9.翡翠堂の変

 その頃清人と玲一路は、東都駅前にある都内最大の術具屋「翡翠堂」で新作の楔や符を見て回っていた。

 八時過ぎでも客は多く、それぞれが自分の買い物を楽しんでいる。


「大丈夫かなぁー?」


 ふと玲一路が口に出すと、清人がそれに反応する。


「青也君?」

「うん。いや、青也君が強いのはわかってるよ。でもこういうのって青也君向きじゃないしー」

「でもさ、いつもなんだかんだで解決してくれるよ」


 清人は可愛らしい柄のクサビと呼ばれる術具を、興味なさそうな目で眺めながら呟く。


「レイは信用してないの?」

「そうじゃないけどー、なんか任せっきりにするのも情けないなぁと思って」

「それ、今言うことじゃないと思う」


 既に頼り切った後の玲一路の泣き言に、清人は流石に呆れてみせた。


 二人はどちらも大人しくて真面目な性分であるが、清人が体を動かすことにおいて真面目なのに対して、玲一路は思考において真面目だった。

 長いこと考えて、悩んで、そしてそれはいつもネガティブな方向に落ちる。


 清人からすれば、玲一路の悩みは無意味であることが多い。

 本当に悩むのなら、カツアゲされたあとにするべきだった。実際に玲一路は何も出来なくなっていて、その手を引いて分家に向かったのは清人である。


「俺だって人のこと言えた義理じゃないけど、レイは下らないことで落ち込みすぎだよ」

「下らないってことはない、と思う」

「そうじゃん。いっつも無いことばっかり気にしてさぁ。さっきだって、此処で何か起きたらどうしようとかさぁ」

「だって今妖魔ないんだよー?」

「此処のセキュリティはしっかりしてるから大丈夫だって」


 それに、と何かを言いかけた清人の口は、背後からの殺気に閉ざされる。

 咄嗟に振り返った清人の目には、妖魔札修繕用のカウンターがあった。


 そこは普段用事があるわけでもないが、それでも今の状態が尋常でないことはわかる。

 カウンターの上に、一匹の巨大な狼が立っていた。


 瞳は妖魔特有の緑色をしているが、歯を喰いしばった口から流れている血の混じった涎や、首に針金で巻きつけられた符のような切れ端が異常性を表している。

 それに何より、その狼が背にしているモニタに表示された文字列は、二人を絶句させるには事足りすぎた。


―所有者:白扇流師範代 白峰清人

―妖魔名:水鏡


「こ、これ、もしかして……」

「キヨの妖魔のデータを上書きされたやつー……?」


 全長二メートルの巨大な狼は、高らかな雄叫びをあげる。

 フロアにいた全員が異常事態に気付いて、それぞれ構えを取る中で、清人と玲一路は硬直していた。


 だが、カウンターを蹴った狼が一直線に向かってくるのを見た瞬間、清人は玲一路の手を取って右側に飛ぶ。

 二人が今まで見ていた棚が弾き飛ばされて、色とりどりの楔が宙を舞った。


 狂った緑色の視線が動いて、呆けている玲一路を捉える。

 血涎がついた前足、鋭い爪が振り上げられた刹那、清人が舌打ちをした。


「させるかぁ!」


 右腕で、すぐ傍にあった鉄製の棚を掴む。

 強力なボルトで留められているはずの土台ごと引き抜いて、その力のまま妖魔に叩きつけた。


 言うならば巨大な鉄槌を食らったに等しく、妖魔はそのまま真横に弾き飛ばされる。

 その音で、漸く我に返った玲一路は自分の脳を動かすために両手で頬を叩いた。


「キヨ、退避!」

「でも!」

「僕たちがこのまま抗うのはリスクが大きすぎる!」


 玲一路の目は妖魔ではなく、清人の右腕を見ていた。

 棚を振り回す時に妖気を使ったために、人差し指の爪が縦に割れている。


 人間は、妖魔やマシラには、妖気を介してしか触れ合うことが出来ない。

 そして妖魔無しで妖気を放出することは、人体にとって大きな負荷がかかるし、与えられるダメージも少ない。


 現に、鉄の棚に弾き飛ばされたにも関わらず、妖魔は復活を遂げていた。

 怒りまじりの雄叫びがフロア中を揺さぶる。


「どうしたらいい?」

「二階に移動するよー」

「外に出たほうがいいんじゃないの?」

「逃避だったらそうだねー。でも僕は退避って言ったはず」


 玲一路の言葉は清人には理解が出来なかったが、それに反論するだけの時間も語彙もなかったので、ひとまず玲一路を小脇に抱えて階段へ向かう。


「僕は降ろしていいんだけどー」

「俺のほうが足速いし、レイぐらいなんていうか毛布程度の認識だから!」


 常識はずれの怪力を持つ少年にとって大抵のものは重力すら感じない。

 この緊急事態で、自分よりも足が遅い玲一路を気に掛ける余裕は清人にはなく、しかし放っても置けないとなれば抱えていくのが一番効率的だった。


「毛布かぁ」


 おっとりとしているところのある玲一路が、少し悲しそうに呟いたのは聞かなかったことにして、清人は一気に階段を駆け上る。

 どうせ此処に青也がいても結果は同じだった。玲一路を抱えて逃げろ、と怒鳴られるのは容易に想像がつく。


 既に異常事態を察知した店内には警報が鳴り響き、居合わせた妖魔士達は暴走している狼を遠巻きにしていた。


「妖魔の暴走か?」

「いや、首にある符を見ろ。恐らく意図的に操られている」

「誰の妖魔だ? ……白峰?」


 うげ、と玲一路を下しながら清人は眉間に皺を作った。

 このままでは、清人が妖魔を暴走させたことになってしまう。

 清人自身には知名度はさほどないとは言え、白峰という苗字は何かと目立つ。


「だから言ったでしょー。逃避じゃなくて退避しようって。ここで逃げたらあらぬ誤解を生むだけだよー」

「でもこっちに来たからって……」

「僕にいい考えがある」


 玲一路の目は、ある物をしっかりと捉えていた。


「キヨ、僕のことを信じて」

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