第七話
髭を剃っていた店長に早退の許可をあっさり貰い、急いで部室に向かう。今にも落ちてきそうな曇天が嫌な予感を増幅させる。
部室棟に入り、三軽の部室がある三階に来たところで異変は既に起こっていた。
三軽以外に部室がないはずの三階で多くの人が部室の様子を心配そうに伺っている。
「何かあったのかな?」
「よくないことが起こってそうだ」
人を掻き分けて部室前まで行くと案の定、大変面倒な事になっていた。
「だから何? あんたには関係ないでしょ」
「関係ありますよ。生徒の才能を伸ばすが私の務めです。いいですか。あなたは才能がある。こんな落ちこぼれが集まる部に現を抜かしている暇なんてありませんよ。あなたの音を待ち焦がれている人がいるでしょ。早くそこに戻りなさい」
苛立ちを隠さない男性の声が廊下まで漏れ聞こえる。
「だから、どうしてそれをあんたに言われなくちゃいけないのよ。何をしようが私の自由じゃない」
「あなたのその自由で、去年どれだけの人に迷惑をかけているか忘れたのですか?」
「それは……」
カノンと向島が部室の中央で口論になっていた。
カノンが突っかかるのは性格的に仕方ないとして、向島は仮にも教師だ。そんな人がどうしてこんな騒ぎを起こしているのか。二人は今にも取っ組み合いを始めてもおかしくない雰囲気だった。
「と、戸神!?」
部室に入るとすぐ横で血の気が引いた戸神が壁にもたれ掛っていた。
「うぅ……二人を……私は保健室に……いく」
うわ言のように呟いてふらふらとその場を後にしてまう。
いったい何をしたらあんなになるのか。
それに後を頼む的なことを言われても、二人の間には紙切れ一枚も入る隙などなかった。割って入ろうものなら、両方から総攻撃を食らう。
「カノンちゃん。いい加減にして」
俺が二の足を踏んでいると、事態を黙ってみていた鈴葉が声を上げた。
「鈴葉……だってこいつがいきなり」
「どんな理由があっても喧嘩は駄目だよ。ここはカノンちゃんだけの場所じゃないんだから。それに先生のことをこいつなんて言わないの」
おっとりとした話し方を変えないままだったが鈴葉の表情ははっきりと不快感を表していた。こんな表情を今まで見たことがない。
カノンは鈴葉からそんなことを言われると思ってもみなかったのか、瞳を大きく開くと唇を固く結び俯いてしまう。
なんだか新たな修羅場の予感がする。
「いったん落ち着いて。何があったのか話を」
「帰る」
居心地が悪くなったカノンはこちらが止める間もなく部室から出て行った。
「また逃げましたか。まったくあれだけの才能を黒人音楽などに使うなんて。宝の持ち腐れですね」
カノンが出て行った方を見ながら教師とは思えない発言をする。
「取り消してください……」
それまで冷静に振る舞っていた鈴葉の様子が一変する。
「は? 何をかな?」
「ジャズを軽視する発言をです!」
「私は別に軽視なんてしていないよ。黒人の苦悩や不満で発展した音楽がジャズ。その場のノリと雰囲気で鳴らす音楽と、芸術として完成された古典音楽とは格が違う。そんなことくらい誰だって知っているはずですよ」
悪びれる様子もなく堂々と偏見を言ってのける彼からは、教師としての人となりを感じなかった。
「先ほどからジャズ=黒人みたいな言い方をしますが、初めてジャズが録音されたのはニューオーリンズ出身の白人5人組バンドです。よく調べもしないで偏った知識ばかりを口にすると恥をかきますよ」
向島は鈴葉の反撃に不快な表情を浮かべながら低く呻る。
これではカノンが鈴葉に代わっただけで、状況は何も変わっちゃいない。
「鈴葉やめなよ」
「だけど」
「俺たちは言い争いをしに来たんじゃないよ」
「そうだね」
納得はいっている様子はなかったが、その場は引き下がってくれた。
「それで、向島先生はうちに何の用があったのですか?」
向島がここに来る理由など一つしかないが、それを聞かなくは話が前に進まない。
「時間のない私に二度も同じことを言わせるつもりですか。良い御身分ですね」
こちらを小馬鹿にした物言い。その一言が時間の無駄だということに本人は気づいていないのだろう。
「まあ、いいでしょう。第三軽音楽部は今月限りで廃部が決まりました。以上です」
廊下の隅々まで届きそうなよく通る声で残酷な宣告をする。
こちらを見下しながら口角をあげたその表情が気に障る。これでよく教師が務まるものだ。
「六月までに部室を綺麗にしておくように」
議論の余地はない。部室から出て行こうとする背中がそう語っていた。
「理由は何ですか?」
「今後の活動予定はなし、新入生もなし、三年生が抜ければ部としての形も保てない。そんな部に未来はありますか? 改善の余地はありますか?」
俺の反論なんて予想のしていたのだろう。あらかじめ用意していたかのように淡々と理由を挙げていく。
「部員が増える可能性はまだありますし、実際に定数を割るのは来年です」
「限りなくゼロに近い未来の話をして何になるんですか?」
「それなら今後の活動予定があれば良いんですよね」
そう言って俺は鞄から用意していたパンフレットを取り出す。新人ミュージックフェスティバルは今年も変わらずに行われる。
「これに出れば七月までの活動予定が決まります。それでもこの部は廃部ですか?」
「ヒロくん……それは」
暗い影を落としていた鈴葉の表情に、さらいに色濃く影が落ちる。
「参加資格なら大丈夫だ。新入部員を含んだバンドって書いてあるし」
俺は二年だが新入部員である事に変わりはないので問題ないはず。それでも部室に溜まった重い空気を跳ね除けることはできなかった。
「参加を許すことはできませんね」
「何故ですか?」
「新フェスはお遊びではないですよ。音楽界の著名人を招待しての演奏になります。思いつきで出ると言われても」
活動予定がない事が廃部の理由に挙げておいて、活動内容を示せば頭ごなしに否定する。矛盾だらけじゃないか。
「それに去年のことがありますからね」
「去年?」
「ヒロくん、あのね」
ここでようやく暗い顔で床を見つめていた鈴葉が口を開いた。
「ヒロくんはカノンちゃんと一緒に出る気なんだろうけど、出てくれないと思うの」
鈴葉らしくない諦めが含まれた後ろ向きな言葉。
「去年の新フェスにカノンちゃんは出るはずだったの」
はずだった。ということは。
「カノンちゃん本番直前で倒れちゃって、何が原因かわからない。それ以降カノンちゃんは誰とも演奏したがらないの。ごめんね。今まで黙ってて。ヒロくんのやる気に水を差すようなことしたくなくて……」
亀田先輩の言っていた色々とはこのことだったのか。しかし、俺にとってはなにを今更と言った感覚だ。カノンが何かを抱えているのは知っている。それに俺がしっかりとベースを弾けるようにアドバイスもくれた。
もし仮に全てを諦めていたとしたら、俺にアドバイスなんてするだろうか。一人で練習するだろうか。
カノンはまだ諦めていない。それなのに俺たちが諦めてどうする。
「これでわかったでしょう。所詮、あなた方が出たところで」
「だから何だ」
辺りに異様な静けさが漂う。
「去年のことなんて関係ない。俺は今の話をしているんです。カノンは必ず俺が連れて来ます」
「はっ、冗談も大概にしていただきたい。彼女があなたのような素人と演奏するとでも」
「それは興味深いですね」
部室前に集まる野次馬の後ろから凛とした声が上がる。それに反応するように野次馬が左右に割れた。
「唯敷さん?」
突然現れた唯敷さんは厳格さを纏ったまま、口元をわずかに上げている。
「参加を認めて見てはいかがですか? 先生」
「え?」
「律ちゃん!?」
「あなたは、何を考えて」
思わぬ提案にその場にいる全員が表情を驚きに変える。野次馬にもどよめきが走った。
「あの久瀬カノンが活動を再開する。これほど興味深いことはありません。そう思いませんか?」
「しかしですね」
「いま潰してしまってはこちらに大義がなく、批判を浴びるのは必須。それにもし失敗するようなことがあれば、それを理由に解散させれば良いでしょ。それとも先生は久瀬カノンの才能をこのまま摘んでしまいたいのですか?」
唯敷さんの言っている事は筋が通っており誰も反論することができない。これではどっちが教師かわからない。
「わかりました。ではこうしましょう。今度の新フェスで三軽が賞を獲得した場合、私の見識が間違っていたと判断し、廃部の件は白紙にし、土下座して謝りましょう」
さすがに大人に土下座させられても困るだけだが、この提案に乗らないという選択はない。
「わかりました。受けて立ちます」
「待ってヒロくん。それは」
「楽しみにしてますよ。まあ大恥をかく前に辞退することをお勧めしますけどね」
向島は勝利を確信している表情を浮かべて部室を後にする。
賞を取ることがどれだけ難しいのか正直よくわかっていない。しかし、カノンが出ればそんなことは簡単にできてしまうような気がした。もちろん自分が足を引っ張らなければの話だ。
「では私もこれで失礼します」
「ありがとう。味方してくれて」
天に向かって真っ直ぐな背中にお礼を言う。
「味方? 勘違いはしないでください。私はあなた達の味方ではありませんよ」
唯敷さんは鋭い睨みで野次馬を蹴散らしながら去って行った。
「ヒロくん。まんまと罠にはまったね」
野次馬も去り、寂しさが漂う部室に鈴葉の溜息がもれた。
「罠って?」
「律ちゃんの目的は、三軽を潰す事とカノンちゃんを表舞台に戻すこと」
「でも、賞を取れば問題はないだろう」
「私たちが賞を取る確率は宝くじを当てるよりも低いと思うよ」
「俺ってそんなに下手くそなのか?」
「それもそうだけど……」
少しは否定してほしい。
「よく考えて。評価をするのは誰? 来賓の人は誰が呼ぶの?」
「そういうことか」
これはうちの高校が主催しているコンサートだ。向島の息のかかった人物が呼ばれることは間違いない。
深く考えていなかった。唯敷さんって真面目な顔して腹黒い。
しかし、あれだけ多くの人の前で約束をしてしまった以上、撤回は出来ない。
「とにかくやるしかないだろう。誰にも文句を言われない演奏を俺たちがすればいいわけだし」
「簡単に言うんだね」
「言うだけならタダだ。それはそうとカノンを表舞台に戻すってどういう意味?」
「ヒロくん本当に何も知らないんだね……」
鈴葉は呆れと戸惑いを含んだ苦笑いを浮かべる。
「カノンちゃんはプロのトランペット奏者なんだよ」
プロ? それってかなりのアドバンテージじゃないか。というか、どうしてプロがこんなところにいるんだ?
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