4-自称と自傷
自称と自傷-1
自称戯画絵師の男には自傷癖があった。
手首を覆う醜い傷痕にナイフを重ねて、結構な年月を重ねても色褪せぬ古傷を新たなかさぶたへと変貌させる。
軽く真横に引くだけで皮膜が破れ、下に内包された肉が切れ、開いた一線がぷつぷつと血の雫を滲ませる。血が垂れた。
ぱた、と床に落ちた雫を無感動に見つめて、男はもう一度傷の傍に刃を当てる。
今度は先程よりもより深く。より長く。死なない程度に、しかしひやりとする程度に。
不健康に白い肌に引かれた二本の傷を眺めながら、男は自室の壁にもたれ掛かった。
ごつん、と壁に後頭部がぶつかる音。手元から視線を外した今、視界に入り込む、物。
――画材や絵の具が散乱した床、絵の具が飛び散った壁紙、嗜む細葉巻の煙で変色したカーテン、必要最低限の家具を埋め尽くすようなキャンバス、組み立てっぱなしの画架、紙、その他諸々。
いつもと何ら変わらない、自分の部屋の光景だった。誰にも侵されない自分だけの領域は、いつも通り色取り取りの“なにか”で溢れていた。
見慣れた色だ。男は思う。
せいぜい数メートル四方の自分の世界は、そこが自分自身が作り上げた世界であるが故に、常に見慣れたものになる。
新しいものを取り込もうが、それはすぐに世界の一部に変わっていく。逆もまた然りで、もし何かが欠けたところで、その喪失には多かれ少なかれ時間が経つことで慣れてしまう。
『人は忘れるから生きていける』と言うのなら、それは即ち人は鈍感であるからこそ生きていけるということだ。
亡失とは慣れることだ。慣習の根元を廃忘していくように、人は失うことに慣れていく。
だからこそ、男は今自分の手首に絡みつく痛みを忘れたことはなかった。
力なく首が垂れて、揺らめいた視線が再び赤い線を辿る。
血管を決壊させた二本分の傷口から溢れる血は、止まることなく肌を伝い、ただでさえ極彩色に汚れた床を汚していた。
その色は、自らの体から溢れた命の色は、遠い記憶と寸分違わず鮮烈だった。
――そうだ、忘れたことなど在りはしない。
初めてナイフを握った時のことを。そしてその刃で、傷一つなかった手首をゆっくり裂いた時のことを。襲ってきた一回目の痛みを。薄い皮膚の向こうから漏った血の生温さを。
一つたりとも、慣れたこともなければ失くしたこともなかった。
痛みを感じなくなることはなく、自発的な流血に飽くことはなく。
男は片手にナイフを持ったまま全身から力を抜いて、目を閉じる。
ずっとずっと続けてきたこの行為を異常だと思ったことはなかった。自分に必要なものがこれだった、というだけで、そこに異常も正常もない。
例えば人生に必要だからと大人になってもぬいぐるみを持ち歩く大人がいたとして、それは異常だろうか。大人なら布と綿の塊に愛着を持ってはいけないという意見は正常だろうか。
そこに他者自身が自称する正誤の概念など、入り込む余地は到底ない。
だから、自分は、これでいい。
ふー、と細く息を吐き出すと、何故だか胸が痛んだ。
――それに、息をするように人を殺す殺人鬼がいるのなら、息をするように自分を傷つける人間もいるのではないだろうか。
例えば、喉の渇きを覚えたときに水を飲むように。
例えば、空腹を感じたときに食事をするように。
例えば、眠いときに寝るように。
そんな感覚で自らの手首に刃を走らせる人間も、この世に居るのではないか?
ああ、居るだろう。確実にいる。それを自分が証明している。
取り留めのない思考が自分自身という答えを弾き出した事に、他の誰でもない自分自身が笑う。
目を開き、重い身体を動かして左手を見る。傷口から垂れた血は今や、飲みかけのティーカップの中身をこぼしたくらいには広がっていた。
床を拭くのは後ででいいや、どうせ床に着いた絵の具とかも落とさなきゃいけないし。最近掃除もしていなかったから、丁度いい頃合いだ。
結論づけて、もう一度ナイフを握る手に力を込める。
冷たい刃が熱を持った肌に当たる。ひんやりした感覚を一瞬楽しんでから、今正に引こうとしたときだった。
「――おい、俺が昨日買ってきた酒どこにやった? どこにも見当たらないんだが」
ノックもなしに扉が開け放たれる音と、突如自分の世界に割り込んできた無遠慮な声。
それに男が反応して顔を上げるよりも先に、扉を開けた男の方が瞠目した。
「お前っ!」
怒鳴り、こちらに歩み寄ってくるヴィルヘルムの顔を見上げる。大体陰鬱とした影が差し込んでいる精悍な顔に浮かんでいるのは憤怒だった。
何故そこまで怒っているのだろう、と小首を傾げると、まずヴィルヘルムの手が自分の右手を掴んだ。
凶器を持つ手を塞がれ、男は自分の前に立つヴィルヘルムの顔から目を逸らす。殴られると思った。彼はそういう男だから。
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