶれた『世界の愛』のいき場所が、ここなんだ」

 じっと彼の話を聞いている彼女に向かって、彼の言葉は強まっていく。


「未だその心臓に血を滾らせるきみたちに、『世界』からの愛が、直接届くことはないよ。きみたち『ひとでなし』の人生は、『悲惨な物語』でしかないんだ。けれど、確かにここに愛は用意されている」

 届かないけれど、届くことのない愛が、ここに、と続ける彼の背中には、興奮に汗が滲み出ていた。

「その代わり、ここ──この本の森からは、愛以外のすべてが消えてしまった。生きるということが、消えてしまった。だってここは、ほんとうは存在しないはずの場所で、ただの、世界の歪みでしかないからだ」


 そこまで喋ってから彼は、はっと我に返った。だって、この五十番目の夜は彼女にとって、「彼と初めて会う」夜だからだ。彼女はこの森のことを何もしらない。彼があれだけ言葉を尽くして彼女に語った彼の仕事や、それにまつわる苦労や悲しみや孤独さえも、彼女の中からは、全て消えてしまっている。それは、彼が望んでしたことの結果だ。彼自身が、彼女の中から自分についての記憶を全て拭い去ったのだから。


 なおも黙ったままの彼女を前にして、悩ましげに唇を噛んでから、彼はもう少し言葉を選ぶことにした。

「俺はその、この、世界の歪みの中にいる。けれど、でも、その愛されないきみたち『ひとでなし』に、最後の愛を与える仕事をしているんだ……そうだね、何のことかわからないかもしれないけど……」

 五十の夜を過ごすうちにすっかり冷たくなった風が、彼らの頭上のランタンを揺らしている。彼らの足先は、靴の中でひりひりと痛み始めている。

「だから、俺がいちばん言いたいのは、君に覚えていて欲しいのは……」

 彼は机の木目を指先でなぞる。


「俺はここできみたち『ひとでなし』のことを愛して、そしてきみたちの人生そのものを救えること自体を……そういうことを俺ができるっていうことを、とても、とても……」

 彼は、その続きにくるものを上手く言い当てる言葉を知らなかった。彼はそれでも、それになにか近いものを搾り出そうと思った。

「……誇りに、思っている」


 そう口にして、彼は少し首を傾げたいような気持ちになった。彼が本当に言いたいこととは、それとは違うような気がしたんだ。でも、ひとまずはそれでいいってことにしたんだな。彼は普段、ひとのことばかり書き連ねているくせに、自分の気持ちを言葉にするのがあまり得意ではなかった。彼の唇は、なおもぎこちなく開く。


「だから、きみは安心して、ここを出て行っていいんだ」


 彼はそこで顔を上げて、彼女に向かってはにかんだ。そこまで話を聞いていた彼女は、大きく息を吸って、吐いた。彼女のその息の音に、この膨大な書架の並び全てが震えるような錯覚を覚える。僕は彼らから離れた書架の上で、思わず自分の二の腕をさすった。これから、何かが起こる。


***


 感情は伝染する。きっとあなたにだって経験があるでしょう? そして、彼だって例に漏れずそうだった。人間らしい激情や衝動というものを失っていた彼は、彼女が何度も彼に恋を繰り返すことで、ありとあらゆる喜びの、さらには苦しみの根源をもたらされてしまった。彼にとって「良きおしゃべり相手」でしかなかった彼女は、出会いと別れを何度も繰り返すたびに、彼の中で「かけがえのないたったひとり」になっていった。でも、そんなことはありえないはずだったんだ。だって、彼はもう人間じゃないはずなんだから。でも、彼女のことで彼は一喜一憂するようになった。凪のような死んだ平穏に、彼女が息を吹き込んで、彼の心の中には波が生まれた。彼は日に日に、本当に息をしているような顔になったんだ。


***


 しんとした本の森の中で、彼女は訝しむような顔で戸惑う彼の眉間を見つめている。しかし次の瞬間、彼女は眩しい朝日を見るような顔で、彼の泣きそうな面持ちに目を細めた。


「やっぱり、」

 僕は固唾を飲んで彼女の次の言葉を待っていた。

「『私』、『貴方』に会いに来たんです」


 彼女のその言葉が、静けさに満ちた図書館に、哀れなほどにはっきりと通っていった。僕がはっと口を開けた時には、彼女はもう目が覚めたように椅子から立ち上がっていた。訴えるような目線が、机の向かいにいる彼のことを嫌という程射抜いている。


「私、何かを知りたくて、ここに来たような気がしてるんです。たぶん、大切なひとのこと……その大切なひとっていうのは、まちがいなく、貴方なんだって、私、今、ほんとうにわかりました。いや……わからない……でも、きっと貴方のこと……いえ、そんな気がして」


 彼は驚いて固まったまま、椅子から動けないでいた。そうしている彼のことをもう一度しっかりと見つめて、彼女は居ても立っても居られない様子で、胸の前で両手を握りしめる。彼女の心臓は一気に早鐘を打ち始めた。

「やっぱり、間違いじゃない」

 彼女は彼の顔から目を離さないまま、けれど、自分に言い聞かせるように言葉を吐いた。彼女は、自分の心に──ああそう、心って言うしかないようなものに──従ってその声を震わせるんだ。


「貴方がそこに座っているのを見たとき……貴方の、その佇まいを見た時に」

 彼女の視界は、はっきりとしない心の震えからくる涙で歪み始めていた。

「私……なんだかわからないけれど、泣きそうになったの」


 彼女の言葉は、ありのままの彼女の姿へと帰っていく。熱くなる彼女の頰へ、彼女の姿の全てを吹き飛ばすような強い風が吹き付けて、ぶわりと彼女の髪を束ねていたリボンが、彼方へと吹き飛ばされていく。彼女の美しい錦糸のような黄金色の髪が、彼の眼前で広がってたゆたった。その神聖な光景に胸を打たれたかのように、彼は立ち上がり、首を横に振る。


「違う、何かの間違いだ。だってきみは、俺のことなんて」

 はっはと息を呑み損ねる彼はまさに狼狽えていて、その様相は見るに耐えない。彼女はまるで彼のその揺らぐ心を撃ち落そうとでもするように、きっとした言葉遣いで彼に迫る。

「私、貴方のこと、なんにも知らないわ。いいえ、ほんとうに、何も、しらない……」

 揺れる彼女の髪の色は、可憐な少女の無鉄砲さを、彼女の抱える使命というものの性質を、映しているようだった。

「でもね、貴方と私が、ほんの二言と三言しかお話をしたことがなくったって、私、貴方が寂しい人なんだって、わかるの」

 彼女の声には迷いがない。

「わかるの、私……貴方をここにひとりにしておいちゃいけないって!」


 どうっとまた風が吹き込む音がして、僕はこの本の森そのものが崩れてしまうんじゃないかとひやひやするほどだった。けれど、僕は彼女のその崇高な表情から目をそらすことができない。彼女は一度口を噤んでから、彼のことを睨んで言葉を吐き続ける。


「貴方、『ひとでなし』を愛しているって、自分でそう言ったわ。でも、それって、貴方自身のことを数えていないのよ」

 彼女は彼に食いつかんばかりの必死さでもって彼に話し続けた。

「誰が貴方を愛すかってこと……」

 忘れちゃいけないこと、と彼女は泣きそうな声で続ける。

「私、貴方を……『ずっと』……」

 彼女のその一途な目の色は、彼に逃走を許さなかった。

「『ずっと』、助けに来たかった」

 彼女は確実に、何かを「覚えている」ようだった。

「きみは、何にも、何にも覚えていないんだ。何にも知らないんだ」

 必死で自分の言葉を繋ぎ、逃げ道をたぐり寄せようとする彼に、彼女は涙で滲んだ目で笑う。

「貴方きっと、この世界の全部を、言葉で説明できると思っているのね」

 彼は、まるで自分の心の中が読まれているかのように感じた。彼はそのとき、彼女が自分の思っていたよりもずっと聡明なことに気がついた。

「でも違う……だって、少なくとも私は、こんなにたくさん……たくさん、『言葉にならないもの』を抱えてここにたどり着いたの」

 彼女は手の先まで震えていた。彼だってそうだった。

「間違ってる。ありえない」

「間違ってないわ。だって、私、『心』がこんなに震えてるもの」

 彼女は、自分の身体が急かすままに息を吸う。

「貴方は、言葉にできる理由がなくっちゃ、ひとはひとのために死ねないんだって、きっとそう思っているんだわ。でもね、」


 彼は、彼女の真摯なまなざしから逃れる術を知らない。彼女はすばやく身を翻して、机の反対側にいる彼の方へと歩き出す。迷いのないその足取りに、胸ポケットの拳銃が弾むまま床に落ちるが、彼女はそれを顧みもしない。


「私、死んだってかまわない。貴方のためなら……貴方のことが救えるなら……!」

 彼は、逃れたかった。目前の彼女から、そして彼女を不幸にするその未来から。けれど、彼の足はどうやったって動かなかった。

「理由なんかなくたっていいの……私、今ここにいる私が、私自身が、貴方を愛するひとがこの世界に確かに存在することの、たったひとつの証明になってみせる」

 そう言い放った彼女は、彼の前でぴたりと足を止め、挑むように彼のことを見据えた。彼は、震える手をそのままに、彼女から目を逸らせないでいた。

「だから……」


 その小さな細い指が、今度は確実に、彼の手を捕まえた。彼の目が痛々しいほど悲しそうに、期待を背負ったまま見開かれる。彼女は、彼の持つ痛みの全てさえ受容せんとでもするように、とどめの微笑みを投げかける。彼女の口がゆっくりと開く。


「私に、貴方を愛させて」



 それは、魔法だった。


 彼女が彼の手を取ったそのとき、世界がぐらりと揺れるのを感じたんだ。全ての秩序みたいなものが書き換えられていくような天変地異の感覚が僕の全身を包んだ。彼女の手を振り払うことのできなかった彼は、とうとう、彼女の恋を実らせてしまったんだ。そうだ、恋が完成してしまった。彼と彼女は、「ふたり」になった。

 ああそのとき、厳然たる調和がもたらされてしまったのだ。


***


「糸島」

 部屋に入って来た体格のいい優男に、美青年は話しかけた。あなたももうご存知の通り、その美青年の名は、北崎という。

「ねえ、裁縫箱はどこだっけ。袖のボタンがとれていたんだ……いや、そのボタンをどこへやったかな」

 そうやって自分の机の上を探る北崎を見遣った優男──糸島──は、興味なさそうに北崎の袖口に目を走らせる。

「どこのボタンがとれてるって?」

「袖口の」


 そう言ってから、彼は自分の両方の袖口を確かめた。ボタンはとれていなかった。両方の袖に二つずつ、きちんと整列してそこに並んでいる。それからきょとんとした北崎を見て、糸島はぷっと吹き出した。


「大丈夫かよ」

「いや、とれていた気がしたんだ。……そうじゃない、付けたんだ。付け直してもらった……。そうだ、付け直して……いや、やっぱり、最初からとれていなかったんじゃないか……?」

 彼の頭はどうやら混乱しているようだった。さっきは吹き出した糸島も、今度は心配そうな顔で自分たちの団長の顔を覗き込む。

「寝たほうがいいぜ、お前」

「……そうかもしれない。でも、なにか、何か別の大事なことも忘れている気がするんだ」


 彼は、ふた月前の雨の夜のことを思い出していた。亜という娘がやって来た、すぐ後のあの晩。雨の止んだ街にこびりついた、あの「匂い」……。何かが、自分の中からこぼれ落ちているような気がする。そんな、不快で不可解な気味の悪さ。


「外れてんのは頭のネジだな」

 そんな風に茶化す糸島の声音の愉快さとは裏腹に、北崎の腹の奥はずうっと冷めきっていた。

「何か、『変』な気がする」


 彼はそれから、はっとしたように首を回して、まるで、「こちら」を見たように思えた。少なくとも僕にはそう思えて、僕はぞっとして、思わずこの身を縮めたのだ。いや、結局彼はそのままぐるりと視線を回してしまったから、まさか僕を見た、なんてことはなかったんだけど、彼の目線にそのくらいの気迫があったのは確かだった。

 彼の使命じみた顔つきはあまりに神聖で、僕は、彼に対する陶酔のようなものが僕自身の中にひたひたと忍び寄ってくるのさえ感じるのだった。


***


 書架の森の二人のそれからの話を少ししておこうか。そう、あの硬く握られた手の契約によって、彼女もまた、この森に巣食う亡霊になった。たったひとりだった「彼」は、寂しさを埋め合うように寄り添う「彼ら」になった。彼らは、日々何かに嫉妬することもなく、誰かを恨むこともない。微笑みを交わし、終わることのない日々を、ただ穏やかなだけの日々を慈しむ。それは、ユートピアであるのかもしれないし、これが人類の目指すべき到達点、もっとも望ましい終着点なのかもしれない。彼らはただ、なんとなく心の中に漂い続ける寂しさだけを抱えて、でも柔らかに微笑みを浮かべながら、ここで終わらない永遠を続けるのだ。


 それは幸福なんだろうかと、彼らの穏やかな顔を見ながら僕は内心思う。僕の中にあるその違和感は、それを覚えること自体になんらかの罪があるような気もする。でも、それでも僕は考えることをやめられないんだ。こんなことなら、あの四十九日の続きを延々と繰り返す方が、よほど幸せだったのかもしれないって。彼女がやって来るたび胸を踊らせ、落胆し、また次の時には喜んで、自分を呪って、期待して、裏切られて、それでも彼には「明日」があった。感情の秩序を失ってにこやかに僕に笑いかけるだけだった彼が、彼女という存在を得てそんな風に変わっていったことを、僕は密かに喜んでいたんだよ。彼はやっぱり救われるんじゃないか、救いがないなんて嘘だ、って。そう考えて、少なくとも僕は、報われた気持ちになった。でもそんなのはやっぱり、僕の勝手な自己満足だったんだ。彼は、「救われないままでいなければならなかった」なんて、そんなわけないじゃないか!


 彼らふたつの亡霊は、抑揚のない、凹凸のない、感情の大して揺らぎもしない、暖かな日々をつきることなく迎え続ける。彼らは暖かい感情しか抱かない。それって、きっと幸せなことじゃないか! だから、だからそれでいいんだよ。悲しいと思う人間が存在しなきゃ、それは悲しいものじゃないんだから。僕が彼らを無理やり不幸だって型にはめて悲しむ必要なんてない。幸せな彼らに、悲劇を擦り付けて憐れむ必要なんてない。つまり、僕がこんな偽善の感傷を、なかったことにすればいいんだ。それで、それで全部うまくいって──ああそうか、あなたもいたんだっけ……。じゃあ、僕から一つお願いだ。どうか、彼らのことを、悲しい存在だなんて言ってやらないで。僕とあなたが彼らのことを「悲しい」だなんて言わなければ、悲しいふたりなんてどこにもないことになるんだからさ。

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