フランツとヴィルヘルム-4
「それ弾入ってる?」
「数発だけ」
「いいなあ、あとで貸してよ。銃口から血糊突っ込んで絵描いてみたい」
予想と一字一句違わぬ理由で銃器を貸してくれと強請る男に、ヴィルヘルムはわざとらしく溜め息を吐いた。
どうせ自分が死んだらこれは彼のものになるというのに。あと、宛がわれた自室にある少ない私物も、ほぼ酒に消えた少ない金も。
ふあ、とヴィルヘルムが欠伸をすると、淡々と絵筆を動かしていた男も欠伸をする。
「うつったんだけど」
「そりゃ悪かったな」
「ほんとだよ」
ぼやいた男が、眦に浮かぶ涙を拭うことなく、残り僅かな絵の具を絵筆に取る。それで眼前のキャンバスを彩る作業を何度か繰り返して、男がふう、と息を吐いた。
男の身体から力が抜け、纏っていた雰囲気が柔らかくなっていくのを感じてヴィルヘルムは悟る。
「描き終わったか?」
ちら、と視線を上にしてキャンバスを見る。そこに描かれていたのは、この屋上から見える景色そのものだった。写真と見紛うほど、というわけではないが、充分に風景画として完成されている。
ここを訪れてからさほど経っていないだろうに、短時間で風景画を描き上げた技量にヴィルヘルムは改めて驚く。
「うん、終わった」
男が笑いながら、使い終わったパレットや絵筆などを鞄に乱雑に放る。
自分の満足のいく何かを造り上げた直後の創作家が見せる、達成感に溢れた笑顔にヴィルヘルムも口角を吊り上げた。
男の濁った視線と、ヴィルヘルムの視線が絡み合う。お互いに期待を孕んだ目でお互いを見て、彼等は同時に口を開いた。
「終わったし殺していい?」
「終わったなら早く殺せよ」
言い終わってから瞠目し、互いの言い分にくすくすと笑い合う。
普段全く息も人間性も合わなかった自分達が、最後の最期にこんなことを経験するなんて。
一頻り笑ってから、まず口を開いたのは男だった。
「大丈夫だよ、苦しませて殺すような真似はしない。ヴィルにはプリンを始めとして色々嘘ばっかり言ってきたけど、これは本当だ」
「ああ……って、やっぱり俺のプリン食ったのはお前か」
「ごめんね、発酵させようと思って窓際に置いておいたら鴉に食われたとか嘘ついて」
男の嘘と言い方は、普段ならば怒鳴り声を上げていたであろうものだ。それでも最早、何を言われても特に気にならなかった。
ああ、気にならないのではない、単純なことだ。気にしても意味がない、そう分かりきっているからだろう。
待ち望んだ今際の際に、人の嘘に目くじらを立ててはいられない。
男が折りたたみ式の椅子から立ち上がり、鞄の傍に膝を着いた。ヴィルヘルムは、男が先程画材を突っ込んだ鞄の中を引っ掻き回すのを黙って見つめる。
スケッチブックなどを放り出し、パレットを引っ繰り返し、絵筆をぶちまけ――鞄の一番下から“それ”を引っ張り出して男は腰を上げた。
青ざめた手に握られていたのは、一振りのナイフだった。二人と廃墟の上を覆い尽くす曇った空のような色をした、曇ったナイフだった。
微かな陽光を反射して、ナイフがきらりと煌めく。
「――ヴィル、ヴィルヘルム」
恐らく名前を聞いてから初めて、男がヴィルという愛称ではなく“ヴィルヘルム”と呼ぶ。
かつ、と足音を響かせて向き直った男を見上げ、ヴィルヘルムは纏っていた外套の金具を一つ外した。
途端に冷たい風が開いた襟元から入り込み、首筋を撫で上げる。ぶるっ、と身を震わせて、ヴィルヘルムは思わず「寒い」と呟いた。
酒が入っていればあまり気にならない程度の寒さが、ほんの少し愛おしく思えたのは、生きているからこその感覚だからか。
「寒い?」
「寒いに決まってんだろうが、もう冬だぞ」
「でも、それが“生きている”ってことで」
珍しくまともな事を言った男に、ヴィルヘルムは少し驚く。すぐに苦笑して、そうだなと同調した。
わざわざ外套の金具を外して首を露出させたのは、彼が自分を殺しやすいようにという配慮だ。そしてそれは自分自身死にやすいようにという理由でもある。
もうこの寒さに身を震わす事も出来なくなる。美味い飯もただ酔うだけの酒の味も、何も感じることはできなくなる。だが、それがどうしたと、ヴィルヘルムは思う。
今更、未練として強く残るような事ではない。何より、それを惜しむことなど許されてはいない。
自分の傍に立ち、そして屈んだ男と目を合わせる。
「……なあ」
「何?」
濁った目でこちらを見る男に、ヴィルヘルムは純粋な問いを投げた。
「人って死んだら、どこに行くんだろうな?」
生きている人間が一度は考える事だ。人間は何の為に生まれ何の為に死ぬのか、そして死んだ人間はどうなるのか。死んだらどうなってしまうのか。
ヴィルヘルムもそれに関しては人並み程度には考えてきたし、男もそうだった。自分が死んで、どこに行くのかというのは昔から考えている。
ううん、と男は唸って、珍しく男は困ったような顔で首を振った。
「残念ながら、俺には分からない。ヴィルが死んでどこにいくのか、俺が死んでどこにいくのか。もしかしたら、どこにもいかないかもしれない。
……でも何で今それを訊くの? 今更死ぬのが嫌になったとか、そういう?」
「そういうわけじゃねえから安心しろ。ただお前の答えを聞きたかっただけだ」
軽く手を振ってヴィルヘルムが微苦笑、肩を竦める。
「これでお前に訊きたいことも全部だ。さっき言ったとおり、苦しまないよう頼むわ」
「ヴィルの事だから苦しんで死なせろって言いそうなのに、意外だなぁ」
「どうせ死んでから苦しむんだ、サクッと死んじまった方がいいだろ」
まるで死後自分がどうなるかを悟っているような言い方に、男は怪訝そうな顔になる。
どういう意味だ、と視線で問えば、ヴィルヘルムががり、と頭を掻いた。
「俺は、死んでも苦しむだろうよ。生きてる今でもアイツ等の声が聞こえるんだ、死んだらどうなるかなんて少し考えりゃ分かる」
どこか懐かしむような目と声で、以前は軍人として、部隊長として指揮を執っていた男が呟く。
彼等は肉体そのものに干渉してきて命を奪うことはしない。なら、防護でもあった肉を脱ぎ捨ててしまえば、きっと喜んで自分を苛んでくれる。
男は何となく、ヴィルヘルムの考えていることを察する。
自分は死後、地獄に堕ちて自分が死なせた亡霊達から直々に責め苦を受けるのだと、ヴィルヘルムはそう言っているのだ。
そう考えると、呟いた様子がやけに寂しく悲しく見えて、男は最早風が通り抜けるだけの空虚な胸に僅かな熱を覚えた。
同情か、それとも何かを慈しむ気持ちなのかは解らない。それでも男はただ悟る。
彼は、ヴィルヘルムは本当に死にたいのだと。自分の見る目は間違っていなかったのだと、理解する。
「ヴィル」
再び名を口にすると、ヴィルヘルムは満足したように笑っていた。
「お前はキチガイだし話は噛み合わないクソ野郎だったが、案外悪くなかったな」
陳腐な別れの言葉に、無意識の内にナイフの柄を握る手に力が籠もる。躊躇しているわけではない、と思う。多分。恐らく。きっと。
だから男は、ゆっくりと冷たい刃物を持ち上げていく。
男がもう一度ヴィル、と呼ぼうとして口を開くが、それよりも早くヴィルヘルムの緩く弧を描く唇が動いた。
「有り難う、フランツ」
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