囁く声
「何か変わった話ですか?」
そう答えれば鼻息荒く先輩が机越しに身を乗り出して来る。
「そうそ、アンタなら何かそういうの知ってるかと思ってさ」
そういって懐からそっとクッキーを差し出す先輩。お菓子に目がない私に対するいつもの手口である。
何を期待されているのかわからないが、とりあえず差し出されたクッキーに遠慮なく手を付ける。思案を巡らせた結果、私はとりあえず、「ご期待には沿えないと思いますよ」と前置きをした上で先日起こった出来事を仕方なく話すことにした。
私は昔から声優になるのが夢で、キャラクターの一般応募の広告を見付けては録音して応募するのが常である。しかしながらネックなのは……自身が機械音痴であるということ。いや、機械との相性が悪いというべきか。何か電磁波でも出しているのか、パソコンの授業を受ければ高確率で画面はフリーズを起こし、携帯を使おうとすれば例えそれが電波塔の横だろうがアンテナは良くて一本、カラオケに行けばマイクやデンモクは壊れるし、下手をすると自動ドアが開かない。そんな私が録音機材を使いこなせるだろうか、いや在りえない。数年前に初心者にも使いやすいと友人に選んでもらったパソコン用の収録機材を使い続けてはいるが、壊れて使えなくなっていないのが奇跡といえよう。ただ起動の度にエラー表示、収録時のマイク機能の不具合、再生中に原因不明の停止……。そんなこんなで未だ一部の機能しか使いこなせてないのが実情である。誠に遺憾である。ちなみにこの話をする度に先輩は爆笑の嵐である。全く以って失礼な。
それはさておき。
その日も休みを利用して私は一人、家で応募の既定の台詞を録音していた。
RECボタンを押し、マイクに向かい台詞を言い、言い終えると停止ボタンを押す。そしてイヤフォンを耳に付けて台詞を聞く。良いと思ったらその音源を保存し、ダメだと思ったら戻るボタンを押し、録音前の何もない状態に戻しまた新しく録音していく。その繰り返しである。とりあえず可能な限り録りためて、改めて数日後に聞きなおして選別していくのが私のいつもの流れだった。
それはその日何度目かの録音したものを聞きなおしていた時だった。
「ただいま」
私のセリフ途中、すぐ近くでイヤフォンから女の声がした。
思わずイヤフォンを投げ捨て停止ボタンを押した。
ゆっくりと背後の唯一の出入り口に目を向ける。誰もいない。
……今のは聞き間違いだろうか。だって、録音したときはこんな声、私の傍では確実にしていなかった。イヤフォンなんてつけていなかったんだ、こんなはっきりと聞こえる声なら私が気づかないはずがない。そもそも私は一人暮らしなんだ。こんなこと在りえない。
何度か深呼吸をし、意を決して震える手でもう一度再生ボタンを押してみる。
「ただいま」
―――確かに先程と同じ個所で女の声が聞こえた。それは明らかに私の横で録っていなければ入らないような大きさの声で、私はこの声を知っているような気がした。
なにかのネタになるかもしれない。そんな好奇心も少しあって、その音源は一応保存しておくことにした。念の為、間違って不意に聞いてしまわないよう音源のタイトルに印をつけておく。
そうすると何処か吹っ切れたのか、強気になる自分がいた。元音源をもう一度再生してみる。やはり同じ個所で「ただいま」と女の声がした。今度は止めずに先に進めてみることにした。耳を澄ますと既定の台詞を言う私の後ろで微かに息をする音が入っていた。それはあちらこちらへと動き回り、やがて力尽きたようにバタンと倒れこんだ。
……この流れを私は知っていた。
「んで、よくよく調べてみたら、昔録った別キャラクターの音源でした。そりゃあ、何処かで聞いた声ですよね。私の声ですもん」
「……なぁんだ、詰まんないオチ」
先輩は口を尖らせ酷く残念そうに私を見つめた。
「だから言ったじゃないですか。ご期待には沿えないと思いますよ、って」
先輩は暫く、うんうんと眉間に皺を寄せ唸った後、「また何か面白い話あったら教えてよ」と軽快な足取りで去っていった。
はいはいと適当な相槌を打ってそんな先輩を見送ったわけだが、……この話にはまだ続きがある。先輩は気づかなかったのだろうか。私はその収録前後“録音と戻るボタンしか押していなかった”のだ。どこに入っているかも覚えていない昔の収録物を、機械音痴の私が一体どうやってその瞬間そこに出したというのか。いやその話は、今は置いておこう。
あの収録から数日後。私はいつものように選別の為、あの日録った音源を聞いていた。そんなとき、同じフォルダに入れていた件の音源がふと目についた。まぁ、出来心、とでもいうのか。妙にそのファイルが気になって、改めて再生してみたのだ。あの声が入ってくるタイミングは分かっている。それでも微かな音も聞き逃さないよう、耳に意識を集中させる。――――もうすぐ。私はゆっくりと目を閉じた。
が、そこにはなにもはいっていなかった。「ただいま」と聞こえるはずの私の声はどこにもなく、その台詞の後に入っていたはずの息の音すら入っていなかった。確かに保存したはずだったのに。今なお流れ続けているのは、馬鹿みたいに明るい声で演じている応募用に録った私の声だけ。
結局、あれは何だったのだろう。流し続けていた音源が「ありがとうございました」と録音の終わりを告げた。そのとき
「いってきます」
そう聞こえた気がした。
はっとして、少しだけ音源を巻き戻す。
「いってきます」
確かに入っていた。録った覚えのないそれは私の声のようでいて、知らない女のもののようで……私は息をつく。
その後、確かにあったはずのあの音源は、いくら探しても見つかることはなかった。
彼女はあの時、確かに「いってきます」と言っていた。ならば彼女はまた私の家に戻ってくるのだろうか。もし、戻ってくるのなら彼女は――。
既にいるはずのない先輩が去っていった方へ視線を向ける。
これを先輩に伝えたところでどうなるわけでもないしなぁ。
少し考えて、私は目の前にある先輩から貰った残りのクッキーを口いっぱいに頬張った。
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