11話 花咲くイヴ

 私の世界は横向きだった。向き合う市井とまもる、そしてそのふたりの先にのみなみちゃんのことが、私の目にははっきりと見えていた。けれど、私といえば起き上がる力もなくて、ほんとうにただ見ているだけ。右頬はべったりと冷たい石畳にくっついて、左頬はきりきりびりびりと熱く痛む。きっと、切れて血が出ているんだ。


「まもる」

 落ち着き払ったままの声音でそう呼びかけた市井に、まもるは口からぼたぼたと血を流すけものの姿で唸っている。やっぱり自分の名前を呼ばれたとはわからないんだ。

「すぐに『戻して』やる」


 と、市井は辛そうに眉根を寄せて、それから大きな斧をまもるに向けてまっすぐに構え直す、と、まもるはまたお辞儀をするみたいに前にかがみこんで、その右手──前足が、地面に触れた。


 ひとのものとは思えないような動きで跳びかかったその右の前足が、かわし損ねた市井の左の腹をかすめて、血が──。そのとき何かが潰れるような嫌な音がして、気づいたときには市井の右手が、がっしりとまもるの頭を掴んでいた。構えていた筈の斧は石畳の上に音を立てて、今、落ちた。そのとき私に見える、昨日と同じような、世界が一度切られて、繋がれたような光景。市井はそのまままもるの頭を石畳に容赦無く叩きつけてから、足掻き続けるまもるをうつ伏せに押さえつけ、背中に馬乗りになった。それは酷く鮮やかな手際だった。そうして、もがくけものの姿の頭部を無理矢理に上向け、声を上げる。


「みなみ!」

 耳が聞こえなくたって、自分の名前を呼ぶ兄の必死の形相は、彼女を動かすのに十分だった。まもるのすぐそばまで進み出たみなみちゃんが、一度、目を閉じる。それから、ふわ、とその睫毛が瞬くのが、薄暗い夜の景色に遠く立つ彼女の人影の中で、やけにはっきりと見えた。


 赤い実が、青々とした細い葉の茂る枝に下がって、揺れている。けものの姿さえ恐れもしないで、彼女はまもるの前に跪いた。彼女の背中には、そのしなやかな枝々がきらきらと輝きながら重なり合っていて。その優しい色をした瞳で、みなみちゃんはその小さな両手を、もがき、狂った鳴き声を上げる、まもるの両頬に差し伸べた。さら、と彼女の背負う木の枝が、けものの顔へと下りていく。みなみちゃんのその顔には、この街にあるはずのない木漏れ日みたいな光が落ちているのが、見えた気がした。


 それからは、魔法みたいだった。ぎょろりと見開かれていた血走ったけものみたいな目が、あの優しいまなざしを受けて、子供っぽい紫色の目元にゆっくりゆっくりとかえっていく。みなみちゃんの手のひらの中で、恐ろしいけもののかたちが、呪いを解かれるようにひとへと移り変わる。やわらかいひとの姿を取り戻したまもるは、今まで暴れていたのが嘘のように、ふっと目を閉じて気を失った。



 頭はやっぱりずきずきしたけれど、私はみなみちゃんに支えられながら自分の足で歩くことができた。これも、ひとでなしになったからなのかな。私、自分で思っているよりもずうっと丈夫みたい。それもなんだか怖いんだけれど。


「何がこいつをここまで『怒らせた』?」

 前から聞こえてきた声に顔を上げると、ぐったりとしたままのまもるを背負った市井が、答えを寄越さない私のほうを振り返るところだった。

「『怒らせた』……?」


 市井が何のためにそんなことを私に聞くのかわからなくて、頭も痛くてぼんやり市井の顔を見ていると、市井は収穫なし、と思ったのか、前に向き直ってしまう。市井は、それからひとつ、頭を揺らした。


「こいつの異能は……こいつ自身の言う通りだとすれば、『怒り』を発端にしている、らしい」

「『怒り』……」

「こいつは滅多なことじゃ怒らない男だ。何がこいつをあんな姿にさせたか、というのが気になってな」


 まもるが何に怒ったのか。私の頭の中に、制服の女の緑色の目と、ぐらぐらと揺れ出すまもるの背中が浮かび上がる。怒ったって、何に、いつ? 私は、さっきのやりとりを思い出そうとしていた。女は、まもるのことを「けもの」だと罵っていた。いや、でも、まもるが怒ったのはそのときじゃない気がする。まもるが、怒ったのは。目を閉じた私の記憶の中で、私を射抜くあの瞳。


 罪人の子


 女が、私のことをそう呼んだとき、それに「違う」っていうように、まもるは首を振っていた。私の代わりに、女の言葉を否定していたんだ。私がそう気づいて口を開きかけたとき、

「返答を強要しているわけじゃない。言いたくなきゃいい」

 と、市井の言葉がすれ違いに私の耳に届いて、私はそのまま口を閉じた。きっとこれって言うまでもないことなんだ。市井もみなみちゃんも私よりよく知っているはずだもの。

「……優しいのね」

 市井の背中でくらくらゆれるぼさぼさの頭を見ながら私は、みなみちゃんはもちろん市井にも聞こえないくらいの小さな声で、そう呟いた。


***


 洋間に戻ると、真木がちょうど帰って来たところらしい。茜と一緒に戸口に姿を見せた俺に気づいて苛立ったように口を開きかけてから、返り血を浴びた俺の上着に眉を上げ、そのまま口を一度閉じる。それから例の緑色の目が細められて、俺の眉間を睨んだ。


「……何があった?」

「こっちの台詞だ。イチイには会えたか?」

「……いや、」

 真木はそれから一瞬間を置いて、

「奴の根城はもぬけの殻だった」

 と、俺から目をそらさないまま言った。

「そんで──」

「八手は間引かれそうになったんだって」

 真木の言葉の続きを遮るように洋間に通った枇杷の声に、真木はそちらへ振り返る。

「間引き? こんな時分にか?」

「冷徹女のいやがらせ」

「……なるほど」

 真木と枇杷の会話はあまりにも物分かりよく進んでいくから、俺はやはり疎外感を覚えていた。やっぱりここじゃ、俺は「勝手を知らない人間」なんだな。

「母さんはもう眠ってる」

 自己愛に浸っていた俺は、自分のすぐ横からした鈴の音のような声に現実へと引き戻された。横顔から伸びる茜の睫毛は長い。

「とりものは明日で間違いない」

 そう続ける茜の顔を、部屋の中にいる全員が見ている。

「間引きじゃ、制服連中が外をうろついてる……それに、とりものが明日なら戦力も減らしたくはない……」

 真木は口元に手をやって、確実な言葉で俺たちの置かれた状況を並べ立てた。

「でも、そうも言っていられないね。今日のうちにあの娘を捕まえておかないと、明日のとりものは二進も三進もいかないよ」

 聡明そうな枇杷の目元は緩やかなカーブを描いている。

「僕も出よう」

 黒いピンヒールを履いた枇杷は、しかしよろめくこともなくすらりと立ち上がった。

「女の子ひとりを捕まえるくらい、大の男ふたりならなんてこともないと思っていたけれど、読みが甘かったみたいだしね」

 枇杷がそう言って俺と真木にやった目線は、ぞっとするほど冷ややかだった。

「椿と茜は残ってよ。母さんたちを置いてここを離れるわけにはいかないし」

 枇杷のその言葉に首肯する茜と椿の奥から、おい、と声が上がる。

「俺たちも娘探しか? こちとらとりものの仕事しかするつもりはないぜ」

 物怖じもせずそう言い放つ吉見の兄貴に、枇杷はわざとらしいくらい大きく、肩で息をついた。

「母さんにかけあって報酬を増やすよう都合してあげる」

「請け負った」


 そう言って椅子から立ち上がる吉見の二人を見ながら、俺は華屋に帰って来てからずっと腹に渦巻いていたひっかかりの感覚を反芻していた。ぞろぞろと洋間の出口へ向かう連中を見ながら、俺の口は、なあ、と声を上げていた。


「ちょっといいか?」

 枇杷が、不機嫌を隠しきれない顔で俺を振り返った。


***


 神聖不可侵の場所というと普通なら教会やお寺なのかもしれないけれど、この掃き溜めでは映画館がそういう場所らしい。安っぽいネオンが灯る寂しげな入り口から人気のないロビーに入って、市井は革張りのソファの上にまもるを下ろした。ぐったりとしたその顔を覗き込んで、私ははっと息をのんだ。


「……こいつは傷の治りが早くてな」

 市井がそう言っているそばから、裂けていた衛の口が、切り口が互いに手を伸ばし合うようにしてみちみちと音を立てながらくっついていく。

「異能の恩恵ってやつか」


 そのどこか不気味な様子を見ながら、私はコンクリートの壁に打ち付けられた自分の後頭部をさすっていた。あんまり痛くない、かも。まもるほど治りは早くないと思うけど。


「ここにしばらく籠城するぞ。制服も華屋の連中もここじゃ手出しはできない」

「……どうしてここが神聖不可侵なの?」

 私の素朴な疑問に、市井は案外さっくり答えを示す。

「裁判所の女が映画好きなんだ」

「……そうなの」


 勝手な女だわ、と思いながら私は近くのソファに腰を下ろした。そのとき、視界の中に桃色の何かを見つけて目を凝らすと、みなみちゃんの髪にシャクナゲの花飾りがついている。妙に大振りで、髪を二つに結ったみなみちゃんの髪型にはアンバランスにひとつだけついていたから、私は不思議になって声を上げた。


「ねえ、その花ってなんなの?」


 私の声に眉根を寄せた市井がみなみちゃんの髪からその花を取り上げる。みなみちゃんは自分にそんなものがついているとは知らなかったらしくて、はっと息を呑む。私がソファから立ち上がって、みなみちゃんの手に渡されたその花を見ると、それはよくできたシャクナゲの造花だった。そのとき、みなみちゃんの手の中でその花が「崩れ」た。崩れた、っていうのは、花びらがとれて壊れて行ったっていうよりは、その花の全体が全部一緒にぼろぼろと形をなくしていってしまったから。それを見つめていた市井は呟くように声を出した。


「……『マキ』か」

 きょとんとした私が見つめる先で、崩れてなくなった花の中から白い何かがはらりと落ちていった。それが床に落ちてしまう前に素早く拾い上げて、市井は顔をしかめる。

「なあに、それ……」


 と言う私の顔にちら、と目をやって、市井はその紙をこちらに寄越した。それは、手帳をちぎったような罫線の入った小さな紙の切れ端だった。そこには、走り書きされた文字が小さく収まっている。


 娘の心臓は、華屋にはあらず

 北崎のところに

 彼女を北崎に引き会わされませんよう

 どうか


「お前が盗人呼ばわりされた理由がわかった気がするな」

 え、と声を上げる私に市井は

「どうしても、『とりもの』のことを話してやらないといけないらしい」

 と、観念したような顔で頭を掻く。

「しかし、不可解な点がいくつかある」

 市井の頭の中ではいろんな謎解きが進んで行っているのかもしれないけど、私にはちんぷんかんぷんだった。


***


 不服そうな枇杷も含め、全員が俺のことを見ていた。俺は頭を回転させながら口を開く。きっと、話してるうちに言いたいことはまとまっていくはずだ。


「北崎は仲間を増やしたいんだよな? ……お前らの口ぶりからすると。そんなら、なんで必死になってあの娘を追わずに、俺なんかのことを狩りに来た?」

「北崎は、心臓の貰い手をあの娘だとは知らないのかも知れない。昨日の時点では、あの娘は『観客』でしかなかった……私たちだって、あの娘がここに顔を出してやっと彼女が『役者』になったことを知ったんだし」


 茜は、聡明そうな目元を俺に向けるが、俺はかぶりを振った。


「それはおかしい。だって、北崎たちが娘の心臓を持ってるんだとしたら、あの娘がひとでなしになった昨日の時点で、その心臓は動き始めていたことになる。そうすると、北崎は俺らよりも早く新しいひとでなしが来たことに気づくはずだろう? そんで、このタイミングで心臓が動き出したってんなら、昨日広場で大立ち回りしたあの娘のことを思い出さないわけ、ないんじゃないか?」


 誰も何も言わない。


「……間違ってない」


 肘掛けにもたれた椿が、そこでようやっと声を出した。その言葉に背中を押されるように、俺は話を続ける。


「北崎たちは娘を、自分たちの仲間にするために追ってはいない……つまり、北崎たちのとこにある心臓は、あの娘に反応してないってことになる……。いや、確定はできないかもしれないが、それが一番可能性の高い推論だ、と俺は思う。それに、裁判所と北崎が通謀してたってんなら、娘を捕まえなきゃなんないっていう大事があるのに、裁判所と相談してこんなときに間引きなんかを始めると思うか? 心臓が動いてりゃ、あいつらは尚更その貰い手を探して躍起になるはずだ」


 長々とまくし立てた俺に枇杷はため息をついて、ゆっくりと自分の肘掛けに戻った。


***


 市井から気味の悪い「とりもの」の説明を受けた私は、頭が痛くてなんだか吐きそうだった。

「だが、お前を襲った制服の女は『自分たちがお前の心臓を持っている』というようなことを、言わなかったんだな?」

 市井にそう確認されて、うん、とくらくらした頭で返す私の視界の端でまもるが身を起こした。本当に治るのが早いみたい。

「じゃあ、北崎のとこにお前の心臓があるっていう、華屋の予想は間違いだな……。じゃあ、お前の心臓は一体……」

「私ね、」

 考えこむように俯いていた市井は、私の言葉に顔を上げる。

「ちょっと考えてることがあるの」

 起き上がったばかりのまもるは、私に目を向けられて、少し驚いたような顔をしていた。


***


「『心臓』ってのは、必ずひとでなしが来るよりも前にこの掃き溜めにあるんだよな」

 俺のその問いかけに茜はひとつ瞬きをして、俺の目を見たまま少し考えてから、

「そうよ。常に、『心臓』が役者を求めている」

 とシンプルに返した。口を閉じてから尚も俺から目を離さない様子は、俺の意図を測りかねているようだ。その茜の後ろで少年じみたはりぼての笑顔が首をかしげる。

「八手は、あの娘が心臓の帰って来るよりも前にここにきてしまったんじゃないかって、そう言いたいわけ?」

 やはり枇杷は察しがいい。俺がそれにひとつ頷くと、枇杷は、品を保っていた薄ら寒い愛想笑いを崩して、はは、とけたたましい声を上げて笑った。

「ありえない。そんなの聞いたこともない。それにね、原理的に不可能だよ」

 枇杷は苛々と足を揺らす。

「掃き溜めは『求め』に応じて『役者』を生み出すんだ。常に必要が先にある。つねに。これは決まっていることなんだよ」

 真木も茜も、頷くまでもなく、無言のまま枇杷の言葉を肯定する。

「じゃあ一体どこに心臓があるっていうんだよ。そのへんの側溝にでも落ちてるってのか?」

 おどけたような吉見の言葉に、枇杷はじっと絨毯を見つめている。

「月ごとに来る心臓はかならず誰かが仕留めているし、北崎に盗まれて以降、一度も心臓が華屋から持ち去られたことはないよ」

 それからさっと上げられたその中性的な顔には、愛想笑いが取り戻されていた。

「僕の知っている限りはね」

 立ったままの真木は考えあぐねたように腕を組み、枇杷は手持ち無沙汰な様子で指を組む。

「それより前のことは、知らないけれど」

 俺の横で茜はゆっくりと息を吐いた。枇杷はまた口を開く。

「……もしかしたら僕なんかが生まれるよりもずっと前から、この掃き溜めにはあの娘を待つ心臓が眠っているのかもしれないね」

 この掃き溜めのことを把握できない俺は、ぽつぽつと語られる枇杷の言葉に耳を傾けることしかできない。

「この街には『隠された場所』があるって言われているんだ。僕でさえ、立ち入ったことのない場所……」


 そのとき、洋間の戸口に真人間の娼婦が──つまり、俺たちひとでなしとは違って、外の世界が夜の間だけ華屋に来る娼婦が──ふらりとやってきた。その姿を認めて真木が歩み寄り、娼婦のほうに少し屈んで話を聞いている。それから真木は娼婦を帰してしまって俺たちの方を振り返った。


「ご指名だ」

 全員が押し黙った洋間の中で真木がまっすぐと指差したのは、その自分に向いた指の意味をやや把握しかねているような表情の、茜だった。


***


 私が恐る恐るドアを開けると、からんからんとベルが音を立てて、物音のない店内に響き渡った。私に続いてまもるがお店の中に入り、ゆっくりとドアを締める。呼び出された通りにやって来たカフェは、お客さんもいなくてがらんとしている。お店の中は奥まったところにひとつ付いた赤っぽい照明を残して、明かりが消してあった。その赤い証明の下で、人影が靴音を立てて立ち上がる。


 後ろにヤツデを従えてすらっと立ち上がったその女の人は、きっちりと引いたアイラインの中の朱色の目から、私のことをはっきりと見つめている。きりりと引かれた眉。ぱっと目を引く赤い口紅。化粧の得意な人って感じ。


「こんばんは」

 とその人は瞬きをして黒い髪を揺らした。朱色の目に黒髪のそのひとは、間違いなく私が華屋を抜け出したときにヤツデのことを止めていたのと同じひとだ。

「……こんばんは」


 私はおずおずと挨拶を返した。そのひとは、上等な生地のスーツに身を包んだ、華奢な立ち姿の女のひと、なのだけれど……。どこかその上等なスーツに着られているような、そんな気もする。こうして面と向かうと私とそんなに背の高さも変わらないし、私なんかよりも顔の造りは子供っぽいかもしれない。歳もそんなに違わないのかな。


 私がじっと見ていたからか、そのひとは眉をひそめて何も言わないままくる、と首をかしげてみせた。そうしてかしげた首の後ろに、きら、と輝くのはあの時見たのと同じ、小さな白い花。私はごくりと唾を飲み込む。


「座って」

 そのひとは私に向かいの席を差し向けた。


***


 茜の後ろ姿の先に見える娘の姿は、昨日取り逃がしたときとは少々変わっているようだった。あの高そうな着物は売っ払っちまったのか、安っぽい振袖を着て俺たちの前で縮こまっている。それに、知らない顔も一つ。まだ十代に見える小汚い格好の男が、番犬のように娘の後ろを守っている。ああ、あっちから見れば俺のこともそう見えるのかもしれないが。


「どうして私に会いたいと?」

 茜がゆったりと問いかけたのに娘は少し戸惑った様子で口をつぐんでから、なぜか一度俺に目をやって、もう一度茜の顔を見る。

「……あなたが、一番話ができそうだと思った、から……」

 娘の答えを聞いた茜は一度顔を横に背向けた。笑ったんだな、彼女。

「そうよね、うちの者たちが怖い思いをさせました。謝りましょう」


 そういう茜の後ろで、俺は口をへの字にするしかない。でもまあ、殺せって具体的に命令したのは高峯だから、俺には判断についての責任はない。業務上、法的には。……そういうことにしよう。


「けれど、あのときはこちらにも情報が足りていなかったの。私たちにはもう、あなたを害す意思はありません」

 淡々とかしこまった茜の言葉に、今のところはな、と俺は口に出さずに注釈を付け加える。茜は嘘を言ってないから構わない。

「イチイとは一緒に来なかったんだ。てっきりあれを連れてくるかと思ってた」

 俺は娘の後ろにいる番犬の男を一瞥した。これは「イチイ」ではないらしい。

「『来たくない』って……。あなたのこと、苦手みたいね」

 その言葉に茜は少し間を置いてから、そうね、と返してテーブルの上でしなやかなその指を組み合わせた。

「わざわざこうやって会いにきたのは何のためなのか、教えてくれる? お嬢さん」

 それから娘は、一度深く息を吸った。


「私の心臓は、あなたたちのところにも、北崎のところにもない……あなたたちがどこまで知っているのかはわからないけどね。……私、制服に襲われたわ。ただ単に、あの人は私を殺しにきた。仲間にしようなんて気持ちはひとつも感じられなかったし、私が心臓を持ってないことを知りもしないみたいだった。だから、私も、そしてあなたたちも、私の心臓の在りかを知らないし、探さなきゃいけない……んだと、思うんだけど、どうかしら?」


 そこまで息もつがずに一気に喋ってから、娘は慎重に俺たちの顔を伺った。案外と理論だった明快な口調に、俺は気づくと口を開けていた。それから、口元の笑みを隠せるわけもなくて、茜の肩を小突く。

「俺の言った通りだったな」

 茜は苛ついた様子で俺の手を払って、じゃあ、とまた口を開ける。

「あなたはその答え合わせをするためにここに来たの?」


 俺によっぽど苛ついたままなのか、茜の口調にはやや棘があるように思えた。その冷たい声音にも、娘は怯まず、いいえ、と返答する。それから口元をぎゅっと結んで、茜と……俺のことも、目を細めて交互に見つめる。それから、困惑したように眉を歪ませる。


「あの、あなたたちって、その、恋人……なの?」

 急な話題の切り替えに、はあ? と声を上げた俺の横で、茜もまた困惑していたらしい。数秒おいてから、茜は

「……そんなところ」


 と返した。恋人……恋人かと言われれば俺もよくわからない。俺らってなんなんだろう。俺は寝室の薄闇の中にぼうっと浮かぶ彼女の白い肌と、朱色の切れた瞳を思い出す。俺は、まるで茜に食われているようで──。


「あなた、そのひとに何をしてるの?」


 茜に向けられた娘のその言葉は、妙にはっきりと聞こえて、俺は娘の顔を見据え直した。茜の表情はわからない。俺には茜の後頭部しか見えないからだ。しかし茜は、しばらく何も言わずに黙っていた。「何をしてる」ってのはどういうことだ? 俺が娘の真意を測りかねている横で、茜は何事もなかったかのように、ひどく鋭い声を発した。


「本題に戻りましょう」

 茜の声を受けて、娘はぎゅ、とひとつ口を引き結ぶ。それからまた口を小さく開き、息を飲む。もう一度上げられたその目には、なんらかの輝きがあった。きっとしたその瞳は、はっきりと俺たちを見ている。

「私、きっと、どこにあるかわからないその心臓を、見つけられます」

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