コールタール・コルタイル -THE FATAL MOMENT HAS COME 0.0-

ふじ~きさい

第1話 ZERO

 神州秋津国星系――芙蓉ふよう。その一都市、虎爻ここう。神州秋津国で唯一といっていいスラム街である。


 夜半。にわかに降り出した雨に濡れる虎爻ここうのビル間の影で、人型のケモノが乱舞している。コンクリートの壁面を容易く砕く鉤爪。雨飛沫を飛ばして唸る豪腕。つちを圧す脚。人間のサイズに収まっておきながら、繰り出される暴力の数々は人の域に収まるものではない。ケモノだ。猛獣に類する、もしくは超えるほどの膂力の丈はスラムをコンクリートジャングルにしたケモノにほかならない。


 憎しみ合い、傷つけ合い、削り合い、喰らい合うケモノが二匹。身体の大部分はコンクリートに偽装するかのような灰色。なるほど、確かに彼らは街をジャングルに見立てたケモノに違いない。ならば、硬質的な艶めきが仄かに感じられるのは、肌がコンクリートであるならば、金属の骨や甲羅か何かか。


 絡み合っていた両者が離れる。水溜まりを転がり、廻転の勢いに遅れて飛沫が舞う。一方は壁面に寄せられたゴミ溜めにぶつかり、酒類のものとおぼしい瓶や、何に使ったものやら注射器を地面にばら撒いた。息を切らす声がしばし雨音と饗宴し、そして息切れは唸り声へと変化する。ビルとビルの間の袋地で、ケモノ二匹が覇を競って吠え猛っているのだ。


「よお」


 コンクリートと豪雨が見下ろす修羅の巷に場違いな声が響く。断じて、二匹のケモノが発したものではない。示し合わせたかのように、二匹は飛び退いて声の主へと視線を注いだ。袋地を外部へとつなげる唯一の隘路の向こう――昏い闇間から男が幽鬼の如く顕れた。けぶって視界さえ覚束ぬ大雨だというのに、傘もささず濡れるがままに身体を晒している男は奇妙に過ぎた。ケモノが争っているさなかに身を曝け出して乱入するなど、両者に襲いかかられるのが当然なのだが、二匹は警戒心から弾け出しそうな身体に待ったをかけた。


 無防備にすぎる乱入者は暗い金髪を雨に濡らしていた。無精髭も相俟って、何処か獅子のたてがみに見えなくもない。確かに、悠然たる態度で、やおら両者に近づく男には百獣の王の貫禄があった。


 水を吸って重みを増したであろうスカジャン、都市迷彩のカーゴパンツ、丈夫そうな軍靴。虎爻ここうでは珍しくはない出で立ちだが、しかしそんな印象を肩に担いだ物が否定していた。無骨な黒い金属製のベルト――熾烈な使い込みに耐えてきた証に、ところどころ鍍金が剥がれて蒼然たる趣があった。ベルト状のローラーチェーンに似たそれを気怠げに、腰に巻く。


 剥がれた鍍金からは下地に使われた色が顕れ――しかし、バックル部分は奇妙な形をしていた。プレート型のバックルは無骨さの中にも工業製品じみた複雑さが散逸しており、脇からはスロットルパイプやグリップを始めとするバイクハンドルのような部品が突き出されていた。何より奇妙なものはプレートに埋め込まれた電光部品だ。巨大な瞳にうろから見つめられている心地悪さがある。瞳からは鈍い紫の光が篭もれ、これが尋常な代物ではないことを雄弁に語っていた。


 ゆるりと隙のある、しかし油断を許さぬ気配を漂わせる男に、対決の意志を揺るがせられたのか、二匹のケモノは数歩後ずさる。男が歩を進めるごとに二匹のケモノは横に広がり、自然と男を頂点として三角形――三つ巴の構図が生まれる。しかし、あれほどの身の丈に合わぬ超破壊を見せたケモノが何故、只人でしかない男に怖じる必要があるのだろうか。警戒の唸りが雨に雑ざる。ケモノたちは臭いヽヽで既にこの男が薄いヽヽことを察していた。所詮はただの人間、と断じて解体するのも容易いはずなのに、何故。


 対立していたケモノ二匹は同じ思考、同じ疑問へと至り、これを読んでいたと言わんばかりに男は、自らを頂点としてちょうど正三角形になる位置で歩みを止め、獰猛に笑む。ベルトを撫で、バックルから生えたスロットルのレバーを握りこむ。


 眼球が充血し血の筋が顕わとなるかの如く、紫の瞳の周りから紅い筋が入り始める。


「グレイ……フォーミング」


 更にスロットルを捻った瞬間、それを呼び水に充血ヽヽした瞳から迸る紅の光炎。同時に灰色の汚泥を思わせる組織が男を包んだ。灰色の泥をかぶった男を燃やす紅い光炎が紫に染まり、衝撃と共に辺りに高温を撒き散らした。奔流と言っても差し支えない驟雨に負けず燃え続ける焔の中、顕れたのは紫色の人型猛獣。


 身体を奔る不規則な斑紋と網目の斑紋は血色。腕部と脚部は腰に巻いたベルトと同じ質感の籠手と脛当となっており、それぞれ呀を思わせる鋸刃が並んでいた。自ら生み出した焔に舐められている身体には艶があり、金属質な甲殻といった面持ちだ。瞬きをしない瞳は無機質な緋色の光が彭と闇の雨間から浮かび上がる。人型爬虫類といった相貌は見るからに強靭なクラッシャーを持ち、シャッター状のスリットが口を挟んで存在していた。


 廃墟の雨底で誕生した、全身から紅の気炎を纏わせる新たなケモノ。撫でた頚を軽く回す様は人の仕草に似ていたが、姿は人型の異形にほかならない。むしろ、仕草が人めいていることが気味の悪さに拍車をかけているとも言える。


『……来いよ?』


 罅割れた声が狂宴を誘う。声帯も変化をしているのか、人の言葉だというのに何処か非人間的な響き。雨が一層烈しさを増す。雑な仕事の舗装はただでさえ凹凸著しいというのに、ケモノ二匹の乱舞でそこらかしこに闇に落ち込む穴が潜んでいるかのようだ。


 夜闇と雨が蒼い深淵を描き、数歩先も見通せぬ水烟りが辺りを覆い込む。視界を封じる白霞は夜色に侵蝕され、目に映る瘴気となって人の世界を修羅の世界に染め上げた。変化は余人の想定に足る効果をもたらした。二匹のケモノの姿が曖昧模糊となり、そして消える。殺気だけが残滓として残るも、煙が大気に溶けるが如く位置は一向に掴めぬ。


 だが、ベルトを撫でた紫のケモノは怖じず動じず。ゆるりとした立ち姿のままで、徐ろに視線を巡らせる。その有様は視界を封じられたケモノの姿とは到底思えない。小春日和の散歩道をそぞろ歩く呑気ささえ見せて――。


 己に向けられた鉤爪の一掻きを悠揚と身をよじり、脅威を脅威として認識せずに躱してみせた。空を切る爪は軌道のままに夜に飃を呼び、驟雨をかき乱す。その余波だけで威力を推して測るには余りある。


『フン』


 鼻で嗤った――尤も鼻があるのか疑問だが――紫が、再度大気を震わせた爪を潜り、ケモノへと拳を繰り出した。腹に突き刺さった拳に身悶えるケモノ。見れば、灰色の人型猛虎とも呼ぶべきケモノだ。身体に疵と紛う溝が走り、蒼色が脈動する。

『ほらよ!』


 虎のケモノの顔面を鷲掴み、無造作に投げる。泡を食ったのは残る一匹のケモノだ。如何なる感覚器官によるものか、密やかに紫のケモノの後ろ、絶対的優位をとっていたはずの己に虎のケモノが投げ込まれたのだ。衝突。衝撃自体は大したものではない。だが、虚を突かれたのは事実。


 そして、ケモノの本能は生じた隙を逃がさない。歩み寄った紫の蹴り――防禦した腕が芯から痺れる。まるで鈍器を叩きつけられた感触。人型の蜻蛉もかくや、巨大人型肉食昆虫とも言うべきケモノが反撃に顎を開くも、感覚を失った腕を取られて捩じ上げられる。体勢まで誘導された蜻蛉型が紫に強靭な顎の威力を見せつけることはかなわず。届かぬ顎をガチガチと鳴らすのみに到る。


 捻じりの勁力を活かし、翅に依らずに人型蜻蛉が宙を舞う。一瞬見せた羽撃きは、なんとしても身体の制御を取り戻そうと足掻いた結果なのだろうが、結局は徒労に終わった。そして、その行く先は地面つちではない。先ほどと逆の構図でぶつかったのは灰色人型虎だ。


 紫のケモノは虎型の起き上がりに併せて、巧みに蜻蛉の行く末を誘導していたのだ。絡み合った両者が均衡を崩し、雨溜まりへと揃って落ちる。


『シャア!』


 鎌首をもたげた蛇よろしく、紫の右手が踊る。籠手の武装――並んだ鋸刃の呀が虎を引き裂いた。蜻蛉が助かったのは、ひとえに紫との距離が虎よりも僅かに遠かっただけに過ぎない。いや、助かったと断じるのは早計だ。脅威はまだ人めいた形をして残っているのだから。蜻蛉は今度こそ恐怖に駆られたのだろう。背中の翅を震わせて、大地を離れようとする。紫も察して、距離を詰める。つま先からゆるく弧を描いた呀が二本生え、それに膝からも同様のものが二本、都合四本となった凶器が雨に濡れて重く仄かな光を輝り返した。


 脛が獲物を捉えた瞬間、四本の呀が噛み合わされ、蜻蛉の腰に突き刺さった。鋭い呀の貫通力は見た目以上とみえ、堅牢そうな蜻蛉の灰色の甲殻さえも串き、内部組織を破壊していた。蟲の息とはこういうものだろうか、か細く高い鳴声を上げ、灰色の人型昆虫の身体が張力を失った。


 土砂と泥水に虎と蜻蛉のケモノが浸かる。生命が潰えたとならば、予想されていた事態が起きるのかどうか。見守る紫のケモノの眼の前で、二体の身体が崩れ始めた。粘質的な汚泥とでも言えばよいのか、溶けた金属と表現したものか。どちらにせよ、尋常のものとは思えぬ崩壊を見せるケモノ達は、やがてかつて存在していた証として昏い灰色のヘドロだけを残し、この世から形を失った。それも雨にまみれてか、次第に収縮して見えなくなっていく。


『…………』


 無言のままの紫のケモノの上空から稲光が棄民街へと降り注ぐ。さながら、雷光に照らしだされた姿は、人を象った錦蛇。バックルのレバーを引きながらスロットルを捻るとベルトが外れ、先ほど汚泥に沈まるように存在を失くしたケモノと同様、汚泥に溶ける。ただし、今度は人の形だけは保っていた。灰色の粘質組織が次第に人の身体に収まっていく。一度身体を泥々に溶かした後、再び逆巻きに戻したとなれば、このような奇怪な現象となるのであろうか。


 獅子の鬣めいた暗い金髪が蘇る。瞬きすらない無感情な瞳も、鋭く獰猛ながらも人のものへと復原していた。着ていたヨコスカジャンパーも顕在だ。世は全て事もなしといった風だが、路面に仄かながら未だ蟠っている粘質の残滓が、先ほどの修羅の巷を僅かに物語っていた。


「…………」


 悪夢の名残りをつまらなそうに睥睨し、男はふとベルトを見やる。バックルの血走った瞳は、既に元の紫一色へと戻っていた。既に、修羅の時間は終わったのだ。いつしか霧雨に変じていた雨水に撃たれるままに、見つめること数秒。バックルの端に灰色のコールタールの付着を認め、男は途端に苦々しく貌を歪めた。まだ透明度の高い雨溜まりを見つけると、ベルトをそこに突っ込んで付着物を濯ぐ。杜撰な舗装に加え、ケモノの膂力で蹂躙された雨溜まりは、深さにして男の脛辺りまである。濯ぐには充分な深度をもっている。


 雨水の中で強めに揺さぶられ悪夢の名残りも落ちたベルトからは、しとどに水滴が瀧となって流れ落ちていた。それを肩に担ぐと、男は雨の巷を傘もささずに去っていった。今宵、袋地で繰り広げられたケモノの生き死にを知る者は、闇に姿を消した男以外にはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る