7話 詩仙至るは子夜の狂

「なあ、君、自分が何してるかわかってんの?」

 という俺の問いを意にも介さず、日本刀を握る俺の右手を掴み、きろ、とその美しい一対の朱色が俺をまっすぐ突き刺す。

「黙って」


 と茜が俺に目を合わせたまま言うのに耐えられなくて、俺は背中からぐらりと廊下に倒れるしかなかった。彼女に睨まれると受け身も取れないくらいに身体がまともな活動を放棄するから、どうしようもない。酷く頭を打ち付ける度、ほんとうに割りに合わなくてため息が出るってもんだ。ごろりと反転して見えた廊下の突き当たりには、もうあの娘は影も形もなかった。あんな着物でよく走れるな。くそ。


 俺が背中の全面で床のナラ材の硬さを堪能していたところで、高峯がぎゃあぎゃあと喚きながら廊下に出て来た。

「ねえ、殺したのかい? あの盗人の娘は? 早くあの娘の首をあたくしに見せてちょうだい! はやく! はやく!」

 そんなまさしくきちがいの女の身体を、茜はぎゅっと抱きとめて押しとどめる。

「母さん落ち着いて、」

 ねえお願いと続ける茜の耳元で、藤の女、高峯は冥府から這い出してきた魔物とも見紛うような形相で叫び続けていた。



 カーテンを閉め切った洋間に、華屋の役者──高峯はひとでなしをそう呼ぶんだ──が集められる。高峯と、俺と、茜と、俺がここに来た晩に俺を羽交い締めにした赤髪の「真木」という男と、あと二人。合計六人がそこに居た。色形もとりどりの肘掛け椅子八つを円形に並べ、そのうちの六つを埋めた室内の風景は、さながら円卓会議といったところか。まあ、卓はないわけだが。俺の左隣には、不穏な空気を察して俯く真木。右隣には顔を崩しもしない茜、そのまた隣に顔を覆った高峯がいる。そんで、高峯の向こう隣には、空席を一つ挟んで口の悪い「椿」という娼婦がにたにたと笑いながら座っている。椿の隣には更にもう一つの空席を置いて、俺の視線がぐるりと一周したところ、つまり真木の肩越しに、張り付いた愛想笑いの男か女かわからないやつ。確か「枇杷」と言ったか……そいつもいた。ほんとうにこいつの性別はどちらなのか。枇杷は俺の視線に気づいて、いつもの笑顔を俺に返してみせた。……食えないやつだ。


「……茜」


 奥の椅子にぐったりとした顔でもたれる高峯が、喉の奥から低い声を漏らした。眠っているかのようにも見える、伏したその目は、しかしよく見れば確固とした怒りを讃えて空中を切り裂くように睨んでいた。呼ばれた茜はいつもの飄々とした美しい横顔で高峯の前に膝をつく。


「説明して頂戴」


 という、いやに冷たい高峯の声が聞こえた後、高峯のそのつま先がゆら、と持ち上がり、揺れて茜の額を小突いた。俺は、茜が侮辱を受けるのには何にしたって耐えられないんだ。けれど、前に同じようなことでしゃしゃり出て痛い目を見たから、拳を握りしめてその残酷な光景にも耐えた。まあ、俺がそんな風にしつけられた犬の癇癪に震えていたところで、茜自身は顔色一つ変えないんだが。ああ、こういうところも彼女の良いところなんだよ。


「母さんが申しますには」

 きりりとしたその横顔から発される声は、鈴の音のように薄闇の空気に鳴った。

「あの娘が『鍵』を盗んだと、そういうことでございましょうか」

 茜のその問いかけに、高峯は微動だにせず、茜の朱色を見返している。これは、「是」の意味なんだ。まったく不親切なことに。

「しかし、あの娘が『鍵』を盗んでそれをもう手にしているというのなら、わざわざこちらに出向く理由がありません。今一度、よくお考えに……」


 茜が全てを言い切らないうちに、ぴしゃ、と弾けるような音が洋間に響いた。顔を背けさせられた茜は、その頰に高峯の平手を食らいながら、驚いたそぶりも見せない。俺が一番驚いたくらいだ。


「だから! わざわざあたくしをおちょくりに来たって、そういうことじゃないの!」

 脳天を突くような高峯の声がして、立ち上がりそうになった俺の肩を真木が押さえたときには、高峯は、はっと息を呑んでいた。

「ごめん、ごめんね……あたくし……」

 娘の顔をその両の手に包んでおどおどと撫でさする高峯に、茜は

「いいえ、優しくぶってくれたもの、ちっとも痛くありません」

 と、さらりと嘘を吐いた。

「もう少し、お話ししても?」

 と、茜は母の手をするりと解いてから握り直す。そうして高峯が腰を落ちつけるのを待って、茜はまた話し出した。


「昨晩、私が八手と見たところによりますと、どうやら本当にあの娘は盗人ではありません。なにせ、あの娘は昨晩ここに来たばかりのように見えましたし、うちと……母さんと対立関係にあるとも思えないのです」


 茜はそこまでを一息に言ってしまってから、さらに付け加えた。


「その上あの娘は、北崎に討論を申し込まれた挙句に両親を殺されています。演技にはとても思えませんでした。ですから、北崎の側についているとも思えません。すぐに殺す必要はないと考えました。それだけです」


 高峯は茜の切実な目線に目を丸くしてから、ぐり、と頭をこちらに向けた。

「八手、お前、どうして何も言わなかったの」

 正気をとりもどした母は、俺に嗜めるような声を上げた。

「面倒ごとなら、斬って捨てりゃあいいじゃないですか」

 嘘を吐いてどうなることでもないだろうと思って俺がそう言うと、高峯はまた露骨に眉をひそめた。

「お前、まだ自分のやるべきことをよくわかっていないようねえ。きっちり『教えて』あげなきゃあならないわねえ」

 『教えて』の言葉に俺の背中の全面が粟立った。


「……だってあの娘、そりゃ、北崎には相当やられてましたよ。だけど、他のひとでなしを味方につけているようだったし……うちの味方にならないんじゃ、どっちにしろ面倒じゃないですか」


 俺が高峯の顔を伺いながらそう零すと、高峯はぴしと背筋を伸ばして目を見開いた。

「『味方』だって……?」

「あの娘は、ほかの『役者』と一緒にいたのです……。北崎と敵対している……」

 茜が即座にそう返しながらなにやら語尾を濁すと、

「『ほかの役者』……?」

 と高峯はさらに畳みかける。それを見て、俺は我慢できずに口を開いた。

「ああ、なんか、なんだっけ? 『イチイ』っつったっけ? ね?」

 と顔を覗き込んだ俺に、茜はすぐさま、牙を剝く獣みたいな目をしてみせた。

「ああ……」

 俺がとてつもなく鼻にかかった声に目を上げると、その声はどうしようもなくうんざりとした顔の、高峯の半開きの口から発されていた。

「……『あの男』ね……」


 高峯のその目は「あの男」と口にしたとき、人を殺しかねないくらいに歪められていた。猫一匹くらいその一瞥だけで死にそうだ。まずいことを言ったか、と俺は茜の顔色を伺ったが、茜はもう俺と目を合わそうともしない。彼女がこういうつんけんした態度をとるのはどういうときか、俺はもう知っている。奴さん、相当イラついてるんだ。



 ところで、少し時間を遡ろうと思う。俺がひとでなしになった、あの夜のこと。這々の体で逃げ出して結局華屋に連れ戻された俺を待っていたのは、案の定、凶悪な朱色のあの瞳だった。


「『教育』してあげる」


 彼女の口から唾液を受け取るたびに、身体中が震えるような気がした。身を滅ぼす類の刺激が、折り重なって容赦なく俺の身体を軋ませる。やめてくれ、という声が出ないくらいの、狂った快感。熱い息が、したたる銀が、俺の全神経を苦しいくらいに犯し嬲り蹂躙し尽くす。それを三日も続けてみろ。彼女には逆らえないと、骨の髄まで「教育」されるしかないんだ。


 与えられるのが俺で、与えるのはどうしたって彼女だ。これは揺らぎようのないことなんだよ。彼女が「俺のもの」だなんてとんでもない。ちゃんちゃらおかしい。だって、俺はどう考えたって彼女の支配下にあるんだから……。


「そもそもさあ、」

 という少年じみた軽い声が、俺を仄暗いベッドルームから現実の洋間に引き戻した。枇杷だ。

「僕、わからないんだよね。どうしてその『娘』が盗人なのか、っていうの」


 真木も俺も、あえて口をつぐんでいたことを、奴はさらりと言ってのけた。それから、子供じみたその顔を傾けて、ぱちりと音がしそうなくらいにはっきりと瞬いてみせる。


「呑み込ませる心臓がなかったのよ」

 枇杷にそう返したのは茜だった。それから茜は立ち上がって自分の肘掛に戻る。

「ね、母さん?」

 茜にそう問われて、高峯も

「そう、どの子も『眠った』まま……」

 と、まるで独り言のように呟いた。

「そうなんだ……」

 俺が奴らの会話に頭を悩ませていると、枇杷は少し考えるような顔をしてからまた口を開いた。

「じゃあ、その『新入りさん』の『心臓』を、北崎が持っているってことだね……?」


 中性的な幼いその顔に微笑みを匂わせて、枇杷は、俺たちの顔を見渡した。話についていけない俺は、誰かの反応を待っていたのだが、誰も返さない。すると、枇杷がまた口を開いた。


「だって、そうだよね? ここに彼女に呼応する心臓がないってことはさ、ここじゃない別のところに、その『新入りさん』のための心臓があるんだよ。それで、別のところって言ったら、北崎のところしかないでしょ?」


 明瞭に流れていく枇杷の言葉に、俺はついに声を上げる。

「ごめん、俺、何の話をしているんだか、全然わからないんだけど……」

「盗んだのよ」


 俺が言葉を言い切るよりも先に、鼻にかかった女の声が俺の耳にずけずけと入り込む。声を発したのは椿だった。腰掛けたソファの肘にだらりともたれて、椿は俺の方を見てにやにやと笑っている。それから彼女は、今度は首を伸ばして高峯のほうに睫毛を瞬かせた。


「ね、母さん。母さんが、あのお坊ちゃんにまんまとやられたのよねえ?」

 そう言う椿を一瞥して、高峯はいらいらとした顔のまま鼻を鳴らした。それを見て椿は子供のように、可笑しくてたまらない様子でけたけたと笑い声を上げる。

「ねえ、あのときほんとに可笑しかったわ。母さん、とんでもなく取り乱しちゃってさあ」


 しんと静まり返った部屋の中で、椿だけがきちがいみたいに甲高い笑い声を上げている。細い腕で抱きしめた身体をゆすっては、もはや、狂人の域だ。この女、場違いだとか恥だとか、そういうことを考える機関が頭の中にないんだろうな。どうしようもない。


 これ以上この女に説明を求めても無駄だと見切りをつけて、俺は真木に助けを求める。

「なあ、つまり……」

 言葉を濁す俺をやれやれといった顔で見返し、

「お前も心臓を飲み込んだだろ? あの、青白いの」

 と真木は声を出した。

「ああ」

「あれは、自分の入る体を、『役者』になる人間の体を、自分で選ぶんだ。その身を脈打たせて。ほら、お前が呑み込むときだって、だいぶ動いてたろ? えげつなく」

「ああ……」


 「選ぶ」という言葉に寒気を覚えながら、俺はあの不気味なぬめりけと脈動を思い出す。あれがフラッシュバックすると、すぐ吐けるようになっちまってるな、俺。俺はあの心臓が収まっていった自分の胃のあたりを見下ろした。


「あの心臓は全て『うち』が管理することになっている。全て……そう、『本来は』全て……。だから、お前の逃した『新入り』の心臓もうちにあって然るべし、というところだ、が……」

「だけど今、華屋には、『その新入り』を選んで呼応する『心臓』がないってわけ」


 俺たちの低い会話を全部聞いていたらしく、枇杷はそう口を挟んでから俺ににっこりと笑いかけた。まともな頭で考えればわけのわからないことを話されている。でも、まあ、なんとなくは状況を理解したと思う。つまり俺は、あの心臓に「選ばれた」っていうことで……。


 いや、一旦こいつらの言うことを整理しよう。まず、この華屋には俺が呑み込んだのと同じような「心臓」が、複数ある。その「心臓」たちは、呑み込まれる相手、つまり、俺みたいなやつを待っている。そんで、その相手がやってきたときには、その心臓の中の一つが不気味に脈打って反応する、というところだろうか。非科学もいいところだが、この街じゃ、科学で世界の全てを語るなんてお門違いだ。そんなこと、俺にだって、さすがにもうわかってる。


「そんじゃ、なんでそこで『北崎』の名前が」

「だーかーらー」


 ここの奴らはすぐに口を挟みたがる癖がある。目を上げると、椿が生意気そうなその顔の片眉を吊り上げている。すると、真木が鬱陶しそうに片手を挙げて、彼女の言葉の続きを押しとどめた。


「北崎が、その心臓を盗んだんだよ。この華屋から。しかも、七つも」

 俺がぽかんと口を開けていると、もう説明不要だろう、とでも言うかのように、枇杷がソファから身を乗り出して高峯に話しかける。

「北崎がうちから盗んだ心臓は七つ。それで、盗まれた後、北崎のところで生まれた『役者』は六人」

「最後の一個がその『新入りちゃん』の心臓ってことね」

 顔を強張らせたまま怒りを隠さない高峯とは対照的に、椿は歌うように朗らかにそう言った。


「ねえ、このまんまじゃ『その新入りちゃん』、お坊ちゃんのことがどれだけ嫌いっていったって、口説かれたらあっちに付くしかないんじゃない? だって、心臓ごとその中にその娘のための鍵があるんでょ? きっとあいつ、『鍵』を交換条件に、その娘を自分の『私兵』にしちゃうんだわ」


 頬杖をついて危機感も何もなさそうな顔で椿がそう言うのを、高峯の横顔は目線をひとつも動かさないままじいっと聞いていた。それから、わなわなと口が開く。

「……あの娘がどうなったって構わないけれど……」

 高峯の声は怒りに震えている。

「どんな手を使ったって良いから、『心臓』を……『あの子』を……あの、『疎ましい子供』の私兵になんて、させないで頂戴」

 高峯のその言葉に、俺以外の四人は皆、あの椿でさえも、ぴし、と姿勢を正した。

「もちろん」

 枇杷のくっきりとした瞳が、ひときわ輝いた。それから、誰からともなく、示し合わせたように号令がかかる。

「母さんの望みなら」



 午前零時を回ろうとしていた。

「あーあ、俺、お前じゃなくて茜が良かったよ」

 肩を並べて歩く真木を横目に見ながら、俺がわざとらしくそう言うと、真木は俺に一瞥もくれない。


「あいつは走りまわることにそこまで耐えらんないんだよ。俺らとは違って……まあ、とにかくさ、さっさとその娘をみつけりゃ帰れるんだ。短い付き合いにしようぜ、相棒」


 それから真木は歩くペースを上げ、表通りの一般人をやすやすと追い抜いていく。俺がここに来ておおよそ三週間だが、真木は俺の教育係って位置に据えられているらしく、茜とは別に何度か掃き溜めの街を案内してもらった。認めたくはないがこいつはなかなかに優秀で、一週間もした頃には俺も主だった通りの名の全てを言えるようになった。


 そんで洋間での会議の後、北崎の持つ心臓を押さえるか、娘の方を押さえるか、という話になったんだ。けれど、急ごしらえで北崎たちの居城に乗り込むのも無謀なことで。だから、北崎が娘を抱き込む前にこちらで娘を押さえておく方が賢明だ、ということになったわけだ。そんで、俺と真木があの娘を目下捜索中なのである。


「容姿はどんなだった? 俺は見てないからなあ」

 ネオンの紫を浴びて、ちら、と振り返る真木に問われ、俺は数時間前のことを思い出す。

「明るい色の髪が長くて、まだ顔立ちは幼い……十五、六じゃないか? ああ、そうだ、良い着物を着ていた。ありゃあ結構な値段するぜ」

「ふうん。でもまあ、ここにいるそんくらいの歳の娘なんて数えて足りるくらいだ。知らない娘がいればすぐにわかるか」

 折角親切に色々と教えてやった俺の言葉を、全部おじゃんにしやがる。これだからここの人間は嫌いだ。でも。


「でも、こんな掃き溜めに……掃き溜めに咲くには、『彼女』は美しすぎる……」

 小汚い露天商の目の前を足早に通り過ぎながら、そんなふうに、俺の口は嘯いていた。ああ、駄目だ。油断するとすぐに彼女が脳みそを侵食してくる。寝台の上に流れる豊かな黒髪の匂い……。


「『掃き溜めに咲く』……」

 そう繰り返してから、真木が一度ふっと笑ったのを、俺は見逃さなかった。


「気取ったことを言った自覚はあるが、彼女は本当に、……やばい、やばい女だろう……俺にもさすがにわかるぜ。魔性だよ……彼女には、そういう力があるんだろう……ファムファタル、ってやつだ……」


 そう言い返す俺に、哀れだな、と真木の口が動いた気がした。でも、頭に血が上った俺の口は勝手に声を吐き出す。

「魔性なのはわかってるよ……でも、ほんとうに、こんなところから連れ出してやりたいくらい、美しいんだ……こんな掃き溜めにいちゃ、いけないっていう、」


 そうすると真木は、今度はあからさまに、はは、と笑ってみせる。奴の声に、通行人の数人が振り向いたくらいだ。それから真木は気に触る程度には整った顔立ちに少し恥の色を見せてから、ひとつ息を吸う。


「クソ野郎だと思ってたけど、連れ出したい、なんて、そりゃ、正義感か? 英雄気取りか? 警官だったってのもあながち無茶苦茶な話でもないってことか」

 真木の言葉にやや、むっとした次の瞬間、俺は、ひゅ、と腹の底が冷えるのを感じた。

「なんで俺が元警官だって……」

「ああ、お前、保険証を財布に突っ込んだままだったろう」

「あ……」

 俺が呆気にとられていると、真木は俺の顔も見ずに鼻を鳴らした。俺はかっこつかずに唇を噛むしかない。

「返してくれよ、俺の財布……」

「捨てちまったよ。今頃きっと冥界の川を流れて行ったろうぜ」


 なんて返されて、俺はますますイライラした。レテの水ってか。俺はそのまま足元の石畳を見下ろすが、冥界がコンクリ詰めの下に埋まってるなんて、夢のない話だ。ほんとうに。


「もっとも、あれにはお前の要るものなんてもう入ってやしないだろ。今のお前には全て要らないものだ。……とられた名は戻らない」

 真木の口調は淡々としている。

「……『とられた』っていうんなら、俺の名はどこに行った?」

 俺の言葉に真木はこちらに視線をよこして、それから目を歪めて笑った。

「冥界の怪物の、はらの中だろうな」

 妙に気の利いた物言いに俺が舌を巻いていると、真木はさらに続ける。

「まあ、お前は、お勉強のできる馬鹿ってとこだな。仕事のできるようにならないと、ここじゃ簡単に死んじまうぜ」


 それから真木は、平均四ヶ月だ、お前の寿命は、なんてわけのわからないことを言っている。なんだよ、平均て、と俺が返したところで、俺たちは華やかな表通りを抜けていた。

「その娘、昨日の晩はイチイと一緒に居たんだよな……じゃあ、イチイのとこに戻るかも知れない」

 真木の行く先の街並みはどうも寂れているようだった。イチイはそういうとこに住んでんのか。まあ、華屋の周りに住みたいかと言われりゃ、そうでもないかもしれないが……。


「そういやさあ、俺、イチイとか北崎とか、そういうのがさ、なんで高峯……さんと仲悪いのか、よくわからないんだけど……」

「めんどくさいことを聞くなあ、お前」

 真木は、はっきりとため息を漏らした。

「じきに、嫌でもわかるさ」

 真木の横顔によぎった心底疲れきった表情に、俺は、どうやらここの怨恨は深いなんてもんじゃないな、と確信を得る。知らない方がいいのかもしれない。

「まあ、母さんの前で『イチイ』の名を出さない方がいいぜ、ってことだけ教えとくか」

 それから真木は、でかい電波塔の下で立ち止まった。

「俺は一度、イチイのところへ行ってみる。お前はこの辺りをしらみ潰しに探してくれよ」

「だるい仕事だなぁ……パシりかよ」

「俺のが先輩だから当然だな」

 真木は、ふ、と息を吐いて、それから、と付け足した。


「世界にはな、『ムラ』ってもんが必要なんだ。全部が均一じゃいけないんだよ……高低があり、明暗があり、善悪があり、それらのどれもが無くてはならない」

 急に社会学か哲学か宗教かの話をし出した真木に、俺は、はぁ? と声を出す。

「『無くてはならない』、じゃないだろう。結果としてムラが生まれるんだ。必要が先じゃない。結果として置かれたものに人間が物差しを当てて、「善」や「悪」の名をつけて、そこに、恣意的にグラデーションが生まれるんだ。そういうもんだろ?」


 俺がそう捲し立てるのを聞いて、真木は頭を振った。

「いや、やっぱり、お前は何にもわかっちゃいねえな」

 真木の細められた緑の瞳は、何らかの諦めをたたえてそこにあった。

「潮の満ちる海辺にしか咲けない花がある。その花を引き抜いてよそに持って行くか? それは豊かな土壌では決して生きてはいけないだろうな」

「……何の話をしてる?」

 確かに俺のことを見つめる緑色の諦観に、俺は妙な胸騒ぎを覚えた。けれど、真木の不穏は止まらない。

「住み分けは大事だという話だ。救いたい、なんていうお前の欲求が、独善じゃないとなぜ言い切れる? 花には一番綺麗な場所がある。当てるべき光がある」

「……お前、もしかして茜の話……」

 真木は俺の言葉を受けてから、深く息を吸う。そのときにはもう、月の光が、妖気の抜けたチープな美青年の顔を照らしていた。

「悪い。感染ったんだ、ひとの癖が」

 それから真木はもう一度、悪い、と口にしてから踵を返した。取り残された俺は、どうも真木のことを責め立てる気にもなれなかった。


 真木の背中が夜に消えてから、俺は次に例の娘の背中を探し始めた。あの娘、背の高さは茜とそう変わらなかったか。そういえば、名前を聞かれたが、こっちはあちらの名前を聞くのを忘れたな。なんか癪だ。それから俺は人気のない通りに耳を澄まし、草履の足音を探そうとするが、見つかるわけもない。仕事が大枠すぎるんだよな。やっぱり真木の後を追うか。と、思ったそのとき。


 びりりと空気が震えるのを感じて、瞬時に俺は振り返った。しかし、そこにあるのは月の光の切れ目のような、傷口のようにばっくりと開けた路地裏だけである。けれど、止まらないのは、びり、という俺の全神経の震え。


 俺は、そのときなぜか、洋間に呼び出されたときのことを思い出していた。俺が、肘掛に座ろうとしたとき。

「ああーっと、そこ、僕の席なんだ」

 俺の背中を押しのけて、枇杷はわざわざ俺が座ろうとした手前の席に座った。なんだこいつ、と思ったまま立ち尽くした俺を、真木が小突いて、

「お前の席はそっちだよ」

 と、自分の座った隣の席を指す。納得できないまま俺がその席に座った瞬間、枇杷は、くす、と小さく笑みをこぼしてこう言った。

「そこ、一番早死にするやつの席なんだ」

 記憶の中で滲んだ枇杷の顔は、張り詰めた夜の空気に立ち消える。


 びりびりとした神経の震えは、もう既に神経だけの震えではなくなっていた。気づけば俺の指先は、その震えを押し殺すように、日本刀の柄を痛くなるほど握りしめている。

 絶対にいる。何かが、そこに。

 そのとき、暗闇の中に立ち上がる、ヤギの頭。湿った路地裏から異形のかしらを携えて、それは確かにじっと、俺に狙いを据えていた。

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