フランツとヴィルヘルム-2
「――何でまた、わざわざ風が吹きまくって寒い所を選びやがんだ」
熱を逃すまいと、必死に外套の襟を引き寄せてヴィルヘルムが呟く。
男が“ここで絵を描きたい”とヴィルヘルムを案内したのは、誰も寄りつかない廃ビルの屋上だった。フェンスは錆び付いて所々に穴が空いているし、ひどい箇所ではぼろぼろになって原型すら留めていない。
少し体重をかければ容易に外れるだろうフェンスで囲まれた汚い屋上は、場合によっては自殺の名所に華麗な変貌を遂げそうだった。
砂埃で汚れた屋上で、男は折りたたみ式の椅子に座っていた。ヴィルヘルムはその隣で、コンクリートに直に腰を下ろしている。
ヴィルヘルムは、自分達がいるビルを囲むビル達を眺めていた視線を少し、上に挙げる。男の手が絵筆とパレットを持っているのが見えた。
前に置かれたキャンバスには既に沢山の色が載せられていて、手が絵筆を動かす度に風景が描かれていく。
戯画絵師としては風景画は専門外だろうが、キャンバスと長く向き合ってきた画家である。その動きに迷いはない。
隣の付き添いが手元を見ていることに気づいた男が、一瞬だけ景色から視線を外してヴィルヘルムを見た。
「雨が降りそうで降らない頃に、ここからの景色を一度でいいから描いてみたいなって思ってたんだよ」
「あーそうかい、戯画だけじゃ食っていけなくて風景画にも手ぇ出したか?」
キャンバスへと色を載せていく男がけらけらと笑い、ヴィルヘルムが彼とは違い呆れたように言う。が、返事はない。
……しかし、まあ、ヴィルヘルムからすれば暇だった。男は目の前の風景を目に焼き付け、そしてキャンバスへと描いているから暇なわけがないのだが、黙って隣に座っているだけの付き添いからすると暇で暇で仕方がない。
ヴィルヘルムは、普段酒の小瓶を入れているポケットに手を入れる。何もない。そういえば、もう中身がないし洗おうと思ってキッチンに置いてきてしまったことを思い出して、嘆息。
せめて本でも持ってくるべきだった、と少しだけ後悔する。
もしくは、どうせ荷物持ちでしかないのだから今から自分だけ家に帰ってしまおうか。出来上がる頃の大まかな時間を教えて貰えれば荷物を運ぶのを手伝うから、とでも言っておけばいいだろう。
よしそうしよう、とヴィルヘルムが口を開きかけて、止まる。
男が、絵筆を止めてこちらを見ていた。濁った色の目と自分の目が合って、一瞬考えていたことを見透かされたような錯覚を覚えた。
「ヴィル、暇?」
「……暇すぎて暇すぎて、今から帰るかーって考えてた」
「そっか」
話しかけてきた男の反応はそれだけだった。大丈夫? とも、帰っていいよとも言わない。あとはまたキャンバスに向かって絵筆を滑らせていく。
その横顔を眺めながら、ヴィルヘルムはふと、自分の中に前から芽生えていた疑念を唐突に思い出した。
何故この状況で思い出したのかは分からない。今の今まで忘れ去っていた程度の疑惑だ、自分にとって、そして男にとっても恐らく、そこまで重要なことではない。
それでも、言えばこの寒さと暇を紛らわすことくらいは出来るだろうか。
しかし、今更思い出された疑問をそっくりそのまま口に出すのには、些か躊躇いがあった。男のことだから確実にはぐらかすだろうし、馬鹿にするだろう。言ったところで何になるのかという思いもある。
それに、自分としても何か証拠があるわけでもない。ただの第六感に頼りまくった結果導き出した答えだ。
……まあ、だからこそ、言ってしまってもいいか。誰かと交わす会話の半分くらいは大概、そういう心に浮かんだ取り留めのないことだろう。
どんな会話を呼ぶことになったとしても、話題の種になってくれさえすればいい。そう、ヴィルヘルムは思う。
それが、以前自分が同族嫌悪と断じた、人間そのものへの結論に引っかかるものだとしても。
「なあ」
「ん?」
何? と手を止めた男の濁った瞳が、再びヴィルヘルムを捉えた。
それを薄気味悪いと思う事もなく、ヴィルヘルムはまるで「今日食品店で安売りがあるぞ」と告げる時のように軽く、言った。
「あの連続殺人事件、犯人お前だろ?」
ぴた、と男の全ての動きが停止する。
しばしヴィルヘルムを凝視していた男が、おかしなものでも見るような目付きになった。
「何で知ってんの?」
男の答えに、今度はヴィルヘルムが驚愕に目を瞠る。
「マジかよ、鎌かけてみただけだったんだが……いや、マジか、お前」
「うわ、完璧にはまった。ヴィルなんかに鎌かけられた。最悪だよ、まじだよ!」
自分は特に証拠を持っているわけでもない。ただ本当に、何となく、ああこいつなんだろうなと思っただけだ。
決定打がもしあるとすれば、ごく稀に感じていた、酷く濃密な血の臭い。自らの体を傷つけるだけでは到底纏えないような血臭は、かつての戦場で幾度か嗅いだことのあるものに酷似していた。
強いて言えば、それだけだ。
だというのに、それが当たってしまっていたと知ってヴィルヘルムはばつが悪そうに顔を背けて頭を掻く。
最悪、と愚痴った男は、絵筆の先で絵の具を混ぜ合わせながら元軍人から視線を外した。
「……で、何。通報する?」
普通に考えればそうだろう。
被害者の四肢を切り落とし、腹を裂き、臓物を全て取り除いて死体の口に押し込み、その腹に四肢を詰めるような猟奇的殺人犯を、見逃す理由などない。
「俺確か、金かかってるよ」
ヴィルヘルムがそういう正義に生きなくとも、自分には懸賞金がかかっていた筈だ。それも結構な額の。彼は金に困っているらしいから、きっと警察や軍に突き出してくれるだろう。そうしたらこの元英雄も、連続殺人犯を捕らえたとして、また少しは輝けるかもしれない。
男はそう思いながら、混ぜ合わせた絵の具をキャンバスへと塗りたくる。
「いや、しねえけど」
だから、ヴィルヘルムがあっさりと口にした言葉を一瞬聞き逃しそうになった。
「……何で? 懸賞金かかってるんだよ? それ全部貰えるよ? あと多分、すごいいい人扱いされるよ?」
「そういうの望んでねえしな。……それに、お前は嘘吐きだし」
ヴィルヘルムが鼻で笑い、男がぐっと言葉に詰まる。
そうして、自分が犯している罪すら嘘と笑うのか。男の胸に、異質な憤りが湧き上がる。
怒る権利などないことは、理解している。自分は今まで、冗談から不謹慎なものまで、数え切れないだけの大小様々な嘘をついている。
だから男は初めて、ヴィルヘルムをからかうのに嘘を多用していたことを後悔した。
「本当だよ。俺が殺してるの。何なら証拠としてヴィルのこと殺して見せようか?」
「つーか、その為に俺をここに連れてきたんじゃねえのか?」
ヴィルヘルムが肩を竦めて笑った。でも、その通りだから言い返せない。否、男にはもう、言い返す気もなかった。
そう、そうだ。わざわざ彼をここまで荷物持ちの為と言って連れてきたのはその為だ。
何故彼はこうも自分の行動を見透かすのだろう。元軍人故に研ぎ澄まされた感覚だろうか、ならば負けるしかない。
自分はただの連続殺人鬼だ。殺した経験はあれど、殺されそうになった経験など殆どない。自身の命を守る為の感覚を研ぎ澄ます必要もなかった。負けるのは、仕方が、ない。
「何で、そう思ったの」
だから取り敢えず、問うてみよう。何故その結論に至ったのか。
もしそれも何となくだったら、それは第六感が滅茶苦茶研ぎ澄まされているわけではなく単純な被害妄想と自殺願望のハーフだと言ってみよう。
だが、ヴィルヘルムの答えは男が思い描いたどれとも違っていた。
「何でって……お前が、ずっと俺の絵を描かねえから」
少し言いづらそうに口にしたヴィルヘルムが続ける。
「つーか、最初拾われたときから薄々感じてたぜ。ああコイツ俺を殺すつもりだな、って。殺して、それで絵を描くんだなって」
「……そこまで、分かってたんだ」
「何となくな、根拠なんてねえけどさ」
「酷い被害妄想と自殺願望だ」
「そうかもしれない」
あっさりと認められて男は二の句が継げなくなる。ヴィルヘルムに言い負かされるのは、きっとこれが初めてだ。
言い負かされているというより、単純に大体全てを肯定されるから言いようがない、と言った方が正しいかも知れないが。
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