第6話 ⚪アキレスと亀の矛盾は理解できる人だけのものだ。つまり、特別な宝物だ。

⚪アキレスと亀の矛盾は理解できる人だけのものだ。つまり、特別な宝物だ。



【大原美憂】当日

 ビジネスホテルの簡易テーブルの上に広げた資料の中に、マサチューセッツの某大学教授が書いた論文に対する批判があって。大原美憂はそれから目を逸らす事ができなくなった。

 元々、新薬の宣伝の為に本社のある東京から九州下りまで来て研究員の自分が営業活動の真似事をさせられなければならないことにも納得が出来てはいなかった。更に地回りのような戦略的ではない営業展開をしている九州支店のことも気に入ってはいない。それにも増して川副という支店の営業課長程度の男に新薬の解りやすい資料を作成してくれと懇願されてそれを拒めなかった自分にも腹が立った。集中は散漫になり宣伝に使える論文より自分の興味ある記事へ意識は向く。当然のように、美憂はそれを睨み続ける。

 教授によれば夢から得る情報の統合が可能なら、未来の予測が可能だとの云うのだ。勿論それは多くの著名な学者や信頼ある科学雑誌に批難されることになったのだが、同時に世界各地で特定の地域毎に同系統の夢を見ているとの信憑性の高いデータもある。つまり、夢が統一性のある何らかの予測的情報を含んでいることを完全に否定する必要はない。可能性がある限り例えそれが僅かでも調べる価値はある。

 美憂はそこまで考えてから帰りにコンビニで買ってきた缶ビールを喉に流し込んだ。既に頼まれている販売促進の為の資料を作るつもりもない。いくら説明しても営業部の連中は薬の仕組みをまるで理解しようとしない。薬品を混ぜ合わせれば夢のような新薬が出来上がるとでも考えているに違いない。だが、世に出回っている薬の大半は文明社会から逸脱した世界に住む原住民等の呪いや迷信からヒントを得ている。日本で考えるなら消化器系全般の薬として使われる熊胆は、熊の胆と呼ばれて西洋医学的な思考など全く無かった飛鳥時代から利用されていたとする記述も残されている。材料は名前の通りクマの胆嚢であり乾燥させて造られ、古くからアイヌ民族の間でも珍重されてきた。恐らく始まりは勇猛な熊に肖りたいと願う気持ちを持った狩人達から発想されている筈だ。更に考えるならアイヌ民族の末裔には完全に死亡した細胞から機能性だけを復活させることの出来る薬を調合できるという噂が現代においても真しやかに囁かれていて既にアメリカの大手製薬会社が調査と権利取得の為の動きを始めている。

「人間のやることの九十九パーセントは失敗だ。だから、何にも恥ずかしがることはない」

 美憂は、友人に薦められて読んだ伊坂孝太郎の小説の一節を言葉にして発した。タイトルは確かガソリン生活か何かだった気がする。特に好きな作家と云うわけでもなかったが是非にとの事で読んだが読めばやはり人気の作家だと理解できる。考えて、飲み掛けの缶ビールを飲み干し一緒に買ってきていたスルメの足も口に放り込む。それを噛みながらバスルームに向かい浴槽に湯を張る。ベッドへ戻ると広げた明日の衣類を暫く眺めてテレビのスイッチを入れた。地方局の垢抜けないキャスターが公園のような場所で黄色いヘルメットを被り何かを必死に怒鳴っている。テレビ画面の向こう側が大きく揺れる。冗談のようにカメラの視界が反転して地面を天として映し出す。

「何これ……」

 美憂は、呆れながら呟いてその画面を注視する。

『助けて』

 世界の反転した映像の中に一瞬、垢抜けないキャスターが入って声にならないような懇願を繰り返す。直ぐにスタジオに画面は切り替わったがそこに座るアナウンサーも呆然として画面を見詰めている。

「何これ……」

 時間が緩慢に動いているような感覚がして、美憂はもう一度呟いた。





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