男娼と飯炊き少女

彩崎わたる

第一章 男吉原にやってきました

第1話 ここが天下の男吉原

「うわあ、別世界だ……」


 すずは目の前の光景に思わず嘆息を漏らした。

 瞳の中に朱色が飛び込んでくる。眩暈めまいがするほどの赤、赤、赤だ。真っ赤な提灯ちょうちん。紅の格子こうし。空気そのものがぼんやりと赤く染まっているかのような気さえしてくる。


「どうだ! ここが天下の男吉原だ!」


 隣に立つ連れの男が得意気に言った。まるで自分の庭だと言わんばかりに解説を始めた連れの男の言葉は、すずの耳を見事に素通りしていく。

 すずの耳に響くのは、みやび三味線しゃみせんの音色と、夜とは思えないほどの活気に満ちたざわめきだけだ。


「ほら、ぼーっとしてないでついて来い」


 いつの間にか大門をくぐり抜けていた連れの男が、少し前で手招きをしている。

 すずも慌てて後を追った。


 大門を抜けた先の大通りは、軒下にずらりと赤提灯がぶら下がり、道の両端に立てられた赤灯篭あかどうろうが夜闇を嘲笑あざわらうかのように周囲を照らしている。道を行く人々も手に手に提灯を持っているせいか、とても夜とは思えない。人々を惑わせる妖しい魅力に満ちた明るさだった。


 慣れない明るさに目を瞬かせながら歩いているすずは、何度も人にぶつかりそうになった。その度に謝るのだが、どの人もいかにも高そうな着物を着た女の人ばかりである。


「女の人ばっかりだ……」


 ぽつりと呟けば、連れの男は嫌そうな顔をした。


「当たり前だろう。ここを男一人が歩いていたら、そいつは間違いなく男色家だ。おお、気色悪っ」

「男色家も来るの?」

「そりゃ……まあ。たまには来るだろ、そういうやつも」

「ふーん」


 そういうものか、と思った。すずにしてみれば、この手の世界そのものが新鮮であり、日常と切り離された別世界だ。だがこれからはその非現実的な世界が、すずの日常になるのである。

 大人しく連れの男の後をついていく。


「そこの可愛い子猫ちゃん。どうだい、いい男娼のいる見世に連れていってあげるよ」

「ほら、ほら。ちょっと寄っていきなって」


 道の両脇に軒を連ねた引手茶屋ひきてちゃやでは、鬼簾おにすだれと花色暖簾のれんが華やかに揺れ、若い者が道行く人に声を掛けていた。連れの男はそれらを素通りするように迷いのない足取りで目抜き通りを抜けていく。そうしてだいぶ奥まで進んだところで、連れの男がひょいと道を曲がり、木戸門をくぐった。


「あんたが世話になる見世はこの先だ」


 そう言ってずんずん進んでいくが、すずは両脇に並ぶ格子の中から送られてくる視線が気になって仕方がなかった。


「あ、あのさ……本当にこの道で合ってる?」

「はあ? 俺が男吉原で迷子になるわけないだろ」


 連れの男の返事はすげない。


「いやだってさ、さっきの道と比べてだいぶ雰囲気が……」


 言葉を濁してちらりと横を見る。


 今までの道が健全な明るさに見えるほど、この道の雰囲気は独特だった。何がと言われても困るのだが、空気が雨上がりのようにしっとりと濡れ、どこか肌にまとわりついてくるのだ。 

 人の往来が少ないからか、ざわめきは葉擦れのようなささやきへと変わり、夜空に飲み込まれるように消えていく。他の道で見かけた若い衆の勧誘もなければ、張見世からの甘いお誘いもない。落ち着かない静けさだった。


 そして何よりすずが落ち着かないのは、張見世から投げかけられる独特の視線だった。

 決して言葉を発することはないのに、彼らの視線は言葉よりもよっぽど雄弁に、道行く人を誘惑してくる。見たが最後、目を離せなくなるのは必至。とてもじゃないか、正視できたものではなかった。


「いまさら何言ってんだ。あんたが男吉原行きを望んだんじゃねえか」

「そ、そうだけど」


 すずの煮え切らない返事に業を煮やしたのか、連れの男がじろっと睨んできた。


「それとも河岸見世かしみせ鉄砲女郎てっぽうじょろうにでもなるってのか?」

「じょ、冗談じゃない!」

「なら、このくらいで怖気づいてんじゃねえ。……まったくなんだってあんたみたいな奴を雇おうって気になったんだか。又六のおやじもつくづく読めん男だ」


 言い返したいところだったが、実際すず自身もなぜ自分が雇われたのか、皆目見当もつかないのだ。

 すずの雇われ先は、この男吉原でも随一の大見世である葵屋あおいや。男吉原についての知識に乏しい者でもその名前ぐらいは聞いたことがあるというほど有名な見世だった。


「ほら、ここだ」


 連れの男がぴたりと止まる。


「うわあ……」


 本日何度目かの嘆息がこぼれる。

 大見世の証である全面が朱塗りの総籬そうまがき。これ以上ないほど華やかな装飾が施されているにもかかわらず、派手な嫌らしさはない。それでも見る者を圧倒するのは、その大きさだろう。中見世の軽く二倍はありそうな見世は、どれほど中が広いのか。まるで大名屋敷だ。


 すずが見世の造りに見とれている間に、連れの男はさっさと中に入ってしまった。


「あ、待って」


 慌てて追いかけようとしたところで、突然目の前が煙で白く曇った。


「えっ、なに?」


 すずが驚いて立ち止ると、格子の中から喉の奥で笑うような声が聞こえた。


「ねえ、僕を買ってよ」

「はあ?」

「お姉さん、僕の好みだから安く……ってあれ? お姉さんじゃなくてお嬢さん?」


 煙の向こうからいぶかしむような声が聞こえたかと思うと、男が手で煙を払いながら、目をすがめてこちらを見ていた。


「うわあ……!」


 知らずに口から歓声が出た。絵師が一本の筋を描いたかのようにすーっと伸びた鼻梁びりょうに、涼やかなくせして熱を秘めた瞳。目じりに紅を引いた視線が妖しく艶っぽく、見る者の視線を絡めとる。程よい肉付きの唇は口づけするときを想起させ、すずは顔が赤くなるのを感じた。


 今まで見たこともないほど端麗たんれいな顔立ちだった。見目麗みめうるわしいとはこういう者のことを指すのだろう。そこらの男どころか女吉原の花魁でさえ、この秀麗さには敵わない。

 ああ、やっぱり男吉原に来てよかった。眼福がんぷく

 心の中で叫ぶすずのことなど知る術もないその男は、優美な手つきで煙管きせるをくるりと回すと、口の端から細く煙を吐いた。


「なんだ、ガキか。ああ、もしかして今日うちに来るっていう飯炊き女?」


 絶句――。

 すずは目を白黒させた。


「うわあ……」


 今度ばかりは嘆息でも歓声でもない。絶望に満ちたため息だった。


「いやだ。こんなに綺麗なのに。こんなに容姿端麗なくせに、性悪なんていやだ」

「おい、誰が性悪だと」


 張見世の中で、見世物小屋の猛獣よろしく牙をきかけた生き物に、すずはげんなりと肩を落とした。


 と、見世の中から連れの男がすずを呼ぶ声が聞こえ、暴れ出しかねない猛獣の前から逃げるように、すずは見世へと入ったのだった。

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