男娼と飯炊き少女
彩崎わたる
第一章 男吉原にやってきました
第1話 ここが天下の男吉原
「うわあ、別世界だ……」
すずは目の前の光景に思わず嘆息を漏らした。
瞳の中に朱色が飛び込んでくる。
「どうだ! ここが天下の男吉原だ!」
隣に立つ連れの男が得意気に言った。まるで自分の庭だと言わんばかりに解説を始めた連れの男の言葉は、すずの耳を見事に素通りしていく。
すずの耳に響くのは、
「ほら、ぼーっとしてないでついて来い」
いつの間にか大門をくぐり抜けていた連れの男が、少し前で手招きをしている。
すずも慌てて後を追った。
大門を抜けた先の大通りは、軒下にずらりと赤提灯がぶら下がり、道の両端に立てられた
慣れない明るさに目を瞬かせながら歩いているすずは、何度も人にぶつかりそうになった。その度に謝るのだが、どの人もいかにも高そうな着物を着た女の人ばかりである。
「女の人ばっかりだ……」
ぽつりと呟けば、連れの男は嫌そうな顔をした。
「当たり前だろう。ここを男一人が歩いていたら、そいつは間違いなく男色家だ。おお、気色悪っ」
「男色家も来るの?」
「そりゃ……まあ。たまには来るだろ、そういうやつも」
「ふーん」
そういうものか、と思った。すずにしてみれば、この手の世界そのものが新鮮であり、日常と切り離された別世界だ。だがこれからはその非現実的な世界が、すずの日常になるのである。
大人しく連れの男の後をついていく。
「そこの可愛い子猫ちゃん。どうだい、いい男娼のいる見世に連れていってあげるよ」
「ほら、ほら。ちょっと寄っていきなって」
道の両脇に軒を連ねた
「あんたが世話になる見世はこの先だ」
そう言ってずんずん進んでいくが、すずは両脇に並ぶ格子の中から送られてくる視線が気になって仕方がなかった。
「あ、あのさ……本当にこの道で合ってる?」
「はあ? 俺が男吉原で迷子になるわけないだろ」
連れの男の返事はすげない。
「いやだってさ、さっきの道と比べてだいぶ雰囲気が……」
言葉を濁してちらりと横を見る。
今までの道が健全な明るさに見えるほど、この道の雰囲気は独特だった。何がと言われても困るのだが、空気が雨上がりのようにしっとりと濡れ、どこか肌にまとわりついてくるのだ。
人の往来が少ないからか、ざわめきは葉擦れのようなささやきへと変わり、夜空に飲み込まれるように消えていく。他の道で見かけた若い衆の勧誘もなければ、張見世からの甘いお誘いもない。落ち着かない静けさだった。
そして何よりすずが落ち着かないのは、張見世から投げかけられる独特の視線だった。
決して言葉を発することはないのに、彼らの視線は言葉よりもよっぽど雄弁に、道行く人を誘惑してくる。見たが最後、目を離せなくなるのは必至。とてもじゃないか、正視できたものではなかった。
「いまさら何言ってんだ。あんたが男吉原行きを望んだんじゃねえか」
「そ、そうだけど」
すずの煮え切らない返事に業を煮やしたのか、連れの男がじろっと睨んできた。
「それとも
「じょ、冗談じゃない!」
「なら、このくらいで怖気づいてんじゃねえ。……まったくなんだってあんたみたいな奴を雇おうって気になったんだか。又六のおやじもつくづく読めん男だ」
言い返したいところだったが、実際すず自身もなぜ自分が雇われたのか、皆目見当もつかないのだ。
すずの雇われ先は、この男吉原でも随一の大見世である
「ほら、ここだ」
連れの男がぴたりと止まる。
「うわあ……」
本日何度目かの嘆息がこぼれる。
大見世の証である全面が朱塗りの
すずが見世の造りに見とれている間に、連れの男はさっさと中に入ってしまった。
「あ、待って」
慌てて追いかけようとしたところで、突然目の前が煙で白く曇った。
「えっ、なに?」
すずが驚いて立ち止ると、格子の中から喉の奥で笑うような声が聞こえた。
「ねえ、僕を買ってよ」
「はあ?」
「お姉さん、僕の好みだから安く……ってあれ? お姉さんじゃなくてお嬢さん?」
煙の向こうから
「うわあ……!」
知らずに口から歓声が出た。絵師が一本の筋を描いたかのようにすーっと伸びた
今まで見たこともないほど
ああ、やっぱり男吉原に来てよかった。
心の中で叫ぶすずのことなど知る術もないその男は、優美な手つきで
「なんだ、ガキか。ああ、もしかして今日うちに来るっていう飯炊き女?」
絶句――。
すずは目を白黒させた。
「うわあ……」
今度ばかりは嘆息でも歓声でもない。絶望に満ちたため息だった。
「いやだ。こんなに綺麗なのに。こんなに容姿端麗なくせに、性悪なんていやだ」
「おい、誰が性悪だと」
張見世の中で、見世物小屋の猛獣よろしく牙を
と、見世の中から連れの男がすずを呼ぶ声が聞こえ、暴れ出しかねない猛獣の前から逃げるように、すずは見世へと入ったのだった。
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